本書と本巻の題名 ョ ラ 『深遠なるみ教え・寂静尊と忿怒尊を瞑想することによるおのずからの解脱』の書より セル デ トエ ドルチェンモ ・バルドウにおける記憶を明らかに呼び起こす、聴聞による大解脱』と呼ばれ る巻。 帰依を表明することば アミタ ダルマ・カーヤ ( 法身 ) として限りのない現われをもっ無量光 ( 阿弥陀仏 ) サムボーガ・カーヤ ( 報身 ) としての。ハ トマ ( 蓮華 ) 部の寂静尊と忿怒尊の神群 ニルマーナ・カーヤ ( 僊身 ) として生きとし生けるもの ( 衆生 ) を救われるためにこの 世に生まれられた。ハドマサム、、ハヴァ ( 蓮華生 ) これらの三身と師僧に対して帰依いたします。 『チョェニ サ さんじん はっしん シ はうじん れんげしよう ゴ ン れんげ しゅじよう シ ン 4
空なるものが見えるであろう。これがダルマ・カーヤ ( 法身 ) というものである。この 空なるものは、また、単にのつべりとしたものではないのである。《空なるものの本質 これこそ、 は恐ろしい》と考える意識は、正確で鋭敏なものと言わなければならない。 ほうじん サムボーガ・カーヤ ( 報身 ) の意識の状態なのである。 くうしよう 空性と明晰性の二つが組み合わさって離れない。 空なるものの本質は明晰であり、明 晰なるものの本質は空なるものである。明晰であり空であることが不可分となっている 意識は、赤裸々で生のままにむきだしの状態のものである。あるがまま、自然のままで じしよう 無造作の状態のものである。これこそ本質を構成するスヴァ。ハーヴァ・カーヤ ( 自性 身 ) にほかならない。そしてまた、この自性身自体の働きは、他に妨害されることがな くて、何にでも現われることができる。それが慈悲を本質とするニルマーナ・カーヤ けしん ( 化身 ) なのである。 さと ああ、善い人よ、心を惑わされることなく見るがよい。汝がこのことを覚りさえすれ ば、四種の仏の身体を得て完全に仏になることは確実である。心を惑わされてはならな 。仏と一般の迷っている生きものとがこの境界で分けられるのである。現在という時 が非常に重要である。この時において心を惑わされるならば、これからずっと苦しみの ぬかるみ 泥濘から脱け出る時は来ないであろう。 しん はっしん
こんごうみようひ アジュラダーキニー ( 金剛明妃 ) が現われるであろう。 南方からは、山羊の頭をして手には鉄の縄索を持っ黄色のヴァジ = ラダーキニーが現 われるであろう。 西方からは、獅子の頭をして手には鉄の鎖を持っ赤色のヴァジ = ラダーキニーが現わ れるであろう。 北方からは、蛇の頭をして手には鈴を持っ暗緑色のヴァジュラダーキニーが現われる であろう。 これらのマンダラの門を守る門衛の四人のヨーギニーは、汝自身の脳の内から発して = 汝自身に現われたものである。 工 以上の二十八のイーシ = ヴァリーもまた、忿怒尊ヘールカのサハジャ ( 自然生得 ) の チ さと AJ 身体の働きにより自然に現われてくるものであると覚らなければならない。 く、つ はっしん ああ、善い人よ、寂静尊とはダルマ・カーヤ ( 法身 ) が空の世界から現われてきたも 一のであると覚るべきである。忿怒尊とはサムボーガ・カーヤ ( 報身 ) が明りの世界から カ さと チ現われてきたものであると覚るべきである。 巻 このように汝自身の脳の内から血をすする五十八の神群が来たって汝自身に現われて 第 見える今この時において、現われるものは何であれすべて汝自身の意識のみすからの輝 ・ノ、ノレドウ さと ほうじん じねんしようとく
魔法王仏 ) といった、尊い御方 ( 世尊 ) の六聖仙もまた現われるであろう。サマンタバ ドラ ( 普賢 ) とサマンタバドリー ( 普賢母 ) 、すなわちすべての仏たちの総祖先である普 ャプュム 賢男女両尊もまた現われるであろう。サムボーガ・カーヤ ( 報身 ) の神群四十二尊が汝 自身の心臓の奥から外に出てきて、汝の目の前に現われるであろう。これらを《汝自身 の純粋な投影が現出したものである》と知るべきである。 ああ、善い人よ、これらの仏の世界 ( 仏国土 ) は何か特別のものとして別に存在して いるのではない。 これらの仏の世界は、汝自身の心臓の四方と中央との、合わせて五方 向に存在しているものなのである。汝の心臓の中からいま、外に出てきて汝の目の前に = 現われているものなのである。またこれらの仏の身体も何か特別のものから現われたも 工 のではない。汝自身の意識の自然で自由な働きによって作り上げられたものである。そ チ さと と のようなものであると覚るべきである。 ああ、善い人よ、これらの仏の身体は大きくも小さくもなく、ちょうど均整がとれて いる。これらの仏たちの装飾品・衣装・身体の色・坐っている形および乗物には、それ 工 カ チぞれの仏の印章がついている。彼らにはそれそれの女尊が伴っていて、全部で五組の対 巻 第 すべての仏たちの総祖先ダルマ・カーヤ ( 法身 ) の普賢男女両尊は時空を超えて存在し、すべての仏たちを 生み出す、万物の父であり、母であるとされる。 ・ノく / レドウ ふげん せそん ほうじん
五仏の世界を私が見ることができますように》 と、このように激しく敬慕をこめて祈願すべきである。恐怖とおののきのすべてが消え 去って、汝は確実にサムボーガ・カーヤを得て仏となることができるのである。これは ぎわめて重要である。心を惑わしてはならないー 。いかに罪の大きな人でも、 いかに悪い過去のカル と、三遍ないし七遍唱えるべきである ′」う マン ( 業 ) の影響がたくさんに残っている者でも、これによって解脱できないことはない であろう。 しかし彼らに対してどれほど手を尽くしても解脱が達成されない場合には、第三のバル さまよ ドウである〈シ。、 ・、、ハルドウ ( 再生へ向かう迷いの状態の中有 ) 〉に彼らが彷徨い入ることは 避けられない。その時のためのお導きが以下〔第二巻〕に詳しく説かれるであろう。 結論 瞑想に精通していてもまたは精通していなくても、一般にどんな人でも死を迎えようと ドルチェンモ トエ する時にはかなりの錯乱をしている。そこでこの「ハルドウにおける聴聞による大解脱』 がなければまったくどうにもならないであろう。 ごぶつ ちゅうう げだっ
東洋文庫所蔵写本テキストにより、死後第十八日目から二十二日目までの四日間半と解釈して訳出した。ヴェ ンツ訳は「三日間半」、フレマントル訳は「五日間半ーとする。またテキストによっては「シャクチエタン ツアガソンワ」とあり、「死後二十四日半ーと解釈することが可能である。この説によると〈チョェニ・ ・。ハルドウ〉との間に一週間の失神期間があることになる。ダルゲイ訳はこれを採る。 ルドウ〉と次の〈シ。、 バルドウ〉の幻影が現われてきた : : : 」とあるように、二 ただし後出の箇所に「昨日まで汝には〈チョェニ・ つのバルドウの間に失神期間が存在しないことを示唆する文も本書には存する。 『タントラ』 ( 燗 ) いかなる密教経典の記述であるか不明である。内容は『倶舎論』世間品の記述とほ・ほ一致す る。 汝と一緒に生まれた善神 ( ) 死者と同じ時に生まれた善神が白い小石で死者の善行を数えあげるというもの で、漢訳文献の地獄の審判には見られない考え方である。次の。ヒシャーチャ鬼も同様の悪鬼。 ほうじん はっしん 四種の仏の身体 ( Ⅲ ) ダルマ・カーヤ ( 法身 ) 、サムボーガ・カーヤ ( 報身 ) 、スヴてハーヴァ・カーヤ ( 自性 身 ) 、ニルマーナ・カーヤ ( 化身 ) の四つであるが、本書は三身の叙述で一貫されており、四身を説くのはこ の箇所だけで例外的である。 しん ) 」ん 〈カンカニー〉 ( Ⅲ ) ヴェンツ氏は、「死者への供物が彼らに届くように祈るマントラ ( 真一言 ) 」と注しているが、 詳細は不明。カンカニーは、特に結婚に際して花嫁 ( または花婿 ) の腕につける腕環・リポンを意味する。 御仏男女両尊 ( 盟 ) 「ラマ・ヤ。フュム」は字義通りには「師 ( グル ) である御父上・母上」であるが、人間で ある師を指しているのではなく、マンダラ上の主尊と明妃を意味している。ここに現実の男女の姿を見ながら、 御仏の男女両尊の姿に昇華させ、同一視するタントラの教義がはっきりと提示されていることは言うまでもな い。なお中有において男女の交歓を見てそれが再生への機縁となる説はすでに「倶舎論』世間品にある。 赤白ニ滴 ( 卵と精 ) ( 川 ) 性交における精子と卵子の結合を思わせる文であるが、この当時まだ科学的知識は 発達していなかったので、ただ漠然と女性の血と男性の精液の結合する時点にあるものを考えていたようであ る。「赤白二滴 , の語は真言宗の立川流の文書にも多出する性的な色彩の濃い語である。 『タントラ』 ( ) 典拠文献不詳。 八喩 ( 炻 ) 存在の本質が空であること ( 諸法空性 ) の道理をさとらせるための八種の譬え。『大般若経』第十 190
五日目 これによっても解脱することができないものは、およそ少ないであろう。しかしこのよ うにお導きを受けても、人によっては悪い習癖を作る力と長年の間結びついていた結果、 この悪い習癖を作る力を捨て去ることができないで、嫉妬と悪いカルマン ( 業 ) のために 音響と光明に恐れおじける気持ちを生じてしまうであろう。慈悲の光明の鉤針にかからず さまよ にさらに下って五日目にまで彷徨って行くであろう。この時に尊い御方であるアモーガシ ふくうじようじゅ ッディ ( 不空成就 ) 如来の神群が、慈悲の光明を伴ってこのような人たちに会いにおいで むさばりそねみ あしゆら になるであろう。また、貪欲と嫉妬から生じたアスラ ( 阿修羅 ) の薄明りの道も現われる であろう。 この時においても、お導きがなされるべきである。死者の名を呼んだあとで以下のよう に告げるべきである。 「ああ、善い人よ、心を惑わされることなく聴くがよい。五日目には、風の元素 ( 風 大 ) からなる浄化の働きをする緑色の光明が現われるであろう。その時に、北方の緑色 ′」うしやくじようど のカルマクータという仏国土 ( 業積浄土 ) から、尊い御方であるアモーガシッディ如来 ( 安楽国 ) においてサムボーガ・カーヤ ( 報身 ) を得て仏となるであろう ほうじん そねみ ごう ふう
ニ日目 けがれ また、このようにお導きを受けても、瞋恚と罪垢という欠点を持っているために光明に おののいて逃げ出し、祈願の言葉を唱えながらも錯乱しているならば、二日目にはヴァジ こんごうさった ュラサットヴァ ( 金剛薩 ) の神群と地獄の悪いカルマン ( 業 ) の二つが汝に会いにやっ てくるであろう。 この時のお導きは、死者の名を呼んだあとで以下のように告げる。 「ああ、善い人よ、心を惑わされることなく聴くがよい。二日目には、水の元素 ( 水 知の明るい光の道に、尊い御方であるヴァイローチャナ仏がお導きくださいますよう に。そして女尊ダートウヴィーシュヴァリ ーが私の背後から支えてくださり、恐ろし : 、ルドウの難関を越えさせてくださいますようにお祈りいたします。 どうか私を正しくて完全な仏の境地にお連れくださいますように》 と、激しく熱心にこの祈願の言葉を唱えることによって、汝はヴァイローチャナ男女両 尊の心臓の中に虹の光となって溶け入り、マンダラ ( 曼荼羅 ) の中央のガナヴィュー みつごんじようど ほうじん という仏国土 ( 密厳浄土 ) においてサムボーガ・カーヤ ( 報身 ) を得て仏となるであろ かり ) 」う ャプュ
・ノ、ノレトウ 直ちに解脱できるであろう」 さと と、以上のように唱えることにより、死者は守り本尊を覚ってこれに一体となって溶け入 り、サムボーガ・カーヤを得て仏となることができるであろう。 おしえ ラマ 師僧の教誡によってこれらの忿怒尊の現出が自分自身のすがたの現われであり、自分自 さと 身の意識の働ぎであるとあらかじめ覚っていれば、譬えていうならば獅子の剥製を見た時 のように、何の恐怖も抱かずに解脱できるのである。これもまた「獅子の剥製とは、これ これのものである」ということが判っていないならば、恐れやおののきが生じるであろう。 しかし、他の人から「これこれのものである」というお導きを受けていて、正体があらか = じめすっかり判っていれば少しも恐くはないようなものである。 こくうかい 工 ここで、身体が巨大で四肢も肥大した血をすする神群が、虚空界全体と等しい大きな姿 チ で現われる時に、死者はかならずおびえとおののきを生じてしまうであろう。あらかじめ イダム このお導きを受けていれば、これらが自分自身のすがたの現われであり、守り本尊にほか 一ならないと直ちに知ることができるのである。かって瞑想した時に感じた光明と、後にな チって今現われている自分から生じた光明の二つとは、母と子のように渾然一体となる。昔 一の親友との再会のように一体となる。自分自身において、自身から現われる、自身を解脱 第 させるものとして、死者自身の意識はこの時にみずから光り輝き、死者は自然に誰の手も イダム
・ノくノレドウ を持ち、左の第一手には鈴を、第二手には血に満たされた。 ( ンダ碗を、第三手には小さ い太鼓を持つ。彼の妃である女尊。 ( ドマクローデ = ーシ = ヴァリーは男尊の身を抱擁し、 右腕で彼の首をかかえ、左腕で人血を満たした赤い碗を男尊の御ロのところに捧げ持つ。 顔を合わせたままの両尊は、汝自身の脳の西側から発して、汝自身の眼前にはっきり と現われ出てくる。これを恐れてはならない。おびえてはならない。おののいてはなら さと ない。喜ぶべきである。これは汝自身の意識が身体をとったものであると覚るべきであ る。汝自身の守り本尊であるから恐れてはならない。実は尊い御方であるアミター ャプュム ( 無量光 ) 仏男女両尊が本体なのであるから、これに礼拝し供養をすべきである。その さと ように覚れば直ちに解脱できるであろう」 さと , と、以上のように唱えることにより、死者は守り本尊を覚ってこれに一体となって溶け入 り、サムボーガ・カーヤを得て仏となることができるであろう。 工十ニ日目 カ チまたこのようにお導きを受けても、悪い習癖を作る力のために 一後に引き戻されて、死者は恐怖やおののきを生じて逃げ出し、守 り本尊を見分けることができなくなる。そこでさらに、十二日目 イダム イダム パドマ ( 蓮華 )