なんて告げてはくれない 目が赤いふたりが作業を終えた頃、父がやってきて、姉の上司や社長に挨拶 をしていた。 私と父は挨拶をして、大勢の人に手伝ってもらって姉の荷物を地下の駐車場 に降ろした。二度とは会うことのない優しい、スーツ姿の人たち。なんとか荷 物を積みこんで、私は手を振った。初めて会う人がほとんどだったのに、なぜ か私は、自分がそこで働いていて、結婚退職するために荷物を運び出している ような錯覚を起こした。 「お父さん、どうして小さいほうの車で来るのよ。ワゴンで来いって言ったじ ゃない」 車が走り出してから、初めて私は言った。 「お母さんが病院に乗って行っちゃったんだよ。お母さんも疲れておかしくな 131 ハードラック
「十一月。」 「あっそう。どうして ? 」 「空が高くて寂しくて、心細いような感じがして、どきどきして、自分が強く なったような感しがするから。でも、なにか空気に活気が感しられて、本当の 冬がやってくるのを待っている状態でもあるの。」 「俺、も。」 「そうよね。なんだか、すごく好き。」 「俺もそうなんた。そうだ、みかん食べる ? 」 「もうみかんの季節だっけフ 「いや、なんとかかん、なんだったかな、名は忘れた。親戚の人が送ってきた ってお母さんが言っていた。」 「誰だろう ? 九州のおばさんかな。」 「 . 知らない」 106
境くんは東京に住んでいるというだけで、「僕でよければお見舞いに来ま す。」と言って、ほばなんの関係もない人なのに、わりとしよっちゅう病院に 来た。はしめは弟のふがいなさを申しわけないと思っているのだろう、と家族 は陰口をたたいていたが、そうでもないらしく、まめに来ては看護婦さんをナ ンパしたりしていた。わりとすぐにこの衝撃的な状態に慣れたように私には見 えた。得体の知れない人だった。 彼のこれまでの人生は謎に包まれていたが、姉が前に言っていたことには、 彼ら兄弟は結構苦労人らしい。お父さんは難病で死に、お母さんは長く婦長さ んをしながら、女手ひとつで兄弟を育てた、とかそういうような話だったと思 そうして姉がしゃべっていた頃のことを思い出すと、いつも膜に包まれたよ うな感じがした。姉は高くて細い声で、よくしゃべった。よく、子供の頃、布 団をお互いの部屋に引きすっていっては、夜明けまでしゃべった。大きくなっ ドラック
「なんで ? 」 「変わったモザイクだなあと思って。」 「そうよ、オ 1 ナーは変人で、石ころを集めていたの。ダイヤとかそういうん じゃないのよ。正真正銘の石。くす石。」 「なるほど。でも、すてきですよ、あのお風呂。」 私は言っておいた。 「でも、おばさん、気をつけて下さいよ。幽霊もいるし、ここって変ですよ。 はにか」 「大丈夫よ、さっきも言ったけど、変な夜っていうのは、どこにいてもあるの よ。それに、必す過ぎていくの。っとめていつもどおりにして、朝が来れば、 なんていうことなくなっているものよ。それよりも、私は人間がこわいね。オ ーナーが死んだ時の息子の嬉しそうな顔とかに比べたら、大したことないね。 世にも上品な夫婦が泊まった後、掃除のおじさんが吐いたこともあるよ。部屋 81 ハードボイルド
後味が悪いのに、言いたくないことを言わなくて済んた。 「誰も亡くなってないよ。あそこおじさんがひとりだけど、無事逃げ出したっ て。店のストープの火の不始末だってさ。だいたい、ばやだったみたいよ。」 おばさんは笑った。 「あんたのせいじゃあるまいし、風呂に人ってきな。」 いや、私のせいかもしれないんです、なんとなくだけど・ : と私は思った。 そして風呂に向かった。本当は逃げ出したかった。違う町に、今日以外の時 間の中に。しかし私はもうすつばりとこの夜に、この寂しくおかしな雰囲気の 中に体ごと人りこんでしまっていた。もうすでに目に映るもの全てになにかの フィルターかかかっていて、なにもかもをまともには考えられなくなっている、 そんな気がした。この夜の力に捕らえられてしまった。 温泉で満たされた小さな浴槽の、古いタイルのきれいな模様が水に揺れるの 25 ハードボイルド
また少し深く、 そのことを、この男の人はよくわかっている、と私は思い、 境くんに好意を持った。私にとって恋はいつも意外性と共に訪れる。どうして こんな時にこんなことを思いつくのだろう ? ということをどんどんしてくれ る人が好きだ。こんなに弱ってひしやげていても、それは変わらない 「十一月の夕方だねえ、秋の最後の匂いがするね。」 彼が窓の外を見ながら言った。 「あとは明るく過ごすしかないね。」 「無理しないで、明るくね。」 「どっぷりと浸りこんでいると、お姉ちゃんが遠くなると、お母さんも今朝一言 っていたよ。」 「お母さん、この短い期間によくそこまで言えるようになったなあ。」 街路樹の枝がちょうど見えて、若者たちが楽しそうに騒ぎながら古着屋を見 ていた。そのとなりには八百屋があって、いろいろな色の野菜が電気に照らさ 127 ハードラック
「朝になったらもう大丈夫だから、荷物持って出ればいいじゃない。」 私は、どうして、お金を払ってこの渋すぎる和室にこのおばさんと寝なくち ゃいけないんだろう、と思ったが、珍しい体験なので、そうすることにした。 「では、お言葉に甘えて。」 もう眠くてどうでもよかったというのもある。 おばさんは、さっきから敷きっ放しのおばさんのふとんから少し離れたとこ ろに、私のためにふとんを敷いてくれた。 せまい部屋、低い天井、菊の匂い 私はふとんに人って、おやすみなさい、 と言った。 おばさんはおやすみ、と電気を消してくれた。 台所の電気だけつけて、おばさんが洗い物をしている間に、私はあっという 間に眠りに落ちた。 83 ハードボイルド
それ以上不機嫌な声を人類は出せないというくらいの声たった。 「疑うなら、同行して下さい。」 私は言った。 万が一、相手の男が死んでいたりしたら、おばさんがいたほうがいいと 「恥ずかしながら、今日の客はあんただけ , おばさんは言った。 「ええ ? でも、ムマ、確かに。」 「ううーん、どっちの立場を取るべきか。」 おばさんは言った。 「なんです ? 」 「ホテルの利益か、客を安心させるか。」 おばさんは真剣な顔でそう言った。 つ
し。 それを察して黙っていた。 そうしていても、生まれ育った街がびゅんびゅんと流れていった。 「お母さんまいってるかしら。今日は泊まろうかな。この荷物の整理もしたい 私は言った。 「そうしてあげてくれ。」 父は言った。 「じゃあ、私がなにか作るよ。」 「鍋がいいな。熱いものが食べたい。」 「じゃあ、ス 1 ノ ーに寄って。」 暖かい車の中で、その会話をした時、あれっと思った。 またいい時間を過ごしてしまっていた。 姉はたまらなさだけではなく、たたただ濃い時間を与えてくれている、そう 137 ハードラック
私はたすねた。 「うどん屋さんが火事たって。」 おばさんは言った。ああ、なんてことだろう、と思って、私はたすねた。 「どなたか亡くなりましたか ? 」 私の雰囲気をじっと見つめて、おばさんはしばらく黙っていた。私はつけ加 えた。 「さっき、うどんを食べたんです。でも食べ切れすに出てきてしまったので、 まさかあのお店かな、と思って。」 と一一一口った。 「あんた、晩ごはん食べてないって : ・ああ、まあ、そうよね。あそこまずいも んね、地元の人も行きやしないのに、都会の人のロに合うわけないよね。わか るよ。」 おばさんは言った。おばさん、なかなか鋭い ! と私は思った。ただでさえ