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検索対象: ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)
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1. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

した。それは、現在カルカッタのインド博物館に収蔵される、紀元前二世紀のバールフッ トの欄楯の一場面に描かれた、中央に金剛宝座と菩提樹を祀った精舎の姿とも一致するも のであった。 げんじよう さらに七世紀には、玄奘の記録により、ブッダガャー一帯が、ほば現在の姿と同様の 規模と形態をとどめていたことがうかがえる。「菩提樹の東に精舎がある。高さ百六、七 十尺、下の基壇の広さは二十余歩ある。青い甎で畳み、石灰が塗ってある。何層にもなっ ている龕にはそれぞれみな金像が入っている。四方の壁は珍しい彫刻がしてあり、或いは 珠の形を連ねたようなものあり、或いは天仙の像がある」 ( 中村元編著『ブッダの世界』学習研究社 ) その後、スリランカやビルマ ( 現ミャンマー ) の歴代の王によって、幾度かの修復を経てい たことも確認されているが、一三世紀以来、ブッダガャーの姿は、歴史から消え去ってい たのである。 一九世紀後半の再発見以来、大塔および精舎一帯は、ビルマの仏教徒たちの大改修を受 け、さらに現在では、インド政府のブッダガャー管理委員会が、その維持にあたってい 韓国、チベットなど、アジア各国の仏教 る。近隣には、スリランカ、タイ、ミャンマー 寺院が建てられ、参道は多くの上産物屋でにぎわっている。最新の情報では、一二世紀初 頭の完成を目指して、ブッダガャー一帯の仏教公園化計画も進んでいるという。 ブッダの「悟りー、それは何なのか、それを突きつめ解明していくことが、その後の仏教 の二五〇〇年の歴史であったといっても過言ではないだろう。仏教の専門家ではない私が 一一一口えることは、ブッダは「この世で生きている間に、輪廻を含むさまざまな苦しみから抜 第三章ブッダ悟りと説法 がん 12 2 かわら

2. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

第第幇き ~ 3 当をを第 3 第 ぐ、を二 最初の説法 ( 初転法輪 ) の聖 ~ ~ 地鹿野苑はヴァーラーナシ ーの北東約ハキロ、現在は サールナートと呼ばれる。 六世紀グプタ朝期に建てら 。れ改修の重ねられた珍しい 形の仏塔タメーク塔 ( 上 ) を 中心に、玄奘訪問時一五〇 〇人を擁していた僧院跡 ~ 下 ( 下 ) など、美しい遺跡公園 になっている。ここから出 ま土した転法輪印を結ふブッ ダ像 ( 左頁 ) は、その精神性・ 端正さかあいまってインド 「仏像彫刻屈指の名作と言わ 。 ~ = 〔一一れる ( サールナート博物館 悟りを得た後もブッダは動かなかった。自分のつかん だ真理が深遠微妙にすき、世人に理解されないことを 思ったからである。真理が世にあらわれぬことを惜し むフラフマン ( 梵天 ) の勧請によりプッダは布教を決意 し、最初の説法に向かう。ともに修行した五人の比丘 のいる地、サールナート ( 鹿野苑 ) へと。 初転の地サールナート 第ニ章ブッダ心の葛藤 獅子柱頭で有名なアシ・ ヨーカ王柱基部。プラ , 一、 ーフミー文字の法勅か 刻まれている。

3. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

ルンピニー遺跡 を再構成するしかない。 ブッダは実在した このことが証明されたのは、実は今から一〇〇年はど前の一九世 紀末のことにすぎない。その発見の一つがルンビニーでなされている。 「イギリス統治下の一八九六年、イギリス人考古学者フューラー博士は、ルンビニーの遺 跡を発掘し、アショーカ王の建立した一本の石柱を発見した。頭部は欠損し、落雷の跡と 思われる亀裂が見られるが、プラーフミー文字で五行にわたり鮮明な碑文が記されてい た。解読の結果、その碑文には、 かんちょう 『アショーカ王は、即位灌項の第二十年、自らここに来り、親しく参拝した。ここで ブッダⅡシャカムニが生誕せられたからである。それで石で馬像を造り、石柱を造立せ しめた。ここで世尊が生誕せられたのを記念するためである。ルンビニー村は租税を免 除せられまた、生産の八分の一のみを支払うものとする』 とあり、この地が、ブッダ生誕の場所であることが判明した」 ( 中村元編著『ブッダの世界』学習研 究社 ) アショーカ王は、紀元前三世紀、北インドを統一したマウリヤ朝の王で、 ( 仏教側の文献に よれば ) 仏教に深く帰依し、各地の仏跡を巡礼し、アショーカ王柱を記念に建てたと言われ る。歴史書の存在しない古代インドにおいて、アショーカ王柱に記された内容だけが、 とんど唯一の同時代資料として、当時の出来事を伝えているのである。 ルンビニー周辺は、前述の公園化計画を除いて、はとんど開発の手が入っておらす、こ こにはまだ観光客もそれほど多くはない。頭に食料や農作業の道具を載せて歩く女性た 9- 人間ブッダの誕生伝説

4. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

周辺に住み着いたという説。ヒンドウー教や密教の影響 を受けていた人々がミャンマーの影響で、上座部仏教に 改宗して現在に至っているという説。八世紀から一二世 紀にかけてべンガル地方を拠点とした仏教国家「ハ 朝 . の仏教徒の子孫だという説。 いすれにしても、上座部仏教がこの地に根を下ろした のは、一九世紀半ば、東隣のミャンマーからサーラメー ダという長老が来て、密教化していたチッタゴン周辺の 仏教徒を上座部に導いて以来だという。少なくとも一世 紀半、もしかすると七〇〇年以上にわたって、仏教がこ の地には根を下ろしていたことになる。 ハングラデシュで出会った仏教徒は、単に仏教を信じ ているというだけの人々ではなかった。仏教の教えや、 、、寺や様寺を中心とする仏教の組織が、人々の日々の暮らしに生 ナきていたのである。イスラム教の国家で少数者として生 きる困難さ、世界でも有数の貧困の中での想像を絶する の苦しみ、サイクロンなどの自然災害との闘いの中で、 - ぐニ人々は仏教徒であることを共通のアイデンティティーと 刊して、仏教を通じてお互いを助け合いながら生きていた プロローグ カティーナの間、人々は敬虔な祈 りを捧ける。モ八ムニ村にて。

5. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

仏教伝播図 モンゴル 日本 1 2 ~ 1 5 世紀 5 世紀 6 鮮 北京 敦煌 楼蘭 雲崗 ・洛陽南京 タ ス ア ン 中国 河 長安 パキスン もネパール 1 世紀 チベット カヒラヴァストゥ バングラ アシュ . ラサ ブータン 台湾 5 世紀 ・バガ、 ンマ 資 料 226 インド 世 ス オ タイ ン シア 1 1 世紀 4 ホロンナールワ 紀元前 3 世紀頃 スリランカ 仏教教団〔サンガ〕はブッダ入滅後 1 OO 年を過きた頃、上座部と大衆部の 2 部派 に分裂した。このうち上座部は、紀元前 3 世紀半はに全インドおよびスリランカ に広まり、その後 12 世紀頃までに陸路 海路から東南アジア各地にもたらされた。 これがいわゆる南伝仏教の伝播ルートで ある。一方、大衆部は紀元前後に中国に 達し大乗仏教に発展した。これはその後 4 世紀後半には朝鮮半島、 6 世紀半ばに は日本に伝わった。また 6 世紀後半にチベッ トに伝わった仏教は、チベット仏教とし てモンゴルにまで拡大していった。 0 く b インドネ ボロブドウーレ 世紀

6. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

工ヒローグ 再びインド、輪廻する大地 207 再びインド、輪廻する大地 カルカッタの仏教徒 インド世界に仏教徒を追う旅は、これで終わりではな かった。私たちは、チッタゴンのべンガル人仏教徒が、 二〇世紀も終わりにさしかかった今、再び故郷インドの 地に戻っていることを知った。 私たちが向かったのは、カルカッタ。イギリス植民地 時代の首都で、現在も人口一三〇〇万人を抱えるインド 最大の都市である インドに行くなら、カルカッタは最後に行ったほうか 決してカルカッタから旅を始めないほうかいい と言われる カルカッタは、インドの抱える間題のすべてが凝縮さ れた町だからだ。人口爆発、極端な貧富の差、スラム、 難民、大気汚染、交通渋滞、自然破壊 : : : 。枚挙にいと まがないほど、そうしたもののすべてに出合うことかで きるのがカルカッタである。

7. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

信仰と苦行 は人に災難をもたらしたり、殺したりすることさえ可能であった。このように伝統的な苦行は、 何かの世俗的な目的達成のために、その力を具えるべく行われたのであった。 こうした苦行は釈尊の意図するところではなかった。釈尊の目指すところは、「安定して、正 おも しく念い 橋りを得る」ことであった。それは「優れた知慧の達成、でもあった。 それらを放棄し乗り超えて、最後に菩提樹下での深 釈尊はさまざまな禅定修行や苦行を行い、 ボーディという言葉 い瞑想の末に橋り ( ボーディ、 b 。 dhi) の境地に到達し、フッダ ( Buddh しとなった。、、 は、「知る」という意味の動詞ブッドウ ( buddh ) に山来し、神定三昧によって到達した深い境地に裏 打ちされた、不動の智慧であり叡知であると言えるだろう。欲望によって生する無明の苦しみの 世界を克服し、「目覚めた人」 ( ブッダ ) となったのである。その境地は容易に想像し難いが、 ダにおいて悟り ( ボーディ ) という抽象的な概念が人格化された、言い換えれば、ブッダは叡知を体 現した身体と見なされたと言えよう。 ブッタ、肉体表現の象徴性 最後に、ブッダの宗教性と身体の間題を考えるために、二体の仏像を取り上げよう。 ます一体は、有名なガンダーラの釈迦苦行像である〔図 2 〕。釈迦の苦行の話を述べる場合に、 冖図 2 〕釈迦苦行像一一ー三世紀頃 この像はしばしば挿図として用いられる。確かにこの像は、経典に説かれる釈迦の激しい断食苦 ( シクリ出土、ラホール博物館 行の有り様を彷彿とさせる。落ちくばんだ眼と痩せこけた頬、肋骨と皮膚だけになって血管か浮 ばんだ身体には、ガンダーラ美術のリアリズム ( 現実主義 ) 表現が極めて鮮 き上かり、腹は大きくく 明に現れている。骸骨のような痩せこけた体驅のリアルな表現は、観る者に釈尊の精神的な苦し ( 「みを感じさせ、しかもそれを超えた崇高ささえ感じさせる しかしなから、このようなリアリズムはインドの辺境文化とも言えるガンダーラ ( 現在のパキスタ ン ) 美術の大きな特徴としても、インド内部においては全く想像し難い表現なのである。という 蔵 )

8. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

イスラム教徒、ヒンドウー教徒が全人口の九ハ % を占 める八ンクラテシュては、仏教徒は絶対的少数者てあ る。彼らはチッタゴン周辺の、寺を中心とした集落 ( ひっそりと暮らしている。仏教という共通のつながり だけが、人々の生活を守っ ( くれている。 ルフ バングフデシュ仏教の今 托鉢に向かう少年僧たち。信仰の篤い仏教徒 が多いという一方、貧しさのため子供を寺院 に入れざるを得ないという現実かある。 家々を回り布施を受ける。仏教は相互 扶助の仕組みとしても機能している。 バングラテシュ仏教徒の苦悩 ノク一フ一ア、ソュ圧倒的なヒンドウー教の勢力の下、インドの仏教は衰退してい 0 た。そして一三世紀、イスラムの侵入 でほぼ壊滅する。わずかに残った仏教徒は各地に逃れ、ここバングラテシュにも移り住み、今もその末 裔は古来の仏教の生活を守り、暮らしている。世界最貧といわれるこの国の仏教徒を追ってみた。 絵徒の

9. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

四世紀から七世紀にかけてのグプタ朝期に仏教美 術は完成期を迎える。均整がとれ高い精神性を具 えた仏像が多く作られ、その結実がサールナートに見られる。 サールナート、 「仏伝の諸場面」サールナート 出土五世紀三ューデリー 国立博物館蔵 ) 第四章ブッダ生涯の旅路の果てに 168

10. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

現存する最古の 経典 最近まで、断片として現存する最古の経典は一一 世紀前後のものとされてきた。ところが大英図 書館に最近収蔵された文書か一世紀前半の経 典の破片であることか判明したのである。実在 のブッダの姿に光かあてられつつある。 大英図書館には恐らくでは一世紀前半、現存 アフガニスタンで発掘最古のものとされる。 されたと思われる五個現在解読が進められて の壷が最近収蔵されいるか、まとまった仏 た。その一つから西北典としては最も古いと ( インドにおいてはプラされるバーリ語仏典と ーフミー文字以前から共通のものか多く確認 五世紀まで使われていされ、ブッダの言葉を たカローシュティー文正確に知るための資料 字で書かれた仏典の断としてたいへん重要で 片が発見された。推定ある。 第一章人間ブッダの誕生伝説 一ぎミ 56