苦しみ - みる会図書館


検索対象: チベットの死者の書
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1. チベットの死者の書

この時における喜びも苦しみもすべて生前のカルマン ( 業 ) 次第で決まる。汝は自分 自身の故郷の地、一族、親戚、自分の死体などを見ることができる。《今、私は死んで いるのだ。どうしよう》と考えて、汝の意識からできている身体は非常な悲しみを味わ うであろう。 《今、もう一つ別の身体を持ったところで何の不都合があるだろうか》と考えて、あら ゆるところに身体を求めて行こうとする願いが汝に生じるであろう。汝はそこにある自 ・バルドウ ( 存在本来の姿の中 分の死体に九回も入り込もうとする。しかし、〈チョェニ 有 ) 〉は長い期間を要する性質のものなので、汝の死体は冬は凍り、夏は腐敗してしま っている。そうでないとしても、親戚の者たちが火葬したり、穴に埋葬したり、鳥や野 獣に与えたりしてしまっている。かっての汝自身の身体には汝の意識は居場所を得るこ とができない。それで、たくさんの岩や土砂の間に送り込まれてしまったような、非常 に悲しい思いを汝はするであろう。このような苦しみが生ずるが、これが〈シ。、 ドウ ( 再生へ向かう迷いの状態の中有 ) 〉なのである。汝が身体を捜し求めても、苦しむだ シけなのである。新しい身体を求める気持ちを断つべきである。気持ちを動かさず、無作 さと 一一為の状態に置くべきである。心を惑わされてはならない。 このように覚れば解脱が達成 第 できるのであるー ′」う げだっ I ー 1

2. チベットの死者の書

第二巻シバ・ルドゥ もしも女性として生まれる時は、自分自身が女性であるとの思いが現われる。そして 交歓する父母の母に対して激しい羨望と嫉妬を生じ、父に対しては激しい愛着と渇仰の 気持ちを生ずるであろう。 これが縁となって汝は胎への道にあることになる。赤白二滴 ( 卵と精 ) の結合する最 じねんしようとく 中のサハジャ ( 自然生得 ) の歓喜を経験することになろう。愉楽の状態で汝は意識を失 うであろう。胎児はぶくぶくと、ころころに卵形に育ち、身体が成熟してゆき、やがて 母の胎外に生まれ出る。 眼をあけて見るがよい。汝は一匹の子犬としてこの世に戻ってきたのだ。前には人間 であったのだが、今度は犬となって犬小屋で苦しむことになる。また同じように、豚小 屋や蟻塚ゃうじ虫の穴の中で苦しむことになろう。あるいは牛・山羊・羊などの子とし て生まれることになろう。途中で引き返すことはできない。きわめて無知蒙昧な境遇に 生まれてさまざまな苦しみを味わうことになるであろう。 誕生の仕方には四種類 ( 四生 ) 生き物をその誕生の仕方によって四種類に分ける仏教の伝統的分類法。胎 生母胎から生まれる人間や獣など。幻卩 ( 現生卵から生まれる鳥・魚・蛙など。③湿生湿気の中から生まれ る・ほうふらや虫など。④化生過去の業の力によって胎・卵などのよりどころを持たないで忽然と生まれる天 人・地獄の存在・中有の存在など。

3. チベットの死者の書

をヤマ王に告げよ。それに加えて師僧の名前を想い出して、ヤマ王に告げるべきである。 たとえ汝が深淵に落ち込んだとしても傷つくことはないので、恐れやおののきを捨てる べきであるー と述べてお導きを行なうならば、前に解脱できなかった者もここで解脱できるであろう。 自分の葬式を見る さと しかし、それでもなお覚ることができず解脱できない者があるので、導師はさらに努力 を続けることが大切である。この時も、死者の名を呼んだあとで次のように告げる。 「ああ、善い人よ、 いま現われている幻影は、楽しみと苦しみが交互に訪れる厳しい状 態にしばらくの間ずっと汝を投げ入れるであろう。譬えて言うならば、これはヤントラ という石投げ機の仕掛けにも似て緊張と弛緩が交互にある。だから今、執着と嫌悪のど ちらの気持ちをも決して起こしてはならない。汝が天人として天上界に生まれることに なっているならば、天上界の者たちが姿を現わすであろう。 その時に、汝が死んだ後の家では親戚の者たちが死者のために法要を行なって、たく さんの生き物を犠牲に捧げている。それを見て汝は汚された思いがして、激しい怒りが 汝に生じるであろう。これに心を任せると汝は地獄に生まれ変わるであろう。汝が死ん ラマ げだっ げだっ

4. チベットの死者の書

ックジェチェンポ さと ックジェチェンポ 覚るべきである。大慈悲尊の御名を唱えて、《大慈悲尊・師僧・三宝よ、私こと〇〇 あくしゅ ( ここに自分の名を入れる ) を悪い悲惨な境涯 ( 悪趣 ) に送り込むことをなにとそなさいま せんように》と、一心不乱に祈願すべきである。決してこのお願いを忘れてはならな しりよう 、仏の教えを真面目に実践して また、仏になる準備 ( 資糧 ) を積み、善いことを行ない きた人たちもいる。彼らは大変に楽しい経験をいろいろに味わって、完全な喜びをいろい ろと享受するであろう。 善いことと罪なこととのどちらを行なうでもないような、愚かで鈍感な人々には、楽し みと苦しみのどちらを味わうでもないような、ただ愚かで鈍感な状態が現われるであろう。 りやく 「ああ、善い人よ、このようにして何が生じようとも、どんなに望ましい利益や喜びが これを求めてはならない。師僧と三宝にこ 生じようとも、これに執着してはならない。 れらを捧げて供養すべきである。平らな無私の気持ちになって欲求や執着を捨てるべき レ である。喜びや苦しみの思いをあらわにさせないで、平坦で偏らない気持ちを持つよう ームドラー ( 大契 ) という、無念無想の惑わされることの シに努めるべきである。マ、 巻 三毒生存するもの ( 衆生 ) の悟りを妨げ、迷いと苦しみの世界に留める原因となる根源的な悪。むさ・ほりの 2 第 気持ち ( 貪欲 ) と怒りの心 ( 瞋恚 ) と愚かで迷い惑う心 ( 愚痴・無知 ) の三つの煩悩。 ラマ ラマ

5. チベットの死者の書

・スノレトウ 第一巻チカエ・ノくルドウとチョェニ われである、空が仮りに姿をとったものが現われてくるこの時に、諸仏が慈悲の力を お与えになってくださいますように。おびえさせおののかせるバルドウの恐怖がやっ てまいりませんように。 叡知を明らかに輝かせる五つの光明が現われてくるこの時に、恐れす、おびえるこ さと となしに私自身を覚ることがでぎますように。 寂静尊と忿怒尊の姿が現われてくるこの時に、恐れることなく確固としてバルドウ さと の本体を覚ることができますように。 悪いカルマンに影響を受けて私が苦しみを味わっている時に、守り本尊が苦しみを 取り払ってくださいますように。 存在本来 ( 法性 ) が持つみずからの響きが千の雷音をもって轟く時に、これらすべ ペエ・メエ・フームの六シラブルの声音となりますように。 てがオン・マ・ ックジェチェンポ したが 庇護するものもなく、カルマンに影響を受けて私が随って行くこの時に、大慈悲尊 かんじざいばさっ ( 観自在菩薩 ) が私を庇護されますようにお願いいたします。 悪い習癖を作る力となった過去からのカルマンの影響がもたらす苦しみを私が味わ さんまい っているこの時に、楽しい光明の精神統一の境地 ( 三昧 ) が現われますように。 五元素 ( 五大 ) からなるもろもろの存在物が私に敵対してくることがありませんよ シ ごだい はっしよう イ / ム 9.

6. チベットの死者の書

第二巻シバ・ノくルドゥ 今、この時に、もろもろの仏が慈悲の御力をお与えくださいますように。恐ろしく おののかせるバルドウの恐怖が生じませんように。 過去の悪い行ないにもとづく苦しみを私が受ける時に、私の守り本尊が苦しみを取 り除いてくださいますように。 存在本来のみずから響く音が千の雷鳴のように轟く時に、一切がオン・マ・ エ・メ = ・フームの六シラブルの声音に変わりますように。 庇護してくれるものもなく、私がカルマン ( 業 ) が定めるところに従って行くこの ックジェチェンポ 時に、大慈悲尊が私をお守りくださいますように祈ります。 ヴァ 習癖を作る力であるカルマンがもたらす苦悩を私が受けているこの時に、心安らか な瞑想の境地が光明の姿で現われますように》 と、以上のように熱心に祈願すべきである。そうすれば汝が歩むべき道がかならず示さ れるであろう。《自分はあざむかれていない》という、ゆるがない確信を持つべきであ る。それがきわめて大切であるー 六種類の迷いの世界 さと このように導師によって告げられた時に、これをよく記憶してその内容を覚るならば、 ) 」う イダム 1 2 1

7. チベットの死者の書

第巻シバ・バルドウ ・バルドウの恐ろしい幻想と苦しみ 「ああ、善い人よ、まさにこの時に、大変に恐ろしくて椹えることができないほどの、 一一すさまじく激しいカルマンの大疾風が汝を背後から駆り立てるであろう。これを恐れて はならない。 これは汝自身の錯乱によって現われたものなのである。 れて、鳥の羽が風に運ばれるように、あちこちとさだめなくさすらうであろう。泣いて いる縁者の者たちに、《私はここにいるよ。泣くのではない》と呼びかけても、その声 に彼らは気づかない。そこで汝は《私は死んでしまったのだ》と考える。大変な苦悩が、 今、汝に生じることになるであろう。しかし、そのような苦悩に身を苦しめてはならな 夜となく昼となく、秋の薄暮れ時の灰色の明りにも似た灰色の薄明りが、ずっと引 き続いて現われるであろう。このような。ハルドウに一週間、あるいは二週間、あるいは 三週間、あるいは四週間、あるいは五週間、あるいは六週間、あるいは七週間と、四十 ・くルドウ ( 再生へ向かう迷い 九日に至るまで、汝は留まることになるであろう。〈シ。、 の状態の中有 ) 〉においての苦しみは、二十一日間続くのが一番多いといわれている。が、 これは死者の生前におけるカルマンによって差があるものなので、長さを一律に決める ことはできない 107

8. チベットの死者の書

えくださいますように。恐ろしくおののかせるバルドウの恐怖が生じませんように》 《明るい叡知の五種類の光明が現われる時に、恐れることなく、おののくことなく、私 が自分自身を覚ることができますように》 《寂静尊と忿怒尊の御姿が現われるときに、恐れることなく、確信をもって私がバルド さと ウの幻影の現われであると覚ることができますように》 《悪い過去のカルマン ( 業 ) にもとづく苦しみを私が受けるときに、勝れた御方である 寂静尊と忿怒尊が苦しみを取り除いてくださいますように》 ほっしよう 《真実の存在 ( 法性 ) のみずから響く音が千の雷鳴のように轟くときに、これがマハ ーヤーナ ( 大乗 ) の教えの音と変わりますように》 《庇護してくれるものもなく、私がカルマンが定めたとおりにしたがっていくこの時に、 勝れた御方である寂静尊と忿怒尊が、私をお守りくださいますようにお祈りいたしま す》 《習癖を作る力となったカルマンがもたらす苦悩を私が受けているこの時に、安らかで 心地よい光明の瞑想が現われ起こりますように》 : ハルドウ ( 再生へ向かう迷いの状態の中有 ) 〉において私が身体を変えて誕生す るときになって、後へと引き戻す悪魔の教えが生ずることがありませんように。どこへ さと ′」う 168

9. チベットの死者の書

それに執着してはならない。それを求めてはならない。汝が執着して求めるならば、 ろくどう 汝は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六道の境涯を彷徨って苦しみを味わうであろ 昨日まで汝には〈チョェニ ・バルドウ ( 存在本来の姿の中有 ) 〉の幻影が現われてきた さと さまよ が、汝はこれらの正体を覚ることができなかった。それでここに彷徨ってきているので ある。今こそ汝が心を惑わされることなく、ものの本質をじっくりと見分けることがで きるならば解脱に達するであろう。 かって師僧によってお導きを受けたことを想い出すがよい。空であり、純粋無垢であ り、生のままである光明の内に汝の意識を置くがよい。そしてそのままにして、意識を 働かせることなく、なにもすることのない状態にして、のんびりとくつろがせるべきで ある。そうすれば、汝は再生のための胎の入口に踏み入らないで、解脱することができ るであろう。 さと イダム 汝自身でこのように覚ることができない場合には、守り本尊または汝の師僧のことを 汝の頭の頂上に想ってこれに念ずべきである。これを激しく崇拝し、願い求めるべきで ある。それが極めて重要なことである。極めて重要なことである。決して、心を惑わさ れてはならない」 げだっ さまよ 102

10. チベットの死者の書

空なるものが見えるであろう。これがダルマ・カーヤ ( 法身 ) というものである。この 空なるものは、また、単にのつべりとしたものではないのである。《空なるものの本質 これこそ、 は恐ろしい》と考える意識は、正確で鋭敏なものと言わなければならない。 ほうじん サムボーガ・カーヤ ( 報身 ) の意識の状態なのである。 くうしよう 空性と明晰性の二つが組み合わさって離れない。 空なるものの本質は明晰であり、明 晰なるものの本質は空なるものである。明晰であり空であることが不可分となっている 意識は、赤裸々で生のままにむきだしの状態のものである。あるがまま、自然のままで じしよう 無造作の状態のものである。これこそ本質を構成するスヴァ。ハーヴァ・カーヤ ( 自性 身 ) にほかならない。そしてまた、この自性身自体の働きは、他に妨害されることがな くて、何にでも現われることができる。それが慈悲を本質とするニルマーナ・カーヤ けしん ( 化身 ) なのである。 さと ああ、善い人よ、心を惑わされることなく見るがよい。汝がこのことを覚りさえすれ ば、四種の仏の身体を得て完全に仏になることは確実である。心を惑わされてはならな 。仏と一般の迷っている生きものとがこの境界で分けられるのである。現在という時 が非常に重要である。この時において心を惑わされるならば、これからずっと苦しみの ぬかるみ 泥濘から脱け出る時は来ないであろう。 しん はっしん