になっても、その性質も、名も失いませんし、金などの他の貴金属や宝石よりも優れ、すべての不足を 解消します ( 第一章・ 6 ) 。また、菩提心を持つ者は王子にたとえられます。幼く未熟であっても、宰 相らは王子にひざまづき、従います。 : 菩提心は、仏たちが何劫も深く考え 4 ・速やかに勝者 ( 仏陀 ) らの血筋に連なったと心から喜ぶ を巡らし、最も優れたものだとされた、とても素晴しいものなのです ( 第一章・ 7 ) 。偉大な菩薩らも 「初心者の菩薩が尊い菩提心をおこして、全うするように」と願ってくださり、仏たちさえも菩提心を 持つ者に対して敬意を持ちます。他の者については言うまでもないでしよう。 いっさいしゅじよう 5 ・功徳が容易に、たちまちに円満する : : : 菩提心は無数なる一切衆生を対象とし、衆生の数と興 味関心は無限なので、その利益に限りがありません。また、菩提心は仏の境地 ( 菩提 ) を目指す心であ り、仏の功徳は無限なので、その利益は無限です ( 第一章・ 7 、 8 ) 。虚空のことき一切衆生のあらゆ る苦が除かれ、一時的・究極的なあらゆる幸せがもたらされるようにと願う、偉大な自然なる心を持っ 益 ことにも、はかりしれない利益があります ( 第一章 ・爲、 5 引 ) 。菩提心をおこした後は、その菩薩 の は寝ていても、酔っていても、狂気であっても、虚空のような大いなる福徳を絶え間なく積み続けます 提 ( 第一章・ また、菩提心の力によって、鳥に餌をやるような些細な善もいつまでもなくなることなく、常に増大章 せんこん します。「一滴の水を大海に人れたなら海が干上がるまでなくならないように、菩提心をもって善根を 大菩提に廻向したら、善根は菩提を得るまでなくならない ( 取意 ) 」と経典に説かれています。しかし、 、んこ・つ なんこう
-6 を速やかにする、聖なる重要なものであり、その有無は大乗仏教と小乗仏教とを区別する最大のちがい しゅじゅう です。菩提心の偉大なる功徳を心底納得し、菩提心を修習するには、信仰と尊敬と喜びの心をおこす論 べきです。 菩提心をおこすための方法は、主に二つあります。一つはアティーシャが伝えた「因果の七秘訣」。人 もう一つはシャーンティテーヴァが『人菩薩行論』に説いた「自他の交換」です。これらの二つの秘訣 ばだいどうとうろん を持っていた師セルリンパに学んだアティーシャは、これらを『菩提道灯諭』などに説いています。ま ばだいどうしだいろん た、ツオンカバ大師は二つの秘訣を融合して「ロジョン ( 心の訓練 ) 」をお教えになり、『菩提道次第論』 や「ロジョン」において菩提心の定義や種類について説いています。
菩提心の不放逸 ( 菩提心への注目 ) という実践 : : : 菩提心について、「仏や菩薩がよく分析し、 その利益を称賛しているゆえ、なくしてはならない」と説かれています。さらに、かって自分でも菩提論 ばさつかい 心の利益や、菩薩戒を受ける理由と目的について良く考えて、分析した上で菩薩戒を受けたのです。で すから、決して菩提心を失ってはなりません。仏の境地を得るまで、菩提心をなくさすに守るべきです人 ( 第四章・ 2 、 3 ) 。 ぎよ、つ ばだいどう 2 ・菩提心を失う過失 : : : もし、「あらゆる衆生を成仏させよう」と誓った後に、行として菩提道を 実践しないのなら、すべての衆生をたますことになります。そして、その結果は三悪趣以外ありません。 あこん 一般的に考えても、阿含 ( 釈尊のことば、経典のこと ) からもこのことは明らかです。ただし、仏典に みられる舎利子のような特別なケースもあります。しかし、このような特別なケースは「業の法則は、 無限、不可思議で、一切智者にしかわからない」ということを示し、阿含との矛盾を捨てさせるために 説かれたものです ( 第四章・ 4 、 5 、 6 、 7 ) 。 3 ・行として、精進 ( 努力 ) を保つこと : : : 誓ったとおりに成就できなければ、私たちは三悪趣への 生を繰り返し、過失を犯し続けます。それでは、仏すら、かってもこれからも、私たちを救い難いと言 うべきでしよう。もちろん、仏こ自身は救済の能力をお持ちです。しかし、私たちの側に救済されるべ / 、うしよ、つ えんぎ き信仰と努力がなければ、仏ですら救済が難しいのです。なせならば、すべては縁起であり、空性で せしゃ あるからです。ですから、仏教では「自分自身が自分の救世者である」と教えられており、外的な創造 者は認めません ( 第四章・
じゅし 第一 = 章 = 菩提の受持 しゅしようさんあくしゅ さんせんしゅ せんこう 1 すべての衆生が三悪趣の苦しみを離れ、〔三善趣の原因である〕善業をなし、苦を持つ者たち が楽に住すること。それを、喜び、随喜すべきである。 ばたい りんわ 2 菩提の原因となる善を積む。そのことに対して随喜する。生きものが輪廻の苦より必す解放さ れることを随喜する。 ふっし 3 救済なさる方がた↑仏 ) の菩提と仏子にも随喜する。 ・つしょ一つ りやく 一切有情に楽を与える菩提心という、海のことき善と、有情を利益する菩薩行に対して、喜び、 随喜する。 じつば・つ と、つみよ、つ 5 十方すべての仏に〔私は〕合掌し、祈願する。〔どうぞ〕有情の苦の暗き迷いに、法の灯明を 灯したまえ。 にゆうわはん 6 人涅槃を思慮なさる勝者に対し、〔私は〕合掌し、祈願する。〔どうぞ〕この盲目の衆生を放 置せす、無数なる劫にわたって、〔この世に〕とどまりたまえ。 7 このように、〔私が〕なしたこれらすべて、私が積んだ善すべて、それにより一切有情の一切 ご、つ しようしゃ 人菩薩行論 52
るだろうか。どこかにあり続けて、私に害を与えるために戻ってこれようか。ただ弱い心〔のみ〕 が〔怠惰によって〕私に努力をなくさせるのだ。 4 諸々の煩悩は、対象にも存在せす、感官の集まりにも存在せす、その中間にも存在しない。そ れ以外〔のところ〕にも存在しない。〔それならば、〕それらはどこに存在して、すべての衆生を 害するのか。これは幻のようなものである。それゆえ、心臓にある怖れを捨てることを知る努力 をすべきである。なせ、私が無意味なことのために、地獄などで害されるべきであろうか。 が / 、しょ 囎以上のように良く考えて、〔仏が〕説かれた学処↑戒律 ) を成就するよう努力するべきだ。諸 薬によって治療されるべき患者が、医者のことばを聞かすに、どうして治癒できよう。 以上が、『人菩薩行論』による菩提心の不放逸という第四章である。 逸 不 しゅじゅう の 不放逸 ( 注意、注目 ) を修習する方法について、簡略に説明しましよう。 はつがんしんほっしゅしん 第三章までに説かれているように、菩薩たちは二つの菩提心 ( 発願心と発趣心 ) を堅固に菩 ろつばらみつししよう 守り、菩提心を一瞬たりともなくさす、常に六波羅蜜や四摂の教えから離れすに、不放逸によって菩提章 第 心を守って精進します ( 第四章・ 1 ) 。
ることを引き寄せる原因の一つに考えられているため、何としてもとり除かなくてはなりません。同時 に、所有物をさしだし、瞑想によって肉体や善根をさしだすことで、膨大な善根を集積することにつな がるのです。一切を放棄して、善根を携えて死に赴く覚悟が必要です。 の 、し ン 2 ・祈りのカ : : : 死が迫りきているときの祈りは、七支分によって師や三宝に祈ります。 ジ 「死後の中有から次の転生に向けて、さらにこれから続くいくつもの来世の生涯において、二つの菩提ロ 心をおこすことができるように、お力をください」と祈願します。二つの菩提心とは、『人菩薩行諭』 ら はっしゅしん はつがんしん の第一章・詩にあるように、「願う菩提心 ( 発願心 ) 」と「菩薩行に人る菩提心 ( 発趣心 ) 」のことで す。そして、「常に菩提心の修行と離れませんように、お力をください」と、死を賭した祈願をおこな うことが望まれます。 また、自身を苦しめてきたおもな原因を分析したとき、この肉体と心を自己のものとして、あまりに も大切にしてきたためだと考えられます。自己愛着が多様な問題を呼び寄せていることを思えば、これ は捨て去るべきものでしかありません。自己愛着によって執着や怒りや無知などの煩悩が強固になり、 他者との衝突を繰り返したことを考えて、「自己愛着を完全に滅ばすことができますように、お力をく ださい」と祈願するのです。 3 ・対治のカ : : : 「対治」とは煩悩を克服することを意味しています。煩悩や自己愛着が多様な問題を
そなえた懺悔と、修行の妨げをなくすことについて述べています。この章は一般に「罪の懺悔」の章と呼ば れています。 て かんじよう きがんえこ・つ ばさつかい 第三章では、菩薩戒を持することと、七支分の後半部分である随喜、勧請、祈願、廻向が説かれていま「 せんこん ふせはらみつ す。また、布施波羅蜜の修行の一部としてからだと善根と財産を与えるべきであり、その良き条件として、書 ますは功徳を積み、菩薩戒を受けるべきだと説かれます。第三章は「菩提心の受持」の章と言われます。 第四章では、このように菩提心をおこしたなら、自分自身でそれを称賛し、喜ぶ気持ちをおこすべきだと シャーンテイデーヴァは説きます。菩薩となるための修行を始めるという堅固な誓いをするのです。菩薩行 ふせはらみつ ろつばらみつ には六波羅蜜を実践する以外の修行はありません。布施波羅蜜とは、からだ、財産や善根などを惜しますに しゅしよう 衆生に与えることです。六波羅蜜を備えた布施波羅蜜を修行すべきです。なお、布施については第三章と 第十章などこの論書の随所で説かれており、布施だけについての独立した章はありません。 続いて正しい戒律について説かれます。布施波羅蜜の実践をすれば、豊かな財産を生じることができます ーいはらみつ が、究極的な安定は望めません。それには戒波羅蜜の実践が欠かせません。戒波羅蜜とは主には、自己愛着 しんそうぞく から心を守り、利他の心をおこすように努力することです。しかし、私たちの心相続 ( 心の連なり ) は、無 始以来、煩悩や自己愛着に慣れすぎているので、それらを教化するのはとても難しいことです。だからこそ、 ふはういっ 煩悩について知り、煩悩と闘うべきです。不放逸を学ぶと、菩提心について知ることができます。 しようち さらに菩提心をおこしたら、正知をおこすべきです。正知があるかどうかは大切です。もし、自分の心が良 くない状態ならば、正しい心はどのようであるかを見て、自分の心が正しい心となっているように監視します。 さんけ
マ『入菩薩行論』の和訳 『悟りへの道』金倉圓照訳、平楽寺書店 ( サーラ叢書 ) 、一九六五年 マ『入菩薩行論』の英訳 Stephen Batchelor (trans. ). ゝ GUIDE TO 7 E BOD 、 S. ゝ 7 、←ミ ) ミ Y OF LIFE (Library of T1betan Works and Archives, l)haramsala, 一九七九 ) The Padmaka 「 a T 「 anslation G 「 oup ( ( 「 a ラ . ). THE ゝ OF BOD 、 S. ゝ 7 ゞ (Shambhala Publications lnc., Boston 年 を zhes を ) マ訳者が和訳・解説にあたり参照した『菩提道次第論』の主な著作 ( チベット語 ) ツオンカバ・ロサン・タクパ『菩提道次第広論』 ( を g ぶききミ。 ) ツオンカバ・ロサン・タクパ『菩提道次第略論』 ( をぶミミミ ) パンチェン・ラマ二世ロサン・イェシェー (blo bzang ye shes) 『菩提道次第の直伝、一切智者へ至る速得道』 ( を g ぶミュミ d ミ、導、ミ斗き s cad き導 * ミ、 0 、き d 、 07 ミ、ぶミ )
、ふは、つ 第四章 = 菩提の不放逸 しよ、つしゃ ばだいしん 1 このように↑今まで説いてきたように ) 、勝者の子 ( ↓ロ薩 ). は、堅固なる菩提心を持ち、散 乱することなく、常に菩薩行から離れすに努力せよ。 2 軽率に始めたこと、あるいは良く考えすに始めたことならば、それらを〔一度は〕誓っていた としても、〔後に改めて〕おこなうかやめるかを考えればよい 3 〔しかし、〕仏らとその子が偉大なる智慧によって分析され〔た上〕、自分自身でも良く観察し た〔こと〕なら、どうしてそれを〔おこなうことに〕遅れるべきであろうか 、つじよ、つ 4 もし、そのように誓ったのに、修行としておこなうことかできないなら、彼ら有情すべてを欺 しゅ くことになり、私の趣↑来世に赴くところ ) はどうなるだろう。 5 通常のささいなものであっても、ある人が、心で「あげよう」と考えたのに、それを布施しな提 いなら、彼は餓鬼となる、と〔経典に〕説かれている。 むしよう いっさいしゅじよ、つ せんしゅ 6 無上なる幸せについて、心から客を招いて一切衆生を欺くなら、どうして〔私が〕善趣とな第 れるだろうか
えて寝るべきである〕。 要経典において〕菩薩行は無数に説かれている。〔すべてを実践することが難しくても、〕心の 教化を必す行うべきである。 力し しようしやばだいしん さんじゅきよ、つ 昼三回、夜三回、『三聚経』をあげよ。〔そして、〕勝者と菩提心によれば、破戒の残余が浄化 される。 りやく 9 自分のためにも、他者の利益のためにも、どのようなときにも、どのような行いにおいても、 学処として教えられたものすべてについて、そのとき、努力し実践すべきである。 燗〔なせなら、〕勝者の子が学ばないもの、そのようなものは何もない〔のだから〕。そのように 〔学ぶ努力を〕しており、巧み〔に学ぶもの〕には、福徳とならないものはない 川直接であれ間接であれ、〔私は〕有情の利益以外はなさす、ただ有情のために一切を菩提へ廻 向する。 さいしよう せんゅう 大乗の義に精通した善友↑上師 ) と、最勝なる菩薩の苦行を、命を賭けても、決して捨てて守 はならない とくしよ、つど、フじげだつほ、つもん け ` 」ん、よ・つ にゆうはつかいばん 川〔『華厳経』「人法界品」の〕「徳生童子解脱法門」によって、上師に従う方法を学びなさい 仏がここや他〔の経典〕において説かれたことを、経典を読み、知るべきである。 一」ノ、、つぞ、つきょ・つ 学処は諸々の経典に見られる。それゆえ、経典を読みなさい。ますは『虚空蔵経』を見るべ 一つ 二一一口