私たち への メッセーシ > エンロンのようなサイズの大きな不正は滅多に起こることはありませんが、 一方で「小さな不正」はいつでも身の周りで起き得ることでしよう。そういっ た不正を起こさせないため、もしくは自分自身が当事者にならないために、 周囲に存在する「機会」「動機」「正当化」の芽を摘んでおくことは大切なこと でしよ、つ。 人間は決して強い存在ではありません。追い込まれれば誰でも一線を越え てしまう存在。この事例は、弱、 し人間に対して、一線を越えさせない仕組み づくりの大切さを教えてくれるものでもあるのです。 「脆弱シナリオ」型 脆弱なシナリオに依存して、何かがあったら終わってしまう
企業名 創業年 倒産年 倒産形態 業種・主要業務 負債総額 倒産時の売上高 倒産時の従業員数 本社所在地 参照 : そごう 1830 年 2000 年 民事再生法適用 小売業・百貨店 1 兆 8700 億円 ( グループ全体 ) 約 1 兆円 約 1 万人 日本 東京都千代田区 『神様の墜落くそごうと興銀〉の失われた年』江波戸哲夫新潮社 「巨大倒産』有森隆さくら舎 『そごうの西武大包囲戦略』渡辺一雄カッパ・ビジネス 成功体験が強過ざて、そこから抜け出せずに変わる決断ができない 「過去の亡霊」型
どのようにして 倒産に 至ったのか ? ラー」という名前の背景には、トイザラスが出店すれば、周囲の中小玩具販売店は軒並み消 滅してしまう、ということがあります。当時のトイザラスはそれほどに凶暴なまでの力を持 ち、圧倒的に消費者の支持を受ける企業でした。 そして 1990 年代には本格的な海外展開にも乗り出します。日本においては、藤田田氏 年に参人しました。この動きは、玩具店を中 率いる日本マクドナルドと提携して、 19 91 心とする地元からの反対運動を引き起こし、日米の経済摩擦間題にもつながるほどのインパ クトを与えた事例となりました。小売業 1 社の参人がこれだけの注目を浴びたのは、トイザ ラスの「カテゴリーキラー」としての破壊力が強大だったからに他なりません。 しかし、それだけ勢いがあったトイザラスに、翳りが見え始めたのは 19 9 0 年代後半で した。 19 9 0 年代前半まではアメリカ国内シェアが % あったものが、 19 9 8 年には 障 % まで落ち、 1 億 3200 万ドルもの純損失を出してしまったのです。 その背景は、コマースの台頭でした。 コマース事業への入り方に 完全に失敗 玩具のネット販売にいち早く参人したのは、カリフォルニア発のべンチャー企業ィートイ トイザラス
、し フ ( フ弓ゃみ 6 。 0 昉 6 鬥こ子 ( 円 6 ゝ 顧客からの反応を踏まえて、 企画内容を柔軟にアップデー トすることを怠るべからず 構想を立てる人だけではな く、その構想を具体化してや り切った人に対してしつかり 凱。価をしよ、つ 倒産に学 3 つのポイント マイカル 大きな企画を立てた後、細部 まで具体的なアクションを描 き切っているだろうか マイカル
しかし、シアーズを取り巻く競争は決して緩やかになることはありませんでした。衣料品 は引き続きディスカウントストアなどの台頭に押しまくられ、収益を支えるカード事業は成 長が鈍化。家電販売も、本格参人したホーム・デポなどに包囲されていきます。 一体シアーズはこの中途半端な立ち位置からどう抜け出すべきか ? そこに大胆な解を出 したのが、 2004 年にシアーズを買収したヘッジファンドのスター投資家であり億万長者 のエドワード・ランパートです。ランパートは 2 0 0 2 年に倒産したディスカウントストア 「マート」を 2 0 0 3 年に買収し、そして 2 0 0 4 年にシアーズを買収した上、マート と合併させ、「シアーズ・ホールディングス」を設立し、自身も OQO に着任します。 マートは人口の多い都市周辺に店を多く配置しており、他方でシアーズは都市ー とに着眼したランパートは、「シアーズの商品力を 14 5 0 あるマートの店舗に移植して、 立地と商品力により競争力を格段に高めることを企てました。ランパートは「シアーズに かっての繁栄を取り戻す」と力強く約束し、世間はランパートを「次世代のウォーレン・ フェットと持ち上げます。 しかし、結果的にはこの戦略はうまくいきませんでした。当時のマートの売り場環境は 最悪でした。店員のサービスレベルは最低であり、売り場管理が行き届かないために欠品や 乱れは当たり前。それに加えて、店舗の老朽化がかなり進行していました。 しかし、ランパートはこれらの現場の課題である店舗と人に投資をほとんど振り向けず、 現場に対する投資よりもオンライン会員型組織の構築を優先します。ところが、その会員向 2 7 8
また、この本では、「親しみやすさ」という狙いから、私自身の手書きのイラストを挿人し ています。企業というものを擬人化し、そのライフラインチャートを描くことで、その企業 がどのような変遷を遂げてきたのかを簡単にまとめています。縦軸は売上や利益、株価など ではなく、敢えてざっくりと「企業の幸福度」としました。実際に何か具体的な数値にする ことも検討しましたが、それぞれ時代なども異なるため、統一的な指標を活用することは避 けました。したがって、この点はかなり主観の人ったイメージなのですが、ほとんどの企業 で、その直前までの絶頂からあっという間に倒産に至るライフラインの共通項が見えるので はないかと思います。 さて、それではこれから具体的な内容に人りたいと思います。 過去の先人たちの苦闘に学び、そしてともに「これから私たちはどうすべきか」というこ とを考えていきましよう。 はじめに
そごうの場合は、 1967 年の千葉そごうの出店でビジネスモデルを確立し、 1990 年 のバブル崩壊まで、加年強もの間、「強固なビジネスモデル」に支えられてきました。敢えて 乱暴な言い方をすれば、千葉そごう以降の加年間は、水島社長が出店場所とタイミングさえ 決めればよかったのです。水島社長を妄信し、意見をせずにひたすら指示をこなす。囲年も の間、つまり新人として人社した社員が歳を過ぎるタイミングという長期間、そういった 状況に慣らされていた社員たちは、現状を疑い、建設的に議論する力を培う機会がありませ んでした。 「自社しか知らず、偶像崇拝で井の中の蛙になっている皆さん : : : 指示しなければ何もしな いと、外部の人々からそごうの社員への評価は低いのです」 これは、民事再生法申請後、経営再建のためにそごうに乗り込んだ和田繁明・元西武百貨 店会長からの、社内報での社員に向けたメッセージです。厳しい内容ではありますが、再び そごうを再生させるためには、「主体的に考える現場」に変えていくことが何よりも必要だっ たのでしよう。 って
どのようにして 倒産に 至ったのか ? 過去の「遺産」を リセットすることができなかった このようなアメリカ最大の企業であったに、危機の最初の兆候が見えたのは 1970 年代のこと。トヨタ自動車を代表とする日本企業の台頭に気づいた時のことです。非常に効 率的な生産方式と規律の正しい従業員の働き方には気づき始めます。 そして、 1980 年代には、その兆候は明らかなものになります。とトヨタの合弁事 業として設立されたによって、それぞれの企業の品質とコストが白日の下に晒さ れました。恐るべきことにはトヨタにほぼ全ての側面で打ち勝っことができなかったの しかし、上層部はこのような事態に直面しても、今までのやり方を変えることはできませ んでした。その 1 つの理由に、の成立時からの組織の特徴である「分権化、がありました。 当時、の傘下にはプランドが乱立していたため、数え切れないくらいの購買部門があり、 そして数え切れないくらいの製造ュニットを抱えていました。しかも、横串では全く統制が 効かない状態だったので、それぞれの現場では好き勝手な動きが許されていたのです。 当時、部品メーカーは同じ部品を傘下のそれぞれの購買部門に対して全く異なる値段 で売っていたといし 、ます。たとえ同じの中であってもお互いの購買部門は何をやってい 「過去の亡霊」型 成功体験が強過ざて、そこから抜け出せずに変わる決断ができない
どのようにして 倒産に 至ったのか ? では、買収したバイアコムの狙いはどこにあったのでしよう。実はその当時、プロックバ スターを買収する一方で、映画やスポーツ番組の放映権を持っパラマウントを 100 億ドル もの大金を払って買収していました。バイアコムの年商は 10 0 億ドルを超え、ディズニー と肩を並べる巨大メディア企業となったのです。 そこで描いていたシナリオは、ヾ ノラマウントの映画をバイアコムのケープルテレビで放映 しつつ、プロックバスターにビデオとして供給する、ということです。上流のコンテンツか ら下流の家庭までのチャネルを支配することによって相乗効果を最大化する、という算段で しかし、実際にはこのバイアコムの戦略はうまく機能しませんでした。あまりにも借り人 れが大き過ぎて、その期待値に見合うだけのパフォーマンスが達成できなかったのです。そ して、傘下に人ったプロックバスターも、ウォルマートやトイザラスに苦しめられていまし 。大手小売店が名作を大量発注し低価格で売り切る「セルスルー」という方式を浸透させ、 レンタル需要を奪っていたのです。バイアコムにおいて「日銭を稼ぐ」存在だったプロック バスターの急激な低迷は、グループの財務内容を悪化させ、株価下落の要因となりました。 媒体の亦夂化をきっかけに 一気にビジネスモデルが陳腐化 「過去の亡霊」型 成功体験が強過ぎて、そこから抜け出せずに変わる決断ができない
とういう たったのか ? ダイナミックな事業統合の「希望」 を胸に、 > 字回復を遂げた企業 「産業のコメと呼ばれた半導体。その半導体において、日本企業が隆盛を極めていたのは 19 8 0 年代のことです。 19 8 0 年代の後半には日本企業の半導体シェアは % を超えて いました。特にと呼ばれる半導体は日本の得意分野であり、品質は高く価格は安い、 ということで市場を席巻していました。 し力なかったのがア しかしその「コメ」と呼ばれる貴重な産業で日本の独走を許すわけに、 ) メリカです。日米半導体協定などを通じて日本企業を追い落としにかかります。そしてアメ 1990 年代後半には日本の リカの後はサムスンを代表とする韓国企業の猛追。その結果、 半導体企業は軒並み失墜し、生き残りのための合併を模索するようになります。 エルピーダメモリは、そのような時代背景の中、 19 9 9 年、 Z g-a O と日立製作所の <<ä事業の整理統合により生まれた会社です。当初の社名は「日立メモリ」でしたが、 その翌年、ギリシャ語の希望 (æー•- ) という一一一一口葉に、両社のダイナミック ( •- ) な事業統合 (< 。•- •- 。 ) という一言葉を組み合わせた造語である「エルピーダ」 という名前を冠してスタートしました。 しかし、「ダイナミックな事業統合」という名前とは裏腹の事業運営がなされます。それは 「脆弱シナリオ」型 脆弱なシナリオに依存して、何かがあったら終わってしまう