過去、中国とチベットには、檀家と寺という特別な関係がありました。それは政治的関 係というより、むしろ精神的関係だったのてす。 当時、中国、モンゴル、チベットは明らかに異なった国とされていました。もし、あな たがチベット人の一人に「あなたの国籍は何てすか」と間えば、必すや「私はチベット人 てす」というてしよう。同様に、チベット人の話していることを聞いていれば、彼らは日 本人やインド人や中国人とは明らかに異なった人種てあるということが分かります。 たとえば、チベット仏教という言葉がありますが、それは、けっして中国仏教のことて はなく、チベット仏教そのもののことてす。チベット語ては中国のことをギャナクといし ます。チベット語ていうギャナクはあくまても外国のことて、チベットとはかけ離れたも のてす。中国側はもちろん、この言葉を使っていません。 中国は、チベット語の公的文書などの中て〃中国〃という言葉のかわりに、 〃我々の国〃と とか、〃我らが祖国みといった曖昧な言い回しを用いています。中国人は、チベットはギャ ナクの」部てはなく、チュンコウの一部てある、とチベット人に対して説明するのぞす。 しかし中国において、政治意識のほとんどない人は、中国語のことをチュンコウホアと
に基づくものて、表面的な違いを除けば、私たちは誰もが幸福を望んており、苦しみや悲Ⅷ しみを望んている者は一人もありません。 この幸福を得るには、さまざまな方法が あります。それだけに根本的な目的についての認識と一致が大切なのてす。 私が出会った人、すなわち報道関係者や数多くの一般の人たちが、チベットの人々やそ の将来に対して大きな関心を示してくれました。数年来の中国の変革の中て、私が亡命生 活に終止符を打つのてはないか、と、う し報道まてされています。 そこて、このことに対する私自身の考えや、将来に対する思いを、根本的な目的につい ての認識という観点から述べてみたいと思います。 やかてチベットが中国を助けるだろう どんなに政治的関むのない人てあっても、チベットは中国とはまったく別の国だと思う ことてしよう。これは当然のことて、実際にチベットは中国とはまったく異なった国てす。 人種白 みリに、 , 、文ヒ的に、も、一「ロ才的に 0 、 地理的、歴史的にも違います。知識人の中て、 チベット人と中国人とを同一視する者は一人もいません。
さまざまな修行方法がある理由 仏陀の教えてある仏教の修行方法は、その人の能力、適性、またやる気があるかどうか という本人の意向などによって、 いくつかの道に分かれています。それは、修行しようと 行 修 する人の気持ちが同じてはなく、理解力の程度もまちまちだからてす。 の 教 なかには鋭い理解力をもった人もいますが、大部分の人はごく平凡なありふれた才能、仏 章 資質の持ち主てしかありません。したがって仏陀は、これらの人々の能力や適性にかなっ 第 た方法て法を説かれたのてす。 チベット仏教の修行方法
ふさっげあんご 第四は、人が特別の期間 ( 布薩、夏安居、自恣 ) をきめて、すべての戒律を厳しく遵守 することによって、戒律を保持し続ける方法と関連しています。 第五は、生活物資に夢中になる状態を抑制し、戒律を守ることに関係しています。 これらの問題は、より詳しい経典により研究されなければなりません。 慈しみのむに岡ちた仏陀自身は次のようにいわれました。 「ある人にとっては、修行は喜びてす。他の人々にとっては、それは苦痛てす。修行を続 けることは喜びを生み、修行を中断することは苦痛へと導きます」 このように、人が修行を続け、それを守ることは非常に重要てす。さらに、純粋に修行 行 を続けるには、四つの扉について知っていなければなりません。その四つの扉を通して、の 仏 人はその侵入を遮らなければなら 修行を妨げ、人を堕落させる要因が入ってくるだけに、 章 ないのてす。 第 これに対する治療法は、導師との有効盟 第一の侵入は、無知てす。前に説明したように、
私はその人を最良の師として考えましよう」 私たちは他人の欠点やいやな面ばかり探すのてはなく、他人の良いところを知ろうとす べきてす。たとえば他人に欠点を述べられたり、批判されたような場合、私たちは自分自 身を知るばかりてなく、それに直面することによって、カ、忍耐、他人への理解と思いや りの気持を育むことがてきるのてす。 宗教には、民族的なものとか、人によって作られた境界というものは本来ありません。 宗教は、それが有益だとわかった人すべてに開かれているものてす。たとえば、ある人は、 仏教徒にならなくても、効果のある、仏教のいくつかの瞑想法を行なうことてしよう。 重要なことは、それぞれの探求者が、最も自分にふさわしい方法を選ぶことてす。 教 仏 人 代 現 特定の宗教の信者になる必要はない 章 宗教とは、心をコントロールする際の補助的道具てあるにすぎず、その目的とは、怒り、 第 貪欲、驕り、嫉妬、限みといった自滅的な考えを、それらと反対のものに変えさせること礙
学校てはチベット語はほとんど教えられず、反対に、中国語が必修となっているほか、Ⅷ 歴史、基礎的な計算 ( 算数 ) や手仕事が主て、とてもチベット人の学校とはいえないそう てす。さらに、チベット人の肉体労働と使役の結品ともいうべき、何千キロにわたる広い 幹線道路も、公共輸送機関の欠如により、なんら生かされていないのが実情てす。 たしかに、農業の分野ては著しい進歩をとげています。しかし、穀物税とか、地方開発 税とか、戦争準備税という名目のもとに、農業生産物の多くが取り上げられ、一人当りの 年間配給量は九〇キロから一二〇キロしかありません。 そのため、当初は熱心だったチベット人の共産党員たちも、一九五 , ハ年以降、徐々に中 国に対して不信感を強め、不満をいだき始めました。その結果、多くのチベット人の共産 党員が職務からはずされ、ひそかに中国本上へ送られてしまったのてす。 もちろん、私たちもけっして過ちを犯さなかったとは断言しません。チベットの過去の 社会制度、政治制度には、時代に適応した改革が必要てありました。しかし、チベット人 は、必要に応じて徐々に変革することを望んていたのてす。 一九五九年以前にも、私自身、 いくつかの改革を試みましたが、その都度、中国側の不
チベットにおける最近の政治的変化は、法王猊下が将来、帰国することを充分予測 したものと田 5 われますか。 法王多くのことが変わりつつあるのは事実てす。少しずってすが近代化、自由化が進ん ています。しかし、中国国内て起こっているほどの自由化の波は、チベットてはま だ見られません。 チベットにおける中国人の存在について、アメリカ人が何をすることを望みますか。 法王私たちは、チベット人の幸せのため、チベット人の権利獲得のために戦っているの てす。私たちチベット人もあなたと同様、人類の一員てあります。したがって人類 て え の兄弟として生きる権利、幸福を得る権利をもっています。 あなた方の国、アメリカては、人々は常に自由の尊さ、束縛されないことの大切さ一 に関心を払っています。それは私たちチベット人もまた望んていることなのてす。タ 法王猊下、あなたはチベット問題解決のため、智慧と慈悲の心て努力されましたが、 章 第 チベットを取り戻すためにほかの方法を使うことを考えたことがありますか。 法王あなたの聞きたいことは、暴力を使って、という意味てすか
つの力によって、精神的安定の九つの段階を完成させる方法を理解しなければなりません。 そのために人は、経験を積んだ導師から教えを受けるべきなのてす。 智慧を備えた、より高度な修行 もし人が、暝想のいかなる段階をもマスターてきたならば、迷いなしに暝想に専念てき るばかりてなく、今まて持ったことのないような強い精神的な力も獲得することがてきま す。このような段階に達したら、人は次に、無我という匪質をよく認識し、その本質を理 解することがてきる智慧を完成させる修行を行なわなければなりません。 この智慧の完成という修行を実践しなければならない理由は、すべての現象は無我てあ るという理法を理解する、この修行を欠いた三昧の境地ては、自我にとらわれた、輪廻の 根源てある妄執や苦悩といった感情を根絶することはてきないからてす。 人は永遠なる三昧の境地を待ち受けますが、もしそれが智慧と結合しなければ、自由と フ状態には到達しません。人は絶対に、無我という性質を理解する智慧を身につけなけ ればならないのてす。これはすべての妄想を取り除くための治療法てす。 128
大乗仏教によって説かれた慈しみの心は、友人や家族に対して抱く、通常の限定された 愛てはないということに注目しなければなりません 親しい人、いとしい人に限定された愛情は、無知や愛着によって、常におとしめられま す。本当の愛とは、自分を傷つけた人に対してさえも、持ちうるものなのてす。しかも私 たちは、あらゆる生物に愛情を持たなければなりません。究極的には、あらゆる生命ある 存在は、幸福を求める等しい願いと、意識が覚醒された状態すなわち悟りを得る可能性を 持っています。 やさしい心をはぐくむことは、宗教を信じている人々だけてはなく、また人種や宗教や 政治的関わりに関係なく、すべての人にとって大切なことてす。それは、自分自身を人類 の家族の一員てあると考え、大きな見地から物事を見ているあらゆる人々にとって大切な教 仏 ことてあり、また達成されるものなのてす。 人 代 現 やさしい心というのは、次のような疑問を発することから生まれてきます。 「私たちは、生まれたその瞬間から、両親によって愛情をもって育てられているのてはな 2 、、ごろ - フカ」
け止め、政策を変えてくれることを望むのてす。 もし中国人が、真にチベット人、モンゴル人、東トルキスタン人に対して、理解と友情 を求めるのならば、実情を考慮して、それぞれの祖国に対して、本来の国家権利と基本的 な自由をえるべきてあります。 中国にいわせると、彼らは植民地主義者、帝国主義者としてチベットにやってきたのて はなく 、解放者として現われたとのことてす。しかし、人々が持って生まれた権利や、自 分自身の運命を決定する自由を阻害しておきながら、解放者ぞありえましようか。チベッ ト人の基本的人権を奪っておきながら、中国は、輝かしい幸福と繁栄とがチベットに存在 する、といっているのてす。 てき力いしん これらのことを、私は中国人に対する敵愾心からいっているわけてはありません。もし 世界の国々が一つの国家として歩んていく日が訪れたならば、私はそれを歓迎し、チベッ トはそのような運動に喜んて参加するてしよう。しかし、そうてない限りは、六百万のチ べット人は、他の自由な人々と同様に、自分たちの独自性や生活様式を守る権利があるの てす。 140