こうした考え方が生まれるのは、私たちの生活における政治の重要な役割をよく認識し囹 ていないからてす。強力な道徳倫理は、宗教を信じる者と同じように、 政治を行なう者に とっても重大なのてす。 なぜならば、政治家たち、およびそれを支配する者が、道徳的倫理および信念を忘れた 時、危険な結末が予想されるからてす。私たちが信仰者てあるか不可知論者てあるか、あ るいは神を信じるかカルマを信じるか、 に ~ 関係なく、道徳的倫理は、誰もが追求するこ とのてきる規範てあり、理法てあります。 私たちは、道徳、あわれみ、ヒューマニティのような、人間的な性質を必要としていま す。この必要を満たすためには、あらゆる努力が真剣になされなければなりません。物質 万能主義ては、道徳や人間性はけっして育たないという考え方に立つべきなのてす。 現在の教育システムは変革されるべきだ さまざまな宗教も、お互いに偏見をなくし、人間のこれらの性質を作るために、そして 調和のとれた理解溢れる社会をつくるために、一体となって働かなければなりません。
学校てはチベット語はほとんど教えられず、反対に、中国語が必修となっているほか、Ⅷ 歴史、基礎的な計算 ( 算数 ) や手仕事が主て、とてもチベット人の学校とはいえないそう てす。さらに、チベット人の肉体労働と使役の結品ともいうべき、何千キロにわたる広い 幹線道路も、公共輸送機関の欠如により、なんら生かされていないのが実情てす。 たしかに、農業の分野ては著しい進歩をとげています。しかし、穀物税とか、地方開発 税とか、戦争準備税という名目のもとに、農業生産物の多くが取り上げられ、一人当りの 年間配給量は九〇キロから一二〇キロしかありません。 そのため、当初は熱心だったチベット人の共産党員たちも、一九五 , ハ年以降、徐々に中 国に対して不信感を強め、不満をいだき始めました。その結果、多くのチベット人の共産 党員が職務からはずされ、ひそかに中国本上へ送られてしまったのてす。 もちろん、私たちもけっして過ちを犯さなかったとは断言しません。チベットの過去の 社会制度、政治制度には、時代に適応した改革が必要てありました。しかし、チベット人 は、必要に応じて徐々に変革することを望んていたのてす。 一九五九年以前にも、私自身、 いくつかの改革を試みましたが、その都度、中国側の不
「どうすることもてきずに悩んている人、あるいは年老いて一人ぼっちてさみしい人、そ うした人を慰めるべきてはないだろうか」 賢明な愛情は、私たちが発達させ活用すべきダイナミックなカてすが、私たちは、しば しば、その重要性を否定しがちてす。とくにそれは青春期に著しく見られます。 普遍的な愛情は、精神的民主主義の単純な原理に基づいています。それは、すべての生 きとし生けるものは、等しく幸福に生きる権利があり、それを望むことがてきる、といっ た認識に立脚しています。 とはいえ、一人の個人の利己的欲求は、人々の重要な要求を決して踏みにじることはて きません。民主主義の原理は、私たちが共通の善ということを考えて行動することを必要 としているのてす。慈しみの心を持ち、人類の一員としての共同責任を持っことは、利己 的な欲望を捨て去ることを意味しています。 原因は自分にあると考えよう 私は、毎日の経験を通じて、自分たちの利己的態度は、社会ばかりか個人にとっても破
むに幸福をもたらすことはてきないのてす。 このことから、心の内部の状態は、外部の条件よりはるかに重要てあることが理解てき るてしよう。したがって、内面の平和がどんな方法によって作られ、また得られるのか、 これを知ることは絶対に必要てす。 この理法を知ることは私たち個人にとって、重要かっ緊急、そしてまた実際的、現実的 てあるばかりてはありません。地球上に非常に多くの社会的緊張がみなぎっているこの時 代、また、世界の民族がお互いに征服するための競争 ( たとえば核による破滅の脅威 ) 非常な関心をよせている時代において、私たちが精神的な知恵を身につけようとすること は、社会においても最も緊急を要することなのてす。 現在、技術的、工業的発展においてはなんら不足はありません。ては、不足しているも のは何てしようか ? それは心理的または精神的な調和と喜びの基礎となるものぞす。も し私たちが愛と慈しみの心による、落ち着いた喜びを体験するようになれば、 こし J - ん外立ロ の混乱に遭遇しようと、個人的な平和を経験てきます。また、混沌としている現代社会を 平穏なものにするための役割を果たすこともてきるてしよう。
今日、この道徳的基盤の欠如によって引き起こされる様々な問題に対して、社会的関心 が高まりつつあります。なぜならば、この道徳的基盤の確立こそが、真の平等な世界をめ ざす上て、もっとも重要なことだからてす。 今や、社会全体が大きく変化しなければならない時期にきています。そして、このよう な変化が本当に効果的なものとして現われるためには、社会を構成する重要な一員てある 私たち一人一人が、おのおのの信条や価値観、ひいては行動を、もう一度評価し直す必要 力あります。 懐疑論者は、社会を本当に変えることがてきるのか、と間うかも知れません。しかし、 その組織とは、私たちが作ったのてはありませんか。人間自らが、社会的ジレンマを作っ たのてあり、それを変えることがてきるのもまた人間なのてす。 教 仏 人間と社会は相互に依存しています。だからこそ私たちは、一人の人間として、また社 代 会にたずさわっている者として、そのすべての行動を社会と切り離して考えることはてき現 章 ないのてす。 第 トり・・止しい そしてより平等な世界を作るために、この疲弊しきった世界、機能しなく
私はその人を最良の師として考えましよう」 私たちは他人の欠点やいやな面ばかり探すのてはなく、他人の良いところを知ろうとす べきてす。たとえば他人に欠点を述べられたり、批判されたような場合、私たちは自分自 身を知るばかりてなく、それに直面することによって、カ、忍耐、他人への理解と思いや りの気持を育むことがてきるのてす。 宗教には、民族的なものとか、人によって作られた境界というものは本来ありません。 宗教は、それが有益だとわかった人すべてに開かれているものてす。たとえば、ある人は、 仏教徒にならなくても、効果のある、仏教のいくつかの瞑想法を行なうことてしよう。 重要なことは、それぞれの探求者が、最も自分にふさわしい方法を選ぶことてす。 教 仏 人 代 現 特定の宗教の信者になる必要はない 章 宗教とは、心をコントロールする際の補助的道具てあるにすぎず、その目的とは、怒り、 第 貪欲、驕り、嫉妬、限みといった自滅的な考えを、それらと反対のものに変えさせること礙
法王 え、そうてはありません。 法王一般論をいうと、私は常に相互信頼、相互理解を念頭に置き、問題を解決しようと 思っています。中国に関しては、最近、少しずってはありますが、以前より柔軟に なってきています。しかし、それが何をもたらすのか、明言することは時期尚早の ようてす。事態は刻々変化しているように見えます。現在いえることはそれだけて す。 最近、新聞記者がチベットに入ることを許され、僧院て話を聞くことがてきたそう てすが、僧侶たちは修行生活をおくっているのてすか。記者の報告によると、法要 を執り行なっていた若い僧侶たちの年齢はおそらく三十代か四十代てあろうといっ てます。チベットては今日てもこのような若い僧侶を育成しているのてすか しいえ。今年 ( 一九八〇 ) の五月以降、中国側はチベット語の日刊新聞て、宗教が いかに不必要なものてあるかについてのキャンペーンを続けています。一方ては宗 教を信じる自由、宗教活動の自由を宣伝しながら、同時に、宗教活動の無効性につ いての批判、その理由づけを強化しています。 164
仏教は現実を正しく理解する チベットの仏教は、現代社会の諸問題に対して、どのような特別な関心を払ってい ますか 法王仏陀の教えは、生活の必要と、現実にふさわしい実践、という点をわきまえながら、 心を絶えず進歩させるものてす。このことを考えれば、現実あるいは生活の事実、 すなわち実際にあるがままの現象と物体の本性についての正しい理解が必要てす。 再びこれについていうと、二つの局面があります。その一つは、人の認識 ( 限界あ る人の心 ) を超越している物事や現象についての知識て、もう一つは、人の認識の 範囲内にある物事と現象についての知識てす。 しかし、何よりもまず私たちは、厳密にいって心とは何なのか、その本質は何なの か、また心はどのように働くのか、といったことについて、その解答を見出さなけ ればなりません。心は広大てかつ自山自在なものとなり、それに従い思考能力の深 化、拡大と並行して、忍耐と寛容の気持ちも大きくなっていくものてす。 私がここて概説したようなことを勇気を出して実現することは、現代人に対する大 180
満を買うような結果となりました。中国が、私の改革を支援したことは一度もありません てした。中国にとっての〃改革みとは、彼らの都合のよいように、また彼らの計画どおり にやるものてあって、私たちの改革は、彼らの計画をおびやかすものと考えられていたの てす。 現在、国外に亡命しているチベット人も、チベットが徐々に近代化し変わってゆくこと を支持しています。すべてのチベット人の願いを反映させるため、一九六三年、私は将来 のチベットのために新しい憲法の草案を発表しました。 将来、ダライ・ラマ制度が必要てなくなるかも知れず、またダライ・ラマ支配も必要て なくなるかも知れません。場合によっては、社会主義制度を取り入れるかも知れません。 このように、私たちはけっして、変化や改革に反対しているわけてはないのてす。 べ チ 教 仏 人命の尊重と自由の大切さ 章 中国ては共産主義者が政権を取って以来、多くの進歩があったということは疑う余地が第 ありません。中国の改革は、一般民衆の利益になっています。また、中国によって、幾つ
観点に立った修行から始めることのてきる道をケえたのてす。 これら四つの教えの中には、分析てきないものや、論理的な欠陥をさらけ出すものもあ ります。同様に、私たちは、すべての教えを綿密に調べて、それらの中てどれが本当に真 実てあるか、また、どれが特定の時間と必要性にしたがって、仏陀によってえられた低 し教えてあり、それだけに解説する必要があるかということを認識しなければなりませ ん。それらの教えは、試されたときはじめて、その論理的な欠点が明らかにされるのてす から、そのことを考慮に入れなければなりません。 四つの教えのうち、中観派 ( インド大乗仏教の二大学派の一 ) は特に、究極的な心につ いて最も多くの記述をしています。私たちはしたがって、その正式な経典について注意深 く研究し、そして観想することにより、現実というものの究極の性質に関するその教えを 理解しようとしなければなりません。 いろいろな精神的なゆがみを破壊することのてきる内部の精神的な力を養うために、人 は強力な方法を使用しなければなりません。方法が強力になればなるほど、「空」の思想を 実際に応用することがてきるようになります。またその方法が強い時には、「空」について