誰かにとってなんでもないことでも、他の誰かにとって死に等しいほどっら いということもある。私は彼女の人生のくわしい話をよく知らなかった。でも、 誰かが目の前で荷物をまとめて自分の部屋を出て行くということが、そんなに もつらいというのが理解できなかった。それを相生が悪いというのかどうかは わからない。私は確かに住む所がなくて彼女を利用した。本当のところ、女性 である彼女とずっとっきあっていくつもりもなかった。その時の同居人である 彼女が私を好きだったから、肉体関係に応じたというだけだった。でも、彼女 はそうではなかったと気づいた。いや、どこかでそれを知っていたのに気づか ぬふりをしていた。私は深く反省した。彼女のことは、どうしていいかわから ない記憶として、私の中で保留になったままだった。 思い出はいくつもの画像の固まりとなって、容赦なく私の心を暗くした。 私は気をとり直して一生懸命歩こうと、ふっと前を見た。そこには謎の祠が あった。お地蔵さんもなく、だからといって他のなんの像があるわけでもない 15 ハードボイルド
彼女は病的なきれい好きて、いつも床や台所をびかびかに磨いていた。夜中 に彼女が床を磨いている音で目覚めることも度々あったし、よく磨かれた床で すべって転ぶことも、よくあった。 彼女はほとんど眠ることがなかった。睡眠は数時間で足りるのだと言ってい た。そして、床磨きは時間つぶしだと言った。私と暮らす前は、誰も気づいて いなくても、そうして床を磨いて夜明けを待っていたのだと言った。 そして彼女は幽霊が見えると言い張った。あっ、おばあさんが柿を持ってき た、とか、あの子車にひかれちゃったのかなあ、とかこわいことをしよっちゅ うつぶやいて。た。彳 ) , 皮女といると、世界は幽霊だらけだった。 私は、自分に見えないものはないことにすることにしていたので、気にしな かった。それでも時折、なにかを感じることがあった。道で、部屋の中で。そ ういう時、必す彼女はそこに誰かいる、と言うのだった。そして幽霊を見ない で平和に眠るために、彼女はいつもたくさんの光り物を身につけたまま眠った。 53 ハードボイルド
道があり、私は冷静に判断してとにかく外に出ようと思っていた。時々立ち上 がれるほどの空間が出現したが、そこからまた道は枝分かれしていた。 やがて先のほうに明かりが見え、私は急いだ。 明るい所に出ると、そこは小さな洞くつで、色とりどりの布が飾ってあり、 ろうそくがともっていた。布の向こうをよく見ると、祠があった。ああ、この 祠を知っていると私は思った。なんだか見たことがある、と夢の中で思った。 その時、「今日は・ : 月・ : 日です。」と耳元で誰かが言った。よく聞きとれなか ったのに、私は、それを聞いていやな気持ちになった。それは忘れたい日だっ 確か、そういう日だった。 そして、ある光景が思い浮かんだ。懐かしいあの部屋だ。窓からは高速道路 がとなりに見え、 いつもうるさい音がして、排気ガスの匂いがした。床はよご れていて、壁が薄かった。そこで私は誰かと暮らしていたんだっけ : ・。 と思った時、ろうそくの明かりに照らされて、人影がちらちらと動いた 29 ハードボイルド
「十一月。」 「あっそう。どうして ? 」 「空が高くて寂しくて、心細いような感じがして、どきどきして、自分が強く なったような感しがするから。でも、なにか空気に活気が感しられて、本当の 冬がやってくるのを待っている状態でもあるの。」 「俺、も。」 「そうよね。なんだか、すごく好き。」 「俺もそうなんた。そうだ、みかん食べる ? 」 「もうみかんの季節だっけフ 「いや、なんとかかん、なんだったかな、名は忘れた。親戚の人が送ってきた ってお母さんが言っていた。」 「誰だろう ? 九州のおばさんかな。」 「 . 知らない」 106
彼は言った。 「いっかまた、こういうふうに会えるかしら。」 私は言った。 「会えるだろう、そう遠くなく。」 「今は、タイミングが悪くてよくわからないけど。」 「今すぐにつきあおう、と言われたら、俺が驚くよ。」 「そう言えば、葬式で弟と話した。たくさん。」 「気が弱かっただろう ? 」 「うん、泣いてばかりいた」 「あのね、経験したことがないことを、わけ知り顔で語るのがすごくいやなん で、あまりコメントしないけど、ごめんね。俺には、身近な人が死んだ経験は ある。でも、こういう形ではなかったし、人の親になったことはないから、誰 のことを考えても、弟についてさえも、うまくつかめていないんだ。もちろん、 144
彼はうなすいた。 耳の中でただただ音楽が響いた。冬の星は誰と、いつ見上げても決して変わ らないでそこにある。変わってゆくのは私だけだ。オリオンの変わらない三つ 星がそこにあった。姉とよく競って見つけた形のまま。 : そう、多分その歌のとおりに、もう永遠にやってこない一度きりの今年の 秋は、今夜まさに冬枯れの木立の間を抜けて、きっと、今夜遠くに去ってゆく のだろうと思った。そしてまだ見ぬ冬がいさぎよく、残酷にやってくるのだ。 152
とおばさんが言ったので、 「少なくとも、今、誰かが閉め出されたり、 るわけではないんですね。」 と一一一口うしかなかった。 「そういうこと。もう何時間かで朝だから。またなにかあったら起こして。」 と言って、おばさんは奥へ戻って行ってしまった。 私はロビーに残され、ひとりであの部屋に戻るはめになった。幽霊のぐちを 聞くか、いやな夢を見るか。私の選択肢はとても貧弱なものだった。 そこで頭を冷やすために外へ出ることにした。 トは、ものすごい風か吹いていた。 きっと、あの美しかった紅葉も、どんどん散っているのだろう。 ここでも、あの、千鶴を最後に見た場所でも。 私はそう思って、空を見上げた。 誰かが部屋で死にかけていたりす
「なぜ、なんでもわかるの ? 」 「君のことなら。」 彼は一一一口った。 「一つそで , も、 ~ のり一かと一つ。」 今でない時に、この状況でない時に話ができたらよかったのにな、と思った。 今の私には時間と空間が必要だった。しかし彼ののんきさにはそんなことを気 にさせないくつろぎがあった。 店に人ると、人は誰もいなかった。 私たちは窓際の席にすわって、コーヒーを飲んだ。姉の存在以外全てが自 だった。姉が私の世界に、音もなく降る夢のように、しみこんでいた。ますい ことにそれは私にとって、いやなことではなかった。すっとこのままでもいし とさえ思えた。姉がこの世からいなくなるくらいなら、このほうがすっと優し 123 ハードラック
くにちゃんのことも。君のことも。わからないけれど、どういうことが起こっ ているのか、一応自分の目と耳で見たこと、感じたことについてはつかんでい ることもあると思う。すごく言いたいことがたくさんある。だけど、それはロ からはどうしても出てこないんだ。」 あらたまった感じで彼は言った。 「こんなこと経験した人のほうが少ないよ。」 私は笑って言った。 「誰にも、わかってほしいとも思わない。でも、優しくしてくれているのはわ かるよ。」 外に出ると、冬の星空があった。 「昔、読んだ本の中に、街角ですごく美しい音楽を聴いた時には、死ぬ時もそ の音楽が流れてくるというくだりがあった。主人公がある晴れた午後に街を歩 いていると、向かいのレコード屋から、世にも美しい音楽が流れてきて、彼は 145 ハードラック
私は言った。 そしてふたりとも、黙っこ。、 オ父のズボンの匂いをかいでいた 車の中には悪いことに、姉の荷物から漂う姉の香水の匂いもした。 私は自分の香水をこの香水に変えよう、と思った。姉が後ろの席に乗ってい るみたいで、本当に子供の頃に戻ったようだったからだ。 よく、家族でドライプに行った頁に。 おませだった姉が十代の頃から使ってした、。 ) ' ケランの香水。 「おまえ、あの男とっきあってるのか ? 」 父が突然言い、私ははっと我に返った。 「誰 ? さっきの一緒に泣いてたお姉ちゃんの会社のデブの人のこと ? 」 「違うよ、あの、うさん臭い兄貴。」 父は言った。 「境くん ? そんなおっきあいじゃないよ。」 134