では、なぜワールドコムはこのような「回収見込みの不透明な先行投資ゲーム」を実行で きたのでしようか。そこに「株価」というキーワードが浮かび上がってきます。つまり、何 かをきっかけにワールドコムの株価を高めることができれば、株式交換によって割安で企業 を買うことができる。そしてその買収結果への期待によってさらに株価を高めることで、ま た新しい買収ができる。その連続により、やがてはインフラと顧客の面を押さえることがで きる、というシナリオです。 言ってしまえば壮大な自転車操業。ワールドコムは「株価向上」というべダルを漕ぎ続け なくてはなりませんし、そのペダルが止まった瞬間にこの自転車は倒れる、というものです。 当然エバ ースはこの仕組みをわかっていたからこそ、ワールドコムの実態を大きく見せるこ とに常に注力しました。そして、その注力はやがて一線を越えた不正会計を生み出すことに もなっていくのです。 株価とは、言うまでもなく、外部環境の変化にも影響を受けるアンコントローラブルなも の。自転車ではとても登りきれない場面も出てくるのです。そんな脆弱な仕組みに自分たち の運命を依存してしまったことに、ワールドコムの本質的な誤りがあったと一言えるのではな いてしょ一つか。 ワーノレドコム
て、競争は一気に激化し、安定していた経営は急激に混乱に陥りました。業績の急速な悪化 の責任を取り、シックスは 19 81 年、社長の座をアルビン・フェルドマンに譲ります。 フェルドマンの最初の仕事は、会社の買収を防ぐこと。コンチネンタル航空は、フラン ク・ロレンツォ率いるテキサス・インターナショナル航空から買収を狙われていました。コ ンチネンタル航空にとって因縁の男ロレンツオの登場です。 ロレンツオは経営が悪化していたテキサス・インターナショナル航空を 19 7 2 年に買収 し、徹底的な賃金削減やリストラによって大きな収益を上げていた剛腕社長でした。この規 制緩和の波に乗り、ナショナル航空、といった経営が低迷していた航空会社に対して 手当たり次第に買収交渉を仕掛けてきましたが、強引なコストカットをベースにした経営再 建策に対する評判は悪く、買収の対象となった企業からは敬遠されていました。 そのロレンツオの買収ターゲットに人ってしまったコンチネンタルは、労使が強調しなが ら何とか買収から逃れようと策を尽くしますが、あえなく失敗。フェルドマンはその過程で 自殺という悲劇的な最期を遂げます。社長就任から 1 年も経たない最期でした。 そして 19 8 2 年、 6 0 4 0 万ドルの赤字を生み出し混迷状態に陥っていたコンチネンタ ル航空に対して、ロレンツオは敵対的買収を成功させ、同社を支配下に人れたのです。コン チネンタル航空にとって、新たな悲劇の幕開けでした。 コンチネンタル航空
とういう たったのか ? エコノミーの波に乗って つかんたアメリカン・ドリーム ワールドコムの創業者であるバーナード・エバ ースのキャリアは、高校卒業後、牛乳配達 からスタートします。その後、高校でのバスケットボールのコーチを経て、モーテルの経営 をする、といった職歴を経ました。そして、 1983 年、とうとう彼の人生に転機が訪れま す。独占禁止法違反により & が 8 社に分割され、通信事業が規制緩和されるという方 向性にビジネスチャンスを見出したエバースは、友人とともにワールドコムの前身となる *_a (LongDistanceDiscountService) コミュニケーションズを起業したのです。 ースの目論見は当たり、規制緩和を背景にビジネスは大きく成長します。 1993 年 にはメトロメディアを買収して準大手の長距離国際電話会社となり、翌 1994 年には国際 通信会社であるワールドコムを買収して社名をワールドコムに改めます。その後も買 収の手を緩めることなく、合計 R 社以上の買収を行い会社を拡大させました。 1990 年代後半には同社の飛躍につながる買収を 2 件行います。 1 つは 1997 年の 大手インターネットサービスプロバイダーであり、 マイクロソフトと提携してその名を広めた有名企業です。 そしてもう 1 件が、 1998 年に買収したコミュニケーションズです。イギリスの 0 「脆弱シナリオ」型 脆弱なシナリオに依存して、何かがあったら終わってしまう
は値下がりを続け、融資先は軒並み回収不能状態に陥り、運用はマイナスになります。いわ ゆる「逆ザヤ」状態です。 1990 年のバブル崩壊以降、「逆サヤ」がさらに加速し始めると、 大手に比べて企業規模に劣る千代田生命が打つ手はほとんどありませんでした。 1994 年 には経常赤字を計上し始め、利益を捻出するために経理操作 ( 関係会社に自社ビルを売却し、そ の裏側で多額の融資を行い、売却益を特別利益に計上する手法 ) にまで手を出し始めます。いずれは 売った不動産を買い戻し、融資を回収する意向ではありましたが、地価が戻らない中で回収 の見通しが立たず、損失をより悪化させるだけの結果になりました。 この時期は千代田生命に限らずどこの生命保険もバブルの後遺症を大きく引きずっていま した。体力のない中堅生保群は、 1997 年の日産生命の破綻を契機として、 1999 年の 東邦生命、 2000 年の第百生命、大正生命というように、 1 社ずつ破綻し始めます。生命 保険会社の信用力が大きくクローズアップされ、その次は千代田生命か、という注目が集 まっていました。 もはや単独で生き残ることは不可能となった段階で、千代田生命に残されたオプションは 外資への身売りか、古くから関係の深かった東海銀行による資本増強の 2 つ。しかし、外資 と判断され、交渉が からは、「法的処理が済んだ後、身軽になったところを買収すればいい 決裂。東海銀行は、三和との統合を控える中、支援額の全体像の見通しが立たず、その実現 が困難となりました。この過程で千代田生命に対する信用不安は日を追うごとに募り、やが て解約ラッシュが発生します。 2000 年川月、ここに来て万策尽きた千代田生命は、契約 者への損害を最小限に留めるため、更生特例法の手続きの申請に至ったのでした。 焦りからの逸脱」型 焦りから許容範囲を逸脱してしまう
間違えた のか ? 問題の本質は不正会計ではなく 株価に依存せざるを得ない戦略こ ワールドコムを語る際、「不正会計」に着目されがちですが、このストーリーでもあるよう に、ワールドコムの不正会計は倒産に至る「最後のきっかけ」に過ぎません。本質は、不正 会計の前段にある経営戦略にあります。 ワールドコムのビジネスとは一体何だったのでしようか ? それは、インフラを押さえっ つ、ユーザーを押さえる、というシンプルな戦い方です。「 10 0 日で倍増する」と言われ ていた通信量の需要拡大スピードに追いつくように、手つ取り早く既存の通信ネットワーク 一方で顧客べースを持っているプレイヤー を他よりも速く買収してインフラを整えていく。 に対しても買収を仕掛けて、ユーザーを獲得していくというものです。 ではなぜワールドコムだけがこの戦いを支配し、競合は追いつけなかったのか。それは、 買収に必要な莫大なキャッシュの連続的な確保です。当時、実際には「 100 日で倍」のよ うなスピードでトラフィックは増えておらず、収益を生む状態にはまだ程遠い状況でした。 したがって、買収のためのキャッシュは、顧客からの売上からではなく、別のところから 持ってこなくてはなりません。これが競合にはできませんでした。 「脆弱シナリオ」型 脆弱なシナリオに依存して、何かがあったら終わってしまう
どのようにして 倒産に 至ったのか ? メーカーが 1 つの国営企業になってしまい、合理化ばかりを進めざるを得ませんでした。こ のような状況で、イギリス車は国際競争力をさらに落としていったのです。 による唐突な買収が 最悪の結果を招く ーグループに改称されます。グループ内の 19 8 6 年には *-a O の名前を捨て、ロー プレミアムプランドはフォ 1 ドなど外資系企業に売却することで、規模を縮小しながら生き 残りを図りました。 19 8 8 年、再び民営化された同社は、航空機メーカーであるプリティッシュ・エアロス ペースに買収されます。 19 8 9 年にはホンダ ( 本田技研工業 ) が資本参加することにより、 ノ 1 やプランドの新車を開発することで、徐々に業績は改 ホンダの力を借りながらロー 善を見せ始めます。 1994 年には過去最高の業績を上げる見込みでした。 しかし、その 19 9 4 年に突然、ロ ーバーはに売却され、経営権を得る寸前だった ヾ、 ー買収を ホンダとの提携関係も解消されてしまうのです。当時、誰もがホンダによるロー 一一 = ロじてしオオー 、こごナに、による買収は非常に不可解なものでした。 ヾ、 ノ . 「過去の亡霊」型 成功体験が強過きて、そこから抜け出せずに変わる決断ができない
その「原発ルネサンス」と呼ばれた大波に何としても乗りたかった東芝は、最終的に 6 6 0 0 億円もの大金を投じてウエスチングハウスを買収したのでした。 瀕死の状態だったウエスチングハウスは東芝からの支援を受け、 10 0 0 という社運 を賭けた新型加圧水型原子炉の開発と、アメリカへの売込みという勝負に出ます。 しかし、その矢先に起きたのが、 2011 年の福島原発事故でした。これにより、世界の 原発建設計画はほとんどが中止または凍結されます。そしてアメリカ国内での安全基準は大 中に引き上げられ、 10 0 0 についても 1 基あたりの建設コストは 2 0 0 0 億円から 1 兆円レベルに膨らみました。アメリカを最大のマーケットと考えていたウエスチングハウ スの計画はここで大きな壁にぶつかります。「 2015 年までに世界で基を販売」という 野心的な目標はこの段階でほぼ不可能になりました。 追い込まれたウエスチングハウスに新たな問題が生じます。 AP1000 の施設建設は 0 & —ストーン & ウエプスター ( & ) とともに進めていましたが、ここで生じたコスト増 大分をどちらが負担するか、ということで、係争が発生したのです。 AP1000 はこの両社が裁判で揉めている限りは前進せず、赤字が膨らむ一方。まさに 泣き面に蜂の状態です。しかし、追い込まれたウエスチングハウスは係争相手である & を 2 億 3000 万ドルで買収するというとんでもない賭けに出ます。既に 3 年近くも遅れて 、新たな安全基準の追加コストが減 いるプロジェクトが買収によって急に進むわけでもなく るわけでもありません。係争によってウエスチングハウスの財務状況が露呈することを防ぐ ための強引な買収以外の何物でもありませんでした。 ウェスチングハウス
トイザラスはこの契約によってオンライン部門の売上は確保したものの、収益べースでは 黒字化には至りませんでした。そして、この長期契約はアマゾンによってあっけなく打ち切 られます。アマゾンがイーベイに対抗するために、トイザラス以上の玩具ラインナップが必 要になったためです。アマゾンは仕人先を強化するために、 5000 万ドル近い違約金を支 ・亠才」。し トイザラスと手を切りました。 アマゾンとの長期契約により売上確保は確実と思われていたコマースでしたが、振り 返ってみれば、アマゾンはトイザラスから顧客情報や顧客行動に関する貴重なデータを人手 した一方で、トイザラスにとっては主流となっていたオンライン事業がリセットされてし まったのです。 さらに、今度は実店舗にも大きな競合が現れます。ウォルマートです。多様な商品を低価 格で提供するウォルマートは、玩具を集客の目玉として原価割れまで徹底的に値下げするこ とで、「価格破壊」を謳っていたトイザラスの特長を潰しにかかります。 オンラインと実店舗双方において手詰まりとなったトイザラスは 2005 年、投資会社の 、べインキャピタル、ボナルド・トラスティ ー・トラストの 3 社連合体に *-ä 0 ( レ バレッジド・バイアウト ) という方法で億ドルで買収されました。トイザラスのキャッシュフ ローや資産を担保にした借人金をベースに買収する、という手法です。 しかし、結果的にはこの買収がトイザラスの再浮上の芽を摘む形になりました。買収の際 に抱えた億ドルもの負債により事業への投資がままならず、そして株主 3 社の思惑の違い トイザラス
どのようにして 倒産に 至ったのか ? では、買収したバイアコムの狙いはどこにあったのでしよう。実はその当時、プロックバ スターを買収する一方で、映画やスポーツ番組の放映権を持っパラマウントを 100 億ドル もの大金を払って買収していました。バイアコムの年商は 10 0 億ドルを超え、ディズニー と肩を並べる巨大メディア企業となったのです。 そこで描いていたシナリオは、ヾ ノラマウントの映画をバイアコムのケープルテレビで放映 しつつ、プロックバスターにビデオとして供給する、ということです。上流のコンテンツか ら下流の家庭までのチャネルを支配することによって相乗効果を最大化する、という算段で しかし、実際にはこのバイアコムの戦略はうまく機能しませんでした。あまりにも借り人 れが大き過ぎて、その期待値に見合うだけのパフォーマンスが達成できなかったのです。そ して、傘下に人ったプロックバスターも、ウォルマートやトイザラスに苦しめられていまし 。大手小売店が名作を大量発注し低価格で売り切る「セルスルー」という方式を浸透させ、 レンタル需要を奪っていたのです。バイアコムにおいて「日銭を稼ぐ」存在だったプロック バスターの急激な低迷は、グループの財務内容を悪化させ、株価下落の要因となりました。 媒体の亦夂化をきっかけに 一気にビジネスモデルが陳腐化 「過去の亡霊」型 成功体験が強過ぎて、そこから抜け出せずに変わる決断ができない
ーを最悪な方向へと導きます。ホンダの そして、結果的にこのによる買収はロー 手を借りずに独自の車作りをしようとしたものの、エンジン本体のトラブル、そして劣悪な 整備に伴う高額な維持費などの問題が発生してしまいます。による買収から 5 年経っ た 1999 年の年間損失額は 1200 億円に達し、赤字垂れ流しの状態に戻ってしまったの です。 結局 2 0 0 0 年、はロ ーバーを再浮上させることなく売却します。にとって、 にとって ーの買収は「最大の失敗」とも言われる汚点となりました。そしてロー ヾーーま も、グループのプレミアムプランドであったミニはに取られ、ランドロー フォードに売却され、残されたのはとロー ーのみになってしまいます。この状態で、 ファンドにわずか川ポンド ( 約 19 5 0 円 ) というタダ同然の価格で売却されてしまったので す。 社名はロー ーと改められ、年間囲万台の生産体制を目指して、新たなスタートを 切ったものの、既に海外販売網はズタズタとなり、イギリスの高コストな生産拠点が残され るのみ。最後の望みとして、中国の自動車大手である上海汽車との提携交渉に賭けたものの、 経営回復の見込みはないと判断され、交渉は決裂。 2005 年、アドミニストレーション命 令申請をし、倒産に至ったのです。最後のイギリス資本の自動車メーカー、陥落の瞬間でし M G ローバ