とういう たったのか ? 彦根発の織物製造業から グメーカーへ 世界第 2 位のエアバッ、 タカタは 1933 年、高田武三氏が織物製造業として滋賀県彦根市で開業しました。当初 は織物の技術を活かして船舶に使われるロープを製造していましたが、戦時中はその技術を パラシュートのひも製造にも転用し、多角化を進めます。そして、タカタの本業となる自動 車業界参人の転機は戦後に訪れました。 1952 年、武三氏がパラシュートの視察で Z<O< ( 米航空諮間委員会 ) を訪れた際、貴重 なパイロットたちが交通事故で亡くなることが多発しており、死亡事故を防ぐために自動車 用シートベルトの開発が行われていることを聞いたのです。そこに市場のポテンシャルと自 社技術の可能性を感じた武三氏は、帰国後にすぐにシートベルト開発に取り掛かりました。 そして開発に取り組む傍らで、ホンダ ( 本田技研工業 ) の創業者、本田宗一郎氏にシートベル トの重要性と標準装備の提案を行うのです。 宗一郎氏は即座に理解を示し、 1963 年、タカタの提案を取り人れ、日本初のシートべ ルトを標準装備した「 S500 」を販売します。当初は巻き取り装置のない 2 点式シートべ ルトでしたが、 1970 年代になるとベルトの緊急ロック機構を備えた ( Em 。「 g 。 n 。 y LockRetracto 「 ) へとアップデートし、タカタは日本のシートベルトの高度化を牽引しました。 「機能不全型 経営と現場の距離感が遠過ぎて、組織として機能していない
おわりに 皆さんは「戦略的」という言葉の意味を聞かれたら、何と答えるでしようか ? 戦略的Ⅱ「考える論点の多さ」 x 「考える時間軸の長さ」 というのが、私なりの答えです。 例えば、「直近の売上しか視野に人れずに動いている」という状態は、論点が極めて限定的 であり、時間軸も短期的であるため、戦略的とは対極的な「短絡的」と言うべき状態です。 一方で、もし「売上、利益はもちろんのこと、競合の動き、顧客の嗜好の変化や組織の状態 など数字に出てこない要素について、長期的な変化を考慮に人れながら今取るべき行動を決 めている」という状態ならば、その行動は「戦略的」だと言うことができるでしよう。 なぜ最後にこういう話をするかというと、本書に取り上げた社を敢えて乱暴にまとめる とするならば、これらの企業はある重要なターニングボイントにおいて「戦略的」ではなく、 「短絡的」になってしまっていた、と一言えるからなのです。そごう、山一證券、ゼネラルモー ターズ、鈴木商店 : : : 洋の東西や時代を間わず、重要なタイミングで「短絡的」になってし まうとそれが致命傷になり得ることを、これらの事例は私たちに教えてくれました。 2 8 4
私たち への メッセージ ーを、後日談的に振り返り 「ヾ、フル」い、つ > 私たちは、この手のストーリ 一言で片付けようとします。事実としてバブルであったのは間違いありませ んが、自分が当事者だったら身の丈以上に評価が高まる中でどう振る舞うこ とができたか、少し解像度を高めて考えてみるべきでしよう。例えば、当時 飛ぶ鳥を落とす勢いだった 19 9 0 年代後半にワールドコムに経営陣の 1 人 ・つ ! としてヘッドハントされていたら : 会社の評価が実態と乖離して「バブル状態」 に陥っていることに気づく機 会はたくさんあるでしよう。しかし、実態に合わせようとすれば、株価は暴 落し、株主や社員など多くの人を混乱に突き落とすことになります。一旦こ の虚像のサイクルに入ってしまえば後から抜け出すことは至難の業。だから こそ、バブルというものはちょうど良い加減でしぼむことなく、「不正会計 の露呈からの倒産」というような悲劇的な結末を迎えてしまうのです。 この手の歴史は必ず繰り返します。今の私たちにできることは、こうした 過去の事例を「粗い言葉」で片付けることなく、当事者の立場で深く考えて みることではないでしようか。 「脆弱シナリオ」型 脆弱なシナリオに依存して、何かがあったら終わってしまう
ウェスチングハウス 企業名 1886 年 創業年 倒産年 2017 年 連邦倒産法第 11 章適用 ( 再建型倒産処理手続 ) 製造業 倒産形態 業種・主要業務 負債総額 98 億 IIOO 万ドル 約 5000 億円 ( 2015 年 ) 高 約 1 万 2000 人 倒産時の従業員数 アメリカ ニア州バトラー郡クランべリー・タウンシップ - 弋ンシノレノく 本社所在地 参照 : 「東芝原子力敗戦』大西康之文春 e - book 「東芝大裏面史」 FACTA 編集部文藝春秋 「テヘランからきた男』児玉博小学館 tThe Failure of WestinghouseJ by Micheal H. Moffett, William E. Youngdahl Thunderbird SchooI of GIovaI Management 「過去の亡霊」型 成功体験が強過ぎて、そこから抜け出せずに変わる決断ができない
どのようにして 倒産に 至ったのか ? 質を追求した大型店舗の出店が 消費者ニーズに逆行 マイカルタウンは出店当初は賑わいをもたらしましたが、やがてそのプームは下火になり ます。出店攻勢とは裏腹こ こ、 19 9 0 年代後半のマイカルの売り場は、総じて勢いのあるも のではありませんでした。「店舗は広い割に、買いたいものがない」という状況だったのです。 19 9 0 年代後半は、デフレの時代。ュニクロや 10 0 円ショップが大きく飛躍してきた 時期と重なります。消費者側としては、安くて良いものを求める、という潮流がありました。 しかし、その当時マイカルが追求していたのは、「量よりも質」。消費者のニーズとは異なる 方向に走っていたのです。 ます。 1995 年にマイカル桑名、年にマイカル明石、年にマイカル大連商場、そして 四年にマイカル小樽と、矢継ぎ早に投資が続きました。マイカル小樽への投資額は 600 億 円を超える巨額なものでした。 このようにして、マイカルは大型のショッピングモール事業へと変身を遂げていったので す。 「大雑把」型 マネジメントがアバウト・雑過ざる
コダック 企業名 創業年 1881 年 倒産年 2012 年 連邦倒産法第 11 章適用 ( 再建型倒産処理手続 ) 製造業 情報通信機械器具製造業 約 67 億 5000 万ドル 27 億 1900 万ドル ( 2012 年 12 月期 ) 1 万 3000 名 ( 2012 年 1 2 月期 ) 倒産形態 業種・主要業務 負債総額 上 の なは 倒産時の従業員数 アメリカ ューヨーク州ロチェスター 本社所在地 参照 : 「競争優位の終焉』リタ・マグレイス日本経済新聞出版社 『最強の「イノベーション理論」集中講義』安部徹也日本実業出版社 「コダックとデジタル革命』 by GIOVANI GAVETTI /REBECCA HENDERSON/ SIMONA GIORGI Harvard Business School 「ジョージ・イーストマンポータブルカメラで世界を変えた発明者」ダイヤモンド・オンライン 08 年 9 月日 「過去の亡霊」型 成功体験が過ぎて、そこから抜け出せずに変わる決断ができない
間違えた のか ? 月、民事再生法を申請するに至ります。製造業で戦後最大の倒産となりました。 「なぜ、異常破裂が起きたのか非常に不可解。未だに苦慮している」。民事再生法の適用を 申請した際に開かれた記者会見で、タカタの高田重久会長兼社長は最後まで、自らの品質責 任を認めることはありませんでした。 機能不全の中で大胆過ざる 意思決定が致命傷に このタカタの事例は、ガバナンスにおける「距離感」という課題を浮き彫りにしました。 「距離感」における 1 つの側面は、「設計と生産における距離」の間題です。具体的には、日 本の設計サイドと、アメリカやメキシコの海外子会社での生産の距離感を埋められなかった ことにあります。インフレーターに硝酸アンモニウムを導人するという大胆な意思決定をし、 そのための綿密な開発は日本で行っていたものの、アメリカやメキシコの工場ではそこまで の緻密な管理ができていなかったのです。 実際の生産現場では生産管理や人材育成が追いっかず、結果的に不良率も高く、爆発事故 まで起きるという状況でした。後に、取引先からは「アメリカ子会社がやっていることを、 タカタ 2 6 8
とのようにして 倒産に 至ったのか ? 実店舗の価値を活かせず、 アマゾン・エフェクト」がとどめに 1990 年代初頭には、シアーズは既に経営不安が囁かれるようになっていました。そこ に登場したのが、大手百貨店サックス・フィフス・アベニューの副会長などを務めた財務の エキスパート、アーサー・マルティネスです。彼は経営の座に就くと、 19 9 3 年に 10 0 年の歴史を誇るカタログ事業から撤退するとともに、 1 割超に当たる 103 店を閉めて従業 員を 5 万人削減。そして本業回帰を掲げて金融、保険、不動産などを分離・売却し、富の象 徴でもあったシアーズ・タワーも手放し、一連のリストラを矢継ぎ早に手掛けることでシ アーズを再建に導きます。 例えば、家電においてはサーキット・シティ、、 ノイランド・ストアといった新興勢力が豊 富な品揃えと低価格を武器に成長を遂げ、衣料品ではリミテッド、ギャップなどの専門店が 台頭してきました。これらの新たなプレイヤーの出現により、シアーズは「品物はあるけれ ど欲しいものが見当たらない」「大きいだけで特徴がない」という没個性的で中途半端なポジ ションに位置付けられてしまったのです。 「機能不全」型 経営と現場の距離感が遠過て、組織として機能していない 2 7 7
間違えた のか ? 暴走の「 1 歩目のダッシュ」生む 「不正のトライアングル」の典型 私たちは、この手の事件をよく「特定の経営陣の暴走」といった言葉で認識し、片付けよ うとします。確かに結果から見れば暴走以外の何物でもないのですが、暴走に至るまでには 「 1 歩目のダッシュ」を生む構造が必ずあります。ではなぜこのような 1 歩目のダッシュが 発生したのでしようか。 後日談を紐解いてみると、まずこの裏側には、結果に対する強烈なプレッシャーが存在し たことがわかります。エンロンの人事制度には「ランク・アンド・ヤンク」という言葉で表 される評価制度がありました。半年に 1 回の評価があるのですが、その評価で 5 段階のうち 最低ランクに位置付けられた人 ( 下位 % ) は、追放されるという仕組みです。ここから生ま れてくる強烈な成果に対する圧力は、一般の従業員のみならず、経営陣にとっても大きな影 響を与えました。 一連の不正を仕組んだ張本人と言われるファスタウ 0 O は、スキリング 0 O からクビ にされるという焦りを常に感じていたと言われます。こうした「焦りを発生させる構造」に、 「甘い管理・監査体制」、そしてそこに「自由化を推進する先進企業」という大義が加わった 「脆弱シナリオ・型 脆弱なシナリオに依存して、何かがあったら終わってしまう
間違えた のか ? 逃亡から 4 日後の 2 月日、べアリングス銀行は、最終的な損失額が 8 ・ 6 億ポンドであ り、自己資本である 4 ・ 7 億ポンドを大幅に上回る状況を明らかにし、破産を宣告されます。 200 年以上続いた歴史にあっけない終止符が打たれた瞬間でした。 失敗の本質は 2 年前の競争戦略の 「意思決定問題」にある 一般的に、べアリングス銀行の崩壊といえば、ニック・リーソン。ュアン・マクレガー主 演で映画化されたストーリーでもあるので、彼の行った不正に対する強烈な印象を持ってい る人は多いのではないかと思います。 しかし、調べていくうちに、彼の起こした事件というのは、「最後の藁」とも一言うべき事象 であり、たとえリーソンが出現しなかったとしても、この競争環境下においてべアリングス 銀行として生き残っていくのはかなり厳しかったであろうことに気づきます。 一言で言えば、ケイバビリティ ( 保有能力 ) と競争環境とのミスマッチです。ビッグ・バン による自由競争下において、英国紳士的な保守気質を持った会社が、金融工学を駆使したア メリカ系の投資銀行に勝てる余地はほとんどありませんでした。自己資本は、投資銀行と比 べアリングス銀行 1 2 0