体 - みる会図書館


検索対象: ハードボイルド/ハードラック
61件見つかりました。

1. ハードボイルド/ハードラック

を見ていたら、少し気持ちがゆったりとしてきた。 湯は熱く、体の疲れや足の痛みにしみていった。蛍光灯の明かりの下で、ゆ つくりと体を洗った。 早く朝になってほしかった。この温泉に身をひたすように、あのまぶしくて なにもかもを浄めてくれる朝の光に体をさらしたかった。まるで高熱がある時 に通常の生活を思い浮かべることができないように、この夜の中でしか今は生 きられないのがわかっていたからだ。 顔を冷やそうと窓を開けた。外は暗く静まり返り、星が冷たく輝いていた。 木々はねっとりとした闇にからめとられたように少しも枝を揺らさず、時間は 静止していた。 それはちょうど、千鶴といた時の時間のようだった。 なぜ今日はこんなにも彼女のことを思い出すのだろう、と私は思った。 下を見ると自分の裸が見えた。変わりばえのしない白い足と腹、爪の形が見 きょ

2. ハードボイルド/ハードラック

母親と言っても育ての母だったけれど、結構仲良くやっていたので、ショッ クだった。それまで勤めていたスナックをやめて、男の人と逃げたといううわ さだった。私は、くやしくてくやしくて、母の住んでいる所を突き止めた。あ る日、私は遺産のとり戻しを決行した。そんなに簡単には行かないだろうな、 と思っていたが、あっけないほどスムーズだった。 その町に着いたのは夕方近い午後だった。もしも母がこわいタイプの男と住 んでいたらいやだったので、住んでいるマンションを見つけても入っていかず、 夜を待って見知らぬ町で時間をつぶすことにした。 あの時の気持ち : ・ 生活のパターンというのは体にしみこんでいるものだ。その時となっては母 きずな と私をつなぐ唯一の絆はその、体にしみこんだ時間の流れ方だった。 私は事態をそう深刻には受け止めていなかったので、いっかまた会うことも あるだろう、と思ってはいた。母が私の親権を父方の祖母に移していたことも

3. ハードボイルド/ハードラック

笑っていると、全てを忘れた。 窓の外は商店街で、謎の音楽が、店に流れるモーツアルトをかきけしていた。 思い人れも、希望も、奇跡もなく、姉がこの世を去って行こうとしている、 意識もなく、体はあたたかく、みんなに時間を与えて。その時間の中で、私は 小さく笑った。そこには永遠があって、美しさがあり、その中には姉がちゃん と存在していた。脳と体が別々に死んでいく日が来ることを、昔の人は想像し ただろうか ? それはもはや死ぬ本人の問題ではなくて、まわりがふだん考えてもいなかっ たことを考える時間を確保するための、神聖な時間だった。 たまらなさに浸りこむほど、神聖さは汚された。 そして、こういう小さな、かすかな隙間にできたきれいな時間こそが、私に は奇跡に思えた。たまらなさも、涙も消え、この宇宙の営みの偉大さがまたこ の目の中に映るふとした瞬間、私は姉の魂を感じる。 126

4. ハードボイルド/ハードラック

私はたすねた。 私は家を出て、ひとり暮らしをしながら大学院に通ってイタリア文学を研究 していた。姉が倒れた時、もしも植物状態になったら金銭的に親に頼るわけに はいかない と思ったし気がまぎれることがしたかったので、最近は突然いろ いろなアルバイトをした。病院、付き添い、徹夜の水商売、大学院、仮眠、ほ とんど食べない・ : のくり返しで時が過ぎた。私が知ったことは、生活のパター ンを変えると、お金は面白いくらいたまるということだった。留学の費用まで 自分でかせげそうだった。 そういうわけで、病院には来ても、実家にはあまり帰っていなかった。電話 では毎日話していたし、病院でも毎日会ったが、母の苦痛がどれほどか、想像 もっかなかった。母こそが今にも倒れそうに見えた。いつも病院に来ると母は とこずー 病室にいて、雑誌を読んだり、姉の細くなった体をふいたり、 姉に床擦れがで きないように体を動かしたり、看護婦さんと話しこんだりしていた。おだやか 102

5. ハードボイルド/ハードラック

時間をかけて着実に死んでいった。 最近は、家族全員が一挙に学習し、この状態は植物状態というのですらなく、 その希望すら今は失われ、脳幹が死んだ後の姉の体は呼吸器に生かされている だけだ、ということもつい先週に教えてもらった。植物状態になったならその ままで何年でも生かしておく、という母の願いもすでに断たれた。あとは、脳 死が判定され、呼吸器をはすす時を待っしかなかった。 そして家族全員が奇跡は起こらないという統一見解にまとまって、少し楽に なってきた。はしめは知識がなかったから、あらゆる考えがくり返し全員を襲 った。迷信から科学知識から、神に祈る心や、夢に出てくる姉の言葉を聞きと ろうとするまでの、ほとんど休む暇のない、集中した地獄の時間があった。そ して、そういう葛藤の数々にいっときも休めすに悩まされる苦しい時期をひと とおり過ぎてからは、姉の体が楽なように、姉がいやかることだけはしないし 思わないようにだけ、心を砕こうと皆か落ち着いてきた。もうあの姉は戻って ドラック

6. ハードボイルド/ハードラック

裸の細い腕で彼女は受けとって、ひとロ飲んだ。 「こ , つい一つことって経験したことありますフ・」 彼女は言った。 「人に、ひどいことをされたことやしたことか ? 」 私は答えた。 「たくさんありますよ。そういう時は・ : 。」 さっき夢の中でさえ千鶴に親切にできなかったように。 「なにか、自分がひとつの別の世界に行ってしまったように、私はなります。 普通の判断ができなくなって、体が自動的に動いてしまいますね。」 「そうですよね。悪い夢の中にいるみたいにね。」 彼女は言った。 「彼には奥さんがいて、別れてくれないんです。」 「それでもめて、その上、あなたを裸で廊下に追い出したの ? 」

7. ハードボイルド/ハードラック

「あんたのおかげで眠れなくなっちゃったよ。」 「ごめんなさい。 もう一度お風呂に人ってきます。」 私は言った。 「気をつけて。起きててやるから、ここを通りな。」 おばさんの優しさがしみて、私はさっさと風呂へ向かった。 畳部屋 風呂は相変わらず熱い湯に満たされていて、私は冷えた体をじっくりと温め ることができた。 そして、ガラス越しに脱衣場の時計を見ると、もうすぐ四時だった。 なんという夜だろう、山道で出会った変なものをホテルまで連れてきてしま うなんて、全く : と思いつつ、疲れも頂点に達して眠けがこみ上げてきて、

8. ハードボイルド/ハードラック

「食べる。どこフ 彼は体を回して、の上の籠から丸い果物を取った。お見舞いの人だけの ためにあるだ。姉が観ることはない、大好きなスマップの中居くんを観る こともも一つない。 「ああ、これ、お姉ちゃんの好物だ。」 私は言った。そのみかんのようなものは、姉が毎年楽しみにしていたものだ 「そうなの、じゃ、かがせてやろう ! 」 彼はもうひとっその果物を取り、ふたつに割って、姉の鼻のところに持って 行った。部屋中に甘くすつばいいゝ し香りが漂って、私はなぜか、ある光景を見 それは午後の光の中、べッドに起き上がった姉が、笑って、 107 ハードラック

9. ハードボイルド/ハードラック

私は言った。 体 「そんなことないよ。夜、一緒にお風呂に人って、あれこれ話し合ったり、 とママの立てる暖かい を洗い合ったり、それでその気になったり、みんなパパ 音だよ。」 千鶴は笑った。 それよりも私は窓辺の千鶴の、霧とヘッドライトを背景にした姿のほうが、 興味深かった。そのまま消えていきそうだった。見ていると不安になり、こわ かった。これはこの世なのか、それともあの世なのか、わからなかった。だか らきっと、 ハとママの音を聞くと、こちら側につなぎ止められているような 気がして安心するのだろう、と思った。 そこまでは、思い出と夢が混じったものだった。確かに。 しかし窓の外からこちらへと顔を向けて、千鶴は言った。 87 ハードボイルド

10. ハードボイルド/ハードラック

十一月について 病室に人ると、珍しく母はいなかった。 境くんがひとりで、本を読みながら姉の横にすわっていた。 姉は今日も、体中をいろいろな管につながれていた。人工呼吸器のすごい音 が、静かな空間に響いていた。 もはや見なれた光景だったが、時々夢の中でこれを見ると、なぜか現実にこ うして姉を見ているよりもすっと、目覚めた時のがつくりした気持ちが増した。 夢の中で姉のお見舞いに来ると、私はずっと極端な感情を抱く。でも現実に は、行きの電車の中でじよじょに準備が始まるのがわかる。その姿を見て、そ 95 ハードラック