意識 - みる会図書館


検索対象: チベットの死者の書
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1. チベットの死者の書

・ノくノレドウ さんみやくさんばだい ーだい 心・提心にのみ心を発こして、大空にも等しい完全なる悟り ( 三藐三菩提 ) をすべ しゅじよう ての生きるものたち ( 衆生 ) のために獲得するように努めよう》 と、以上のように発心しなくてはならない。 《とりわけ今こそは、すべての生きものたちのために、死の光明をダルマ・カーヤ さと ( 身 ) として覚るべきなのである。そしてその状態において、最高の完成の状態 ( 悉 ームドラー ( 大印契 ) を自分のものとし、すべての生きものたちの利 地 ) であるマハ やく ームドラーを手に入れることができない場合には、くルドウ 益をはかろう。このマ、 さと ムドラ 。、、、ルドウと不可分になったマハ を、、ハルドウであると覚ることに努めよう の身体を確実に把握して、すべての生きものたちを教化できるような仮りの姿 ( 権 化 ) をとり、大空の蝌にも等しく限りのない数の生きとし生けるものたちの利益をは チ と ウ かろう》 いしゅ レ という、以上の発心の意味内容 ( 意趣 ) を離れてはならない。汝がかって受けた、瞑想 工 チ解脱作法輪廻から脱して仏の位を得るために、あらかじめ師僧から受けているお導きを想起して実行するこ と。識眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の認識作用、および無意識的作用まで含む。発心さとりの知恵 巻 を得ようとする決意を起こすこと。慈心・悲心・菩提心さとりを求めて、仏になろうと願う心持ち。さら に仏道を修行して、すべての生類を苦しみから救済しようと誓う心に発展する。最高の完成の状態 ( 悉地 ) 第 密教の実践によって到達される不思議な超能力を完成した境地。 だいいんげい ごん

2. チベットの死者の書

怒尊の現出に出会う段階。この段階で正しく自己を覚知する行者には、サムボーガ・カ ーヤ ( 報身、さとりを得てその楽しみを味わいつつ他者の救済に心を配る仏 ) の姿がある。 ・・ハルドウ ( 再生へ向かう迷いの状態の中有 ) 〉カルマン ( 業 ) の力によって死者の 〈シバ りんね 意識が別の肉体を得て再生し、再び輪廻の輪の中に入る段階。ニルマーナ・カーヤ ( 化 身、仮りの姿を現わした仏 ) が一生補処の菩薩としてこの世に生まれ、衆生の救済に身を 挺したのちに後生で輪廻を脱する。 ⑥転移意識を身体から脳天のプラフマンの孔を通して引き抜き、原初の蔵ともいえる仏の世 界へと転移させる修法。他者にこの修法を加えるときには一種の脱魂作法となり、みず からに課するときには自身の意識の空無化とともにこれを仏の世界へと移行させる作法 となる。 この「ナーロー パの六法』はそれそれが独立した意義と課程を持っ身体ヨーガ的実践修法であ りんね るが、六法のすべてが「輪廻からの解脱ーというテーマのもとに統一された空性の実践的観法と しての体系を持つものであり、その意味では一人の行者がそのすべてを完修することが求められ る。そして、この身体ヨーガ的瞑想修法が完成されたときの境地は、究極的真理の開顕として だいいんげい ームドラー ( 大印契 ) 〉と呼ばれる。これはことばによる一切の修飾表現を離れた空そのも じねんしようとく のの状態である。不生不変であり、サハジャ ( 自然生得 ) である至高の真理がそのままの姿でお のずからに現われたものと呼ぶことができる。 パの六法』の、特 以上に見られるように、『チベットの死者の書』とはまさにこの『ナーロー しん はうじん げだっ ′」う くら かんばう 208

3. チベットの死者の書

ある。 このような汝の意識とは、空であるとともに至福なるものである。しかもあやふやな 空ではない。また汝自身の意識の働きをさえぎるものではなく、明々赫々として純粋か っ澄明なものである。この明知こそが、ダルマ・カーヤ ( 法身 ) の仏であるサマンタ。ハ ドラ ( 父なる普賢 ) にほかならない。 いかなるものとしても形づくられることのない、空を本性とする汝自身の明知と、純 粋であり澄明なものである汝自身の意識との、これらの両者は不可分である。これこそ 仏のダルマ・カーヤ ( 真理体現の身体 ) にほかならない。 くう 明らかであって空であり、不可分であり、光明の大きな集積の中に住している、この 工 これこそ不変の光明の仏 ( 阿弥陀仏 ) にほかな 汝自身の明知には、生もなく死もない。 チ さと と らない。 これを覚れば充分である。汝自身の意識のこの純粋な本質が仏にほかならない さと と覚って、このように汝自身の明知に汝自身を見ることが、仏が意味される内容 ( 意 一趣 ) と合致するのである」 カ チと、以上を三遍ないし七遍、語句明瞭に唱える。 巻 第 サマンタバドリー ( 母なる普賢 ) 宇宙の根源にある本初仏・最高の法身仏であるサマンタ、、ハドラ ( 父なる法 身普賢 ) の女性の随伴者。 ・ / くノレドウ しゅ ほっしん

4. チベットの死者の書

第巻シバ・ノくルドウ ああ、善い人よ、これとはまた別に瞑想の仏たち ( 禅定仏 ) や他の神々が生まれたも うのは、汝が行なう精神集中 ( 三昧 ) の力による。 餓鬼などの悪鬼たちの大群は、まさに、、ハルドウにおいて死者が考え方を変えた結果と して現われるものなのである。死者の意識が餓鬼とか鬼などとしてさまざまに変化する 身体を現わす能力を得たものなのである。まさに餓鬼や鬼として、意識からできた身体 : 変化したものなのである。深海に住む餓鬼とか、空中を飛ぶ餓鬼とか、障礙を起こす 悪鬼たち八万のすべてが、死者の意識が変化した結果として、このような意識からでき ームドラー ( 大印契 ) た身体を持つにいたったものである。この時には、空であるマ、 の意味を考えることが一番良いことである。もしもこのように考えることができない場 合は、これらを幻のように考えてふるまうべきである。そのようにすることもできない イダム ックジェチェンポ 場合には、なにものにも執着する心を持たないようにして、守り本尊を大慈悲尊として しに念ずべきである。これによって故はバルドウにおいてサムボーガ・カーヤ ( 報身 ) を得て、仏となることができるであろう。 ああ、善い人よ、もしも過去のカルマン ( 業 ) の影響力のために汝がどうしても胎に おしえ 一一入らなければならない場合には、この時にこそ胎の入口を選択する教誡が説かれるべき であろう。聴くがよい。汝は再生するために入る母胎を選ぶべきである。現われた胎の さんまい ) 」う ぜんじようぶつ さまたげ ほうじん 143

5. チベットの死者の書

さと さと の時に、汝自身でこれの本体を覚るべきである。そしてその覚った状態に留まるべきで ある。私 ( 導師 ) もまたこの時にお導きをなすであろうー と、死におもむく者の体外へ吐く息が途絶える前から、その耳許で何遍となく説いて、彼 の心にしつかりと刻みつけるようにさせるべきである。 外へ吐く息が途絶えようとする時に、右脇を地につけて獅子の横たわる姿勢にさせ、 なみうち ナーディー 脈管の動悸を押さえ続ける。死におもむく者をうつらうつらさせる働きのある左右の両 ナーディー これで 脈管の動悸の連続を途切らすように、しつかりと押さえつけなければならない。 アヴァドウーティー ナーディー 生命の風は左右の両脈管に逆行することがなくなり、中枢脈管を通って脳天のブラフマ ンの孔を経路として体外へ出てゆくことは確実となる。 お導きも、この時に授けられるべきである。この時に、第一の。ハルドウである〈チョ工 オ工セル ニ ( 存在本来のすがたⅡ法性 ) の光明〉とも呼ばれる、ダルマ・カーヤ ( 真理体現の身体Ⅱ法 ふてんどう 身 ) の正しいまま ( 不転倒 ) の意味内容 ( 意趣 ) が、すべてのものの意識に明らかになるで あろう。この時が、体外へ吐く息が途絶えて体内にある息がまだ残っている間のことで アヴァドウーティー あり、生命の風が中枢脈管に帰入している時なのである。この時期を、一般に人々は ナムシェギエル 《失神状態》などと呼んでいる。 この時期の長さは一定していない。生命の風のよりどころである死者の人格の善である しん ル ランドラ ン ル ン はっしよう ル いしゅ ン

6. チベットの死者の書

アーカーシャダートウヴィーシュヴァリ マンダラ中央の主尊ヴァイローチャナの配 ( 虚空界自在母 ) ( 四 ) 偶者、明妃・プラジュニャー ( 般若母 ) 。身体の色は月の白色で、手には主尊と同じく法輪と鈴を持つ。 五仏・五智・五つから成るものの対応 ( ) 本書の寂静尊の現出には密教の五仏の思想が顕著に石取できる。 もっとも本書において死の瞬間に最初に現出するのは五仏に先行する本初仏ダルマ・カーヤのサマンタ・ハドラ ( 法身普賢 ) である。この仏はいかなる属性・形容をも超絶した真理そのものであって、五仏の一段さらに上 に位する仏である。チベット仏教ではこの仏を五仏すべてに遍在しかっこれらを超越する存在として考えて五 仏とは別の範疇に置いている。 さてこの本初仏の現出のあと死後三日半の失神の期間を経て死者の意識の前に現われる五仏は、まず大毘盧 遮那仏をマンダラの中央に置き、その周りに東方の阿閾仏、南方の宝生仏、西方の阿弥陀仏、北方の不空成就 仏を配置するもので、この五仏の方位・身体色・乗物・持物 ( 三昧耶形 ) などすべては「金剛頂経』にもとづ く金剛界曼荼羅の五仏 ( 五智如来 ) のそれらと一致する。 五智とは、大乗仏教の唯識思想において説かれた四智の転識得智の説をその基盤に置いている。すなわち、 有漏の人間の意識を転回して仏果を得るに至った境地における無漏の四種の知恵が四智であり、有漏の第八阿 頼耶識を転じて得られる無漏の大円鏡智、有漏の第七末那識を転じて得られる無漏の平等性智、有漏の第六意 識を転じて得られる無漏の妙観察智、有漏の前五識を転じて得られる無漏の成所作智の四種からなる。密教は この唯識の四智説を発展的に摂取して、これに第五の法界体性智 ( チベットでは法界智 ) を加えて五智説を展 開した。金剛界曼荼羅および本書『チベットの死者の書』においてはこの五智が五仏に対応させて説かれてい る。 ただしこの五仏Ⅱ五智の対応ばかりにとどまらず、本書においては、五蘊・五大など他の五つからなるもの と五仏の対応も説かれている。そのうちで五大との対応は、むしろ胎蔵界曼荼羅において見られる顕著な特徴 であり、五蘊や五煩悩との対応は無上瑜伽タントラである「秘密集会タントラ』に説かれるところである。ま 注た本書において説かれる配偶の明妃の名や四門を守る四大明王の名も「秘密集会タントラ」と一致する。たた 補し五仏の中央に位置する主尊は、本書においては大毘盧遮那であるのに対して『秘密集会タントラ』では阿閾 であって差異を示している。

7. チベットの死者の書

説 解 憎悪の念を抱くというエデイプス・コムプレックスを思わせる愛欲による入胎再生説は、すべて くしやろん せけんばん すでに『倶舎論』第十 ( 世間品 ) の中有の存在の記述に存したものであって、これをタントラ的 に色づけしたものということができる。 また忿怒尊のみならず寂静尊までをすべて自分の意識が作りだす幻影であり、一切の本質は空 はんにやぎよう であるとする『チベットの死者の書』の主張は『倶舎論』を超えて、『般若経』および『中論』 チッダ・サンターナ の立場を我が物としており、さらには唯識の「習癖を作る力」や「意識の流れ」をも上手に使っ せしん た叙述を行なっている。たとえば『唯識二十論』でヴァスパンドウ ( 世親 ) は、潜在的であった 習癖を作る力が顕在化し、心の流れに特殊な変化がおこって獄卒などの表象があらわれるとして、 地獄の獄卒が主観的心像にすぎないものであることを論証しているが ( 第四・五頌 ) 、ここには 『チベットの死者の書』のヤマ王の描写などと共通の思想が汲み取れる。 ごみようひ 五仏・五明妃・五色・五欲・五智などの「五つからなるものーのとりあわせによって世界を完 ー教タントラに見られる共通の 全なものとして描きだそうとする傾向は仏教タントラとヒンドウ シ 特徴である。注に示したようにこの『チベットの死者の書』の表わす寂静尊と忿怒尊のマンダラ こん′」うちょうきよう グヒヤ・サマージャ は『金剛頂経』系のマンダラ、『秘密集会』・『ヘーヴァジュラ・タントラ』の表わすマンダラ との近縁関係を示唆している。 また行者の身体を宇宙的身体にみたてて、その相即相応と統御をはかるのはタントラのヨーガ ナーディー アヴァドウーティー の基本である。とくに「中枢脈管の道を固守せよ。左右の脈管におちこむことは罠にはまるこ ー・コーシャ』をはじめとして身体的 ( ハタ ) ヨーガ関係の とであるーというテーマは『ドー ごぶつ シ ′」ち ゆいしき じゅ ちゅうろん 205

8. チベットの死者の書

も含まれるという。イェシェッオギエルは学芸の女神サラスヴァティーの化身といわれる明妃で、師の伝記 「ペマ・カータンイク』を編み、同じく埋蔵経 ( テルマ ) として秘匿したといわれる。 マハーヤーナ ( 大乗 ) ( ) 大きな乗物の意。いわゆる小乗の自利教に対して、広く衆生を救済する利他の行 為の実践によって成仏を達成することを宣説するインド仏教の一大流派。チベット仏教徒もみずからの宗教を 中観・唯識の二大教義にもとづく大乗仏教であるとする意識を強くもっている。したがってこれを「ラマ ( 喇 嘛 ) 教ーと称してことさらに淫祠邪教の一種であるかのようにみなすことは妥当ではない。 クルンギニ ( Ⅲ ) 不詳。クランギーは牝山羊。 192

9. チベットの死者の書

解説」が付せられていて、この書の繰り広げる壮大な精神世界の紹介とその意義を示し、西欧の 読者の関心を強く惹きつけることとなった。このユングの「心理学的解説ーは英語版の第三版 ( 一九五七年 ) には逆にドイツ語から英訳されて付けられることになる。その後にフランス語版 ( 一九八七年 ) も刊行され、またあらたに原典から・ツウッチ教授のイタリア語訳 ( 一九四九年 ) 、 フレマントル女史・トウルンパ師の新英訳 ( 一九七五年 ) 、ダルギェイ師の独訳 ( 一九七七年 ) 、同 仏訳 ( 一九八〇年 ) 、ラウフ氏の研究 ( 一九七五、一九七七年 ) などと西欧社会において本書に対す る関心はヒッビーの時代が過ぎ去った今日も一向に衰えるところがない。 そして最近では論理哲学者たちの寄せる関心が加わっている。死後の生存 (survival) という 問題を知的に論じ、有意味性を論じようとする試みは近年、後期ヴィトゲンシュタイン以後の言 語分析学派によってさかんになされてきた。。ヒーター・ギーチ (Peter Geach 一九六九年 ) 、アン (Ninian Smart 一九六八年 ) 、プラ ソニ・フルー (Anthony Flew 一九六四年 ) 、ニニアン・スマート イス (). H. Price 一九七二年 ) 、フリップス (). Z. PhiIIips 一九六九年 ) 、ジョン・ウイズドム (John Wisdom 一九七六、 リン (). Ring 一九八〇年 ) など、死後の意識の存続の論理的可能性 を論ずる研究は多数にのぼる。その際の資料としてこの「チベットの死者の書』はイギリス、ア メリカの論理哲学者、宗教学者を中心にさかんに使われてきた。 リエンス ( 臨死体験 ) また最近では脳死問題への関心の高まりと一緒にニア・デス・エクスペ の東洋的文献例として本書が注目をあびてきている。この方面での業績としては、ジョン・ヒッ ク (John Hick 一九七六年 ) 、それにハワイ大学のカール・べッカー (Carl Becker 一九八五年 ) 博 2 00

10. チベットの死者の書

第巻シバ・ノくルドウ 「ハルドウの根本詩句』の中では、次のように言われている。汝よ、私の後をつけて唱 えなさい。 ・バルドウ ( 再生へ向かう迷いの状態の中有 ) 〉が現われてきている 《ああ、私に〈シ。ハ 今、この時に心を一点に集中させるべきである。覚悟を決めて、善いカルマンの影響 力の長さの方を少しでも引き延ばすことが重要である。今こそ、胎の入口を閉ざす時 が到来したのである。胎の入口を閉ざして引き返すことを考えるべきである。勇気と ラマ・ヤプュム 清らかな気持ちが必要な時である。嫉妬する気持ちを捨てて、御仏男女両尊を心に念 ずべきである》 と、ロに出してこのようにはっきりと唱える。そして記憶力をかきたてて暗記せよ。こ の意味を考えて、実際に行なうことが重要である。 さて、その意味とは以下のようなものである。 ・バルドウ ( 再生へ向かう迷いの状態の中有 ) 〉が現われてきている今、この 《私に〈シバ さまよ ・バルドウ ( 再生へ向かう迷いの状態の中有 ) 〉のうちに彷徨 時に》とは、汝は現在〈シ。ハ っているのである。その証拠といえば、汝が水の中を見ても汝の影が映って見えない。 汝の身体は、物体としての血肉を持った身体ではないのである。 二汝の身体にも影はな、。 ・バルドウ ( 再生へ向かう迷いの状態の中有 ) 〉のうちを汝が意識からできた これが〈シ。ハ ツアツイク ちゅうう 27