他者を大切にする心に慣れたなら、他者の苦にも耐えられなくなります。このように、自他の交換への 妨げをなくし、瞑想するには「自己にとらわれる力によって、自分を大切にしてきたせいで、無始以来 今日まで望まない苦を生み出してきた。円満を得たいという気持ちがあっても、自利を優先する間違い を犯したために、無数の劫を経ながら、自利も利他も成就できなかった。それどころか、苦ばかりに苦 しめられてきた。自利の心を利他に移していれは、もっと以前に仏となり、自他のあらゆる利益を円満 しよ、っち おくねん できていたであろうことは疑いない これからはそれを知り、最大の敵である自己愛着を憶念し、正知 に従ってあらゆる努力によって、自己愛着が生じていないなら生じさせす、生じたとしても決して持続 ばだいどうしたいろん させない」と考えて、心から納得し、何度も瞑想すべきです ( 第八章 ・ 5 い。『菩提道次第論』にも 同様なことが説かれています。 せんこん このように、自分のからだや財産、善根すべてを衆生に与えようとの心を、何度も訓練するべきです。 そして、誰かに与えた後は、それは彼を利益するものであるべきですから、与えたからだなどを自分の 利益につなげたいという心を否定すべきです ( 第八章 ・、 ) 。からだなどは利他の対象として、も しそれが自分のための利益や身・ロ・意によって他者を害する条件となることが現われても、「自己愛波 定 着が以前も無数の害をもたらした。彳 ( 殳こ立つようにと考えたものも誤りであり、この誤りの力によって禅 非常な耐えられない苦を生じるのだ」と考えるべきです ( 第八章 ・ 5 ) 。このように他者を大切に章 する利益を何度も考えて、心底喜びの心を生じ、他者を蔑ろにし、犠牲にする心を生じていないならば第 生じさせす、生じたなら持続させないようにと祈願し、努力するべきです。他者を大切にし、他者を素
えんぎ くても、大いなる縁起によって、悪しき人間や非人間的なものたちも、慈悲を修習する人を見て喜ぶと いう話がたくさん伝えられています。毒蛇が実際に害をもたらさなくても、私たちは見ただけで恐怖を 感じます。それは毒蛇の内面にある攻撃的な力のせいです。眼に見えなくても、内面的なものは他者に 伝わることが往々にしてあります。 また、「自己愛着」は言います。「そのような利益は、からだにも心にも役には立たないではないか。」 からだに害をもたらすことはできませんし、かたちのない心を妨 しかし、悪口や罵り、非難などは、 げることもできません。悪口などに対して怒りを持ってはいけません。そのように考えるべきです。 「自己愛着」は言います。「利他心によっては、からだと心のどちらにも、一時的には利益がなく、悪 口にも害はない。すると両方は同じではないか」 しいえ、利他心と悪口は全くちがいます。害は憎むことで、その報いである苦ばかりを生じます。一 方、利他心によって喜ぶことを続ければ、利他心は増大し、幸せとなります。苦を望まないなら、自分 と同様に他者を大切にする利他心をおこすべきです。 : ここまで、私たちは自分の心にある「自己愛着」と議論をしつつ、「自他 2 ・自他の交換の瞑想 : は、大切にすべき点で平等だ」と考えるようになりました。しかし、それだけで満足してはいけませ 章 ん。 今まで自分だけを大切にし、他者を蔑ろにしてきたために、輪廻という過失が生じたのです。輪廻に第 むじよ、つ みさい おける粗い過失も微細な過失もすべてなくし、無上なる菩提を得るためには、「自他の交換」を実践す
です。また、自他すべては望まない苦を捨てるべきであるゆえに平等であり、自他すべては苦を除く権 利を持っゆえに平等です。このように、自他が平等であることは明らかですから、修行をすることは正 しいことだとわかります。 しかし、自他が平等だと言っても、私はひとりだけ、他者は私以外のすべての衆生である以上、私ひ とりがどのような幸せを得ても、究極的な解脱を得ても、他者の利益に比べたら私だけの利益は何もな いも同然です。他者は無数ですから、他者の幸せが生じたなら、たいへん大きな意義があります。たと えば、一円と百億円を比べてみるとわかります。一円はほとんど無価値ですが、百億円には非常な価値 があります。このように考えると、自他は性質として平等であっても、多数と少数という面から見ると たいへんなちがいかあります。ですから、自他を交換する心がたいへんに重要となってくるのです。自 他の交換の方法については、この解説の後半で説明しましよう。 、過失を考えるべきです ( 第八章・ さて、菩提心をおこすには、ます自他を交換する利益と交換しなし、 25 肪 ) 。早く悟りたいならば、必す自他の交換を修習すべきです。それができなければ、成仏の方法 はありません。また、「あらゆる一時的な幸せも他者を大切にする心から生じ、苦や望まないことは自波 己愛着から生じる」と説かれていることを何度も繰り返し考えて、納得すべきです。 さんがい 私たちが無始以来今日まで、三界の輪廻においてあらゆる苦を体験したのはすべて、他者を犠牲にし、 3 第 自己に愛着したことから生じたことです。釈尊は、自分を犠牲にし、他者を大切にしたことによって、 自利と利他のあらゆる円満を得たのです。ですから、この二つのちがいを考えて、「自他の交換」を喜
晴しい善きものとみなすにはどのように努力するべきかを考えて、以前に自己に愛着した心を他者に向 けておこすのです。このような「他者を大切にする心」を生じるべきなのです。 マ「自他の交換 [ の瞑想法 それでは、これから、チベット仏教の伝統に即して「自他の交換」の瞑想法を具体的に説明します。 「自他の交換」は大きく二つの部分からなります。一つは「自他の平等の瞑想」であり、もう一つは 「自他の交換の瞑想」です。 ますは「自他の平等の瞑想」について、順を追って説明しましよう。 自他の平等の瞑想 : : : 自分を大切にし、他者を蔑ろにしたり、大切にしなかったりするのは良い ことではありません。自分も衆生も皆、楽を得たいと欲し、苦を望まないという点では全く平等です。 これに対して、私の心にいる「自己愛着」は言うでしよう。「願望については平等であっても、自分の 楽は自分で実現すべきだ。自他は心相続が別々なのだから、私が一切衆生を利益するなんて無意味なこ とだ」と。しかし、自他の心相続は別々でも、私は他者の害を除き、幸せを生じるべきです。母親は子 供を苦しみから離れさせ、幸せになるように努力するではありませんか。母親と子供の心相続は別々な しかし、「自己愛着」は反論します。「母親と子供の場合は、互いに大切に思い、愛情を持っているか、 自分と一般的な他者との場合はそうではない」と。 人菩薩行論 168
び、固く保たなくてはいけません。 「自他の交換」の思想がなければ、偉大なる菩薩行を無数なる劫において学ぶことも不可能です。その論 一方で、自他の交換の考えを修習し、堅固にすれば、非常に困難な菩薩行であっても苦労もなく、自然 人 に成就できます。 世間の人びとの望まないことすべては、他者に害を加えたゆえに生じたのであり、あらゆる善きこと は他者を大切にする心から生じたのです。たとえば、同じものを与えるとしても、他者を利益しようと いう利他心の大小によって、果の大小にも大きな差が出てきます。そして、自分より他者を大切にする ノ、、つしょ・つ 善き心という動機があれば、ものの在り方である空性 ( 真理 ) を修習できた場合、その修習の果が法 身の成就となります。しかし、このような動機がなければ、法身を得ることはできないのです。「一時 的にも聖者たちは、からだに病などをもたらす業や、輪廻に生れることの害が全く生じない無限なる功 だいしようしようこんきようろん 徳を得る ( 取意 ) 」と『大乗荘厳経論』にも説かれています。自分よりも他者を大切にするこの尊い こぎやく ざいしよ、つ 心を持てば、五逆などのたいへんな罪障も簡単に浄化できます。しかし、この菩提心がなければ、他 のいかなる方法でもひどい罪を浄化することはたいへん難しいのです。 以上説明してきたことを要約すれば、自分を大切に思い、自己にとらわれることは堕落の門であり、 他者を大切にし、とらわれないことはすべての円満の原点であると考えるべきだということなのです。 マ自他を交換する心に慣れる こ、つ
序の部分では『人菩薩行論』の一節が引用され、「自他の平等観」と「自他の交換」の重 要性が説かれています。 「自他の平等観」とは、幸せを欲し苦を厭うことにおいて自分と他者は同様である、という揺るぎない むしば 確信を意味しています。幸せが安らぎなどの好ましい感情を生み、苦しみが心を蝕んで疲弊させること においても自分と他者は同様です。この確信を得たときには、他者に対して自分と同様に守護しようと するはすです。幸せを手に人れようと、また苦を逃れようとして多様な手段を講するように、他者に対 しても実際に行動に移ることが求められるのです。 「自他の交換」とは、自分を徳の高いすぐれた存在、他者を欠点だらけの劣った存在とするすっかり染 みついた意識を、逆転させることを意味しています。自己への執着心によって自分を何よりも大切なも のとして優先し、他者の欠点ばかりが目に留まって憤慨してかかわりを持とうとしない自身の心の動き をとらえて、そこから脱却する有効な方途として『人菩薩行論』では「自他の交換」が提示されていま す。 ロジョンにおいても、ますは自己愛着が自身の中にある克服すべき欠点であるという認識が必要とな ります。あらゆる問題の原因は一つ、それは自己愛着であるという認識がなくてはなりません。これは ロジョンでは繰り返し強調される要訣の一つです。自己愛着という感情を抑制して他者を見ることがで きて、はじめて他者の優れた部分が目に人るようになります。ましてや、他を大切にすることこそ、序 「善」のもとになるものです。 よ・つけっ
るよ、つに ) なるから。 肥自分と他者たちを早く助けたいと望む者は、「自他の交換」という聖なる秘密を実践すべきだ。 盟私は、からだに執着したことにより、些細な布れによっても ( ひどく〕怖がった。布れを生じ るそのからだを、誰が敵のように憎まないのか 肥からだの飢えや渇きや病など、それを治す儀式を願って、鳥や魚や獣を殺し、路上で〔人を襲 おうと〕待つ。 くもっ 所得と尊敬、世話のために、父や母を殺し、三宝への供物を盗んだことによって、ある者は無 間地獄の火で焼かれるならば、 肥賢者たる者は、そのからだを望み、守ることと、供養すること、これをどうして敵のように見 なさないのか。非難しないのか 肥もし、「これを与えてしまったら、〔私は〕何を用いよう」と自利を考えるなら、魔の方法。も し、「それを〔私が〕用いてしまったら、〔他者に〕何を与えよう」と利他を考えるなら、天の方羅 定 肥自分のために他者を害するなら、地獄などで苦しむこととなる。他者のために自分が害を受け章 第 るなら、あらゆる円満を得ることになる。 あくしゅ 肥自分が高い地位を望むなら、それによって悪趣、低劣、愚かとなり、それを他者に移すなら、 さんば、つ
りたしん しかし、利他心 ( 他者を大切にし、利益しようとする心 ) をおこしたなら、それだけでも素晴しいこ罰 とです。以前は利他心がなかったために、誰の役にも立てませんでしたが、利他心を持っことができた論 ら、心の力はもっともっと増大します。なせなら、善き行為も悪しき行為も心によって生じるからです。 心すなわち動機と、実践する行為の両方が支えあって、カとなります。いっか、仏となることができた人 りやく しっさいく ら、仏のからだの一筋の光明によってでも、無数の衆生を利益することができるのです。今は一切救世 せそん 者である世尊も、以前は私と同じ衆生であり、輪廻に束縛されていました。何の力もなかったのです。 そのような人が、修行の果てに、あるとき仏となり、自と他の二利を自然に成就したのです。 しかし、「自己愛着」は言います。「そのように修行して、役に立っことがあるとしても、私は仏にな れるという自信はない。私が一時的に利他心を持ったとしても、他者の心身に何ももたらすことはでき ない。」 そのようなことはありません。一時的にであっても、役に立つのです。たとえば、自分が豊かであり、 ある人が喜んでいるならば、自分の心も喜びを感じ、自分の心にも役に立っています。同じように、 切衆生が幸せであるのを私が喜ぶことができたなら、一切衆生も喜びます。心が喜ぶことで他者を利益 することができ、自分の心にも役に立ちます。 「自己愛着」は言います。「自分が利益しても、衆生たちはそれを知らないではないか。知らなければ、 喜ぶこともできない。」 しかし、私のそのような行動を、仏も菩薩も善き神がみも知っています。また、衆生が実際に知らな しゃ
かって自分に害を与える敵であり、その名を聞くだけで怖れたり、不快になった人でも、後にはその 人と親しくなり、その人がいないと悲しく感じることかあります。このように、むとは「霞れ」に従う ものなのです。ですから、慣れれは、自分を他者のように見なすことも、他者を自分のように見ること もできるようになります ( 第八章 ・ ) 。「他者のからだは自分のものではないのに、それを自分のもの と考えることなんて、どうやったらできるのか」と考えるかもしれませんが、「このからだも両親の精 子と卵子からできたものであり、他者のものの一部分からできているのに、以前からの慣れの力によっ て自分のものとして考え、とらわれているではないか」とシャーンテイデーヴァはさとしています。他 者のからだを自分のものとして大切に思うことは、慣れることによって可能なのです ( 第八章・ ) 。 このように、自他を交換する利益と、交換しない過失、不利益について考えて、これを修習すること を心底喜ぶ心を生じ、修習すればこの心をおこせるのは確かなことです。自他の交換の瞑想とは、「他 者の眼は自分の眼だ」などと思いこむことではなく、今までの自分を大切にし、他者を蔑ろにする心を 人れ替えて、他者をこれまでの自分のように大切にし、自分をこれまでの他者のように犠牲にする心を 羅 波 おこすということなのです。 それゆえ、「自分の幸せと他者の苦を交換する」と説かれていることについても、自己愛着を敵とみ禅 なし、自分の幸せを大切にするのが重要だと考えることをやめ、他者を大切にすることは偉大なる功徳 3 であると考えること、他者の苦を無視せす、他者の苦を除くことを大切にすることです。 ツオンカバ大師も「自分の幸せを考えす、他者の苦を除くために修行する心の訓練には二つの障害が
ある ( 取意 ) 」と説いておられます。つまり、自分の幸せと他者の苦のよりどころや、自と他は、あた かも青色と黄色のように全く別々のものだという考えが障害となる、ということです。この考えのせい論 で、幸せについても苦についても「これは私のものだ」という思いが成立しています。これを除くべき 人 また、「これは他者のものだから、自分には関係ない」と無視してしまうことか多いのですが、この ような心の対治として次のように考えるべきです。「自他は実体としては別々ではなく、互いに依存し ているのだ。自分にも他者の心をおこし、他者にも自分の心をおこすべきだ。自分と他者は、この山と ( したなら、この あの山のようだ。この山にいるときはもう一つの山をあの山と考えるが、もし向こうこ、 山があの山となる。このように自他には関係性があるのた」と。 さらに「他者の苦によって私に障害がもたされることはないから、他者の苦を除く努力は不要だ」と 考える心を除くには、老いたときの苦は若いときには何の害ももたらさないのに、年老いたときの備え として若いときに貯蓄することや、足に刺さったとげの痛みは手には関係ないはすなのに手でとげを抜 しんそうそく くこと、などについて考えるべきです ( 第八章・燗 ) 。そして、老いた自分と若い自分は一つの心相続 であり、足と手は同じ一つのからだと考えるならば、ものや集まりとは仮設されたものでしかなく、実 体として独立しているものではないことを思い出すべきです。「自分」も「他者」も仮設されたもので しかなく、実体として成立しているものではありません。 私たちは無始以来自己愛着に慣れてきたせいで、自分に苦が生じると耐えられないのです。ですから、 けせつ