力を失います。統合して全体を調整していく強みが、一気に無力化・負債化するからです。 コタックま、。、 ヒジネスを何としてでも「統合型、として成立させるように仕掛けていきます が、それは川の流れを素手で押し止めようとするようなもの。自然の摂理には敵いません。 結果的には、その流れを止めることができず、アンバンドル化の過程で崩壊していくのです。 もちろん、コダックの思慮が足りなかったという側面もあるかも知れませんが、私たちは 後日談をベースにこの事例を笑うことはできません。優秀な人材はたくさんいたでしようし、 彼らによるビジネスの分析も行われていたはず。デジタル化に真っ先に踏み込んだ通り、デ ジタル化の未来を予測し、最も脅威を感じていたのはコダックだったのかも知れません。 しかし、それ以上に、コダックには「保守派」「守旧派」と呼ばれるステークスホルダーが 多く存在していました。銀塩周りの写真品質にこだわる技術者や、現像に関わる販売店など、 従来のコダックのビジネスモデルによって潤う人たちはたくさん存在したのです。このよう な技術的転換点において、経営者はジレンマに陥り、そして、ジレンマは「希望的観測」を 生み出します。「こうなってくれた方が私たちにとって強みが活かせる」「この方が私たちに 都合が良い」という願いが冷静な分析を打ち消していくのです。 創業者のジョージ・イーストマンが考えたように、この当時の経営陣もビジネスを「ゼロ べース」で考えるべきだった、というのはその通りでしよう。しかし、実際の経営は、こう いったジレンマに伴って湧き上がってくる「希望的観測」を黙らせないと前に進まないとい うのが現実。コダックはその向き合い方に失敗したのかも知れません。 コダック
とのようにして 倒産に 至ったのか ? いち早くデジタル化を進めたが ビジネスモデ ルに固執して失敗 コダックが 10 0 億ドルの売上を計上した 19 81 年、ソニーはテレビ画面上に画像を表 示するフィルムレスの電子スチルビデオカメラ「マビカ」を発表しました。この商品を皮切 市場の関心はデジタル化に向いていきます。 とはいっても、コダックはデジタル技術に遅れていたわけではありません。実はコダック は、ソニーよりも前に世界最初のデジタルカメラの試作機を作った会社でもありました。そ れはなんと 19 7 5 年のことです。デジタルカメラの普及版となるカシオ計算機の「 C > 川が世に出たのが 19 9 5 年のことですから、それより加年も前にコダックはデジタル化 の流れに気づき、そして開発投資を行っていたのです。 しかし、コダックは、それと同時並行で「フォト O 」というデジタル写真の保存用製品 を商品化します。コダックは、写真ビジネスは「撮影」だけで儲けるのではなく、その後工 程の「現像」「印刷、に大いなる利潤があることを長年の歴史を通じて知っていました。デジ タル化の時代になったとしても、ビジネスモデル全体を押さえなければ、今まで通りの売上 や利益を確保できない。そう考えて撮影だけにとどまらない技術開発を行ったのです。 しかし、コダックはその後、悲劇的な結末を迎えます。結果的に、デジタルカメラにおい コダック
しつかり押さえていることがわかります。 4 とは、製品をちゃんと売るためには、 0 ( 商品 ) ー ( 価格 ) ー ( チャネル ) ー 0 0 0 ( 販促 ) と、 う 4 つのの整合が重要である、という概念であり、コダックの当時の販売戦略は結果的に この論点をしつかり押さえていたわけです。 このように時代を見極めて正しい戦略を推進した結果、コダックはフィルムの市場拡大と もに、順調に成長していったのでした。 19 6 2 年には、コダックの売上は川億ドルに達し ます。さらに同社は、一般消費者向けにとどまらず医療用画像やグラフィックアート向けに も領域を拡大しました。こうした製品のほとんどは、銀塩技術を使い、少しずつ改良を重ね たものでした。 そして、コダックは、 19 7 6 年にはアメリカ国内のフィルム市場の囲 % 、カメラ市場の 新 % を占めるようになっていました。圧倒的ナンバーワンであり、コダックの技術的な強さ と市場への展開スピードにより、有力な競合他社が現れることはありませんでした。そして、 創業して 100 年が経とうとする 1981 年に、コダックの売上はとうとう 100 億ドルに 達したのです。 このようにフィルム市場を切り拓き、その市場の拡大とともに安定的に成長したコダック の 100 年の歴史でしたが、 1980 年代、市場に大きな変化が訪れます。デジタル化です。 過去の亡霊」型 成功体験が過ざて、そこから抜け出せずに変わる決断ができない
とういう 会社 たったのか ? 一巾場がないところに 市場を創り出したザ・べンチャ コダックは 1884 年にジョージ・イーストマンが創業した企業です。家計が苦しかった ィーストマン一家に生まれたジョージは、歳から保険会社で働き始め、銀行へと転職し、 家計を支えます。転機が訪れたのは彼が歳の時。趣味として湿板技術による大きな写真機 材を持っていたジョージは、湿板技術の不便さを感じるとともに、 いつでも撮影できるよう になる乾板技術の可能性にいち早く気づきます。 そこで、銀行に勤めながらも、その傍らで乾板のプロセス技術の開発に精を出し、 3 年後 の 1880 年、ようやく乾板そのものと乾板生産技術の完成に至ります。その特許を持って ジョージは銀行を退職し、 18 84 年、イーストマン・ドライ・プレート・アンド・フィル ムを設立しました。確固たる技術をベースにしたべンチャー企業の誕生でした。 ちなみに、コダックという名前が社名になるのは、創業後のことです。コダックという一一「〔 葉そのものに特に何か意味があるわけではありません。後にジョージが語ったところによる と、彼はという言葉に力強さを感じ、で始まりで終わる組み合わせの中から、「 Q<<X 」という一一一一口葉を生み出したとのことです。そして、 1888 年にはこのプ ランドを付けたカメラが売りに出され、 1892 年には社名もイーストマン・コダックに変 過去の亡霊」型 成功体験が強過ざて、そこから抜け出せずに変わる決断ができない
テリ、イヒ 0 、い・ 2 = 、石おな / -00 1 ト気わ 0 を 次しマ、 大に化 ( : 0 円 9 「ユ引 デジタル化は上流から下流ま で統合されていたビジネスを アンバンドル化していく デジタル化が進む中で、旧来 2 型の「統合」にこだわり続けて 0 いると急速に力を失うことを 認識しよう 根拠のない「希望的観測」に 惑わされることなく、合理的 な意思決定を心がけよう コダック 倒産に学 3 つのポイント コダック
更されます。 ジョージは写真というものはプロのためだけのものではなく、一般の家庭に浸透すべきだ というビジョンを持っていました。面倒なカメラのプロセスをもっと簡単なものにして、「カ メラを鉛筆並みの便利な道具に生まれ変わらせたい」という想いを胸に、彼はいち早くフィ ルムビジネスの未来を読み解き、ガラス製写真感光板の製法を確立します。そして、世界で 初めてロールフィルム、後にカラーフィルム ( 19 3 5 年 ) を発売するのです。 当初、フィルムというものがまだ存在しなかったため、コダックはその浸透に努めました。 つまり、フィルムそのものの認知を高め、より多くの人に実際に使ってもらうことが大切 だったのです。 そのためには、技術への投資のみならず、営業やマーケティングへの投資も必要不可欠と 判断したコダックは、大々的な宣伝への投資とフィルム販売店との関係強化に努めます。特 に、「あなたはシャッタ 1 を押すだけ、あとは当社にお任せください」というキャッチフレー ズの広告で市場に大きなインパクトを与え、フィルムカメラがどのようなものかわからない 顧客に対する認知度を高めました。 さらに、フィルムの浸透を図るために、価格面においては「レーザープレード戦略」を採 用しました。つまり、髭剃り本体を安くして替え刃で儲けるビジネスのように、カメラを低 価格で売り、その後のフィルム販売で儲けるようにしたのです。 これらの戦略は、実はマーケティングの教科書にある「 4 」という基礎的なポイントを コダック
す。 19 7 8 年には % あったシェアが、わずか 4 年で % まで下がりました。 その一因は、カメラ業界の巨人・コダックの攻勢にあります。ボラロイド創業当初はイン スタントカメラを無視していたコダックですが、徐々に無視できない存在となり、インスタ ントカメラに参人するとともに ( その際に特許侵害で 1990 年、コダックはボラロイドに川億ドル を支払う結果となります ) 、自社のフィルムを改良し、現像所で分の仕上げを可能にしたので す。 今までは現像に数日—数週間かかっていたものが、わずか分になったことで、 1 分で現 像できるボラロイドとの差分は大きく縮まりました。「待たずに見られる」というボラロイ ドの優位性が危うくなってしまったのです。 さらに、オリンパスやキヤノンのような日本企業が、より画質の良いコンパクトなカメラ を世に出します。ボラロイドのインスタントカメラは、通常のカメラと比較して、現像まで のスピードでの優位性はほぼなくなり、画質やスタイルでは完全に負ける、という状況に 陥ってしまいました。 もちろん、マキューンなど経営陣はこの状態に手をこまねいていたわけではありません。 彼らは別の大きなイノベーションの種を抱えていました。それはデジタル技術をベースにし た商品です。 19 8 0 年代半ば、ボラロイドはフィリップスとのジョイントべンチャーで、 既に 1 ・ 2 メガピクセルの画像を生成できるデジタルセンサーとデータ圧縮ができるアルゴ リズムを持っていました。 ボラロイド
間違えた のか ? ては 1990 年代後半には多くのプレイヤーが参人し、コダックは競争力を失います。そし てデジタルデータの記録媒体は独自の進化を遂げ、フォト OQ の定着には至りませんでした。 さらに既存事業であるフィルムも、残存利益の確保において富士フィルムの価格攻勢に遭い 収益力を失ったまま、デジタルカメラの浸透によって完全に道を閉ざされます。 そして 2012 年、コダックは連邦倒産法第Ⅱ章を申請し、倒産に至ります。市場を創造 し、 130 年もの歴史を持っグロ ーバル大企業にしては、何ともあっけない倒産劇でした。 身に寸いた成功の形を 変えられなかった コダックは創業以来、前述の通り、「レーザープレード戦略」で大成功を遂げました。つま り、上流の製品と下流のフィルムまでを一貫して手掛け、人口のハードルを低めながら全体 で収益を上げる戦いによって成功していたのです。 しかし、デジタル化の流れは、一般的にこのような二貫した仕組み」を分断し、破壊し ます。ハードはハードで、ソフトはソフトで、切り離された戦いを成立させていくのです。 こういうことを、専門用語ではビジネスの「アンバンドル化」と一言います。 一旦ビジネスがアンバンドル化されると、統合型のビジネスを手掛けていた企業は一気に 過去の亡霊」型 成功体験が強過き、て、そこから抜け出せすに変わる決断ができない
コダック 企業名 創業年 1881 年 倒産年 2012 年 連邦倒産法第 11 章適用 ( 再建型倒産処理手続 ) 製造業 情報通信機械器具製造業 約 67 億 5000 万ドル 27 億 1900 万ドル ( 2012 年 12 月期 ) 1 万 3000 名 ( 2012 年 1 2 月期 ) 倒産形態 業種・主要業務 負債総額 上 の なは 倒産時の従業員数 アメリカ ューヨーク州ロチェスター 本社所在地 参照 : 「競争優位の終焉』リタ・マグレイス日本経済新聞出版社 『最強の「イノベーション理論」集中講義』安部徹也日本実業出版社 「コダックとデジタル革命』 by GIOVANI GAVETTI /REBECCA HENDERSON/ SIMONA GIORGI Harvard Business School 「ジョージ・イーストマンポータブルカメラで世界を変えた発明者」ダイヤモンド・オンライン 08 年 9 月日 「過去の亡霊」型 成功体験が過ぎて、そこから抜け出せずに変わる決断ができない
私たち への メッセーシ > このコダックの事例は、経営のイシューとしても捉えることができますが、 個人のキャリアとして考えても多くの示唆を含んでいます。 過去の成功を受けて、当面は収入に困らない仕事がある。そしてその収入 をベースにしながら、養うべき家族がある。しかし、中長期的には技術転換 があり、その仕事がなくなる可能性がある : こんな風に置き換えてみる と、この意思決定の難しさに対するリアリティを感じられるのではないかと 思います。「仕事を変えたくない」「変わりたくない」という気持ちが、「これ だけ一生懸命にやっているのだから、このままでも何とかなるかも知れな い」という希望的観測を生み、徐々に危機意識が麻痺していくのです。 もちろん、当人は、そうやってキャリア形成に失敗した先人たちのストー リーも知っているのですが、「その件は自分には当てはまらない」と思ってい る。コダックの経営陣もそんな心境に似たような状態だったのかも知れませ ん。厳しい状態に置かれた時に常に湧き上がってくる「都合の良い希望的観 測」にどう打ち勝っていくか。そこに万人に通用する絶対解はありません。 しかし、このような先人たちのジレンマを知っておくだけでも、客観的に考 えるきっかけをもたらしてくれるのではないでしようか。 「過去の亡霊」型 成功体験が強過き、て、そこから抜け出せずに変わる決断ができない