自我 - みる会図書館


検索対象: 仏教のこころ
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1. 仏教のこころ

さて、帰謬論証派によれば、すべての現象は相互依存の基礎の上に存在しています。 同様に、〃自我〃も、肉体と心が合体したものに依存すると認識されている、相互依 存の基礎の上に存在しています。したがって、〃自我みは、肉体と心の結合の上に貼 られご、 ナたたのラベルにすぎないのてす。意識だけては〃自我みとして識別されま せん。 つまり心というのは〃自我〃に属する何かなのてあり、〃自我〃そのもの ( 自分の肉 体そのもの ) てはないのてす。てすから〃自我みは肉体と心が合体したもののラベ ルとして存在するのてす。 さて、密教の伝統によれば、二つの〃自我〃があります。一つは、現在は人間とし て存在している、仮の〃自我みてす。これは、未熟な粗い〃自我みてあり、未熟な 粗い身と未熟な粗い心が合体したものとして分類される〃自我みなのてす。同時に、 彳糸な〃自我〃があり、微細な身と微細な心が合体したものに依存するものとして、 そう名づけられております。 普通の生活において、この微細な身とむは活動していないように見えます。その時 186

2. 仏教のこころ

に、何もないこと、何物も存在しないことを物語るものてはありません。空性とは、 ということなのてす よって来たる原因がない、 ある原因のもとに生じたものは何てあれ存在しますが、その存在はそのもの自体て はなく、何か別のものに関係しているか、あるいは依存することによってのみ存在 しているのてす。 存在の始原というのは本当の始原てはなく、無こそが始原なのぞす。簡単にいえば、 空とは心像の名称て、それ以外の何物てもありません。それは自我のない存在てす。 ありとあらゆるものは、本質的にいって、空なのてす。すべては空性あるいは空、 つまり不滅の実体もしくは自我に欠けているのてす。なぜならば、自我のない存在 てあって、そのもの自体にはない別の原因に依存した存在なのてすから。 という意味てはありません。 しかし、以上の説明は、物体が全然存在しない ダルマ ( 法・真理 ) についてのチベットの人々の考え方はどんなものてしようか。 法王サンスクリット語の「ダルマ」は、捕えるあるいは保護するという意味てす。チベ ということてす。精神の向上への鍛練やその進 ット語ては、ダルマは「心の改革」 174

3. 仏教のこころ

自分とは、肉体と心の結合の上に貼られたラベル 中観派ても、やはり二つのグループに分かれます。自立論証派と帰謬論証派てす。 自立論証派もまた、一一つのグループに分かれます。瑜伽行自立論証派と経量自立論 証派てす。いま申し上げたうち、後の二つの系統は両方とも、第六番目の意識を〃自 我みとして受け入れ、この〃自我みは肉体と心の両方に依存するものとして認識さ一 れています。 しかし、肉体は死によって存在を停止しますのて、肉体だけこ ( 左右される〃自我〃 を識別することは、簡単にはてきません。したがって、この系統の思想によれば、 意識そのものを〃自我みとして認識するしかないのてす。 識派 ) てす。 唯識派のもう一つの系統 ( 論理追従唯識派 ) においては、〃自我〃を六番目の心、精 神的な意識そのものと考えています。彼らは、六つの意識だけしか認めず、それが 〃自我みてあるとしています。 185 第 5 章インタビュに答えて

4. 仏教のこころ

第一に、唯識派ては、二つの説明がなされています。そのうちの一つては、〃自我み は、形 ( 肉体の ) を基礎としたものてはなく、意識を基礎としたものとして分類さ れています。 それには、八つの異なるタイプの意識があると主張しています。それは、五つの感 覚意識、 , ハ番目は精神的意識、七番目は、その対象の意識、つまり、基本的な意識 を誤って理解してしまう負の意識 ( マナ識 ) てす。八番目が、基本的な意識そのも の ( アーラヤ識 ) になります。この系統の中ては、八番目の意識、つまり基本的な 意識を〃自分みとみなしています。 それによると、人が死ぬと、五つの感覚意識と六番目の精神的意識は、活動を停止 するということになります。したがって、もし〃自我〃がこれらの六つの意識とは 別の、もう一つの意識として識別されなければ、〃自我みは存続しないのてす。〃自 我みがなくてはならず、六つの意識が死んても残る何かがあるはずてす。てすから、 それにはもう一つの意識があると主張しているのてす。それは、基本的な意識と呼 ばれ、〃自我みとして受け入れられるものなのてす。これが一つの系統 ( 聖典追従唯 184

5. 仏教のこころ

しかしながら、その種だけては充分てはありません。それは水と土とに反応しなけ ればなりません。てすから、同様に、原因という観点からばかりてなく、状態の観 点からも考えなければなりません。基本的には、それは非常に明確てす。 肉体という物質は、両親から得られたものてす。しかし心と自我はそうてはありま 時々変えること せん。てすから、この肉体はちょうど家とか着る物と同じように、 がてきるのてす。 現世から次の世へ移動する存在の性質を定義することは可能てすか ? 法王仏教ては、〃自我みが存在していると信じています。これは永久的なもの、肉体や心 て え から独立した、という意味ての〃自分〃があるということてす。 この存在の性質に関して、仏教には四つの異なった系統の思想があります。この四一 つの思想はすべて肉体と心から独立した永久的存在としての〃自我みに反論していタ イ ます。つまりそれを否定しているわけぞす。 章 さて、肯定派の中ても、この説明は四つの系統ごとに異なっています。このなかか第 ら、大乗仏教の二つの系統てある、唯識派と中観派について話しましよう。

6. 仏教のこころ

つの力によって、精神的安定の九つの段階を完成させる方法を理解しなければなりません。 そのために人は、経験を積んだ導師から教えを受けるべきなのてす。 智慧を備えた、より高度な修行 もし人が、暝想のいかなる段階をもマスターてきたならば、迷いなしに暝想に専念てき るばかりてなく、今まて持ったことのないような強い精神的な力も獲得することがてきま す。このような段階に達したら、人は次に、無我という匪質をよく認識し、その本質を理 解することがてきる智慧を完成させる修行を行なわなければなりません。 この智慧の完成という修行を実践しなければならない理由は、すべての現象は無我てあ るという理法を理解する、この修行を欠いた三昧の境地ては、自我にとらわれた、輪廻の 根源てある妄執や苦悩といった感情を根絶することはてきないからてす。 人は永遠なる三昧の境地を待ち受けますが、もしそれが智慧と結合しなければ、自由と フ状態には到達しません。人は絶対に、無我という性質を理解する智慧を身につけなけ ればならないのてす。これはすべての妄想を取り除くための治療法てす。 128

7. 仏教のこころ

仏教における精神と肉体 自己は単独に存在するものではない 自我について、チベットの人々はどのように考えているのてしようか 法王自己 ( 自我 ) というのは、集合体 ( 認識に左右されている、肉体的かっ精神的な特 性のグループ群 ) に対して名づけられた名称てす。 自己 ( 自我 ) と集合体については、それぞれが独自の存在てある、と普通は信じら れています。しかしながら、仏教徒は、自我 ( 自己 ) の本性と、集合体の本性とは 同一のものてあると認識しています。 170

8. 仏教のこころ

たちは繊細な〃自我〃と呼びます。これは、二つの面を持つ一つの存在ともいえま す。映すことがてき、認識する力を持ち、知覚という性質を持っ局面を、微細な心 と呼ぶのてす。同時に、その動いている部分、そのエネルギー、その対象に向かっ て心を活性化させるある種の力が存在します。仏教においては、これが真の創造者 てあり、また、私たちが仏陀の性質 ( 仏性 ) と呼ぶ存在なのぞす。 その段階が実現されると、怒りを超えた段階、一般の思想を超えた段階となり、そ のレベルては愛着、怒り、ねたみなどが育っ基礎はもはや存在しません。これは心 の最も深いレベルなのてす。私たちは未熟な粗い心がある段階、そしてその結果、 思考という現象が起こる段階に戻りがちてすが、究極的な仏陀の性質には、未熟な 粗い心の性質が全く存在しません。そしてその心自体は智慧て満たされています。 それが仏陀の心なのてす。 マンダラは何を表わしているのか 法王猊下、寂静的なマンダラの基本的な面を説明してください

9. 仏教のこころ

は、その微細な身と心は、明らかにあるのてす。だから、生まれ変わる〃自我みと は微細な〃自我みなのてす。 微細な〃自我みの性質とその源は何なのてしようか ? 法王前と同じように、その性質は、微細な身 ( 風 ) および微細な心の上の単なるラベル にすぎません。その微細な風そのものが、肉体として見えるのてす。しかし、その 〃自我みは、肉体の上の単なるラベルとしてしか残りません。 それては、その微細な風は、私の肉体という形をとって、明確に存在しているのて しょ , フカ ? ・ 法王ここていう風とは、ある種のエネルギー、動いているエネルギーを意味します。て すから、非常に微細な風や非常に微細なむについて説明しますと、その二つは、こ のように認識されます。つまり、ある対象のために行なわれる活性化を基礎としたタ 上ての微細な風と、対象をよく知っているということを基礎にした上ての微細なむ てす。 あなたたちは実際に肉体について考えが充分てありません。この二つを合わせて私

10. 仏教のこころ

こ、帰謬論証派と自立論証派の二派に分かれています。この帰謬論証派によれば、 自我あるいは自己とは、認識によって把握された名称にすぎません。 また、自我というものが認識によって把握された名称にすぎないように、あらゆる 物体も同じように認識によって把握されたものにすぎないのてす。すべての物体は 自我のない存在てあって、それ自身存在の根拠がないのてす。 涅槃とはどういうことなのてしようか。西洋ては、このことについて極端な混乱が あって、ふつうは無や絶滅という意味オ ご、と広く考えられていますが・ 法王文字どおりには、解脱 ( チベット語てはタルバ ) が束縛からの自由を意味していま す。ありとあらゆるものは、カルマや煩悩に幻惑され、束縛されています。カルマ や煩悩の束縛の結果、生じる苦しみ、あるいはカルマや妄想の影響による不満足な 状態、といったことが根絶され、平静となれば、それが解脱ということなのてす。 仏教哲学のさまざまな学派が「解脱」という言葉の実際の本性と意味を解釈すると とい - フのは本当てす。しかしながら、大まかにいえば、カル きには同一てはない、 マと煩脳、そしてその結果生じる影響力などによって引き起こされる不満やその原 172