人間ブッダの誕生伝説 いたブッダ ( ゴータマ・シッダールタ ) もここで暮らしていた。 カピラヴァストウでの宮廷生活の様子は、経典に記された内容をまとめると次のような ものであったらしい。性格の優しい少年であったブッダは、自分のためだけに作られた蓮 池の庭を持っていた。いつも最高級の衣服を身に付け、従者が生活の面倒を見ていた。 夏、冬、雨季のための三つの宮殿があり、宮廷内はいつも歌舞音曲に充たされていた。そ れは、実に恵まれた王子としての生活であったらしい ところで、そのカピラヴァストウの場所であるが、文献の上では、五世紀にインドを訪 ほっけん げ・んじよ、つ れた中国僧・法顕、七世紀の玄奘などの旅行記しかない。ただし、それもカピラヴァスト ウがルンビニーの西一五キロ ( 法顕 ) から二三キロ ( 玄奘 ) の位置にあることしか分からす、イ ンドの仏跡の再発見が始まった一九世紀末以来、種々の論争がなされてきた。 ルンビニーの位置が確定した後、カピラヴァストウの有力な候補地が二か所発見されて 、ヾール領のテイラウラ・コット。インドの考古学者ムケルジーは、 一つは、現在の、イノ 八九九年、ルンビニーの北西二三キロにあるこの地を発掘し、一辺およそ五〇〇メートル の塁壁に囲まれた長方形の城郭遺構を発見した。東、南、西には門の跡もあった。その遺 構は、二世紀頃のクシャーナ朝時代のものであるが、紀元前七 5 三世紀のものと考えられ る土器もその下から出土しており、ブッダの時代もなにかしかの城郭かあったことがうか がえるものであった。文字資料などは出上していないか、これは玄奘の記述とも一致する ことから、ますテイラウラ・コットが、カピラヴァストウの最初の候補地となった。
ゴータマ・ブッダはシャーキャ ( 釈迦 ) 国の都のカピラヴァストウの郊外ルンビニー園 において誕生した。父はシュッドーダナ ( 浄飯王 ) 、母はマーヤー ( 摩耶夫人 ) である。 シャーキャ国は共和政を取り、大国のマガダ国とコーサラ国に挾まれ、コーサラ国 に従属していた。ブッダの家系は王位継承権を持った家柄であった。なお現在、カ ピラヴァストウはネパール領テイラウラ・コット遺跡とインド領ピプラーファー遺 跡の二か所が候補として挙がり、決着を見ていないが、ピプラーファーからはシャ ーキャ族に縁のある舎利が出上している。現在、ブッダの舎利と言われるものは、 このピプラーファー出上のものとヴァイシャ ー ) ー出上のものとが最有力視されて 第一章人間ブッタの誕生伝説
4 4 の一部分の分配を受ける資格がある。われわれもまた尊師の遺骨のストウーハをつくっ て、祭りを行いましよう』と言った。 ( 中略 ) カピラヴァストウに住むサーキャ ( 釈迦 ) 族もカ ピラヴァストウに、尊師の遺骨のために、ストウーパをつくり、また祭りを行ったー ( 中村 元訳『ブッダ最後の旅』岩波文庫 ) 法顕の記述と一致するカピラヴァストウと目される場所から、舎利容器が収められたス ウ , ! ーヾゞ ノ力発見され、古代文字で「ブッダの遺骨」とも読める銘文も見つかった。偶然の一 致とは思えない発見が重なったことにより、ブッダの実在か証明されたとの気運が高まっ た。しかし、銘文の解釈が定まらないこと、これがブッダの真骨を収めたストウーパであ るならば、なぜ玄奘や法顕がそのことに関して触れていないのかという点 ( それはど重要なも のが忘れ去られるはすがない ) 、ブッダのストウーパにしては女陸や子供のものと思われる副葬 品が多すぎる点、などで疑間を提示する学者も少なくない なお、銘文の刻まれた容器には、実際に遺骨 ( はとんど灰になった状態のもの ) が入っていた この遺骨は、仏教徒であるタイの王室に譲り渡され、その一部が後に日本にも分され、 現在、名古屋にある覚王山日泰寺に納められている 論争が続く中、それから七〇年後の一九七一年から七四年にかけて、インド考古局がピ プラーファーのストウーハの再調査を行った。すると、ストウーパの頂上から六メートル 掘り下げたところで、南北に区分されたレンガ造りの二つの小部屋か見つかり、両部屋か ら、それぞれ一つずつの焼けた人骨の入った滑石製の舎利容器が発見された。この二つの 舎利容器は、大きいはうが直径九センチ、高さ一六センチ。小さいはうが直径七センチ、 第一章人間ブッダの誕生伝説
人間ブッダの誕生伝説 高さ一二センチ。二つとも現在、デリーの国立博物館に保管されている。 この二つの舎利容器は、一〇〇年前にペッペが発見したものの、さらに下の地層から出 上したものである。考古学的な年代推定により、これら二つは、紀元前五 5 四世紀のもの で、ブッダの死んだ時代とはば一致することが分かった。ひるがえって、ペッペの発見し た舎利容器は、オリジナルのものではなく、 紀元前三世紀頃に収められた複製品であろう との推定がなされた。 あわせて行われた棟の東側の僧院跡の発掘調査からは、カピラヴァストウとはっきり銘 されたテラコッタ製の容器が出上した。インド考古局は、これらの事例をもって、このピ プラーファーの地が、カピラヴァストウであると結論づけている。 ただし、新出上の舎利容器と遺骨が本当にブッダのものかは、時代が一致するだけで、 銘文などの文字資料がなく、 一〇〇 % は断定できない。遺骨に炭素年代法などの科学的な メスを入れれば、もっと精密な年代特定と、仏舎利かどうかの判断ができるとも思うのだ が。当面は、信仰の対象となっている遺物ということで、そのような調査の予定は無いそ ブッダの舎利容器と言われるものは、実はもう一つある。経典によれば、ブッダの遺骨 はカピラヴァストウのシャーキャ族を始め、八つの部族に分けられた ( 舎利八分 ) と言われ ー丿ーのリッチャヴィ族がある る。そのうちの一つに、ヴァイシャ ヴァイシャ ーリーとは、・インド、ヒ ハール州の州都・ハトナーの北五〇キロにある小さな 村である。ヴァイシャ ( 商人 ) の町という意味で、ブッダの時代、ブッダの教団の有力なパ 4
たその時代の生活用具、武器、美術作品などを見ることによって、人々の行動や考え方、 一、一 ( 一ま気 ( 、 ~ 、、 ) 宗教や世界観までも窺」知ることができる。ところが、プ〉ダに関してはそれが全くと」 っていいほどできない カピラヴァストウの地に立ってみる。ストウーバのあるインド側、建物遺構のあるネハ ール側、そのどちらの場所からもブッダの面影を探ることは困難である。晴れ渡った空気 、の澄んだ日に見えるヒマラヤの白い尾根だけが、若いブッダの見た風景と同じなのかもし ・ををれない 若きブッタの悩み ブッダは、ここカピラヴァストウで後の悟りの原点にもなった経験をしている。それ インド側のカピラウアストウ は、世の中に満ちたさまざまな「苦」の現実への目覚めであった。 ( ピプラーファー ) わたくしはこのように裕福で、このようにきわめて優しく柔軟であったけれども、 愚かな凡夫は、自分か老いゆくものであって、ま 次のような思いが起こった、 た、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考え込んで、悩み、恥 自分のことを看過して。じつはわれもまた老いゆくものであ じ、嫌悪している、 って、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ては、考え込んで、悩み、恥 このことは、自分にはふさわしくないであろう、と田 5 っ じ、嫌悪するであろう、 て。わたくしかこのように考察したとき、青年時における青年の意気 ( 若さのおごり ) は まったく消え失せてしまった。 ( 『中村元選集「ゴータマ・ブッダ—」』春秋社 ) 以下経典は、「老いること、を「病むこと、「死ぬこと、にかえて、同じフレーズを繰り返 第ニ章ブッダ心の葛藤
トロンとなった商人の多い町であった。今は、ここもまた、田んばと畑ばかりで何も無 寒村となっているが、二五〇〇年前は、六つ以上の部族の連合国家を形成していたと言わ れ、集会を開いて合議制で物事を決める政治形態が採られていたという。いわば当時の最 先端を行く国であった。 で、紀元前 ( 、 こ造営されたストウーパの跡が発 一九五七 5 五八年、このヴァイシャー ) ー 見された。その中核部分から、人間の灰が入れられた滑石製の舎利容器が発見された。ほ かの出上品からの年代推定によって、それは紀元前六 5 二世紀の間のものだとされてい る。その舎利容器と灰は、ヾ ノトナー博物館に収蔵されていた。ピプラーファーの仏舎利容 器とは比べものにならないほど簡単な容器である。これもまた、経典の記述と一致する場 所から出た、ほば同じ時代の舎利容器であるが、ブッダの舎利容器かどうかは、今後の研 究を待たなければならない 、ヾール政府 カピラヴァストウに関しては、今でも、インド政府はピプラーファーを、、イノ はテイラウラ・コットを、それぞれカピラヴァストウと主張しており、この決着には、さ らなる広範囲の考古学調査が待たれるところである。 最古の仏教経典の発見 一九九六年六月一一六日のイギリスのタイムズ紙は、「仏教徒の『死海文書』発見」と題した 記事を掲載した。大英図書館は、九五年の初頭に持ち込まれた「巻き方の慙い葉巻 - に見ら れた古文書を、イギリスのディーラーから「数万ポンド」で購入し、一年以上かけて解読 し、紀元一世紀のものと見られる現存する最古の仏典の写本である、と発表したのであ 第一章人間ブッダの誕生伝説
ち、家族総出で稲を刈る人々、刈り取ったばかりのサトウキビをかじりながら遊ぶ子供た ち、そうした素朴な風景に、本当にはっとさせられる 中村元氏によれば、ルンビニーはもともとネパールの山岳民族ヾ ノノリ族か信仰する、ル ・デーイー女神の聖地で、ルンミン・デーイーの名で知られていた地であったらしい ブッダがたまたまここで生まれたために、その後およそ一〇〇〇年にわたってルンビニー に ( 院か置かれ仏教の拠点の一つになっていたが、インドでの仏教の衰退とともに、ル ンビニーの仏教もやがて廃れていき、歴史の闇の中に消えていったのである。今では、も ちろん、インドの仏教徒の姿は全く見られない ルンビニーでは、日本の日蓮宗系の日本山妙法寺、チベット寺院、韓国寺院、ミャンマ ー寺院など、アジア各国の仏教寺院が点々と建設されていた。最近では、インドからのイ スラム教徒の移住が急激に多くなってきている。真新しいモスクが次々と建てられ、通り には黒いチャドルを着た女性、白い帽子をかぶった男性など、イスラム教徒の姿が多く見 られる。彼らは、ヒンドウー教徒との争いがあるため集団でインドを離れたのだそうだ。 九七年五月、日本山妙法寺の日本人僧侶が、何者かに殺害される事件があったが、ルンビ ニーが仏教の拠点となっていくことを快く思っていない人々が出てきたことも事実であろ ニつのカビラウアストウ フッダゆかりの地、カピラヴァストウに向かった。 シャーキャ族はカピラヴァストウに城を構えていたが、母亡き後、母の妺に育てられて 第一章人間ブッダの誕生伝説
出家から苦行の道 してそれぞれの最後に「健康時における健康の意気 ( 健康のおごり ) 」、「生存時における生存の 意気 ( 生きているというおごりこが消え失せてしまった、と結んでいる 経典に残されたブッダの言葉は、特にブッダだけが見た特殊な状況ではない。それどこ ろか「生老病死の四苦は、二五〇〇年前も今も変わることのない人間不変の苦しみである と一一一口えよ、つ ノ・ンドと、イノ 、ヾール、二つのカピラヴァストウの近くで、私たちは手作業で稲を刈ってい る農民の姿を見た。シャーキャ族の城の中で何不自山ない暮らしをしていたブッダも、あ る日城を出た時こうした庶民の生活の営みを目にしたのだろう。時に荒れ狂うインドの大 自然の猛威の前で、農作物の不作に苦しむ民も多かったに違いない。タ闇が迫り来る中 で、ひたすら稲を刈り続ける人々の姿を見て、私は必死にブッダの見た「苦」を想像してみ ネパール側のカピラヴァストウの近くを流れる川で、たまたまヒンドウー教徒の葬儀に 出合った。黄色の布が巻かれた遺体が川辺に置かれ、そばには遺体を焼くための薪が積ま れている。親戚の人たちだろうか、多くの人々が取り巻くように火葬の前の儀式を見守っ ていた。やがて遺体が薪の上に置かれ、火がつけられる。人々はじっと燃え上がる炎を見 つめる。 葬儀のやり方は当然違っているだろうが、ブッダもやはり人々が死んでいく様をカピラ ヴァストウの近くで初めて目にしたのであろう。また、病で苦しむ人や人々が老いてい 様も。ブッダは、やがてそうした悩みや苦しみを自分のものに置き換えていったに違いな
ブッダは、自らの寿命を認識したのであろうか、ラージャグリハ ( 王舎城 ) の竹林精 舎から、生まれ故郷のカピラヴァストウを目指して、アーナンダ ( 阿難 ) 一人を供に 最後の旅に出た。ヴァイシャ ー ) ーを経て、故郷を目前にしつつクシナガラの地に 八〇歳の生涯を閉じた。ブッダの遺体は転輪聖王の葬儀と同じように油漕につけら れた後、荼毘に付された。遺骨は八等分されて各地に埋葬され、ストウーパが建立 された。サーンチー 、ヾールフット、ヴァイシャ ーリーはそれらの一つであるとい う。ブッダを像として表現することは当初はなかったが、やがて仏像が出現する ガンダーラ地方とマトウラー地方に、ほば同時期、紀元一世紀頃に仏像が出現した A 」い、つ 第四章ブッダ生涯の旅路の果てに 150
ブッダは人生の悩み、すなわち生まれること・老いること・病になること・死ぬこと という万人の避けることのできない間題に苦悩した。そして、インド思想の一般と 同じく真理を知ることによってその間題を解決し、生存の連続という輪廻の束縛か ら脱却することができると考えた。ブッダは、当時のバラモンや新興宗教行者 ( 沙 門 ) が行っていた、真理を知るための瞑想やさまざまな行を一通り行ったと思われ る。二九歳でカピラヴァストウを旅立ち、まず沙門の集まるマガダ国ガャー地方へ と赴いた。そして、その郊外の山中に入り「七年間慈心を修した [ という。苦行とい えば断食などの肉体的苦行を思い浮かべることが多いが、「慈悲の心」も重要な苦行 として実践したのである。ガャーの郊外において悟りを開き、やがてそこはブッダ ガャーと呼ばれることになった。 第ニ章ブッダ心の葛藤