インド、仏教の現在・ : 年 5 月、満月の日 ーフがあった。一つは、叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公 で、インドの国民的英雄として絶大な人気を誇った「ラ ーマ王子 . 。一つが、紀元前七世紀頃の実在の人物であ ったと言われ、その後神格化された「クリシュナ」。もう 一つが、ラーマの別の神話から題材を取った「斧を持っ ラーマー。そして、一番奥まったところに、「ブッダーの レリーフがあった。 ブッダが、ヴィシュヌの化身に取り込まれたのは、一 、、 . を " 説によれば五世紀のことと言われる。それは、ブッダの 死後およそ一〇〇〇年、インドで隆盛した仏教に翳りか 菩提樹の根元で祈る。 見え始め、バラモン教から発展したヒンドウー教が栄え 始める時期と一致する。ブッダは、かって人々の苦しみ を救済した人物として、ヴィシュヌ信仰の中に組み入れ られたのである 般に、インドで生まれた仏教は、インドでは滅亡し たと言われている。それは一三世紀初頭に、イスラム勢 力の北インド侵入によって、インド仏教最後の拠点であ った、現在のヒノ 、、、ール州東部のヴィクラマシーラ僧院が 破壊されたことをもって語られる。しかし実際には、仏 読経し祈りを捧げる。
人間ブッダの誕生伝説 高さ一二センチ。二つとも現在、デリーの国立博物館に保管されている。 この二つの舎利容器は、一〇〇年前にペッペが発見したものの、さらに下の地層から出 上したものである。考古学的な年代推定により、これら二つは、紀元前五 5 四世紀のもの で、ブッダの死んだ時代とはば一致することが分かった。ひるがえって、ペッペの発見し た舎利容器は、オリジナルのものではなく、 紀元前三世紀頃に収められた複製品であろう との推定がなされた。 あわせて行われた棟の東側の僧院跡の発掘調査からは、カピラヴァストウとはっきり銘 されたテラコッタ製の容器が出上した。インド考古局は、これらの事例をもって、このピ プラーファーの地が、カピラヴァストウであると結論づけている。 ただし、新出上の舎利容器と遺骨が本当にブッダのものかは、時代が一致するだけで、 銘文などの文字資料がなく、 一〇〇 % は断定できない。遺骨に炭素年代法などの科学的な メスを入れれば、もっと精密な年代特定と、仏舎利かどうかの判断ができるとも思うのだ が。当面は、信仰の対象となっている遺物ということで、そのような調査の予定は無いそ ブッダの舎利容器と言われるものは、実はもう一つある。経典によれば、ブッダの遺骨 はカピラヴァストウのシャーキャ族を始め、八つの部族に分けられた ( 舎利八分 ) と言われ ー丿ーのリッチャヴィ族がある る。そのうちの一つに、ヴァイシャ ヴァイシャ ーリーとは、・インド、ヒ ハール州の州都・ハトナーの北五〇キロにある小さな 村である。ヴァイシャ ( 商人 ) の町という意味で、ブッダの時代、ブッダの教団の有力なパ 4
デリーから飛行機で南西に四〇分、隣のウッタル・プラデーシュ州の州都・ラクナウへ向 かった。ラクナウからは、車に乗り換え、北東へ向かう。大都会から地方都市を経て、北 人々の数も、どん インドの田園地帯へ入ると、あっという間に風景は移り変わってい く。ほこりつばさと人の多さによる、むせるような臭いか無くなって どん少なくなってい きて、さわやかな空気が包み込んでくれる。私たちがこの道を通った一一月下旬、稲刈り の作業が終盤に入っていた。刈り終わった田んばは、冬小支のために、農夫が牛を引いて ていたであろう、実に素朴な光景である。 、こ。らくプッダの時代から続い 耕してしカエ . 、ヾルランプルという小さな 一五〇キロはどの距離を、北東に四 5 五時間かけて走ると 町に至る。ここは、ブッダが説法したといわれる祇園精舎に行く場合、帯在するのに最も インド・ネパール国境 便利な町である。バルランプルから東へさらに一五〇キロ。この間の道は、インドの田舎 の中でも道路の舗装状態がよく、事故の大渋滞に出くわさない限り快適なドライプと言え くつかの国境の検間所があるが、そのう る。・・イン 2 ーから、イ / 、ヾールへ陸路で入る場合は、い 、ヾール間は、ビサなしで行き来できるた 、一 ~ 一第ちの一つソナウリの町に到着する。インドと、イノ め、国境の町はどこも、荷物を満載したトラックや、仕事や学校に行くためにネパールか らインドに来る人々でごった返している。ソナウリでは、国境がはば東西に走っている 、亟めて自山な国境地帯である。アジアで が、見渡してもそのことを示す柵など全くない これはどのんびりした国境は、ほかには無いのではないだろうか ネパール則は、バイラワーという地名になっている。パスホートコントロールも極めて 簡素で、簡単にネパールに入ることができる。ルンビニーはもう近い。あと車で一時間で 第一章人間ブッタの誕生伝説 こをニ三 ~ い当
ブッダガャー大塔周辺 悟りを開く ブッダガャーの近くには、ガャーという古い町がある。ヒンドウー教の聖地の一つで、 現在は、ヴィシュヌ神を祀るヒンドウー教寺院が多く、とりわけヴィシュヌの教えに基づ く祖先供養では有名な場所である。古代インドでも、バラモン文化の中心地であったと言 われている。ブッダは、このガャーの郊外にある菩提樹の下に座って悟りを開いたため、 その場所がブッダのガャー、「ブッダガャーと仏教徒の間で呼ばれた。今、現地では「ポ ード・ガャー ( 悟りのガャー ) 」と呼ばれている 仏教徒の目標の一つに、ブッダと同じ梧りの境地を目指すことがある。その意味では、 このブッダガャーは、仏教徒が最も尊敬と憧れをもって訪れる聖地である。しかし、この 最大の聖地においても、ここがブッダの悟りの場所であると確認されたのは、一九世紀末 のことであった。 マハーボディー寺院の大塔は、五二メートルの高さにそびえる尖塔であるが、厳密には 「塔 ( ストウーパ ) 、ではなく、仏像などを安置する「祠堂」である。原形が二世紀にさかのばる と言われる大塔は、一三世紀初めのイスラム勢力の北インド侵入以来、仏教徒たちによっ て精舎一円が保護のため土で覆われ、長年丘のようになっていた。一九世紀後半、イギリ ス人考古学者カニンガム ( 後にイギリスが設立し、現在インド政府に引き継がれているインド考古局の初代 長官とな「た人物 ) によって発掘されるまで、六〇〇年以上にわたって上に埋もれていたので ある。 ( 『ジオ』一九九六年三月号、「三蔵法師のインドへの道」より ) カニンガムは、紀兀前三世紀にアショーカ王によって奉納されたという金剛宝座を確認 ブッダ悟りと説法 121
ヴェーダ聖典 できるが、全部を覚えているわけではないという 再三にわたって、インドには歴史書が無いと書いた。理山として一つには、輪廻という 、ま一つは、インドが書き記す文化ではなくて、 世界観による説明が成り立っと思うが、し 聞き覚えた音によって伝承する文化の上に成り立っているからである。膨大な『ヴェーダ』 の言葉は親から子へと書き物によらず、ひたすら「ロ伝」されてきた。後世、それは書き残 されたが、基本は「覚えるーことである。 カメラの前で、ニーラカンタンさんと息子さんたちに、『サーマ・ヴェーダ』の一部を暗 唱してもらった。常に、右手を縦に横に動かしながら暗唱は続く。そうして体で『ヴェ ダ』を覚えていくのである。『ヴェーダ』の言葉は、後のサンスクリット語の元になった言 語で、今では死語となっている。しかし、今聞くことのできる『ヴェーダ』は、紛れもなく 三〇〇〇年前から一言一句変わらぬヴェーダ語だ。驚いたことに、彼らは歌われている内 容の意味を全く知らないのだという。藤井氏によれば、意味を知ってしまうと言葉は意味 を理解するために変質してしまうため、バラモンはひたすら音だけで言葉を変えすに伝承 してきたのだという こうした文化の中にいたブッダも、自らは何も書き残していない。ブッダの言葉を、弟 子たちがロ伝していき「経典」が生み出されたのである。私たちは、文字で記されたものの ほうが正確で、ロ伝されたものは不正確だと考えてしまいかちだが、インドでは、覚え、 げんじよう ロ伝していくのが正統なのであった。かって中国の玄奘は経典の写本を求めてインドに ま ~ 一 = ~ 来た。玄奘も学んだナーランダの仏教大学では、僧侶は皆、経典を暗唱できたという。イ 第ニ章ブッダ心の葛藤
諸地域における仏教の伝統や現状となると、はとんど知識もなく、関心もな いというのが平均的日本人の実状であろう。 私たちは先す、アジアの諸地域での仏教の生きた姿を知る必要がある。そ こでは、せつかちに近代化に突き進んだ日本とは異なって、伝統文化として の仏教が今なお社会の中で指導力を持っている。それだけでなく、仏教本来 の利他の精神を生かして、現代的課題に積極的に取り組んでいるところもあ る。 「ブッダ大いなる旅路 . の目指すところは、仏教を生んだインドという大地 の中に、キリスト教やイスラム教とは違った宗教的特色を見出し、東南アジ アの仏教の中に、ブッダの直系の教えが息づいているところを探ることにあ る。続い て、日本の仏教のルーツとして、インドから北に伝わり、中央アジ アを経て中国に入り、漢訳仏典を通して東アジアの全域に拡まった仏教の跡 を辿ることである。 ブッダの教えを私たちの心のうちに甦らせることは、おのすから、狭いナ ショナリズムを超えて、国際社会において日本人が今後果たすべき役割を見 つける強い手がかりとなるであろう。今回の試みが、その手助けとなること をひそかに期待している。
いう。みるみるうちに屋根ははかされ、屋根を支える竹だけがむき出しになっていった。 作業は三〇分はどで済んでしまった。 一時間後、ビノイさんが帰って来た。家に入り、黙って家の中から空を見上げる。その 日は乾季には珍しく曇っていて、今にも雨が降りそうな状態だった。 「雨が降ったら、料理をする部屋に荷物をまとめます。ビニールシートでも借りて、屋根 にするしかないかもしれませんね」 少し落ち着いて、ビノイさんは話してくれた。しかし最後に、ばつりとつぶやいた 「でも、とても海しい。人から物をもらわないで、自分で何か仕事ができたらなあ 、ングラデシュの仏教徒は、もちろんこうした貧しい人々ばかりではない。貧しい中か ら努力して、医者や弁護士、実業家になっている人も大勢いる。しかし残念ながら、大多 数の人々は、生きることだけで精一杯の暮らしをしているのが実情である。私たちは、仏 教が暮らしの中に生きている現場も、仏教の教えが何の意味も持たないかのような過酷な 現実も見た。ただ、仏教徒であることだけが村の人々を一つにまとめ、お互い助け合って いくという精神の基礎を作っているのではないかと思う。リタさんの家族は、仏教徒でな ければ、バングラデシュという国の中では生きて行くことすらもできないのかもしれない 何から始めて現状を打破していけばいいのか、私には正直全く分からなかった。二五〇 〇年前、ブッダも、貧困にあえぎ、病気に苦しむ人々とともにいたことであろう。ブッダ はそうした人々に、ひたすら心の安らぎに至る道を説いた今、ブッダが生きていたなら ば、チッタゴンの仏教徒に、どういう言葉をかけていたであろうか 第五章ブッダ入滅後のインド仏教の行方 192
古大 経図 豊書 館 所 蔵 の 存 す る 最 九七年四月、ロンドンの大英図書館に行き、東洋インド部門の責任者、グラハム・ショ ウ氏の好意で、本物の「最古の経典」を見ることができた。 「ディーラーから、壷に入った一三本の白樺の樹皮の小さなロールを見せられた時、表面 にびっしりと、古代インドのカローシュティー文字が記されているのを見ました。これは きっと重要なものに違いないと確信して購入したのです。しかし、復元作業は大変でし た。小さなロールは、少しでも触れれば、ばらばらになってしまうので、担当者がピンセ ットで小さな断片を一つすつつまみ上げて、元の一枚一枚を再現していったのです。中に は既にばらばらになっていて、どこにくつつくのか分からない断片もたくさんありまし た。その作業は、壮大なジグソーハズルを作り上げるようなものでした。そしてやっと、 五七枚のシートの復元を完成させたのです [ ショウ氏は、そのように前置きして、経典が保存されている部屋へ案内してくれた。棚 の中には、五七のシートそれぞれがガラス板に挾まれた状態で置かれていた。想像してい たよりかなり小さい。一枚は二〇 5 三〇センチの長さ、そこに黒い小さな文字がびっしり と記されている。一枚は数十の断片で構成されている。ところどころ空白があるのは、ば らばらになって結局発見できなかった断片の部分なのであろう。 ショウ氏は言う。 「カローシュティー文字の専門家は世界にも数人しかいません。私たちは、アメリカ、シ アトルのワシントン大学のリチャード・サロモン教授に、経典のすべての写真をパソコン る。 人間ブッダの誕生伝説
た。ブッダが歩いたのかもしれないこの道はガンジス河の北岸を東西に走る幹線道路であ る。しかしこの道は、私たちがインドで走った中でも最悪の状態のものであった。ヴァイ ー丿ーからクシナガラの間、およそ一〇〇キロにわたって道路が穴だらけになってい た。雨が降った時に上台の上が崩れ、そのためにアスファルトが陥没しているのである。 穴を避けながらその一〇〇キロを五、六時間かかってようやく通過すると、道の両側に は、穴を避けるためにバランスを崩したまま道路の外に横倒しになったトラックや乗用車 を見かけた。 インドでは九〇年代に入って外国資本との合弁企業が増え、携帯電話や衛星放送が普及 し急速に近代化が進んでいる。しかし、道路に代表されるインフラの整備は、相変わらす 進んでいないように見受けられる。その理山の一つに、コーディネーターの氏が挙げた ・、ール州では、中央政府から道路整 のが政治汚職である。先程のひどい幹線道路があるヒノ 備のために配布された予算の一部を、州政府の高官が懐に入れてしまうというのだ。その ため道路は補修されす、補修されたとしても手抜き工事で済まされてしまう。現代インド の暗部か見えてくる瞬間だ。 「尊師は、この小さな町、竹ゃぶの 町、場末の町でお亡くなりになりますな」と、アーナ ンダに言わしめたほど、当時から現在まで、クシナガラはひなびた寒村のままであった。 インドの田舎町は、幹線道路沿いに小さな集落がばつりばつりとあるだけだが、クシナガ ラも仏教徒の巡礼者のための標識がなければ、道を走っていて思わす通り過ぎてしまうは だびづか どである。現在、クシナガラには、ブッダが火葬されたと言われる場所に立っ荼毘塚、そ 第四章ブッダ生涯の旅路の果てに 158
れはあたかも、平原にそびえたっ巨大な要寒である。かってのラージャグリハは、その外 輪山が形成する盆地の、さらに城壁で囲まれた内城の中にあった。ブッダの旅は、このラ ジャグリハから始まった。 しかし、ラージャグリハに関しては、考古学的にはわすかしか解明されていない マガ ダ国の王、ビンビサーラが築いたといわれる内城や、外輪山の尾根にぐるりと築いた城壁 は、当時の土盛りの跡が自然の風化のまま残されているだけである。ラージャグリハか、 ブッダの聖地の一つとして世界各地の仏教徒の巡礼や観光客を受け入れ始めてから、ビハ ール州政府観光局は外城の一部の石積みを復元した。しかし正式な発掘調査が全く行われ ていないため、最大の都であった往時の姿は、経典の中に残された描写に偲ぶしかない ただ、長大な外輪山の岩山が作りだす壮大なランドスケープは、平地の上にばつりばつり とレンガ積みが残るだけのほかの仏跡には見られない、自然のダイナミズムにあふれてい 現在、ヒンドウー教の聖地でもあるこの地には、北インドでは珍しく温泉が湧き出る 盈泉とは言っても、日本で想像するものとはかなり違う。裸になってゆっくり風呂に浸か るというものではなく、お湯の湛えられた池に、人々が服を着たまま入れ替わり立ち替わ り冰浴に入る。湯は、かなり汚く、私たちには悪臭に思える臭いもたちこめる。かってラ ージャグリハの温泉に浸かったことがある宗教学者の山折哲雄氏は、「インドの人々は体 ではなく心の汚れをこうした沐浴で落とすのではないかーと述べている ラージャグリハの北側の外輪山内側の山腹に、かってブッダが好んで瞑想と説法を行っ 第四章ブッダ生涯の旅路の果てに 1 5 2