今この時においては、胎の入口を閉ざす方法に注意を払うことが大切である。この胎 の入口を閉ざす方法は二つある。入ろうとする人間を妨げる方法と、入り込まれる胎の 入口を閉ざす方法との二つである。 この二つのうちで、入ろうとする人間を妨げる方法としての教誡というのは以下のよ うなものである。 ああ、善い人〇〇よ、汝の守り本尊がなんという仏であっても、これを幻のように現 われたものとして想い描くべきである。水に映った月のようにそれ自身の性質を持たな いものとしてはっきりと想い描くべきである。 イダム ックジェチェンポ イダム 汝に守り本尊がきちんと決まっていない場合には、《大慈悲尊がまさに私の守り本尊 かんじざいばさっ である》と考えて、観自在菩薩をはっきりと心に念ずべきである。 イダム それから、この守り本尊の御姿を周囲から消し去っていって、最後には何も認識でき く、つ ない空なる光明としてこれを心に念ずべきである。これが奥深い大切な点である。これ によって汝は胎に入ることがなくなるといわれているので、このような仕方で瞑想を行 なうべきである。 もしもこれによっても防ぐことができずに、汝がまさに胎内に入ろうとしてしまうな らば、入り込まれる胎の入口を閉ざす深遠な教えがある。汝はよく聴くがよい。 イダム おしえ 126
第巻シバ・パルドウ あしゆら 白色のおびえさせない薄明りが現われるであろう。同様にして、アスラ ( 阿修羅 ) の世 界の赤色の薄明り、人間界の青色の薄明り、動物 ( 畜生 ) の世界の緑色の薄明り、餓鬼 の世界の黄色の薄明り、地獄の世界の煙色のくすんだ薄明りが現われるであろう。合わ せてこれら六種類の薄明りが現われるであろう。その時には、汝が六道のうちのどこに 生まれるかによって、汝の身体の色もその世界の色になるであろう。 おしえ ああ、善い人よ、この時に教誡が極めて大切になってくる。 ックジェチェンポ いかなる薄明りが現われた場合にも、それを大慈悲尊として心に念ずべきである。薄 ックジェチェンポ 明りが現われた時に、これを《大慈悲尊である》と考えて、心に念ずべきである。この ろくどう ことがきわめて奥深く大切なことなのである。これによって六道の境涯への再生・誕生 が防げるのである。 イダム また、汝の守り本尊が誰であれ、これは幻のようにそれ自体の本質を持たない現われ / クベ工ギュ である。これをずっと心に念ずべきである。それは《清らかな幻の身体》と呼ばれるも イダム のである。この守り本尊の輪郭を周囲から内側へと消去していって、何も存在しない空 なるものにしてしまう。これを明々白々とした状態、何も認識できない状態に拡散させ イダム 一一てしまい、しばらくそのままにしておくべきである。その後に再び守り本尊を心に念ず べきである。また、光明を心に念ずべきである。このようにしてこれらを交互に繰り返 12 3
第巻チカエ・ルドウとチョェニ ・ / 、ノレドウ のである。実のところ、汝は空それ自体が姿を形づくったものなのであるから、おびえ たり、おののいたりする必要はないのである。 ヤマ王たちもまた、汝自身の意識のみずからの輝ぎから現われ出たものであるから、 実体をもつものではない。 空の性質をもったものが、空の性質のものによって損なわれ ることはないのである。これらは汝自身の意識の自然の働きから現われてきたものにほ かならない。外に現われてきている寂静尊や忿怒尊や、血をすする神群や、鳥獣の頭を もつものたちゃ、虹の光や、ヤマ王などの恐ろしい容姿をもつものたちがすべて実体を もつものでないことは確かなのである。 このように知るならば、汝はすべての恐れやおののきをその場で脱して、これらの 神々に一体となって溶け入り、仏になることができるであろう。このようにこれらの さと イダム 神々の正体を覚るならば、これらは汝の守り本尊となるであろう。 《あなた方はわたしをバルドウの難関でお迎えにこられたのである。帰依申し上げま す》 という、強い敬慕の気持ちをこれらの神々に寄せるべぎである。三宝を思い続けるべき 一である。 汝の守り本尊がなんという仏であれ、その御方を思い続けるべきである。御名を呼ぶ イダム
第二巻シバ・バルドウ と、さきの「ハルドウの根本詩句』に説かれていたが、まさにその時が今到来したので ある。 そこでまずはじめに胎の入口を閉ざすべきである。胎の入口を閉ざす方法は五種類あ る。むによく記憶しておくように」 胎の入口を閉ざす第一の方法 「ああ、善い人よ、男女が情を交歓している幻影がこの時に汝に現われるであろう。こ しに覚えておくべきことは、これらの れを見た時に、その間に入り込んではならない。 ラマ・ヤプュム 男女を、御仏男女両尊として心に念じて、礼拝し、心をこめて供養を捧げることなので ある。熱心に尊崇し、《お教えをお授け願います》と念じながら心を一点に集中するだ けで、再生への胎の入口は確実に閉ざされるであろう」 胎の入口を閉ざす第ニの方法 「もしも、これによっても防ぐことができずに、汝が胎に入ろうとするのであるなら ラマ・ヤプュム イダム ば、どの守り本尊でもよいから適切な御仏男女両尊を心に念ずべきである。あるいは、 ックジェチェンポャプュム イダム 守り本尊として大慈悲尊の男女両尊を心に念じて、これに供物を気持ちの上で捧げるよ ツアツイク 129
・ノ、ノレトウ 直ちに解脱できるであろう」 さと と、以上のように唱えることにより、死者は守り本尊を覚ってこれに一体となって溶け入 り、サムボーガ・カーヤを得て仏となることができるであろう。 おしえ ラマ 師僧の教誡によってこれらの忿怒尊の現出が自分自身のすがたの現われであり、自分自 さと 身の意識の働ぎであるとあらかじめ覚っていれば、譬えていうならば獅子の剥製を見た時 のように、何の恐怖も抱かずに解脱できるのである。これもまた「獅子の剥製とは、これ これのものである」ということが判っていないならば、恐れやおののきが生じるであろう。 しかし、他の人から「これこれのものである」というお導きを受けていて、正体があらか = じめすっかり判っていれば少しも恐くはないようなものである。 こくうかい 工 ここで、身体が巨大で四肢も肥大した血をすする神群が、虚空界全体と等しい大きな姿 チ で現われる時に、死者はかならずおびえとおののきを生じてしまうであろう。あらかじめ イダム このお導きを受けていれば、これらが自分自身のすがたの現われであり、守り本尊にほか 一ならないと直ちに知ることができるのである。かって瞑想した時に感じた光明と、後にな チって今現われている自分から生じた光明の二つとは、母と子のように渾然一体となる。昔 一の親友との再会のように一体となる。自分自身において、自身から現われる、自身を解脱 第 させるものとして、死者自身の意識はこの時にみずから光り輝き、死者は自然に誰の手も イダム
・ノくノレドウ を持ち、左の第一手には鈴を、第二手には血に満たされた。 ( ンダ碗を、第三手には小さ い太鼓を持つ。彼の妃である女尊。 ( ドマクローデ = ーシ = ヴァリーは男尊の身を抱擁し、 右腕で彼の首をかかえ、左腕で人血を満たした赤い碗を男尊の御ロのところに捧げ持つ。 顔を合わせたままの両尊は、汝自身の脳の西側から発して、汝自身の眼前にはっきり と現われ出てくる。これを恐れてはならない。おびえてはならない。おののいてはなら さと ない。喜ぶべきである。これは汝自身の意識が身体をとったものであると覚るべきであ る。汝自身の守り本尊であるから恐れてはならない。実は尊い御方であるアミター ャプュム ( 無量光 ) 仏男女両尊が本体なのであるから、これに礼拝し供養をすべきである。その さと ように覚れば直ちに解脱できるであろう」 さと , と、以上のように唱えることにより、死者は守り本尊を覚ってこれに一体となって溶け入 り、サムボーガ・カーヤを得て仏となることができるであろう。 工十ニ日目 カ チまたこのようにお導きを受けても、悪い習癖を作る力のために 一後に引き戻されて、死者は恐怖やおののきを生じて逃げ出し、守 り本尊を見分けることができなくなる。そこでさらに、十二日目 イダム イダム パドマ ( 蓮華 )
十一日目 このようにお導きを受けても、悪い習癖を作る力のために恐怖やおののきが生して死者 イダム は逃げ出し、ヤマ王を見ても自分の守り本尊であると見分けることができず、その本質を さと れんげ 覚れないでいる場合には、さらに十一日目に血をすするパドマ ( 蓮華 ) 部の神群がお迎え に現われるであろう。この時のお導きは、死者の名を呼んだあとで以下のように告げる。 「ああ、善い人よ、心を惑わされることなく聴くがよい。十一日目には血をすする。ハド マ部の尊い御方である。ハドマヘールカと呼ばれる忿怒尊が現われるであろう。この尊は 身体は暗い赤色で、三つの顔を持ち、手は六本で四本の足を広くひろげる。三つの顔の うちの右の顔は白色であり、左の顔は赤色であり、中央の顔は暗い赤色である。六本の 手のうちの右の第一手には。ハドマ ( 蓮華 ) を、第二手にはカドガ剣を、第三手には棍棒 ほうしようャプュム はならない。実は尊い御方であるラトナサムバヴァ ( 宝生 ) 男女両尊が本体なのであ さと るから、これに礼拝し供養をすべきである。そのように覚れば直ちに解脱できるであろ さと と、以上のように唱えることにより、死者は守り本尊を覚って、これと一体となって溶け 入り、サムボーガ・カーヤを得て仏となるであろう。 くよう イダム
つの顔のうちの右の顔は白色であり、左の顔は赤色であり、中央の顔は青色である。六 こんごうしょ 本の手のうちの、右の第一手にはヴァジ = ラ ( 金剛杵 ) を、第二手にはバンダ碗を、第 三手には斧を持ち、左の第一手には鈴を、第二手にはバンダ碗を、第三手には犁刃を持 つ。女尊ヴァジラクローデ = ーシ = ヴァリーは男尊の身体を抱擁し、右腕で彼の首を かかえ、左腕で人血に満ちた赤い碗を男尊の御ロのところに捧げ持つ。 これは汝自身の脳の奥底の東側から発して、汝自身の眼前にはっきりと現われ出てく る。これを恐れてはならない。おびえてはならない。おののいてはならない。汝自身の さと イダム 意識が身体をとったものであると覚るべきである。汝自身の守り本尊であるので恐れて ャプュム はならない。実は尊い御方であるヴァジュラサットヴァ ( 金剛薩垣 ) 男女両尊が本体な さと のであるから、これに礼拝し供養をすべきである。そのように覚れば直ちに解脱できる であろう イダム と、以上のように唱えることにより、死者は守り本尊を覚ってこれと一体となって溶け入 り、サムボーガ・カーヤを得て仏となるであろう。 十日目 よ ) 」れ しかし、悪いカルマン ( 業 ) の影響による罪垢の大きな者たちが、これらの忿怒尊に恐 ′」う さと こんごうさった
密教と顕教の差異 密教のヨーガを実践する行者は、最低の者のうちのさらに最低の者であっても、血をす = する忿怒尊を見ると、昔の親友と邂逅したようにすぐに見分けて、これが自分の守り本尊 工 イダム であると覚ることができる。これに敬慕の気持ちを寄せて、この守り本尊と不二一体にな チ A 」 って溶け入り、仏になるのである。それは、密教の行者は、死ぬ前に人間として生きてい レ た時から常にこれらの血をすする神群を目の当たりに思い描いて瞑想し、供えものを捧げ 一て奉仕をしたり賛美をしたりしてきているからである。これらの忿怒尊が画に描かれたも カ チのや像に刻まれたものなどを見たことがあるだけでも、今ここにお姿が現われてきた時に 巻 第 五十八の血をすする忿怒尊三十のヘールカ尊群 ( 六九頁以下参照 ) と二十八のイーシュヴァリー ( 八二頁以 下あるいは補注一八八頁参照 ) 。 ・ / 、 / レトウ おしよう けんぎよう ない。戒律を堅固に守る和尚や顕教を教える大学者たちであっても、この時に心が惑って さと りんね さまよ 覚ることがないならば、さらに輪廻して彷徨いつづけることになるであろう。まして一般 の凡俗の人たちの場合はなおさらである。恐怖と戦慄とおののきの三つを逃れようとして、 あくしゅ さらに輪廻して下の方の存在となって悲惨な境涯 ( 悪趣 ) において苦しみを味わうであろ さと イダム
・ / くノレドウ 九日目 また、もし死者に恐怖やおののきが生じて逃げ出し、覚ることがないならば、さらに九 こんごう 日目に血をすするヴァジ = ラ ( 金剛 ) 部の神群がお迎えに現われるであろう。そのお導き 工 = というのは、死者の名を呼んだあとで次のように告げる。 A 」 「ああ、善い人よ、心を惑わされることなく聴くがよい。九日目には、血をすするヴァ ジ = ラ部の尊い御方であるヴァジ = ラへールカと呼ばれる忿怒尊が現われるであろう。 この尊は身体は濃い紺色で、三つの顔を持ち、手は六本で四本の足を広くひろげる。三 カ チ 巻 ハンダ碗容器一般を意味するが、 九つの眼ヘールカ尊は三つの顔を持ち、額に第三の眼を持つので九眼。 第特に人間の頭蓋骨を半分にした髑髏碗を指す。ガルダ鳥によって支えられた玉座五毒の退治を象徴するた戸 ヘールカ尊は毒蛇を食うといわれるガルダ鳥の玉座にある。 イダム さと いじようしん 体をとったもの ( 意成身 ) であると覚るべきである。汝自身の守り本尊であるので恐れ ャプュム びるしゃな てはならない。実は尊い御方であるヴァイローチャナ ( 毘盧遮那 ) 男女両尊がこの本体 さと なのであるから恐れてはならない。そのように覚れば直ちに解脱できるであろう と、以上のように唱えることにより、死者は守り本尊を見分けてこれと一体となって溶け 入り、サムボーガ・カーヤを得て仏となるであろう。 イダム さと