今日、この道徳的基盤の欠如によって引き起こされる様々な問題に対して、社会的関心 が高まりつつあります。なぜならば、この道徳的基盤の確立こそが、真の平等な世界をめ ざす上て、もっとも重要なことだからてす。 今や、社会全体が大きく変化しなければならない時期にきています。そして、このよう な変化が本当に効果的なものとして現われるためには、社会を構成する重要な一員てある 私たち一人一人が、おのおのの信条や価値観、ひいては行動を、もう一度評価し直す必要 力あります。 懐疑論者は、社会を本当に変えることがてきるのか、と間うかも知れません。しかし、 その組織とは、私たちが作ったのてはありませんか。人間自らが、社会的ジレンマを作っ たのてあり、それを変えることがてきるのもまた人間なのてす。 教 仏 人間と社会は相互に依存しています。だからこそ私たちは、一人の人間として、また社 代 会にたずさわっている者として、そのすべての行動を社会と切り離して考えることはてき現 章 ないのてす。 第 トり・・止しい そしてより平等な世界を作るために、この疲弊しきった世界、機能しなく
コミュニケーションの手段がこれだけ発達した今日、私たちは、互いの宗教体系を学ぶ 努力を重ねなければなりません。 これは、世界の宗教を統一する、という意味てはなく、さまざまな宗教に内蔵されてい る共通の目的と、それぞれの宗教独特の、心を磨く技術に敬意を払わねばならない、 うことてす。 心を磨き、それによる恩恵に浴するのは、なにも宗教の帰依者だけに限るわけてはあり ません。宗教を信ずる人も信じない人も、社会存立にとって必須要件てある「心を磨く」 ことて、同じように、その恩恵に浴することがてきるのてす。 もし、宗教を信ずる者と無神論者が、この共通の基盤に立てるなら、どうして仏教徒と 共産主義者があい争うことがあるてしようか ? タイの国境からシベリアの一部にまて広がる仏教文化圏が、共産主義イデオロギーの支 配下にあることは、今や世界に知られています。この地域には、人類の四分の一以上の人々 が住んており、その多くが仏教徒なのてす。 しかし、共産主義は、人々の心にある、仏教への信仰心を一掃することがてきません。
なった社会を改善しようとする努力が、これまて幾度となく試みられてきました。そして間 これらの社会的問題に対処するため、高邁なイデオロキーが確立されてきました。こうし た趣旨や目標そのものは賞讃すべきものてしたが、不幸にもこれらの考え方は、人間に付 随する利己主義によって打ち負かされてしまったのてす。 今日、正しい倫理、正しい道徳原理は、悲しいことに利己主義の陰に隠れてしまってい ます ( 特に政治分野においては顕著てす ) 。倫理および道徳原理を欠いた今日の政治状態を まのあたりにみて、道徳的な人のなかには″政治にはロをはさむな〃と主張する人もいま すが、これは誤っています。 なぜならば、倫理を欠いた政治は、人間およびその社会に対し、なんら利益をもたらさ ないばかりか、道徳心のない生活は人間を野獣と化するからてす。本来の政治的概念とは、 今日汚れたものと見られている政治とはまったく異なったものなのてす。 残念なことに、私たちの政治文化がそれを変えてしまいました。政治家たちの利己主義 が、本来私たちの社会に利益をもたらす素晴らしいものてあるはずの政治概念をゆがめて しまったのてす。
んど差がありません。 私は前に述べたように、チベット仏教の立場を代表して、小乗仏教に対する深い尊敬の 念を表明します。小乗仏教の方々は戒律と一体となった生活を日々おくっています。 大乗仏教てはまず、利他行の実践、つまり菩薩行を追求します。これを行なうための段 したい 階として、四つの真実 ( 苦・集・滅・道の四諦 ) 、悟りを得るための三十七の修行 ( 道品 ) 、 さらに六波羅蜜などを理解するのてす。金剛乗仏教ては所作タントラ、行タントラ、ヨー ガタントラ、無上ヨーガタントラの四段階の修行を行ないます。修行者はエネルギーの流 れを肉体の導管に集中させることにより、止観 ( 心を静めて正しい智慧て見る ) を一体化 して、鋭敏な心を実現させます。今日、それが多くの人々の関心をよんているのてす。 今日、世界の各地て異なる宗教間の相互理解、宗教統一のための努力が行なわれていま す。それはただちに、また簡単に実現てきるものてはありませんが、宗教者とりわけ宗教 指導者の果たすべき責任は重大てあります。 私たちはさまざまな宗教の間に横たわる相違を隠すことはてきません。また世界共通の 信仰によって、それを置き換えることもてきません。それぞれの宗教は今日、それを信ず
すべてが等しく望んているものなのてす。 それゆえ、私は常に、互いに人間てあるという前提のもとに出会う、どんな国のどんな 人とも、対話をしようとしているのてす。 今日、私たちは、エネルギー危機、公害、人口過剰といった多くの困った問題に直面し ています。そうした間題に対しては、無理からぬ程度まて各人が解決、適応のための努力 をしなければなりません。 しかし、私たちの間題の多くは、人が作ったものぞあり、私たち自身の無知、貪欲、無 責任な行動から生まれたものなのてす。多くの困難な間題が、思想的争い、あるいは宗教 的争いからも生じました。そして人々は、互いに富や秩序のために、人間の目的、目標を 見失い、戦ったのてす。 こうした問題の解決はけっして容易てはなく、複雑てありますが、私たちのカの範囲内 て、制御したり正したりすることはてきると思います。その基本となるのは、利己的、地 域的な要求を超越することてす。 今日、人間と人間との人格的触れ合いが、ますます重要なものとなっています。世界は、
チベットの歴史の中には暗黒時代も 法王猊下はまた、チベットての精神的伝統の消滅についての質間にも答えています。こ の現象は、同時にまた、チベ、ツト以外の世界て、精神的な教えのあいまいさのために惹き 起こされていることてもあります。 法王猊下は、チベットの歴史のなかには、現在と同じような暗黒時代もあった、と答え ています。六十から七十年もの間、一冊の文献も公刊されなかったこともあり、一人の僧 すらも公然と移動することが許されず、精神生活は地下へと追いやられていたことがあり象 の 王 法 今日のチベットては、精神的、伝統的な教育体系に対して、似たような攻撃が加えられマ ています。しかし、もちろん、それによって、崇高な教え自体や、その教えを忠実に守りイ ダ 続けている保持者に影響が及んている、ということはないのてす。 集 同時に、主にインドにおいててすが、チベット仏教の復興と普及がなされているようて寄 す。今日、チベットの伝統的な体系や思想が活動しはじめている姿が見られるからてす。
真実の勝利を約束する自己訓練の修行 私たちが仏教を学ばうとする場合、それがいわゆる小乗仏教とよばれる系統のものてあ れ、大乗仏教や密教と呼ばれる系統のものてあれ、三つのより高度な修行から開始しなけ 行 ればなりません。仏陀は、限りなく輝くタイヤモンドのようにすばらしい仏の三つの特別の 仏 な超能力、洞察力を持っていました。そして仏陀自身、この方法て修行し、人々に教えを 章 説かれたのてす。 第 仏陀の教えは〃言語的表現〃、すなわち経典となって今日に伝えられていますが、それにⅢ より高度な三つの修行について
これと同様に、誕生、死、および生ても死てもない中有 ( 中陰。死後四十九日間のこと ) という三つの状態も、意識の段階によって判断されます。私たちは死の過程て、最も深い 最も細やかな意識を経験します。そして、この意識が連続するという考え方から、生まれ りんねてんしよう という思想が確立されるのてす。 かわり、つまり「輪廻転生」 今日ても自分の前世を明確に記憶している人についての話はたくさんあり、それらは克 明に記録されています。私たちの知識をさらに広げようとするなら、こうした領域を研究 することが大切てはないてしようか。 41 第 1 章仏教とは何か
等しく人間であるという事実 人類は数世紀にわたって、正義、協調、平和について話し合ってきました。科学および 技術の進歩が著しく、物質的に豊かな今日の近代社会ては、社会が進歩し、私たちの生活 がより高度になるにつれて、高い理想を実現しようとする自覚がなくなりつつあります。 人類はより高い理想を実現しなければならないことは明白てあり、実現てきなければ人 類社会の存続さえ危ういてしよう。このような危機感から、仏教者はいま相互に調和と理 つど 解を確立しようとしています。仏法の下に集う私たちは、この理想社会実現に向かって全 自己を見つめ直し、相手を尊敬する
法王私たちはなぜよい行為をしなければならないのてしようか。それは、よい結果はよ い行為からしか生まれないからぞす。人間は誰もが幸福を望み、苦しみを避けよう とします。行為の善、悪が、その結果の善、悪を決めるのてす。これが仏教て説く 因果応報の理法てす。この考え方はヒンズー教においても同じてす。 その場合、ある行為をしようとする動機は重要てすか 法王そのとおりてす。どのような動機てその行為をするのか、仏教てはこのことを最も 重要に考えています。たとえば、なんの動機も持たずにある行為をした場合、また は動機は持っているがその行為をしなかった場合ーーーそしてその両方を持っている て え 場合、両方を持たない場合というように分け、差をつけています。 家庭不和、離婚についての考え方 ン ところて、家庭生活において今日、さまざまな崩壊、分裂現象が見られますが、こ 章 うした現状を打開する方法がありますか。 第 法王まず、お互 いにもっと寛容になることてすね。そして道徳的倫理観を持っことはも