カンジスでの火葬 ブッダを育んだインドの風土 場する用語を媒介に考えてみよう。これは、東アジアの人々が好んだ概念規定である体 ( たい ) ・相 ( そう ) ・用 ( ゅう ) の観点から言及してみることでもある。「体」とは本体のこと、「相とは視覚の対 象としてとらえられる姿かたちのこと、そして「用」とは働きのことである。この三つの視点から とらえた場合、ダンマとはまさしく「用 , としての存在にはかならないのではないだろうか。実体 としての存在、姿かたちとしての存在は否定されるのであるが、そこには「働き」としての存在が 現前しているのではないかと考えられるのである。つまり永遠の「働き , であるダンマが、常に私 たちに語りかけ私たちを照らしていることを、ブッダは一方で認識し体得していたのではないか と思われるのである また、アートマン ( 我 ) に関しても興味深い記述がある。それは『サンユッタ・ニカーヤ』の記述 である そこで世尊は五人の修行僧の集いに説かれた。「修行僧らよ。物質はアートマンならざるも のである。 ( 中略 ) 感受作用はアートマンならざるものである。 ( 中略 ) 『これは我がものではな これは我ではない。 これは我 ( アートマン ) ではない』とこのようにこれを如実に正しい叡 知によって観察すべきである」。 ( 『中村元選集〔決定版〕第一一巻「ゴータマ・ブッダ—」』存秋社 ) この文章ではアートマン ( 我 ) ならざるものとしてさまざまなものが挙げられている。この、 「何々はアートマンではないという記述形式からは、ブッダも一方ではその背後に、「個、の根元 としてのアートマン ( 我 ) を是認しているのではないかと推測されもするのである。このような点 から想像すれば、明確な言及は存在しないが、ブッダもやはりインドの大地に生きた宗教思想家 の一人として、「個。を強烈に意識した人物であったに相違なく、インド思想一般が述べるプラフ マンとアートマンに近似した思想を否定してはいなかったのではないかと思われるのである さて、もう一つ、茫漠とした広大な大地の上で、人の気配すら感じられない時に襲われる感情 109
火葬場の火が消えることはない。 再びインド、輸廻する大地 しに運ばれて行く。 老人は、ヴァーラーナシー近郊の村で農業を営んでい たか、七五歳の時にここにやって来て以来、一〇年にな るという。毎日、薪や遺体、そして火葬の煙を見るの は、どういう気持ちなのだろう。 「私は、解脱を得るためにここに来ました。人が死ぬの を見ることは、全く怖くありません。私は人並みの人生 を送ってきて、残りの人生は神に捧げようと思っている のです。死ぬということは、古い服を脱いで、新しい服 を着るようなものです。変わるのは人間の肉体だけで す。アートマン ( 霊魂 ) は不滅なのです。ここに来る前は、 いろいろ面倒なことがありました。お金のこと、子供の こと、農業のこと、さまざまな欲や悩みを持ちながら生 きていなければなりませんでした。しかし、すべてを捨 ててここにいれば、何の心配もありません。いっ死んで しいと思っていますー 彼の話には、ブッダの到達した境地と相通するものが あった。ただ根本的に違うのは、神と霊魂の存在を前提 にしている点である。しかし私は、インドという大地の 219
ブッダガャー郊外タ景 4 一 ブッタを育んだインドの風土 生まれを間うことなかれ。火は実にあらゆる薪から生じる。肢しい家に生まれた人でも、聖 者として道心堅固であり、恥を知って慎むならば、高貴の人となる。 ( 『スッタニバータ』第四六二偈 ) 人間の「行為」こそ人間を判断する基準であり、また人間の将来を決定づけていくものであると喝 、。行為を基準に据 破しているのである。ここには、当時のカースト制による差別は存在しなし え、あらゆる人間の差別を撤廃する主張が表れている。人間を公平に見つめ、行為によっていか ようにも変わりうるのだとする、可能性を秘めた存在として人間がとらえられているのである。 大地とその思想 ブッダが実際に歩いた北インドのガンジス河中流域は、ほば平坦な大地である。ラージャグリ ハ ( 王舎城 ) は外輪山に囲まれ多少なりとも山を意識させられるが、それ以外はほば平坦な大地が 続く。夏は暑く五〇度を超え、冬は比較的寒い。ブッダも暑さにやられて、医師ジーヴァカ 婆 ) の勧めで水で体を冷やしたとの記述が『律蔵』の「大品」に見える。 さて、インドの人口密度は近年急速に増え、一平方キロに約二八〇人はどであるという。ブッ ダが活躍した時代の人口はもっと少なかったであろう。ブッダが修行をして歩いた大地では恐ら どこ く人と接する機会は、町や村の人々が集まるところ以外ではほとんどなかったに違いない までも広く続く大地とただ一人で対峙する機会が多かったはすである。 そのような時に、人間は何を考えるのであろうか恐らく有限な人間の対極に存在する、変わ らない何かを意識するのではないかと思うのである。どこまでも果てしない無限の大地を前に、 小さな有限の自己を見つける。そして有限の自己とは対照的な永遠的な何か、変わらない何かに 関心が向く。それを言葉で指し示すことはできても、それを体得することは容易ではない。イン ドの哲学思想は、言葉でとらえることのできない、外的な存在である永遠の絶対者プラフマン ( 梵 ) と内的な存在である個別的な原理アートマン ( 我 ) の世界を体験的に把握した。そして、言葉 107
ちへ跳ね回り、衝突し合っているのを見て、わたくしは、、、 しカんともしがたい不安の とりこになってしまった。無限の過去以来、あらゆる方位の世間的存在へと、つぎか らつぎへとっき動かされて輸廻転生しているか、いかなるところにおいても世間的存 在は根底的にうつろい実質がない どこかにわたくし自己自身の精神のアートマンが いこい安らう安住処がないものかとさがしまわってみたが、わたくしか見たのは、い い加減なところに安住している人々ばかり。しかもその人々がかく安住していること によって、「われこそは最高究極の真理を知った」と主張しては論争しあい対立しあっ ているのを目のあたりにして、わたくしは絶望的になった。その心臓に突き刺さった 矢のエネルギーによって突き飛ばされて、あらゆる人々は、あらゆる方位の世間的存 在へと輪廻転生し続けていくのである。いましも、その矢をさえ引き抜いてしまうな らば、もはや輪廻転生することはあるまい。 ( 荒牧典俊氏、大学での講義レジュメより ) それぞれの修行者が、それぞれに真理を見つけたと言っては論争し合う。ブッダは、争 いにも似たその姿に幻滅し、そもそも一つであるはすの真理が論争し合うほど存在するは すがないと気づくのである。そして、輪廻転生を突き動かす原動力として、ブッダは「矢ー という表現で、人間の「執着 ( 深層の欲求 ) を想定し、その執着をなくせば輪廻転生もなくな ってしまうはすだ、と考えたと荒巻氏は考察している。 二九歳で出家し、苦行に身を費やしたブッダは、この時、三五歳になっていた。 第ニ章ブッダ心の葛藤
くびき ヨーガ ( y 。 g しという語は、動詞 y 三「結び付ける」「軛をかける、から派生した名詞で、制御を意 味している。『ヨーガ・スートラ』は「ヨーガとは心の作用の制御である , と定義している。そして、 心の作用が制御された時、本来の霊我 ( プルシャ ) が現れることを述べ、八つの実修法を説いてい る。すなわち、田禁戒、②勧戒、 3 坐法、④調息、制感、⑥凝念、⑦神定、区三昧である。 『ヨーガ・スートラ』は二 5 四世紀頃、パタンジャリによって編集されたとされるか、古い伝統に 根ざしていることは間違いない。釈尊はもちろん自我 ( アートマン ) や霊我 ( プルシャ ) の存在を認めな かったが、こうした広義のヨーガによって解脱への道、悟りへの道を歩んだのであった。 ブッタの宗教実践・ヨーガ ところで、釈尊は王子としての身分を捨て、出家者となって、修行の師を訪ねる。修行をする には師について行うのがインドのやり方なのである。以下に釈尊の修行の有り様を辿ってみよう ( 参照】『中村元選集〔決定版〕第一一巻「ゴータマ・ブッダ」』存秋社 ) 。 ます、釈尊はアーラーラ・カーラーマという仙人を訪ねて修行し、彼のヨーガ行法である無所 有処を学び、ほどなくアーラーラと同じ神定の境地に達する。しかし、釈尊はこの仙人の教えに 0 飽き足らす、アーラーラのもとを去る 次いで釈尊は、ウッダカ・ラーマブッタという仙人を訪ね、彼のもとで修行する。ウッダカは 非想非非想処という行法を修しており、釈尊も間もなくその神定の境地に到達する。しかし、や はりこの境地にも満足できす . 、この仙人のもとを去っていく。 (Ariyapariyesana-sutta, M. N. No. 26,vol. 1, 『中阿含経』第五六巻「羅摩経」〈大正蔵一巻〉 ) このように初期の経典に、釈尊は二人の仙人のもとで修行したが、そのもとを去ったことが記 されている。アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマブッタがそれぞれ修したという、無所有 処と非想非非想処の禅定の境地がどのようなものであるかを述べることは難しいが、後の仏教の 第ニ章ブッダ心の葛藤
蓑輪顕量学院大 田一ブッタを育んだインドの風土 カースト制の両面 インドの大地は広い。 そのような中で、彼らは自らの生活をどのように守ってきたのであろう か。その答えは、実はカースト制 ( 四姓制度 ) にある。カースト制は自らを社会の一部として位置づ ける鎖であるとともに、鎖につなかれた時には、同じカースト集団の中で助け合う互助の組織と なる。 カーストという語はポルトガル語に由来する。本来は皮膚の色を意味するヴァルナと、生まれ を意味するジャーティの二重の構造より成り立つ。ヴァルナは、周知の如くバラモン ( 司祭階級 ) 、 クシャトリヤ ( 王侯貴族階級 ) 、ヴァイシャ ( 庶民階級 ) 、シュードラ ( 奴隷階級 ) 、の四つを指す。実際に はその外側に位置づけられるアウトカーストを加えて五つから構成される。アウトカーストは、 後にガンディーらの提唱によってハリジャン ( 神の子 ) とも呼ばれ、その差別の撤廃が叫ばれた。 ジャーティは生まれを意味し、生まれながらに所属が決まる制度である。現在、一般にはこち らを念頭に置くことが多い。その種類は二〇〇〇種とも三〇〇〇種とも言われる。またやっかい なことに、所属カーストは民族、種族、職業、道具や風俗に起源を有し、名前を聞いただけで大 抵推測がつくと言われる。現代においても人々の心の中に根深く存在し、婚姻の制限や浄・不浄 の観念などを生み出す背景となっている。 さて、そのカーストの互助の側面を近代インドを代表するマハトマ・ガンディーの伝記にも見 いだすことができる。彼は、イギリスに留学する際、親族の者たちから、国外に出ればカースト を喪失するのだぞ、ということを理由に留学を反対されているのである ブッダを育んだインドの風土 105
モ八ムニ村での葬式。遺体にす かりつく子供たち。 7 亡くなったのは六五歳の女性で、胃潰瘍が悪化したのだという。庭には死者のためにべ ッドが用意され、周囲を六人の息子、二人の娘、さらに孫や親族が取り囲む。僧侶は、死 者を挾んで、参列者に向かって座り、経を唱える。参列者も何も見すに、経を復唱するこ とかできる。このようにして、葬式は淡々と進められていった。 親族が、コップ一杯の水を手に取り、お盆に少しすっ移す儀礼が始まった。コップの水 は、遺族みんなの善い行いⅡ善行の象徴である。「小川が、やがて大河となり、海に注ぐ ように、私たちの功徳が死者に届きますようにーと全員で唱える。それは、死者のためで あると同時に、生きている者が自らの行いを改めて正す瞬間でもある。 この儀礼が終わると、出棺である。するとその時、娘の一人が悲しみを抑えられす、嗚 咽を漏らし始めた。すると、周囲の人々が口をふさぎ、嗚咽が漏れないようにする。それ は、死者への執着を断ち切らせるための行為だという。しかし、その後次々に息子や親戚 の人たちが大声で泣き、死者に最後の別れをしようとすがりつき始める。親族以外の参列 者かすがりつく手を振りほどき、強引に遺体を棺に納めようとする。これは「移ろいゆく ものに、追いすがってはならないというブッダの教えを、確認する時なのである 棺は息子と村人たちの手で村の火葬場に運ばれてい 火葬場には、遺体を燃やすため の薪が積み上げられていた。村では人が亡くなるとマンゴーの大木を一本切り倒す。マン ゴーは油分が多く、生木でもよく燃えるのだ。 息子の手で薪に火がつけられる。もう息子にも、周りの人々にも悲しみの表情は無い。 火が燃え盛り始め、人々はじっと炎を凝視している。火葬はほば三時間かけて続けられ 第五章ブッダ入滅後のインド仏教の行方 190
梵天勧請 一 8 4 賢者のみが知るものである」という思いが起こった。ブッダはそれを人々に説き明かす決心がで きないまま、神定の中に浸っていた。 この時登場するのが、当時のインドで創物主として信仰されていたプラフマン神 ( 梵天 ) で、プ ツダの前に姿を現すと、「ブッダよ、真理をお説きください。人々はあなたの教えを聞けば、き っと橋りを得るでしよう。もし聞けないなら、彼らは堕落してしまうに違いありません」と言っ て、ブッダに教えを説くことを懇願した。初めはためらっていたブッダも、再三におよぶプラフ マン神の熱心な要請を受けて、ついに教えを説くことを決意する。そして神定の座から立ち上が ってサールナートに向かった。 ぼんてんかんじよう 以上は、一般に梵天勧請 ( プラフマン神の懇願 ) と呼ばれる物語である。この物語を歴史的に裏付 じかくカくた けることができないのは当然である。しかし、この物語が仏教の根本的立場である「自覚覚他 ( 自 ら悟りを求めるとともに、他人をも悟りに導く ) とい、つことを表している占 ~ を見落としてはならないであ ろ、つ ブッダは如来と呼ばれるが、その原語はタターガタで、文法的にはタター・ガタとも、タター アーガタとも分解できる。タター・ガタは「真理 ( 如 ) に到達した者ーすなわち如去を意味し、タタ ・アーガタは「真理 ( 如 ) から来た者」すなわち如来の意味である。悟りを開いたままで説法をた めらっているブッダは「真理に到達した者ーであるのに対して、決意して自らの悟りの境地を言葉 によって人々に説き示しているブッダは、まさに「真理から来た人 , 、如来なのである。如来とい じりりた う言葉の中には、実は、このような過程が含まれている。自利利他ということは大乗仏教を表す 言葉のように思われているか、ブッダの悟り自体が大乗の出発点であることを見落としてはなら 0 ( 写真】 P. 143. 148 松本栄一、 P. 144 , 145 相田昭 ) ないであろう 0 によ、りい 第三章ブッダ悟りと説法
こ 各人各様の粉のか かり方がある。 インド、仏教の現在・ : 年 5 月、満月の日 かれる。それはインドが最も暑い時期と重なる。私たち も最高気温四三度、最低気温が三五度というすさまじい 状況を体験することになった。五月 5 六月の猛暑のこの 時期に、インドを旅行したり仏跡巡りをする外国人はき わめて少ない。しかし、ブッダガャーのマハーボディー 寺院の境内には、その日、一万人を超える仏教徒が訪れ ていた。 今世紀のインド独立の際、インド共和国憲法の起草者 アンべードカルは、インド仏教再興の大衆運動を始め た。ブッダガャーに集まっていたのは、アンべードカル の影響で、ヒンドウー教から仏教に改宗した新しい仏教 徒たちであった。運動は、一九五六年に始まった。アン べードカルは、ヒンドウー教のカースト制度の中の不可 触民の出身で、若い頃から不可触民差別の撤廃を訴えて いたが、ヒンドウー教の枠組みの中では、その間題は永 久に解決されないと考え、ヒンドウー教を捨て別の宗教 に改宗することを、第二次大戦前から訴えていた。そし て、インドが独立を達成した後、自山・平等・友愛の立場 から、同じインドで生まれた宗教である仏教に改宗する
ルフ ブッダ誕生の地をゆく 今からおよそニ五 00 年前、ヒマラヤ南麓に拠るシャーキャ族に一人の王子か生まれた。母マーヤーか出産のた ブッダ誕生の め故郷へ向かう途上、休息に立ち寄った花咲きあふれるルンビニー園。サーラ樹の技に右手を差しのべたマーヤ 地をゆくーの右脇から王子は生まれ出た、と伝承は言う。ゴータマ・シダールタ、プダの誕生である。 ルンピニーは、現在のイン ド国境に近いネパール南部 バスティ地方の小村。遠く にヒマラヤを望む。 ブッダ誕生の地には各国仏 教徒が巡礼に訪れる。小高 い丘の上で僧かブッダの徳 を讃え歌っていた。