功徳 - みる会図書館


検索対象: チベット仏教・菩薩行を生きる : 精読・シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』
73件見つかりました。

1. チベット仏教・菩薩行を生きる : 精読・シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』

間〔他者の〕功徳は、その人がいないところで言い〔なさい。また、誰かか他者の〕功徳をたた えたら、それに同意し〔なさい。そして〕、自分の功徳を言われたら、〔決して慢心せすに〕「た論 だ、功徳〔というもの〕があるのだ」と知り、認識しなさい 行〔菩薩が〕始めた〔行為〕すべては〔他者の〕喜び〔という目的〕のためであり、それは金で は買い難い。それゆえ、他の人がなした功徳を喜び、幸せを感じなさい こんじよ、つ 爲〔他者の功徳を喜ぶことによって〕私は、ここ↑今生 ) では損をすることなく、来世では偉 大なる幸せを得ることになる。〔しかし、他者の功徳を憎むなら、その〕過失のせいで〔今生で は〕不満を感じ、苦しむ。来世においても大きな苦しみとなる。 四話をする場合は、落ち着いて、意味を明解にし、きれいに〔話すべきだ。そして〕、執着や怒 りを捨てて、穏やかに、適切に話すべきである。 眼で衆生を見る〔とき〕も、「彼らによることで私は仏になれるのだ」と〔考えて〕、慈愛の心 をもって率直〔な気持ちで〕見なさい きようでん 別つねに明らかな動機や対治によって〔善を〕なすべきだ。〔また、〕敬田↑仏や菩薩、三宝 ) おんでん ひでん や恩田↑父母、師 ) 、苦しむ者↑悲田 ) に対する〔布施などは〕、偉大なる善となる。 肥〔悪をなさす、善を行うことに〕巧みであり、信仰を持つ者でもあり〔なさい。そして〕、もろ もろの〔善なる〕行いを私はつねに行おう。もろもろの行いすべてを、誰にもよらすに〔私自身 さんば、つ

2. チベット仏教・菩薩行を生きる : 精読・シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』

ふくでん Ⅱそれゆえ、有情は福田であり、勝者は福田であると牟尼は説かれた。彼らを喜ばせることで、 ひかん 多くの人はこのように円満して彼岸にいたった Ⅱ諸々の有情や勝者により仏法を成就でき、〔その意味で両者は〕等しい。勝者を尊敬するよう に、どうして有情を尊敬しないのか Ⅲ〔有情と勝者の意志は同じではないが、〕意志の功徳はそれ自体にはよらない。結果による。そ れならば〔両者は〕同じである。すべての有情にも功徳がある。それゆえに彼らは等しい Ⅱ慈愛の心を持つ人を供養すること、それは有情の偉大さである。仏に対して信仰を持っことに よって功徳を積むこと、それはまた仏の偉大さである。 Ⅱ〔有情は〕仏法を成就する〔ための〕一部分である。それゆえにこれらは等しいと認められる。 「海のことく無数の功徳を有する仏たちとは比べられない」〔と言うならば、〕 Ⅱ優れた功徳の集まりの、功徳のはんの一部分がある人に見られただけでも、彼を供養するため さんがい 羅 に三界をさしあげても十分ではない 波 辱 Ⅱ仏の最高の法を生じるある部分は有情たちにもあるゆえに、その部分にしたがって有情を供養 章 の対象とするべきだ。 Ⅱまた、不動なる親戚であり、無量の恩恵をなさる方には、有情を喜ばすことの他には恩を返す第 すべはない。

3. チベット仏教・菩薩行を生きる : 精読・シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』

わはん 経典には、祈願は金剛の仏身を得る「足跡」となるとあります。シャーンテイデーヴァも、涅槃に人り卵 得る勝者に対して「涅槃に人らないでください」と祈っています ( 第三章・ 6 ) 。 4 ・廻向 : : : 廻向は、動機と同様、非常に重要です。「ロジョン ( 心の訓練 ) 」にも、最初と最後、す なわち動機と廻向の二つの大切さが説かれています。日本の一般的な考え方でも、最初と最後は大切だ人 と考えられていますね。 廻向は祈願の一種ですが、両者にはちがいがあります。廻向には、その材料となる善行が必要です。 廻向とは「自分の善行をなくすまいとの希望を持ち、その善行を仏の境地 ( 菩提 ) を得るための原因に 変えよう」とする心です。言い換えれば、「すべての衆生のために菩提を得よう。そのために、自分の 善行をなくさないようにしよう」という心で、善行を菩提に廻向するのです。何を何のために、誰のた めに、何を目的として、どのように、廻向をするのかというと、善根を、善をなくさないために、一切 さんりんしよ、つしよ、つ せしやじゅしやせもっ 衆生のために、無上なる菩提を得ることを目的として、三輪清浄 ( 布施において施者、受者、施物の はうべん 三つを空であると見て執着しないこと ) という方便と智慧を一体にする心で、実体性へのとらわれを否 定して、廻向するのです。 ですから、廻向という祈願は強力です。廻向によって仏の功徳を得ることになり、そのための「足跡」 ざいしよう となります。廻向は怒りの対治です。また、七支分は、功徳を積むことや、罪障を浄化し功徳を増大 することであると言えます。礼拝などの五つは功徳を積むことであり、懺悔は浄化すること、そして廻 向によって善根を増大します。 ふっしん

4. チベット仏教・菩薩行を生きる : 精読・シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』

ういうものをすぐに捨てるべきである。 肥殺されるはすの者が手を切られて解放されるなら、〔その方が〕良いではないか。もし人間の論 行 薩 苦しみによって地獄の苦しみから離れられるならば、良いではないか 人 今のこの苦しみだけでも私には耐えられないなら、それゆえに地獄の苦しみの原因である怒り を、どうしてなくさないのか 7 欲望のせいで火に焼かれるなどの千の地獄を体験しても、私は自分のためにも他者のためにも ならない これはさほどの害にはならす、有意義なものを成就できるゆえ、有情の害を除く苦しみに対し て、今生において、ただ喜びの心で向かうべきだ。 間他の者が功徳を持っことを称賛し、喜びという幸せを得るならば、心よ、どうしておまえも彼 を称賛し、それを喜ばないのか 7 あなたのこの喜びという幸せは、仏が禁じないところから離れない、幸せの源である。功徳を 持っ方がたがくださったものであり、人々を引き付ける最上のものでもある。 爲「それは他者の幸せだ」と言って、もしあなたがこの幸せを望まないならば、報酬と布施を捨 てることになる。可見 7 今生 ) と不可見↑来世 ) において堕落となる。 四自分の徳が言われる時は、他者も幸せ〔で良い気分〕であるのを望む。他者の功徳が言われる

5. チベット仏教・菩薩行を生きる : 精読・シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』

うじよ、つ しんげ りやく 引有情の利益を成就する助けとなる力は、信解、堅実、喜び、離脱である。信解は、苦しみを怖 れることと、信解の利益を考えることによって生じる。 行 このように、反対のものを捨て、信解と自慢と喜びと離脱を自然に自制する力によって、努力薩 にますます努めるべきだ。 芻私は、私と他者の無数なる過失を破壊すべきだ。どこにあってもそれぞれの過失を劫の海を費 やしても、なくすべきだ。 引過失をなくす努力への着手、その一部分さえ私に見られないならば、無限なる苦に住する。私 よ、どうして心臓が壊れないのか 肪私は、私と他者の多大な功徳を成就すべきであり、それぞれの功徳についても、劫の海〔を費 やしても〕慣れるべき〔なのに〕、 私は一部分の功徳にすら慣れることができなかった。なせか得られた〔人間の〕生を、私は無 駄にしてしまった。残念なことだ。 せそん 私は、世尊に供養せす、大祭の楽も与えす、教えの事業もせす、乞食の求めも満たさす、 怖れる者に安心を与えもせす、困窮する者たちの幸せのために布施をしなかった。そのような 者である私は、母の子宮を痛めただけ。苦しみばかりを生じてしまった。 私は以前も今も法への信解から離れたことで、このような不足を生じた。誰が法への信解を捨 りだっ こ、つ

6. チベット仏教・菩薩行を生きる : 精読・シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』

6 導師たちょ、私の罪と過ちを、良く受けとりたまえ。それは良い行いではないゆえに、私は今 後は決してすまい 以上が、『人菩薩行諭』により罪の懺悔を説く第一一章である。 ざいしよ、つ しりよ・つ 資糧を積むことや罪障を浄化することは重要です。そして、それをまとめた最も重要な修 きがん、んこ、つ かんしょ - っ くよ、つさんげず・いき しちしぶん 行は「七支分」です。七支分は、礼拝、供養、懺悔、随喜、勧請、祈願、廻向からなりま ふくでん しゅうえじゅ す。七支分における集会樹 ( ツオクシン ) の観想は、福田である上師、仏、菩薩を対象に功徳を積み、 罪障を浄化する偉大なる瞑想修行であり、とても重要なものです。 しよ、つじゅほ、つ けんぎよう 功徳を積むことと罪障を浄化すること、この二つは、顕教、密教すべてにおける重要な成就法には はとんど必す含まれます。『人菩薩行論』第二章においては、菩提心をおこして修行をおこなう、その せんぎようしふん 前行の支分として、礼拝や供養、帰依をして、四つの力を揃えて修行の妨げとなる悪い条件である罪 を懺悔し、善に対して随喜するなどの良い条件の功徳を積むことをます説いています。そして、その後、 第三章のテーマでもある「菩提心の受持」を説いていきます。第二、三章では七支分について具体的に 説いています。 人菩薩行論 46

7. チベット仏教・菩薩行を生きる : 精読・シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』

シャーンテイデーヴァはここで廻向について詳しく説くとともに、別に廻向の章も設けています。こ こでは供養をして、その功徳によって私があらゆる衆生の苦を除けるようにと一般に廻向をしています ( 第三章・ 7 ) 。大乗仏教は、衆生全般、特に困っている衆生に対して、最も慈愛を持つものなので、シ ャーンティテーヴァもここで病人のため、あるいは飢え渇く人の苦を除くために廻向しています。あら ゆる望みの原因になりますようにと廻向しています ( 第三章・ 8 、 9 、川 ) 。 5 ・からだ、財産、善根を与える心を訓練する : : : 善を無駄にしないように、自分が有情に必要なも の、有情の生存の原因になるようにと祈願することです ( 第三章・ 川 ) 。詩の本文は読みやすく、 言葉としてはわかりやすいですが、一般的な常識から考えるとびつくりすることでしよう。また実践は ほとんど不可能だと感じられます。しかし、現実において、菩薩の教えのとおりに実践するためには、 ますは心を訓練し、訓練できたなら順々に実践すること。あるいは今すぐはできなくても将来まもなく できますようにと強く考えたり、心から祈願すること。それらができただけでもたいへんな功徳となり 持 ます。 受 じゅかい しゅじゅう の 6 ・実際に菩薩戒を受け、自他の受戒を喜ぶ修習 : : : 実際に、以前の仏たちがなさったこと ( 第三 しんく 提 章 ・、幻 ) について考え、心で何度も思い出します。その身・ロ・意や功徳などを考えながら、 りやく 幻の詩を三回唱え、「仏たちがなさった通りに、私も、あらゆる衆生に一時的・究極的利益を与えるた章 あじゃり めに戒律を受けます」と考えます。そして、もし実際に阿闍梨がいるならば、阿闍梨から戒を受けるべ第 きです。阿闍梨がいないなら、仏や菩薩が虚空にいらっしやると観想してお招きし、証人と考えて「発 はっ

8. チベット仏教・菩薩行を生きる : 精読・シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』

除いて他のためを思う気持ちを純化し、ためらわすに一切を与えることの重要性が記されています。な せなら、自身の所有する一切を与えることが功徳につながり、執着心と物惜しみの心で他者に何も与え ないことが損失につながることは、広い視野に立ったときには理解される事実であるからです。第三訓 章・肥詩では次のように説かれています。 ン ロ 一切↑からだ、財産、善根 ) を与えることで涅槃に入る。 る 〔そして、〕私の心は涅槃を成就する。 ら 〔死ぬ時も〕一切を手放すことは同じだが、 今、有情らに与えることが最高である。 与えることの功徳と物惜しみする損失を繰り返し考えることで、与える行為に喜びが、物惜しみの行 為に罪悪感が生まれます。 そして、自身の持てる一切が、他にとっての一時的かっ究極的な幸せの因になることを願わすにはい られない感情が生まれます。『人菩薩行諭』第三章・爲、四詩には次のように説かれています。 私は、保護者のいない者の保護者に、 旅路にある者の船長に、

9. チベット仏教・菩薩行を生きる : 精読・シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』

一方、私たちは自己愛着のせいで、食事であれ、財産であれ、名誉であれ、眼で見るすべてと耳で聞新 くすべてを自分が得たいと考えています。そのために、あらゆる幸せが虹のように消えてしまったので論 す。 そのような意味で、自分を大切にすることと、他者を大切にすることは、間違えすに選択すべきです。人 すべての過失を離れた、功徳を持っ仏と、この自分を比較して良く知るべきです。このように、自己愛 着はあらゆる堕落の源であり、利他心はあらゆる功徳の蔵なのです。そう理解して、「虚空のことく遍 満する衆生のために成就し、私の幸せや善すべてが衆生ひとりひとりのためになりますように。衣食住 を欠く者のためには私が衣食住となり、友人のいない者には友人となりますように。私が仏教を教える あしやり 阿闍梨となって、衆生が三善趣や解脱や仏の幸せを得ますように」との思いを心に満たすのです。そし ざいしよ、つあく「 : っ て、「彼らの苦しみ、罪、煩、罪障、悪業などのすべての悪しきものを、息を吸うときに吸気ととも に受け人れて、心臓で受けとる」と瞑想する「トンレン ( 与え、受けとる ) 」を実践するべきです。

10. チベット仏教・菩薩行を生きる : 精読・シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』

ばしよ、つじゅ 肥他の善はすべて、芭蕉樹のように、実を結んだ後、消えてしまう。菩提心の樹は、常に、実を 結んだ後もなくなることなく、増大する。 1 耐えようもない程の罪を犯したとしても、あたかも勇者に頼ることで恐怖から解放されるかの薩 ように、それ↑菩提心 ) に頼れば一瞬にしてそこから自由になれる。注意深い人はどうしてそ れに頼らないであろうか こうまっ それは劫末の火のように、大きな罪を一瞬にしてことことく焼き尽くす。その功徳は無限であ みろく せんざいどうし る。智慧を持っ弥勒は善財童子にそう説かれた。 はつがんしん 菩提心は、要約すれば、二種類となることを知るべきである。願う菩提心 ( 日発願心 ) と、菩 ほっしゅしん 薩行に人る菩提心↑発趣心 ) とである 1 行きたいと思うことと、実際に行くこと。その区別を知るように、賢者はこの二種の区別を順 に知るべきである。 1 発願心によっても、輪廻において大きな結果が生じる。しかし、発趣心によるように、常に福 徳か生じることはない ふたいてん 絽〔発趣心をおこした〕その後は、衆生界を救うために不退転の心で、この心を正しく実践する 一」レ」に事なる。 1 そしてこれからは、眠り、放逸してしまうとしても、〔菩提心の持っ〕功徳の力により〔福徳 ほ、ついっ 0