「あんたのおかげで眠れなくなっちゃったよ。」 「ごめんなさい。 もう一度お風呂に人ってきます。」 私は言った。 「気をつけて。起きててやるから、ここを通りな。」 おばさんの優しさがしみて、私はさっさと風呂へ向かった。 畳部屋 風呂は相変わらず熱い湯に満たされていて、私は冷えた体をじっくりと温め ることができた。 そして、ガラス越しに脱衣場の時計を見ると、もうすぐ四時だった。 なんという夜だろう、山道で出会った変なものをホテルまで連れてきてしま うなんて、全く : と思いつつ、疲れも頂点に達して眠けがこみ上げてきて、
目が自然に閉じてしまいそうだった。 今度こそなにが起ころうと寝てやる・ : と私は思い、風呂のタイルを見ていた。 そのタイルは古いがきれいな色で、懐かしい感じがした。昔幼い頃、父と私 の実の母が住んでいた家の風呂のタイルに似ていた。その頃はこんな人生にな るなんて知らなかった。親と共にひとりつ子らしく平凡に育っていって、嫁に でもいくのだろう、と思っていた。こんな遠くまで来てしまうとは : 私は少し感傷的になり、タイルをじっと見つめた。そして目を移すと、浴槽 は普通の石でできた素朴なモザイクに縁どられていた。 : と思った時、なぜかひやりと ろくでもないホテルだけど、この風呂はいい・ した。私の中のなにかが猛烈に首を振ったのだ。 なんだろう、こんなに気持ちがよくて、こぢんまりとしていて、ちょうどよ く古くて、泉質もいいし・ : とばんやりと、また眠けに襲われながら考えていた ら、ふと、目についたもの・ : それは、その、縁どりのモザイクの灰色がかった 75 ハードボイルド
当に愛し合ってたんだ、遊びじゃなかったんだ、と思ったね。」 「やつばり・ : 。」 「でも幽霊になられちゃね。恩をあだで返すとはこのことね。」 おばさんは言った。 「どうせ来年ここはたたむから、 いいんたけど。」 「このホテル、なくなってしまうんですか ? 」 なくなったほうかしし 、と思うよ、と思いながら私は一一一口った。 「そう。オーナーが亡くなったから。息子さんが来年は建て替えてレストラン にするとかって。あのお風呂、オーナーが自分で作ったのよ。」 「は ~ の。」 「かわいいお風呂でしよう ? 」 「山から石を集めてきたんでしようか ? 」 私はたすねた。
つかなかった。 最後の日曜日、私たちは少し寂しくなった。それで千鶴が車に乗りたい、 言った。私は千鶴の車を運転して、近くの山へ行った。山の上の茶屋できのこ ごはんを食べ、展望台に行って、色とりどりの山を眺め、温泉に人った。 そう、やはり秋だった。 気が狂うほどの紅葉が、赤や黄の目まぐるしい色彩が、温泉からよく見えた。 風が吹く度に嵐のようにそれらが舞い踊った。ふたりはいつまでも露天風呂に 入っていたが、寂しさは消えなかった。 時間が、たっていく寂しさ。道が別れてゆく寂しさ。 「どうしてこんなに寂しいんだろう、異常なほどだね。」 人ごとのように、私たちは口々にそう言い合った。 「引っ越すたけなのに。どうしてだろうね ? 」 まわり中の人たちがみんな楽しそうに見えてうらやましいほどだった。風呂 と
後味が悪いのに、言いたくないことを言わなくて済んた。 「誰も亡くなってないよ。あそこおじさんがひとりだけど、無事逃げ出したっ て。店のストープの火の不始末だってさ。だいたい、ばやだったみたいよ。」 おばさんは笑った。 「あんたのせいじゃあるまいし、風呂に人ってきな。」 いや、私のせいかもしれないんです、なんとなくだけど・ : と私は思った。 そして風呂に向かった。本当は逃げ出したかった。違う町に、今日以外の時 間の中に。しかし私はもうすつばりとこの夜に、この寂しくおかしな雰囲気の 中に体ごと人りこんでしまっていた。もうすでに目に映るもの全てになにかの フィルターかかかっていて、なにもかもをまともには考えられなくなっている、 そんな気がした。この夜の力に捕らえられてしまった。 温泉で満たされた小さな浴槽の、古いタイルのきれいな模様が水に揺れるの 25 ハードボイルド
私は言った。 体 「そんなことないよ。夜、一緒にお風呂に人って、あれこれ話し合ったり、 とママの立てる暖かい を洗い合ったり、それでその気になったり、みんなパパ 音だよ。」 千鶴は笑った。 それよりも私は窓辺の千鶴の、霧とヘッドライトを背景にした姿のほうが、 興味深かった。そのまま消えていきそうだった。見ていると不安になり、こわ かった。これはこの世なのか、それともあの世なのか、わからなかった。だか らきっと、 ハとママの音を聞くと、こちら側につなぎ止められているような 気がして安心するのだろう、と思った。 そこまでは、思い出と夢が混じったものだった。確かに。 しかし窓の外からこちらへと顔を向けて、千鶴は言った。 87 ハードボイルド
再び夢 それはとてもリアルな夢だった。 夢なのか、思い出なのかすらわからなかった。でも、実際にいっかあったこ とだったような気がする。本当に短い夢だった。 私はあの、今はもうない千鶴の部屋にいた。 高い天井のしみまではっきりと目に入った。 それから、びかびかに磨かれた台所のステンレスが光っているのも見えた。 外は霧で、部屋の中にまで人ってきそうだった。 ばんやりと空は光り、車の音もくぐもって聞こえた。 さらに、上の階では、あれだけ子供がいてもまだ足りないのか、夫婦が風呂 場で子作りに熱中している音が聞こえてきた。
石の中にひとつだけ、色の違う、真っ黒な石が埋めこまれていたことだった。 そ一つかー 私は妙に納得した。 このホテルはつながっているんだ。 なにかのきっかけで、あの石がひとつだけ、ここに使われているから、こん なに変なことが重なるんだ。 うどん屋のことを思うと胸が痛んだが、このホテルが古くからあって無事だ ということは、多分、このままにしておいたほうかいいのだろう、と判断した。 心中したり、幽霊が出たりするのを無事と呼んでいいのかはよくわからない か、うどん屋で人死にが出なかったということは、多分、あの祠にはこのくら いの作用しかないのだろう、と思った。 その石を踏まないようにそっと風呂を出て、私は一応フロントに寄った。
「なんで ? 」 「変わったモザイクだなあと思って。」 「そうよ、オ 1 ナーは変人で、石ころを集めていたの。ダイヤとかそういうん じゃないのよ。正真正銘の石。くす石。」 「なるほど。でも、すてきですよ、あのお風呂。」 私は言っておいた。 「でも、おばさん、気をつけて下さいよ。幽霊もいるし、ここって変ですよ。 はにか」 「大丈夫よ、さっきも言ったけど、変な夜っていうのは、どこにいてもあるの よ。それに、必す過ぎていくの。っとめていつもどおりにして、朝が来れば、 なんていうことなくなっているものよ。それよりも、私は人間がこわいね。オ ーナーが死んだ時の息子の嬉しそうな顔とかに比べたら、大したことないね。 世にも上品な夫婦が泊まった後、掃除のおじさんが吐いたこともあるよ。部屋 81 ハードボイルド
につかりに来る、おばあさんや小さい子供や、お母さんたち。普通の生活の営 みを体の線にしみこませた人たち。みんなが出てしまって、次々人が人ってき ても、私たちはいつまでも露天風呂に人っていた。空がとても高かった。 「部屋にばっかりいたし、霧が多かったし、天気もあまりよくなかったから、 こんなきれいな所にいるなんて夢みたい。」 と千鶴は言った。 「頭がはっきりするね、空が晴れていると。」 そして帰りの車の中で、千鶴は言った。 「ここで降りる。」 どんなに言い聞かせても、そう言い張った。だんたん車の中の空気が濃密に なってきて、たまらなくなって、魔法にかかったように私は彼女を降ろしてし まった。 ひとり千鶴の部屋に帰り着いた時、なんてことをしてしまったんだろう、と 57 ハードボイルド