モンゴルや東トルキスタンても同じ悲しみが 西側の人が理解していないチベット問題の現実 第五章インタビューに答えて 現代人の悩みと宗教の役割 信仰を強制することはてきない 戦争に反対しながらも戦争が起こる理由 宗教が現実的な力を発揮するには 家庭不和、離婚についての考え方 仏教における精神と肉体 自己は単独に存在するものてはない 「空」と「無」の違いとは 現在の幸福や逆境には過去の原因がある 仏教は現実を正しく理解する 心とは何か、自分とは何か 家や着物と同じように肉体は変えられる 自分とは、肉体と心の結合の上に貼られたラベル 170 162 176 149 157
さて、帰謬論証派によれば、すべての現象は相互依存の基礎の上に存在しています。 同様に、〃自我〃も、肉体と心が合体したものに依存すると認識されている、相互依 存の基礎の上に存在しています。したがって、〃自我みは、肉体と心の結合の上に貼 られご、 ナたたのラベルにすぎないのてす。意識だけては〃自我みとして識別されま せん。 つまり心というのは〃自我〃に属する何かなのてあり、〃自我〃そのもの ( 自分の肉 体そのもの ) てはないのてす。てすから〃自我みは肉体と心が合体したもののラベ ルとして存在するのてす。 さて、密教の伝統によれば、二つの〃自我〃があります。一つは、現在は人間とし て存在している、仮の〃自我みてす。これは、未熟な粗い〃自我みてあり、未熟な 粗い身と未熟な粗い心が合体したものとして分類される〃自我みなのてす。同時に、 彳糸な〃自我〃があり、微細な身と微細な心が合体したものに依存するものとして、 そう名づけられております。 普通の生活において、この微細な身とむは活動していないように見えます。その時 186
家や着物と同じように肉体は変えられる 法王猊下、人間が現世から来世へ、その肉体的形状を完全に変えることが可能てあ る力い」 - フカし J い - フこし J についてご亠思見」司いご、 しのてすが。 法王私は仏教徒てす。人間は時として、天・龍・夜叉・阿修羅など、仏法の守護神とし ての形を身につけることもあると信じています。次の世における姿や環境は、現在 の肉体に左右されるものてはありません。これは、不健全な行動および徳によって 決まるものてす。基本は、自分自身のカルマのカてす。それが種なのてす。 しとは何か、自分とは可。 カ 182
政治に今こそ必要な倫理と道徳 道徳的基盤の確立を富 宗教と政治は明確に分離されるべきものか行 現在の教育システムは変革されるべきだ爲 第三章仏教の修行 チベット仏教の修行方法 さまざまな修行方法がある理由 私たちの存在そのものが自由てあることを認識する カーラチャクラの実践について すべての生物が満足を求め、苦痛を避けようとしている 苦痛は何から起こるのか 生きとし生けるものの幸福についての責任を感じる 密教の四つの実践方法 自分に最も適した体系を学ぶことが大切 仏陀による神秘的顕示川 一般の人に対しても開かれている、より高度な瞑想燗
法王博識な学者もしくは高僧てあって、人々の指導者てある人々は尊敬され、尊重され なければなりません。 求められていることが、ヴィナャ ( 僧院ての規則修練 ) またはスートラ ( 経典 ) 、あ るいはバジラヤーナ ( 秘密の法 ) てあるかによって、導師 ( ラマ ) の方法ややり方 には、幾分違いがあります。 心と肉体と言葉の粗野な行為を純化し、平安なものにする完全なる道へと人を導き、 人の心を絶えまのない進歩に向かわせる賢い導師は、最高の至宝だと考えられてい ます。 チベットては現在、ポン教はどの程度実践されているのてしようか。 法王古いポン教の信仰は、仏教がチベットに移入してくる遙か以前に、チベットて広く 行なわれていました。そして、仏教が広まった後ても、引き続き一九五九年の国家 的大難に至るまて、ポン教の信者たちは、チベットのあらゆるところに散在してい ました。インドに難を逃れて来たチベットの難民のなかには、。、 ホン教の信者から成 るグループもあります。 178
行が終わりに近づいている現在、昼夜、戒律を守ることに没頭する。修行はより大きな利 益を生み出す」 簡単にいうと、もし、悪を取り除き、修行に専念するという本質的な事柄を、仏陀によ 罘ネ的な道を って特に教示されたものと見なし、遵守するならば、私たちは間違いなく、 歩む、あらゆる存在と調和てきるということてす。 一方、自分自身についての訓練の理法を守らず、その修行の限界を超えることは、多く の望ましくない結果を生みます。 もしこの世界て、人がある強力な支配者の規則を犯したとしても、ある幸運によって、 罰をのがれる機会があります。しかしながら、仏陀は、ただ単なる政治的支配者てはあり ませんてした。仏陀が弟子たちに教えた訓練は、理由や原因、また目的もなくえられたの ものてはなかったのてす。自分自身ばかりてなく、他人をも肉体的に傷つけるのを避ける こと、それについての教えがいかに重要てあるかということを、仏陀はよく知っていまし第 こ。純粋な教え及び自己訓練の実行の有益な結果を知ることは、何が除去されるべきて、
むに幸福をもたらすことはてきないのてす。 このことから、心の内部の状態は、外部の条件よりはるかに重要てあることが理解てき るてしよう。したがって、内面の平和がどんな方法によって作られ、また得られるのか、 これを知ることは絶対に必要てす。 この理法を知ることは私たち個人にとって、重要かっ緊急、そしてまた実際的、現実的 てあるばかりてはありません。地球上に非常に多くの社会的緊張がみなぎっているこの時 代、また、世界の民族がお互いに征服するための競争 ( たとえば核による破滅の脅威 ) 非常な関心をよせている時代において、私たちが精神的な知恵を身につけようとすること は、社会においても最も緊急を要することなのてす。 現在、技術的、工業的発展においてはなんら不足はありません。ては、不足しているも のは何てしようか ? それは心理的または精神的な調和と喜びの基礎となるものぞす。も し私たちが愛と慈しみの心による、落ち着いた喜びを体験するようになれば、 こし J - ん外立ロ の混乱に遭遇しようと、個人的な平和を経験てきます。また、混沌としている現代社会を 平穏なものにするための役割を果たすこともてきるてしよう。
したいどういう意味なのか聞かずにはいられませんてした。 これについては、、 「それを宗教と呼ぼうが、哲学といおうが、問題てはありません。それはすべての人々の 存在にとって根本的なものなのてす。それは生きるための規範を教えてくれるのてす。一 方、政治は手段て、その救いは一時的なものにすぎません。精神的あるいは哲学的なこと こそが、唯一の永続する救いなのてす」と法王猊下は説明してくれました。 しました。国民の この考え方は自分自身にとっても最も重要なことだ、と法王猊下はい、 ために何か貢献したというのは、法王猊下の精神的指導力によるものてありました。 鋭い理解力と類い稀な素晴らしい知識によって、法王猊下は自分の立場の微妙な現状に 気づいていました。「私に対して多くの人々、とくに青年たちが世界各国に対し亡命政府の 承認を求めるよう訴えてきます。しかし難民として流浪の身てある私たちは、自由な政府 を作るにも、自由に活動するにも、さまざまな限界があります。しかも現在、世界中に 他国によって承認されても、その自国の国民が支持せず、認めていない政権が少なくあり ません。大事なことはまず、その国民の支持と承認を得ることなのてす」と法王猊下は指 商し↓した。 246
らば、それは過去のよい積み重ねの結果てあることに気づくてしよう。 この智慧を確実に理解すれば、身心ともに平和を達成することがてきるてしよう。 たとえば、ある外部的な要因によって、突然に、しかも非常に危険な肉体的苦しみを加 えられたと仮定しましよう。しかし、意志の力によって、その苦しみを和らげられるとし たら ( 現在の不幸、苦しみは、自分の責任てあると認識てきたならば ) 、心はずっと平和に なるこし J ′ししょ - フ。 そこて話をもう一歩進め、苦痛や不満を取り除くにはどうしたらよいかということに ついて考えてみたいと思います。これまてにも述べてきましたように、楽しみや苦痛、幸 はんちゅう 福や不満は、行為の善悪、行為の成熟度の違いによるものて、心の範疇に属するものてす。 したがって、てきるだけ多くの成熟した行為の質、量を増加させ、成熟していない行為を 除去することが大切てす。 たとえば人間の肉体て、肺、心臓、その他の器官は、現代の医学をもってすれば、別の 斤しいものと交換し、移植することカてきるようになりました。しかし、純粋にの間題 てあるカルマの場合はそうはいきません。むに新しい長所をもたらし、欠点を根絶するこ
世界は今日、情報伝達システムの進歩のおかげて以前よりすっと小さくなりました。ど 、愛、正義、平等 んな国民も、孤立してただ一人て生きることはてきません。それだけに に満ちた世界を創り上げることに、私たちは強い関むをもっています。全人類が、道徳的 私たちの存在および存続は危機に陥るに違いあ 自覚に目ざめ、責任感を強めないかぎり、 りません。 そのような世界を創り、守り育てるために必要な性質は、最初から植え付けられなけれ ばなりません。すなわち幼児の頃からてす。私たちの世代または次の世代が、たやすく変 化するとは思えません。もし変化があるとすれば、それは将来の世代においててしよう。 とはいえ、もし私たちが、世界的規模て、現在の教育システムを大きく改善したならば、 次の世代て実現が可能かもしれません。道徳的倫理に基づく政治的文化を作り上げようと教 仏 して、いま活発な改革が大規模に企てられていますが、そのような改革には強力な後ろ楯 代 現 が不可欠てす。 章 なぜならば、少数の、非力な国民による、そのような試みは成功しそうにないからてす。 第 しかし、もし力をもった多くの国民が、しつかりした道徳的倫理に基づいた政治を選択す