村上龍 - みる会図書館


検索対象: 回転木馬のデッド・ヒート
164件見つかりました。

1. 回転木馬のデッド・ヒート

す。それで、いろんなことが僕にとっては驚きであり少なからすショックでした。細かいこ , はちょっとしゃべりにくいんで言いませんが、やはりずいぶん変なものです。おわかりになり、 すか ? 」 わかると田心、つ・、と僕は一一一口った。 「そういうことは一緒に顔をつきあわせて暮しているとだんだん馴れてくることなのかもしれ、 せん。でもそれが唐突に拡大されたフレームの中にとびこんでくると、それは相当にグロテス ~ なもんです。もちろんそういうグロテスクさを好む人々が世間に少なからすいることは僕にも。 かっています。しかし僕はそういうタイプじゃありません。そういうのを見ていると、 ~ 異しく一 て、息苦しいんです。それで僕は一週間ばかりのぞき見をつづけたあとで、もうこういうこと」 やめようと決心したんです。僕は望遠レンズをカメラからはすして、三脚といっしょに押入 に放りこみました。そして窓辺に立って彼女のアパ ートの方を眺めました。外野のフェンス ( ートの灯が見えまー ちょっと上の、ちょうどライトとセンターの中間のあたりに、彼女のアノ た。そういう風に見ていると、僕はいろんな人々の日々の営みに対して、幾分やさしい気持に . ることができました。そしてこれでいいんだと思いました。彼女に決まった恋人がいないらし」 ことは一週間の観察の結果だいたいわかったし、まだ今ならいろんなことをさつばりと忘れて。 との吻所にひきかえせるんじゃないか、つまり明日にでも彼女にデートを申しこんで、、つまく、 けばそれから恋人同志になれるんじゃないか、と僕は田 5 いました。でもものごとはそう簡単に」

2. 回転木馬のデッド・ヒート

154 手にとるようにです。本棚にある本のタイトルも読みとれるくらいでした」 それから彼は一息ついて、煙草を灰皿につつこんで消した。「どうします ? 最後まで話しま すか ? 「もちろん」と僕は一一一口った。 「新学期が始まると彼女はアパ ートに帰ってきました。それで僕は彼女の生活をたつぶりと眺め ることかてきるよ、つになりました。 , イ 皮女のアパ トの前は河原で、その向うは野球場で、おまけ に部屋が三階だったので、彼女は自分の生活が誰かにのぞかれているなんて、思いもかけないよ うでした。まったくの僕の狙いどおりでした。夜になると彼女はいちおうレースのカーテンをひ きましたが、そんなもの部屋の中に明かりがついてりや何の役にも立ちゃしません。それで僕は 心ゆくまで彼女の生活ぶりや、それから体なんかを眺めることができました 「写真はとったの ? 」 え」と彼は言った。「写真はとりませんでした。そこまでやると自分がすごく汚なくなっ ちゃいそうな気がしたんです。もっともただ眺めているだけだってすいん汚ないことかもしれ ないけど、それでもやはり一線は画さなくちゃっていう気がしたんです。だから写真は撮りませ んでした。ただじっと見ていただけです。でも女の子の生活を逐一眺めるっていうのは本当に変 きようだ、 なものでした。僕は女の姉妹かいなかったし、特定の女の子ととくに深くかかわったことがな かったので、女の子が普段の生活でどんなことをしているかなんてまるで何もしらなかったんで

3. 回転木馬のデッド・ヒート

153 野球場 ートを離れて橋をわた た。僕は彼女の部屋が三階の左の端であることをたしかめてから、ア。ハ り、川の向う側に出ました。橋はすっと下流の方にしかなかったので、川を越えるのにずいぶん トの向い側に立ち、 長い時間がかかりました。川の向う岸をまた上流の方に歩いて彼女のアパ 彼女の部屋のヴェランダを眺めました。ヴェランダには鉢植がいくつか並び、隅に洗濯機が置い てありました。窓にはレースのカーテンがかかっていました。それから僕は野球場を外野のフェ べースのわきのちょうどう ンスに冾ってレフトからサードの方にまわりました。そしてサー まい場所に立ったおんばろアパ ートをみつけたんです」 「僕はそのア。ハートの管理人をみつけて、一一階に空き部屋がないかどうか訊ねました。ちょうど うまい具合に季節は三月のはじめで、部屋はいくつか空いていました。それで僕はその部屋をひ とつひとつまわって、僕の目的にびたりとかなった部屋を選んで、そこに住むことに決めまし た。もちろん彼女の部屋がばっちりと見える場所です。その一週間のうちに僕は荷物をまとめ て、その部屋に越してきました。建物は古くて窓が北東の向きだったもので、部屋代は驚くはど 安くあがりました。次に僕は実家に帰ってーー・実家は小田原にあるので、僕はいつも週末には家 に帰っていたんですがーーー父親にたのんでとびきり大きいカメラの望遠レンズを借りてきまし の立ロ屋が見えるよ、つにセットし た。そしてそれを三脚にとりつけて窓際に置き、彼女のアパート ました。はじめからのぞきをやろうって気はなかったんです。でもためしに望遠レンズで見てみ ようと思いついて、実際にやってみると、部屋の中が嘘みたいにはっきりと見えました。まるで

4. 回転木馬のデッド・ヒート

152 「野球場の外野のうしろ側は河原になっていて、川の向う側には雑木林にましってア。ハ 棟かほっんほっんと建っていました。それは都心からすいぶん離れた郊外で、まわりには畑な / かがすいぶん残っていました。春になるとひばりがぐるぐるまわりながら空を飛んでいるのが日 えました。でも僕がそこに住んだ理由は、あまり牧歌的とはいえそうもないすっとすっと生ぐ いものでした。僕はその頃ある女の子に夢中になっていたんですが、彼女は僕のことなんか気い もとめていないようでした。彼女はかなりの美人で、頭も切れて、どことなく近つきにく、 気がありました。彼女と僕とは同し学年で大学の同じクラブにいたんですが、彼女のロぶりか、 , するとどうも決まった恋人がいる風でした。でも本当に彼女に恋人がいるのかどうかは、僕に + わかりませんでした。クラブの他の連中も、彼女の私生活については何も知りませんでした。 れで僕は彼女の生活を徹底的にチェックしてやろうと思ったんです。彼女についてのいろんな一 とがわかれば、何かしらのとっかかりもっかめるはすだし、もしそれがだめでも少なくとも僕の 好奇心は充たされるわけですから」 「僕はクラブの名簿にのっている住所をたよりに中央線のすっと奧の駅を下りて、またバスい 乗って、彼女のアパートをみつけました。アパ ートは鉄筋の三階建ての、なかなか立派なもの「 した。ヴェランダは南向きで河原に面していて、すっと向うまで見わたすことができました。 の向いには広い野球場があって、野球をやっている人々の姿が見えました。バット { カボールを打 っ音や、叫び声なんかも聞こえました。野球場の向う側には人家があつまっているのが見えまー

5. 回転木馬のデッド・ヒート

150 「ええ、もちろん本当にあったことです。去年の夏のことです」と彼はいかにも当然という顔で 言った。「本当にあったこと以外は僕にはうまく書けないんです。だから本当にあったことしか 書かないんです。何から何まで現実に起ったことです。でも、それにもかかわらす、書きあがっ たものを読んでみると現実感がないんです。問題はそこのところなんです」 僕は曖昧に返事をした。 「僕はどうもこのまま銀行員をやっていた方が良いみたいです」と彼は笑いながら言った。 としちゃなかなかュニークだし、実際にあったこととは思わなかったな。僕は 「でもストーリー てつきりまるつきりのイマジネーションで作ったもんだと思ったんだけどね」と僕は言った。 彼は箸を置いて、しはらくじっと僕の顔を見た。「うまく説明できないんですが、僕はしよっ 「変といってもそんなに突拍子もないようなこと ちゅう変な体験をするんです」と彼は言った。 しゃなくて、変じゃないと言われればべつに変でもなんでもないようなことです。でも僕にとっ ては、それは何かしらちょっと奇妙な出来事なんです。現実が少しばかりすれてしまったような ね。つまりシンガポールの海岸のレストランで蟹を食べて、吐いて、虫が出てきたのに、女の子 の方はなんともなくてすやすや寝てるといったような話です。変といえば変だし、変じゃないと 一言えば変しゃない。そうですね ? 僕は肯いた。 「そういうことが僕の中にはいつばいあるんです。だから小説を書いてみようと田 5 ったんです。

6. 回転木馬のデッド・ヒート

屋があって、批評を頂いたお礼に簡単ではあるが一席設けたいのだがどのようなものであろ、 か、ということであった。もう既に乗りかかった船なのだし、原稿を読んだ礼に鰻を御馳走さ」 るとい、つのもど、つも不思議なものだったので、僕はでかけることにした。 僕は字体と文章のかんしから無意識に痩せた青年を予想していたのだが、実際に会ってみる 1 彼は標準よりは太っていた。とはいっても肥満しているわけではなく、肉のつき方に余裕があ , という程度だ。頬がふつくらとして額が広く、ふわりとした髪をまん中から両側にわけ、線の い丸形の眼鏡をかけていた。全体的に清潔で育ちが良さそうで、服装の趣味もしつかりとして〔 た。そのへんは予想どおりだった。 我々はあいさつをしてから小さな座敷に向いあって座り、ビールを飲んで鰻を食べた。食事 ( あいだ小説の話は殆んど出なかった。僕は彼の字を賞めた。字のことを賞められると彼はとて。 嬉しそうだった。それから彼は銀行の仕事の内幕話をした。彼の話はなかなか面白かった。少 くとも彼の小説を読んでいるよりはすっと面白かった。 「小説のことはもう良いんです」と話が一段落したところで彼は弁解するように言った。「実 原稿を返して頂いてもう一度じっくり読みなおしてみたんですが、自分でも良くないって思っ 4 球んです。手を入れてもう少し部分的にマシになるかもしれないけれど、でもそれにしても僕が一 う圭日きたいと思っている姿とはまるで違ってるんです。本当はあんなじゃないんです」 「あれは本当にあったことなの ? 」と僕はびつくりして訊ねてみた。

7. 回転木馬のデッド・ヒート

みたいでした。でも野球場のとなりに住むって、悪くないもんです。僕のア。ハートは三塁べン のすぐうしろに建っていて、僕はその二階に住んでいました。窓を開けるともうすぐ目の前が 網でした。それで僕は退屈すると まあ昼間は毎日退屈していたようなものなんですが んやりと草野球の試合やら野球部の練習やらを眺めて過していました。しかし僕がそこに住む」 うになったのは、野球を眺めるためではありませんでした。そこにはまったく べつの理由があ一 たのです」 青年はそう言うと話を中断し、上着のポケットから煙草をとりだして一服した。 、こ。僕が彼と会って , 僕と青年はその日が初対面だった。彼はとても魅力的な美しい字を書しオ る気になったのも、もとはといえばそのチャーミングな字がきっかけだった。チャーミング 1 いっても彼の字の美しさは世の中によくあるべン習字的な流麗さとは無縁で、どちらかといえ ~ それは不格好で素朴で個性的という種類のものだった。ひとつひとつの字はぐらぐらと左右に れた金釘流でバランスも悪く、どこかの線が長すぎたりあるいは短かすぎたりしていた。しか、 それにもかかわらす、彼の字には唄でも歌うようなおおらかさがあった。僕は生まれてこのか ~ これほど美しくて趣きのあるべン字を見たことは一度としてなかった。 彼はその字で原稿用紙にして七十枚ばかりの小説を書きあげ、僕のところに小包で送りとど」 てきたのだ。

8. 回転木馬のデッド・ヒート

144 「かれこれ五年ばかり前のことになりますが、僕は野球場のとなりに住んでいました。大学の三 年生の時です。野球場っていったってそんなに大それたものじゃなくて、野原に毛がはえた程度 のもんです。いちおうバックネットがあって、ピッチャーズ・マウンドがあって、一塁べンチの 横に簡単なスコアポードがあり、全体がぐるりと金網で囲ってあります。外野は芝生じきじゃな くて、かわりにばそばそとした雑草が生えていました。便所はひとつ小さいのがありましたが、 更衣室とかロッカーとかいったようなものはありませんでした。球場の持ち主はその近くに大き な工場を持っ製鉄会社で、入口には部外者の無断入場を禁するという本がかかっていました。土 曜とか日曜になるとその製鉄会社の社員や工員の作っているいろんなチームがやって来て草野球 の試合をやりました。それからそこの会社の正式な軟式野球チームがあって、平日にはその連中 が練習をやりました。他に女子ソフトボール部というのもありました。何しろ野球の好きな会社

9. 回転木馬のデッド・ヒート

142 鰻を食べながら、僕は一一万円を払って彼女と寝ることを想像してみた。彼女と寝ることじたい は悪くなさそうだったが、それに対して金を払うというのはちょっと妙なものだろうな、と僕は 田 5 った。 そして僕はその昔、セックスが山火事みたいに無料だったころのことを思い出した。本当にそ れは、山火事みたいに無料だったのだ。

10. 回転木馬のデッド・ヒート

「ねえ」と僕は言った。「もしさ、僕がお金を払って君と寝たいと言ったとするね。もしだよ」 「ええ」と彼女は一 = ロった。 「君はいくらって言う ? 彼女は唇を少し開いて息を吸いこみ、三秒ばかり考えた。それからもう一度につこりと笑って 「一一万円」と言った。 僕はズボンのポケットから財布を出して、中に幾ら入っているか勘定してみた。全部で一二万八 千円入っていた。 「二万円プラス、ホテル代プラス、ここの払い、そして帰りの電車賃、そんなものしゃないかし 実にそのとおりだった。 「おやすみ」と僕は言った。 「おやすみなさい」と彼女は言った。 外に出るともう雨はあがっていた。夏の雨だから、そんなに長くは降らない。上を見あげると 珍しく星が光っていた。 惣菜屋はとっくに店を閉め、猫が雨やどりをしていた軽トラックもどこ かに消えていた。僕は雨あがりの道を表参道まで歩き、腹が減っていたので鰻屋に入って鰻を食