まつる。 2 海のことき、もろもろの功徳に対し、私は、多くの海のことき、称賛をたてまつる。雲のこと き美しき光明の称賛が、その方がたに対して常におこらんことを。 さんせ 幻三世過去、現在、未来 ) にまします一切の仏と、法と、最高なる集まり ( = 聖なる菩薩がた ) ふくでん みじん に対し、福田の微麈の数のことく、〔この〕身で私は礼拝いたします。 かんしゅあしやり 菩薩の活躍の場ともろもろの仏塔に、私は礼拝します。貫主と阿闍梨と最高の修行者とに礼拝 します。 きえ 菩提の心髄を得るまで諸仏に帰依いたします。法と、菩薩の集まりにもこのように帰依いたし ます。 しよ、つと、つカくしゃ 十方にまします正等覚者と菩薩、大悲を有する方がたに合掌し願うことで、 こんじよ、ったしょ一つ りんね 無始以来、輪廻において今生と他生に私が知らすに犯した罪、あるいは他者に強いたこと、 すいき 2 無知の過ちにより私が挫けたことと、すべての過った随喜、このような過ちを目のあたりにし悔 さんげ て、心より救世者に懺悔します。 しん 私が、三宝と父母あるいは上師、他者に煩悩により身・ロ・意で害を与えたこと。 いかなる罪〔の報い〕にも耐えられぬ。一切を第 3 さまざまな罪により過失を持つ、罪深き私は、 導師↑導いてくださる方、すなわち仏 ) に懺悔します。 しつば、つ あやま さんば、つ たいひ
かって自分に害を与える敵であり、その名を聞くだけで怖れたり、不快になった人でも、後にはその 人と親しくなり、その人がいないと悲しく感じることかあります。このように、むとは「霞れ」に従う ものなのです。ですから、慣れれは、自分を他者のように見なすことも、他者を自分のように見ること もできるようになります ( 第八章 ・ ) 。「他者のからだは自分のものではないのに、それを自分のもの と考えることなんて、どうやったらできるのか」と考えるかもしれませんが、「このからだも両親の精 子と卵子からできたものであり、他者のものの一部分からできているのに、以前からの慣れの力によっ て自分のものとして考え、とらわれているではないか」とシャーンテイデーヴァはさとしています。他 者のからだを自分のものとして大切に思うことは、慣れることによって可能なのです ( 第八章・ ) 。 このように、自他を交換する利益と、交換しない過失、不利益について考えて、これを修習すること を心底喜ぶ心を生じ、修習すればこの心をおこせるのは確かなことです。自他の交換の瞑想とは、「他 者の眼は自分の眼だ」などと思いこむことではなく、今までの自分を大切にし、他者を蔑ろにする心を 人れ替えて、他者をこれまでの自分のように大切にし、自分をこれまでの他者のように犠牲にする心を 羅 波 おこすということなのです。 それゆえ、「自分の幸せと他者の苦を交換する」と説かれていることについても、自己愛着を敵とみ禅 なし、自分の幸せを大切にするのが重要だと考えることをやめ、他者を大切にすることは偉大なる功徳 3 であると考えること、他者の苦を無視せす、他者の苦を除くことを大切にすることです。 ツオンカバ大師も「自分の幸せを考えす、他者の苦を除くために修行する心の訓練には二つの障害が
「からだや心が楽で円満なときであれば、輪廻に住しても悲しみはない」と考えることができ、意気消 沈をなくせます ( 第七章 ・ 5 ) 。たいへん苦しい時は短時間でもひどくつらい一方、苦しみがなく 楽しく幸せなときは長時間経過しても遊んでいるかのようで、疲労は感じないものです。 マ精進のための良い条件である「カ , の資糧を積む 精進には良い条件となる「四つの力」が必要です。四つの力とは、信解のカ、堅実のカ、喜びのカ、 捨てる力です。 信解 ( 信仰 ) のカ : : : 希望や関心が精進のよりどころである、と説かれています。ここで説かれ いんがりつ る「信解」とは関心のことです。因果律を修習し、受けとるべきことと捨てるべきことに対して関心を ばだいどうしたいろん 持つべきだと『菩提道次第論』に説かれています。大乗に信解し、人門することは、自他の過失一切を くんじゅう 除くあらゆる功徳を認めることです。おのおのの過失の薫習を浄化するためには、たくさんの劫にお いて浄化に慣れなくてはなりません。「それなのに、私には、過失などを除くことも、成就としての精 蜜 進である努力の一部分もない。私は無駄な苦労をしてきた」と考えて、自分自身を正しい修行に向けて波 進 奮い立たせるのです ( 第七章・ っ 0 ・ 4 ふたいてん 2 ・堅実のカ : : : あることに対して精進を始めることは、そこから不退転となり、全うするというこ章 第 とです。ですから、修行に人る前に、ます良く検討すべきです。そして、「自分は修行に人ることがで きる」と考えたなら、すぐに修行に人るべきです。もし、できないと考えたなら、人るべきではありま国 こ、つ
です ( 第七章・ 3 ) 。 後回しにする怠惰をなくす方法には、三つあります。一つは、今得ているこのからだはすぐに失われ ( すぐに死が訪れ ) 、悪趣に落ち、良いよりどころである人間のからだを再び得ることははとんどないと 考え、修習することです。時間はまだあるという思いをなくし、「時間はないのだ」と心相続に刻むこ とです ( 第七章・ 4 5 Ⅱ ) 。 こんじよ、つらいせ 二つめは、悪行に浸るのを拒絶することです。聖なる法は今生や来世にあらゆる喜びを生じる原因 ですが、無意味な話や散乱、眠りなどによって、今生で、偉大なる目的を失ってしまいます。今生で目 的をなくたら、来世にも苦しみをたくさん生じます。ですから、悪行から離れるべきなのです ( 第七 章・ 75 燔 ) 。 しようば・つ 三つめは、落胆や意気消沈することをやめることです。後回しゃ悪行への執着をなくし、聖法への 喜びを生じても、それだけで満足してはいけません。さらに大乗仏教を学び、修行するべきだからです。 「私には無理だ・ : ・ : 」というような気持ちはなくすべきです ( 第七章・西。「仏のあらゆる功徳には獲 得すべきものがありすぎて、私などがそれを得ることは不可能だ」という意気消沈する気持ちが生じる波 と、菩提心をなくす大きな過失となってしまいます。また、今は意気をなくしていない場合も、それに靃 章 つながる条件をなくしていくべきです。 七 「世尊は真実や正しい教えを説かれる。嘘や誤りを教えることはない、聖なる方だ。その方が『蜂でも 菩提を得る』と説いていらっしやる。ならば、私は、人間に生れ、良いよりどころを得ているのだから、国
しょ一つば、つ にゆ、つ 〔菩提心は〕衆生の無知の黒雲を完全に晴らす、偉大なる太陽である。正法の乳を撹拌し、乳 酪という心髄を得た。 行 3 輪廻の道を行く衆生という客、楽という財産を望む人を、これ ( ↓ロ提心 ) は最高なる楽に住薩 人 させる。〔菩提心は〕有情を満足させるものである。 せしゃ 引私は、今日、一切救世者の目の前で、〔一切〕衆生が如来〔の境地を得る〕まで、〔彼らを〕楽 あしゆら を与える客とし〔て招い〕たゆえ、天や阿修羅などよ、喜べよ。 以上が、『人菩薩行論』により菩提心の受持を説く第三章である。 しんそうぞく 菩提心を自分の心相続に生じさせるための、六つの条件について説明しましよう。 しちしふん てんばうりんかんじよう にゆうめつ 六つの条件とは、七支分の後半四つである①随喜、②転法輪の勧請、③人滅しないでく えこう ふせはらみつ せんごん ださいとの祈願、④利他のための廻向、⑤布施波羅蜜の実践の前に行う「からだや財産、善根を与える 心の訓練」、⑥実際に菩薩戒を授かった自分と他者について喜ぶこと、の六つです。 しやくじゅう ぜんぎよう 随喜 : : : ツオンカバ大師が「わすかな努力で功徳を積集するには、善行に随喜することが最も 優れた方法だと、 ( 釈尊が ) 説かれている ( 取意 ) 」とおっしやっているように、私たちが心に嫉妬や競 か′、はは , ル
す ( 第一一章・ 8 ) 。 4 ・心で観想する供養 : : : 観想において、仏や菩薩のお顔やおからだを洗い、清潔なタオルでおから論 さんぜ 行 だを拭うという供養をします。また、三世 ( 現在、過去、未来 ) の世界の五感の対象である、かたち、薩 音、におい、味、感触を仏、菩薩に尊敬とともにさしあげて、心に喜びの念をおこします。そして、そ人 れらの供養によって自他のすべての苦しみが除かれ、自他ともに喜びや幸せに満足すると観想し、供養 します。心で観想する供養には、さまざまな方法があります。自分が考えられるかぎりの三世の広がり 川 51 ) 。 を観想すべきです ( 第二章・ むじよう 5 ・無上なる供養・ : : ・「文殊や普賢などの菩薩たちがなさったのと同じように、私も供養しよう」と しんげ 信解することが大切です。また、菩提心と慈悲をおこし、大乗仏教の経典のことばや意味を暗記するこ 「喜ぶ」という とも、無上なる供養の一つです。供養は、サンスクリットでは「プージャー」といし 意味です。私たちが修行することで仏・菩薩はお喜びになります。ですから、修行も供養なのです ( 第 6 ・称賛のことばや奏楽などによる供養 : : : 仏と、仏の身・ロ・意の大海のことき功徳をもっ仏子た ちを称賛し、音楽を奏で、歌を歌い、供養します。それらの供養が雲のように空いつばいに遍満してい ると考えて、供養します ( 第二章・ ) 。供養は物惜しみや執着の対治です。最初はささいな供養から 始めても、次第に慣れて偉大なる供養ができるようになります。供養の「足跡」として、虚空の蔵のこ とき財産を得ることができると経典に説かれています。
際に正知によって巧みに精進できなければなりません。巧みな修行をするには、心身の疲れが生じたら、一 時的に休みをとることが不可欠です。今、私たちのからだは善を自由自在に修行することはとても難しいの て ですから、思い通りに修行するには巧みな方法が必要なのです。また、時に意気消沈したり沈み込みが生じ「 るかもしれませんが、精進は川の流れのようにあるべきです。そして、この精進を生かすためには上手に実 しようじん 践することが大事です。そのための方法として、シャーンテイデーヴァが説いているのが第七章の「精進 はらみつ 波羅蜜」の章です。 第八章では、禅定について説かれています。精進を持った上での実践とは何か。それは菩提心を修習す もうふんべっ ることです。禅定すなわち集中を可能にするためには、からだは物質と欲望から離れ、心は妄分別から離れ せいひっ なければなりません。「静謐な地」の功徳を考え、欲望の過失を考えるべきです。しかし、ただからだが静 謐な地にあるだけでは、禅定はかないません。心をコントロールできないなら、洞窟に人っても無意味です。 心を妄分別から引き離すのです。ただし、妄分別をなくすというのは、すべての分別をなくしなさいという ことではありません。強い怒りや執着をおこさないことです。また、心の集中を妨げるのは散乱です。散乱 は執着の一種であり、美しいものに心を動かし散乱するのが最悪である、と欲望の過失が説かれています。 シャーンティテーヴァは、「妄分別を離れ、静謐の地で自他の交換の修行をしなさい」と説いています。第 せんじようはらみつ 八章は「禅定波羅蜜」の章と言われます。 しふん 第九章の冒頭の詩において、菩提心をおこし、布施波羅蜜から禅定波羅蜜まての菩薩行の支分すべては、 智慧を発するためだと釈尊はおっしやっている、とシャーンテイデーヴァは説いています。そのことばのと せんしよう
べきです。これまでは自分を大切にし、他者を蔑ろにする心でしたが、今からはこれを交換し、自分だ けを大切にするのではなく、自分を犠牲にして、利他の心だけを持つのです。 ①自己愛着の過失について考える : : : 自分を大切にし、自分の幸せを実現できた一方、すべての苦は どのように生じているのでしようか。自分を大切にしたことによって、害ばかりが生じるのです。自己人 愛着によって、自分のからだ、自分の財産、自分の身内、自分の国などのすべてにとらわれました。そ のようなとらわれが大きければ大きいはど、他者からの害や害を与えられるかもしれないとの不安、怒 あく ` 辷っ りや嫉妬、貪りなどの煩悩が次々に生じます。そして、さまざまな悪業を積み、輪廻という苦を生じる さんせんせかい のです。たとえ、三千世界のすべての人が私の敵となっても、彼らは私を地獄に落とすことはできませ ん。私を地獄に導くのはこの自己愛着です。生きている間は自己愛着によって罪を積み、死ぬときに寒 さを感じると自己愛着によって熱を求めます。その結果、熱地獄に落ちるのです。自己愛着が強くなる ふくろう と、問題が生じてきます。カタム派の行者は自己愛着を「梟の頭」と呼んでいます。「頭の上に、欺瞞 に溢れた分別を打ち砕くチエム・セ・チエム↑武器の回転音 ) 〔がする〕。敵である自我自己愛着 ) という屠殺者の心臓めがけて、マラヤ。」 ( 「ロジョン ( 心の訓練 ) ・武器の輪」より ) というように、自 己愛着はあらゆる利益や楽をなくす屠殺者なのです。 ②利他心の功徳について考える : : : 利他心について考える前に、因果の法則を知り、信じるべきです。 あこん せんしゅ これは「布施によって財産を得、持戒によって善趣を得る ( 取意 ) 」などとという阿含によって証明で きることですが、さらに自分自身で分析し、吟味し、納得しなければ、堅固な信頼は生じ得ないでしょ ふんべっ
そなえた懺悔と、修行の妨げをなくすことについて述べています。この章は一般に「罪の懺悔」の章と呼ば れています。 て かんじよう きがんえこ・つ ばさつかい 第三章では、菩薩戒を持することと、七支分の後半部分である随喜、勧請、祈願、廻向が説かれていま「 せんこん ふせはらみつ す。また、布施波羅蜜の修行の一部としてからだと善根と財産を与えるべきであり、その良き条件として、書 ますは功徳を積み、菩薩戒を受けるべきだと説かれます。第三章は「菩提心の受持」の章と言われます。 第四章では、このように菩提心をおこしたなら、自分自身でそれを称賛し、喜ぶ気持ちをおこすべきだと シャーンテイデーヴァは説きます。菩薩となるための修行を始めるという堅固な誓いをするのです。菩薩行 ふせはらみつ ろつばらみつ には六波羅蜜を実践する以外の修行はありません。布施波羅蜜とは、からだ、財産や善根などを惜しますに しゅしよう 衆生に与えることです。六波羅蜜を備えた布施波羅蜜を修行すべきです。なお、布施については第三章と 第十章などこの論書の随所で説かれており、布施だけについての独立した章はありません。 続いて正しい戒律について説かれます。布施波羅蜜の実践をすれば、豊かな財産を生じることができます ーいはらみつ が、究極的な安定は望めません。それには戒波羅蜜の実践が欠かせません。戒波羅蜜とは主には、自己愛着 しんそうぞく から心を守り、利他の心をおこすように努力することです。しかし、私たちの心相続 ( 心の連なり ) は、無 始以来、煩悩や自己愛着に慣れすぎているので、それらを教化するのはとても難しいことです。だからこそ、 ふはういっ 煩悩について知り、煩悩と闘うべきです。不放逸を学ぶと、菩提心について知ることができます。 しようち さらに菩提心をおこしたら、正知をおこすべきです。正知があるかどうかは大切です。もし、自分の心が良 くない状態ならば、正しい心はどのようであるかを見て、自分の心が正しい心となっているように監視します。 さんけ
菩提心がなければ、布施などの偉大なる善行を行っても、はとんどの善根はなくなってしまいます。あ るいは、実を結んだら枯れてしまう芭蕉樹のように、 一つ実を結んだらなくなってしまいます。菩提心論 を伴った善根は、良い実のなる良い木のようなものです。ますます増大し、決してなくなりません ( 第轣 錬金術において鉄が金に変化するように、この不浄で心髄のないからだに聖なる心髄 ( 菩提心 ) を受 ぶっしん けとることで、輪廻世界における天などの供養、礼拝の対象となり、仏身を成就できます。これにまさ る意義があるでしようか ( 第一章・川 ) 。 6 ・あらゆる罪はたちまちに浄化される : : : 菩提心のカで、五逆などの重罪もたちまちに浄化できま ざいしよう す。他の罪障については一一一口うまでもありません ( 第一章・ 6 、 リ。また、菩提心を持たなければ、 くうしよ、つ じんじん しようしゅほう わんしゅツアルン ティクレ 甚深なる空性の理解や本尊ヨーガ、成就法、真言念誦、脈管・風・滴の密教ヨーガなどの高度な修行 をどれほど実践しても、それは大乗仏教の修行とならす、仏の境地は得られません。カダム派の行者、 ゲシェー・ムクルンパが「菩提心を一度おこしたなら、福徳も菩提心が積み、罪障も菩提心が浄化する。 修行の妨げも菩提心が除く」とお教えになったとおりです ( 第一章・ 7 ) 。 てんにん 7 ・自他の一切の目的をすぐに成就できる : : : 菩提心をおこしただけで天人の供養の対象となり、菩 提心のカであらゆる過失をなくし、あらゆる功徳が完全となる仏の境地を得られます。仏の境地を得て、 によいほ、つしゅ は、つしゅ 虚空のことき一切衆生のために願ったすべてを、如意宝樹や如意宝珠のことくに、苦労なく得られます しだい ( 第三章・ ) 。四大 ( 地、水、火、風の万物を構成する四元素 ) のように、衆生の生存のもととなりま こぎやく