私は言った。 体 「そんなことないよ。夜、一緒にお風呂に人って、あれこれ話し合ったり、 とママの立てる暖かい を洗い合ったり、それでその気になったり、みんなパパ 音だよ。」 千鶴は笑った。 それよりも私は窓辺の千鶴の、霧とヘッドライトを背景にした姿のほうが、 興味深かった。そのまま消えていきそうだった。見ていると不安になり、こわ かった。これはこの世なのか、それともあの世なのか、わからなかった。だか らきっと、 ハとママの音を聞くと、こちら側につなぎ止められているような 気がして安心するのだろう、と思った。 そこまでは、思い出と夢が混じったものだった。確かに。 しかし窓の外からこちらへと顔を向けて、千鶴は言った。 87 ハードボイルド
指輪や、ピアスや、プレスレットを。そうすると幽霊は近づいてこないのたと 言っていた。おかげでセックスではなぜかいつも男役だった彼女の装身具があ ちこちに当たっていつも痛かった。 その年は本当に霧が多かった。 よく、夜明けに目を覚ますと、千鶴は床磨きの途中でぞうきんを片手に持っ たまま、すわって窓の外を見ていた。 車のライトが霧に映って、不思議な光が空を満たしていた。この世の風景と は思えなかった。それを見ている千鶴も含めて、この世の果ての風景のように 思えた。私は薄目を開けて、起きていることを告げすに彼女を見ていた。彼 は風に揺れるさびたサッシにひじをついて、子供のように外を眺めていた。外 はミルクのような濃い、触れそうな霧だった。永遠に朝は来ないのではないか、 と私は思った。千鶴のその細い体も、細い腕も、この世に拒まれているように 見えた。このような妙な風景の中にだけ、い ることを許された存在のように見
んたちでさえ。くにちゃんかいないことに。」 「こんなことってあるんだね。今こうしている間にも、こういうことが世界中 に満ちているんたね。病院の中にもたくさん、いる。いろいろな話をした。み んなのいろいろな決断を聞いた。今まで、こんな世界があることを知らなかっ 「そうだよ。そして、そういう窓から見ているんだ。きっと。別の角度にいれ ば、そういう人たちがこの世にいることすら、思わないでいられる。でも、思 っても思わなくても、いつも、そういうことやいろいろなことが起こってい 「あなたはどっち ? 」 「目の前に来たことだけを、一生懸命思うタイプ。」 彼は言った。 私は初めて、本当に笑った。 125 ハードラック
、、パジャマのえげつない縞模様・ : みんな愛 その白髪混じりの髪の毛、鼻の宀 / しく思えた。壁にはフロントの制服がきっちりとかかっていた。 こういう人が、この世を支えているのだとすら思った。 私は安心し、また、眠りについた。 やっと、この夜が終わる。 朝の光 そして朝が来た。私は部屋に戻ってみた。 いったいなにがあんなにこわかったのだろう、というくらい、晴れた 昨日、 朝の光にさらされて、まぬけなくらいに部屋は平和だった。 私は着替え、シャワーを浴びた。 唯一、グラスがふたつあるところだけが、昨日の出来事を思い出させたが、 89 ハードボイルド
「なぜ、なんでもわかるの ? 」 「君のことなら。」 彼は一一一口った。 「一つそで , も、 ~ のり一かと一つ。」 今でない時に、この状況でない時に話ができたらよかったのにな、と思った。 今の私には時間と空間が必要だった。しかし彼ののんきさにはそんなことを気 にさせないくつろぎがあった。 店に人ると、人は誰もいなかった。 私たちは窓際の席にすわって、コーヒーを飲んだ。姉の存在以外全てが自 だった。姉が私の世界に、音もなく降る夢のように、しみこんでいた。ますい ことにそれは私にとって、いやなことではなかった。すっとこのままでもいし とさえ思えた。姉がこの世からいなくなるくらいなら、このほうがすっと優し 123 ハードラック
のに、祠だけがあって、花や折鶴やお酒が供えられていたが、どれももう新し いものではなかった。ふと浮かんできた考えを私は止めることができなかった。 「このあたりにいたとてつもなく邪悪な存在がここに眠っているんだ、きっ なんでそう思ったのか説明はできない。 もともとは地蔵かなにかがあって壊 れただけかもしれない。誰かが持ち去っただけかもしれない。そう思おうとし た。でも違った。どう考えても、そこにはなにかものすごく重い念が幾層にも 重なって濃厚な固まりになったようなものが漂っていた。あまりにも気味が悪 かったので、私はじっと見てしまった。 よく見ると真ん中に小さい卵みたいな真っ黒い石が十個くらい輪になって置 いてあった。それもまたとてもいやなものだった。 私は足早に、なるべくそこを見ないで立ち去った。そういうことは、旅をし ているとたまにあった。この世には、なにかがふきだまっている場所が確実に
それをすわって聴くんだ。彼の精神的な師は、それは人間の生活のいかなる側 面にも死が現れていることのしるし、彼の運命が彼に与えたしるしだと言うん だ。彼がこの世を去る時に、そのトランペットの最高の音色が、聞こえてくる だろう、と言うんだ。」 彼は言った。 「私はそれを経験したことがあるわ。」 私は言った。 「ある冬の午後、私はさっきの店にいたの。カレー屋さんよ。そして、ひとり でチャイを飲んでいた。レゲエ専門の有線がかかっていて、これまでに聴いた こともないようなマイナーなレゲエの曲が次々に流れていたわ。そして、その 中のある曲が、私の頭に鮮明に、稲妻みたいに入ってきたの。男女が歌ってい て、夏休みについての歌だった。それはどうでもいし ろくでもない曲だった けど、私の頭の中に直接響いてきたの。冬だというのに、私の頭は夏の陽光で 146
笑っていると、全てを忘れた。 窓の外は商店街で、謎の音楽が、店に流れるモーツアルトをかきけしていた。 思い人れも、希望も、奇跡もなく、姉がこの世を去って行こうとしている、 意識もなく、体はあたたかく、みんなに時間を与えて。その時間の中で、私は 小さく笑った。そこには永遠があって、美しさがあり、その中には姉がちゃん と存在していた。脳と体が別々に死んでいく日が来ることを、昔の人は想像し ただろうか ? それはもはや死ぬ本人の問題ではなくて、まわりがふだん考えてもいなかっ たことを考える時間を確保するための、神聖な時間だった。 たまらなさに浸りこむほど、神聖さは汚された。 そして、こういう小さな、かすかな隙間にできたきれいな時間こそが、私に は奇跡に思えた。たまらなさも、涙も消え、この宇宙の営みの偉大さがまたこ の目の中に映るふとした瞬間、私は姉の魂を感じる。 126
「仮定はありえないけれど、逃げなかっただろうね。今回のことは、その、仮 定とは根本的に違っている。もう、死までに奇妙に時間が空いてみんなが奇妙 なこの空間で決断めいたことをしているというだけで、本当はもう、くにちゃ んは、ちゃくちゃくとこの世に別れを告げていっているのだと俺は、思う。」 私にはわかっていた。イタリア行きの手続きを始め、ほこりをかぶっていた イタリア語会話の本をまたがんばって開き出したとたんに、止まっていた時間 が流れ出し、私の感情も戻ってきたのだ。 悲しいのは死ではない、 この雰囲気だ。 あの、ショックだ。 ショックは頭の芯のところに残っていて、固まったままだった。どういうふ うにしても溶けることはなかった。たとえ自分で自分はもうしつかりしてると 思ったところで、その自信は姉の姿を思い浮かべると、すぐ消えた。 あの朝、姉は頭を押さえて台所に入ってきた。 115 ハードラック
こないというのは理屈だけではなく、この目でわかってきていた。でも、手が あたたかかったり、爪が伸びたり、呼吸の音がして心臓が鳴っていると、どう してもいろいろな、いし。 、まうの想像をしてしまう。 姉が完全にこの世を去るまでのこの奇妙な間は、皆にいろいろと考えさせる 時間たった。 私はやむなく中断し、姉の容態によっては中止しようとしていたイタリア留 学の手続きを、今朝からまた始めたところだった。姉を抜きにして生活は回り 始めていた。しかし、もはや私たちの目に映る全てのことに、姉の影がひそか に息づいていた。 気にしていないように見えるのは姉の婚約者のお兄さんである、境くんだけ だった。姉の婚約者は姉の大事故にショックを受けて、実家に帰ってしまった。 彼は歯科医大に通う学生だったので、大脳がもう機能していないことの意味を よく知っていた。そして、うちの両親が申し人れた婚約解消を昨日承諾した。