苦行 - みる会図書館


検索対象: ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)
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1. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

伝統的なバラモンと苦行者たち 行によってあらゆる欲望を抑えて、ひたすら瞑想にふけるというものであった。体に針を 通したり、太陽を見つめ続けたり、肉体を徹底的に痛めつけるサドウーも数多くいると聞 くか、そうした徹底的な苦行は、山奥で一人で行っていることが多いという。肉体を痛め つける苦行によって、すべての欲望が消え去った時、精神が研ぎ澄まされて、この世の真 理が目の前に明らかになるのだと言われている。私たちは、そうした激しい苦行者も撮影 したかったが、「撮影を許してくれるような苦行者は、所詮は偽物だよ」と、サドウーの一 人に諭されてしまった。 ブッタの苦行 ブッダは、カピラヴァストウの城を出て、当時のマガダ国の都であったラージャグリ ・、ール州ガャーの郊外にある、ウルヴェーラーのセーナー村にやって来 を経て、現在のヒノ たと言われている。そこは、多くの苦行者が集まる修行の中心地であった。 ブッダも、多くの苦行者とともに、六年間の修行をこの地で続けたと言われているか、 経典には、ブッダが、具体的にいつ、どこで、どのような修行をしたかについては、ほと んど記されていない確かなのは、ブッダが、苦行によっては自分の目指す解脱の道は見 と結論づけたことであった。京都大学人文科学研究所教授の荒牧典俊氏は、 いだせない、 ヾーリ語経典の『スッタニバータ』の中に、苦行を積み重ねたうえでブッダの心に表れた疑 間と、後の「悟りの確信につながる、ブッダ自身の言葉を伝える部分があると指摘してい あたかも沼の水が干上がっていくとき、魚たちが生きのびようとして、あっちこっ

2. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

冖ブッタを知る】 ストウーバと仏舎利ーー構造に託された意味を読み解く杉本卓洲 最古の仏典ーー年代が特定できる現存最古の仏教写本榎本文雄 第二章ブッタ必の葛藤 材出家から苦行の道 , 、。ーインドの大地とブッダ 冖フォトルボ」 四大聖地とゆかりの地を訪ねて 伝統的なバラモンと苦行者たち 【フォトルボ〕 今も生きるバラモンと伝承学校 修行を続ける苦行者たち 【フッタを知る】 ブッタを育んだインドの風土蓑輪顕量 信仰と苦行・ーーブッタの修行と身体宮治昭 目次 9 ・ 6 101 9- 111 10 5

3. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

ルフ 修行を続ける苦行者たち 修 - 行を続けるインドの聖地と呼はれる場所を訪れると、必すと言 0 ていいほど、蓬髪の、垢と埃にまみれた修 ヒンドウー教徒の中でも、宗教的エリートとされている。 害行者たち 山中の石の上て瞑 想する行者。ヒン ドウー教では在俗 の教徒でも晩年は 101 リシュケシュの洞 窟内で修行する行 者。苦行、教典読 誦、瞑想などヨー ガの修法か中心に なる。

4. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

も釈尊がさまざまな苦行をなしたことが記されている。例えば、糞掃衣、樹皮、羚羊の革などの 衣を着けたり、常に直立する行やうすくまる行、あるいは棘の床の上に臥す行など、身体の苦行 を行った。また、身体に塵垢がたまって苔か生する貧窮行、微小な生きものを殺したりすること のないよう気をつけて歩む嫌悪行、人を見たり人に見られたりすることのないように森林の奥深 くひそんで住する孤独行も行った。特に孤独行はしばしば人を恐怖に陥れるが、それと対決する ことによって恐怖を乗り超えることかできるという 釈尊の行った苦行の中で最も激しいものは、止息神と断食苦行であろう。止息神は呼吸を止め る神定苦行で、日と鼻からの呼吸を止めると、耳からの風が突き抜け、頭をかき乱し、腹を切り なつめ 開き、激しい痛みがして身体に熱力が生すると言う。また、断食苦行も激しいものであった。棗 の実、豆、胡麻と次第に減じていき、最後 ( ( こま粳米を食べ、その粉、液汁とし、ついには一粒の 粳米のみとした。そのため、手足の関節は草の節のようになり、臀部は駱駝の足のようになり、 脊柱は紡錘を繋げたように凹凸になった。また、肋骨は腐蝕し破れ、眼窩は深くくばみ、体毛は 脱落し、腹皮は脊柱に密着してしまった。 釈尊は結局のところ、こうした苦行は何の益もない、苦行によっても橋りには至らないと知っ て、それを放棄する。それは苦行によっても「優れた智慧が達成されなかったからであるーと経典 に一べら、れている (Mahäsihanäda-sutta, MN. No. こ , vol. 一 ) 苦行も広い意味でのヨーガ行法の一つで、インドでは古くから修行者の間で行われていた。苦 行はタバスミ p と言い、熱や熱力をも意味する。激しい苦行によって身体に熱カか蓄積され、 行者に種々の神秘的な力が具わると見られたのである。さまざまな願いごと、あるいは災いも行 者の苦行の力によって達成され、また除去されると考えられた。延命長寿や無病息災の呪法、 種々の奇蹟のカ、千里眼や神秘知なども苦行 ( タバス ) によって具わると見られた。場合によって 第ニ章ブッタ心の葛藤 114 ふんぞうえ

5. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

ツ タ 行 の 地 正 習 - っト朝 「ブッタの悟り」とは ガダ国の都で、さまざまな宗教家の活躍する宗教都市でもあったラージャグリハで、ブッダはま ずバラモン系の宗教を学んだ。そして、この宗教の説く禅定を修行してたちまち最高の禅定の境 地に到達した。しかし、この神定の境地に入っている間は、確かに心は安らかさを保っていた か、いったんその神定から出てしまえば、若い頃から抱いていた人生についての不安はもとのま まで、ブッダの心をいつばいに満たしていた。神定の修行に見切りをつけたブッダが、次に身を 投じたのは苦行者の群れであった。ブッダの後の日の回想で、「ゴータマはすでに死んだ、と 神々は田 5 った」と言っているはど激しい苦行を行ったが、結果は同じであった。苦行はいたすら に心身を苦しめ、弱らすだけで、生存の苦しみはブッダから離れ去る気配すらなかったのであ る。 ブッダは六年間と言われる苦行をやめて、ナイランジャナー河の水で身を清め、近くの村に住 こん」うざ む少女スジャーターの布施した食事をとって心身を整え、菩提樹下の金剛座に坐って最後の神定 に入った。仏伝経典では、この時最初の悪魔 ( マーラ ) の来襲があり、ブッダはそれを退けたと記 しているか、実際は、どれほどの間ブッダがそこで禅定に入っていたかは分からない 禅観をすすめるうちに、突然、ブッダはこれまで心に重くのしかかっていた生存の苦しみ、人 生の不安が全くなくなっていることに気づいた。むは軽くなり、安らかになった。そればかりで はなく、とらわれていた心に取って代わって、宇宙の生命とでも言うべきものが自分自身のうち フッダの橋りは、おおよそこのような内的経験であった で躍動していることが自覚された ろうと思われる 仏教史における悟りの表現 仏教史の上で、多くの人々が自分自身の悟りという内的経験をさまざまな言葉で述べている しんしんだつらく が、ここで思い起こされるのは、道元の悟りの機縁となった「身心脱落」という言葉である。すべ 145

6. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

信仰と苦行 は人に災難をもたらしたり、殺したりすることさえ可能であった。このように伝統的な苦行は、 何かの世俗的な目的達成のために、その力を具えるべく行われたのであった。 こうした苦行は釈尊の意図するところではなかった。釈尊の目指すところは、「安定して、正 おも しく念い 橋りを得る」ことであった。それは「優れた知慧の達成、でもあった。 それらを放棄し乗り超えて、最後に菩提樹下での深 釈尊はさまざまな禅定修行や苦行を行い、 ボーディという言葉 い瞑想の末に橋り ( ボーディ、 b 。 dhi) の境地に到達し、フッダ ( Buddh しとなった。、、 は、「知る」という意味の動詞ブッドウ ( buddh ) に山来し、神定三昧によって到達した深い境地に裏 打ちされた、不動の智慧であり叡知であると言えるだろう。欲望によって生する無明の苦しみの 世界を克服し、「目覚めた人」 ( ブッダ ) となったのである。その境地は容易に想像し難いが、 ダにおいて悟り ( ボーディ ) という抽象的な概念が人格化された、言い換えれば、ブッダは叡知を体 現した身体と見なされたと言えよう。 ブッタ、肉体表現の象徴性 最後に、ブッダの宗教性と身体の間題を考えるために、二体の仏像を取り上げよう。 ます一体は、有名なガンダーラの釈迦苦行像である〔図 2 〕。釈迦の苦行の話を述べる場合に、 冖図 2 〕釈迦苦行像一一ー三世紀頃 この像はしばしば挿図として用いられる。確かにこの像は、経典に説かれる釈迦の激しい断食苦 ( シクリ出土、ラホール博物館 行の有り様を彷彿とさせる。落ちくばんだ眼と痩せこけた頬、肋骨と皮膚だけになって血管か浮 ばんだ身体には、ガンダーラ美術のリアリズム ( 現実主義 ) 表現が極めて鮮 き上かり、腹は大きくく 明に現れている。骸骨のような痩せこけた体驅のリアルな表現は、観る者に釈尊の精神的な苦し ( 「みを感じさせ、しかもそれを超えた崇高ささえ感じさせる しかしなから、このようなリアリズムはインドの辺境文化とも言えるガンダーラ ( 現在のパキスタ ン ) 美術の大きな特徴としても、インド内部においては全く想像し難い表現なのである。という 蔵 )

7. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

ブッダの修行と傑 宮治昭学宿 田一信仰と苦行、ー インド思想の身体性 インドの宗教・田 5 想は、一般に身体の間題と深い結び付きを持っている インドでは精神と身体は表裏一体の関係にあり、精神の自山を得るには身体をいかに統御する かが重要であると考えられてきた。釈尊は出家後、さまざまな修行、すなわち禅定や苦行を試み た力いすれにも満足できす、最後に菩提樹の下で深い瞑想に入り、橋りを得たという仏教は 思想としての側面も大いにあるか、それは単に頭脳で考えられた教えではなく、釈尊の深い瞑想 によって到達した境地に裏打ちされた叡知であることを忘れてはならない 釈尊は次のように述べている ひろ 友よ。わたしは、意識もそなえ心もあるこの一尋の身体に即して、世界そのものと、世界の 生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道とを説示するのである。 ( 中村元訳『サンユッ タ・ニカーヤー』岩波文庫、傍点引用者 ) こうした「身体に即し、た宗教的実践は、広くはヨーガと呼ばれる瞑想法で、釈尊もその伝統を ハラモン階級のヴェーダの祭式主義で 踏まえている。ヨーガはインド思想史を大きく見た場合、 はなく、インダス文明にまでさかのばる身体の行法であって、それによって精神の安寧を得よう とする、非アーリヤ的・非バラモン教的起源を持つものであった。しかし、ヨーガは時代ととも に、その行法や哲学的・思想的な基礎づけがなされて発展し、バラモン教およびそれを継承する いく。と同時に、仏教やジャイナ教も積極的にヨーガの行法を ヒンドウー教にも取り入れられて 摂取したのである 0 信仰と苦行 0 1 1 1 0

8. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

出家から苦行の道 は、六〇歳、八〇歳、一〇〇歳のいすれかであったりするはど大雑把だった。これも、現 世を仮の世ととらえるインドの人々の世界観の影響なのか、と妙に納得したものだった。 輪廻からの解脱 古代インドの人々は、苦しみである輸廻転生から逃れる道を探し始めた。ブッダの見た 生老病死の苦しみもまた、輪廻転生の世界観の中で、その苦しみを永遠に繰り返していく というものであった。ブッダもまた、輪廻の苦しみから逃れる方法Ⅱ「解脱。を求めたので ある。その第一歩が出家であった。 簡単に「出家」と言っても、残された家族は大変である。ましてやブッダは、シャーキャ 族の王子であり、後に王となる人物である。その頃ブッダは、ヤショーダラーという女性 ゞ、こ。麦こノヤーキャ族はコーサラ国に吸収されてし を妻に持ち、ラーフラとい、つ息子力しオ彳 ( 、、 まう運命に見舞われるが、それもブッダが一族を捨てて出家したことに遠因があるのかも しれない ブッダが出家した時の妻ヤショーダラーの悲しみの言葉が、経典の中に残されている 我が君よ。私が妻として正しく努めを果たしているのに、なぜ私を置いて行ってし まったのですかむかし、王か山林にこもって修行したという話はいくらでもありま すが、妃を伴い、夫婦ともに頭を剃り、力を合わせて出家苦行しようというのではあ りませんかあなたは何のために苦行しようというのですかああ、何と不吉なので しよう。姿は柔らかいのに、むは何と固いのでしよう。 ( 渡辺照宏『釈尊をめぐる女たち』大法輪閣 )

9. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

苦行を捨てたブッダはナイランジャナー河で沐浴をし、近くの村の娘スジャーター から献上された乳粥を飲み体力を回復した。そして近くのアシュヴァッタ樹 ( 梵語 名、ピッパラ樹 ) の下にクシャ草の座を作り瞑想に入った。この時の瞑想法がヴィバッ サナー瞑想法としていま現在に伝えられている。こうしてブッダは自己の心を観察 することから悟りを開いた。南伝の伝承によれば、ヴァイシャーカ月の満月の日 ( 五月の満月の日 ) であったという。後にアシュヴァッタ樹はブッダの語りにちなんで 菩提樹と呼ばれる。悟りを開いたブッダは、苦行時代の同門の五人の修行者に法を 説こうと考え、ヴァーラーナシー郊外のサールナート ( 鹿野苑 ) へと赴いた。そして 四諦八正道または十二因縁の法を説いたという。ブッダは雨季には一か所に定住 げあんご し、瞑想と弟子の指導に時間を費やした。これを夏安居と呼ぶ。好んで夏安居を過 ごした場所がラージャグリハ ( 王舎城 ) の竹林精舎とシュラーヴァスティー ( 舎衛城 ) の 祇園精舎である。 第三章ブッダ悟りと説法 1 18

10. ブッダ大いなる旅路 1 (輪廻する大地仏教誕生)

冖図 1 〕盧舎那大仏蓮弁線刻図様 ( 東大寺、奈良時代 ) 信仰と苦行 世界観においてこの二つの境地は、色も形もない無色界の中の最高の位置を占めている。つま り、欲界・色界・無色界の三界の中で、精神的存在である無色界の四つの領域、空無辺処・識無辺 処・無所有処・非想非非想処の最後の二つに当たる。これらはもともと神定の境地を指していた が、仏教世界の中でそのような場所があると考えるようになったのである。ちなみに、東大寺盧 舎那大仏の蓮弁には三界を含む仏教世界図が刻まれている〔図 1 〕が、三界は多くの罫線で表さ れ、そこに天人や宮殿が描かれている。しかし、最上位の非想非非想処は罫線のみによって示さ れ、そこには何も表されていない。視覚的イメージを超えた世界と見なされたからであろう。 ブッタ、苦行の果てに いすれにしても、釈尊は恐らく当時最高のヨーガ行者と見られた仙人のもとで修行したが、そ の境地にも満足できなかった。非想非非想処と呼ばれる禅定の境地は、考えられる最高の行法と 言えるものと思われるが、どうして釈尊はそれをも乗り越えようとしたのであろうか先程の東 大寺大仏の蓮弁に表された世界図を見ると、興味深いことに、無色界の最上に位置する、単なる 罫線で表された非想非非想処の上には、理想的な人体像で表された釈尊の悟りの世界が大きく表 されている。このことは非想非非想処と悟りの世界の相違を考えるうえで示唆的である 無所有処や非想非非想処の境地と、菩提樹下での深い瞑想によって達成された悟りの境地と が、どのように異なるのか、それを言語化することははとんど不可能と思われるが、少なくとも 後の仏教徒たちは、悟りの世界が単なる「無」の世界への到達ではなく、現実世界の中で理想的な 身心を達成したと見ていたことは確かであり、逆にそのことが釈尊の目指した神定がいかなるも のであったかを考える手がかりとなろう。 釈尊は禅定の行法だけでなく、激しい苦行もなしたと伝えられる。後世の仏伝では一般に、釈 尊は二九歳で出家し、六年間にわたって山林にこもって苦行を行ったと言われる。初期の経典で 1 1 ろ