「今のは、みかんが見せてくれた光景だ。みかんのほうが、くにちゃんに愛さ れたことをおばえていて、なにかをよみがえらせて見せてくれたんだ。」 彼は一一一口った。 頭は大丈夫だろうか、と私は思ったが、その後の、 「世界はなんていい所なんだろうね ! 」 と言った時の彼の笑顔があまりにもよかったので、私の中でまたもやなにか が爆発し、私は大泣きした。鼻水を出し、しやくり上げ、べッドにつつふして、 泣いた。自分でもどうにも止めることができなかった。もうこの際、間に人っ ているのがみかんでもほんかんでもゝ しいから、姉に会いたかったのた。 私が落ち着くまで、彼は黙っていた。 「帰る、泣いてごめんね。」 私は言った。 「俺も帰る。」 109 ハードラック
遠くでは山々が紅葉に彩られて青空を背景に連なっていた。 なんだったんだろう、と私は思った。 そして最後に見たあの夢がまだ私の心の中に美しい余韻として残っていた。 私は夢の中で本物の千鶴に会えてよかったと思った。きっと、あの歪んだ時 Ⅲの中でしか、ありえないことだったのだろう。やはりどんな夜にもいくつか と思いなから、地図を の面白いことがある、私は転んでもただでは起きない、 とり出した。そして、駅に向かって歩き出した。 91 ハードボイルド
「ああ、それね、それはね。」 お茶はとても熱く、おいしかった。 「おいしいです。お茶。」 「ああ、静岡に親戚がいるもので。」 おばさんは言った。 「その花ね、さっきの心中の、男の人のほうが送ってくるの、毎年ね。」 「さっきの、幽霊の人の彼だった人ですね。」 私は言った。 「そう。お供えして下さいって、毎年。でもさ、フロントに出しとくわけにも いかないじゃない ? 縁起悪くて。ただでさえ縁起悪いのに。だからって、部 屋にお供えしてもね。だから、ここに飾ってるの。おばちゃんは毎日お線香も あげてるのよ。」 「そうですか。」
いたんだろう ? と私は思った。 電話の前に立ったものの、彼女は電話をかけようとしない 「まさか部屋番号を忘れたんじゃないでしようね。」 私は言った。 え、決してそんなことはありません。」 彼女は大げさに首を振った。 「実は、けんかしたんです。だから、きっと、電話しても出てくれないんで 「でも、その格好で外に出しちゃったんなら、相手も今頃後悔しているんしゃ ないの ? 」 私は言った。 「うん、あと十分だけしたら、かけてみます。ほんの少し休ませて下さい」 彼女は言った。私はウイスキーをもうひとつのグラスに注いで、差し出した。 39 ハードボイルド
しし匂い ! 」 とあの鈴みたいな声で一一一口う場面だった。 もちろん実際にはそんなことは起こらす、白日夢だった。目の前の姉はいろ いろな音を立てながら、暗い顔色で眠っていた。なのに、その匂いが喚起した その光景はあまりにも生々しく、久しぶりに姉の姿を見た私は、 ) しきなり泣き 出してしまった。 「見わにフ・」 私が泣いているのにはおかまいなしに、境くんは目を丸くして言った。 「見たと思う。」 私は言った。 「お姉ちゃんにはやはりどこかで意識があるのかしら。」 「いいや、違うな。」 きつばりと彼が言ったので、私はびつくりした。 108
「それを口に出している時点で、もう同じですよ。なんです ? 」 私は言った。 「うん、あんたの言うことわかるわ。今日は変な日よ。昔だったら、むじなが 出るような日っていう感じね。なにか、空気が重くて、夜が暗いよね。でもさ、 過ぎていくのよ。こんな夜もまた。それでさ、あんたの言ってるの、バスロ 1 プの人でしょフ 「そうです。」 「出るのよ。ここ。その人、前にこのホテルで心中をはかって、自分だけ死ん じゃった人。相手の人は学校の先生でさ、生き残ったの。睡眠薬が足りなくて。 でね、奥さんと子供連れて、町を出てった。」 「そんなあ。」 私はいやになってしまったが、 「まあ、古いホテルだからいろんなことがあるよね。」 71 ハードボイルド
「お供えをしないと。」 と千鶴が言った。そうだ、この人だった、と夢の中の私は思った。 彼女はいつの間にか私の後ろから歩いてきていたらしく、その洞くつに人っ てきていた。そして、変わらす色が白く、髪の毛が極端に短く、寂しそうだっ そして、私のほうを一切見すに、黒い石をその祭壇のような台に並べ始めた。 「河原から取ってきた石なの。」 と千鶴は言った。 私はなにか言わなくては、と思い、ロに出した。 「もちろんあの有名な河原だよね : ・。生きているうちは行けない所だよね。」 こんな時にもこんなことしか言えない自分をすごいなと思った。 「そうだよ。」 千鶴は言った。私を見ずに。
きつい話題なのに、彼の口から出ると全然腹が立たなかった。 枯れ枝を伸ばす黒いシルエットの街路樹のトンネルを、くぐるように歩きな がら、私はウォークマンをとり出した。 「お姉ちゃんが、最後に編集していたに、二曲だけ、人っていたのを、く り返し聴いているの。多分、それとこれとは関係ないんだろうけど。」 「なんの曲だった ? 」 「アース・ウインド & ファイアーのセプテンバーとね、ユ って曲。」 「めちゃくちゃだね ! それ、秋っていうくくりかな。」 「きっとそうだよね。でも、ユ ーミンはわかる。お姉ちゃんは、松任谷との結 婚を呪うほどの荒井由実ファンだったから。」 「ううむ。どっちにしても、世代が感しられる話だ。」 「歩きながら、一緒に聴こうよ。」 ーミンの、旅立っ秋 148
まった。部屋にはべッドしかなく、窓の外は裏山だった。今度目が開いたら、 この、陽にやけてしまったカーテンを照らして、朝日が入ってくるはすだ、と 思いながら眠りに沈んでいった。今日体験したちょっと気味悪いことも、もう 過ぎ去ったことになっているだろう : ・。眠る直前によぎったその考えは私をほ っとさせた。 しかし、世の中はそんなに甘くなかった。 時間は、伸び縮みする。伸びる時にはまるでゴムのように、永遠にその腕の 中に人を閉じこめる。そう簡単には出してくれない さっきいた所にまた戻り、 立ち止まって目をつぶっても一秒も進んでいない闇の中に人を置き去りにする ことがある。 夢の中で、私は迷宮のような所にいた。 細い通路が人り組んだ暗闇の中で、私は這って進んでいた。い くつもの別れ
私たちは歩き出した。 何年も前からこうして歩いているような錯覚にとらわれた。実際は、ふたり きりになったのは今が初めてだった。姉がああなっていなけれは、知り合わな かったかもしれないこの人と、病院から、共に出て行くのは不思議な感じがし た。人生はなにが起こるかわからない。私は目が腫れて、よくまわりが見えな かった。あれほど短期間に無心で思いきり泣いたのは、赤ん坊の時以来かもし れなかった。 空が高く、独特で透明で、木々の緑が少しすっ色褪せてゆこうとしていた。 風の中に甘く、枯れ葉の匂いが漂っている気がした。 「これからどんどん寒くなっていくんだろうね。」 私は言った。 「そうだね。この季節のきれいさは、何回見ても見飽きることはない。」 境くんは言った。 112