村上春樹 - みる会図書館


検索対象: 回転木馬のデッド・ヒート
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1. 回転木馬のデッド・ヒート

138 電話してほしい。 一時から五時までは必すいるから〉とあった。そしてペット・クリニックの名 刺がはさまれていた。 名刺には電話番号が書いてあった。 2211 というナンバーで、その横に 〈ニャンニャン・ワンワン〉とルビが振ってあった。彼女はその手紙と名刺を四つに裂き、マッ チを擦って流しで焼いた。金はハンドヾ ソグに放り込んだ。冷蔵庫の中のものには手もつけな にーこョ市っこ。 かった。そして彼女はタクシーを拾って自分のア。ハ 「そのあとも何度かお金をもらって違う人と寝たんです」と彼女は僕に言った。そして黙った。 僕はテープルに両肘をついて、唇の前で指を組んだ。それからウェイターを呼んで、ウイス キーのおかわりをふたっ頼んだ。やがてウイスキーがやってきた。 「何かつまむ ? 」と僕はたすねてみた。 しいんです。はんとに気にしないで下さい」と彼女は言った。 我々はまたちびちびとオン・ザ・ロックを飲んだ。 「質問しても、 しいかな、ちょっと立ちいったことなんだけど」と僕は訊ねてみた。 「いいですよ、もちろん」と彼女は言った。そしてちょっと目を丸くして僕の顔を見た。「だっ て正直に話したいから、今こうして村上さんに打ちあけてるんですから」 僕は肯いて、残り少なくなったピスタチオの殻を割った。 「その他の時も、値段はいつも七万円だったの ?

2. 回転木馬のデッド・ヒート

を割った。彼女の割るピスタチオの方が僕のよりすっと良い音がするように感しられた。 と僕は彼女の親指の爪を眺めながら言った。彼女はふたつに割れた殻を べつに退屈じゃない、 灰冊に入れ、中身を口に運んだ。 「どうしてこんな話を始めちゃったのかしら」彼女は言った。「でもさっき村上さんの姿を見か けてなんだか急になっかしくなったんです」 「なっかしい ? 」僕はちょっとびつくりして聞きかえした。僕はそれまでに彼女とは二回しか 会ったことがなかったし、それもとくに親しく話をしたというわけではないのだ。 「つまり、何ていうのかな、昔の知りあいに会ったような気がしたんです。今はもう別の世界に いるんだけれど、かってはとても大事に関った相手というか : : : 、本当はそれはど具体的に関っ たわけではないんだけれど。でも私の言っている意味はわかって頂けるかしら ? 」 わかるような気はする、と僕は言った。要するに彼女にとって僕という人間は記号的なーーも う少し好意的にいえば祝祭的・儀式的なーー存在にすぎないのだ。僕という存在は彼女が日常的 平面として捉えている世界には本当の意味では属していないのだ。そう考えると僕は何かしら不 思議な気持になった。 それでは僕という人間はいったいどんな種類の日常的平面に属しているのだろう、と僕は田 5 っ それはむすかしい問題だった。それに彼女とは関係のない問題でもあった。だからそのことに

3. 回転木馬のデッド・ヒート

これはいつもと同しです。でもそれから奴はこう言ったんです。「私が誰だかわかりますか ? 』っ てね。そしてしばらく黙っていました。僕も黙っていました。十秒か十五秒くらいだと思うんだ けれど、どちらもひとことも口をききませんでした。それから電話が切れました。ツーンという 例の発信音だけが残りました」 「はんとうにそのとおりに言ったの ? 『私が誰だかわかりますか ? 』って ? 」 「一字一句違わすそのとおりです。ゆっくりとした丁寧なしゃべり方でした。『私が誰だかわか りますか ? 』、でも声にはまるで覚えがありません。少くとも最近五、六年に関った相手の中に はその声に該当するような人物はいません。ずっと昔の子供の頃の知りあいとか、それほど口を きいたことのない相手のことまではわかりませんが、そういう相手から限まれることについて思 いあたる節といってもまるでないんです。誰かに何かひどいことをしたという覚えもありません し、同業者の恨みを買うはど売れつこでもないですしね。そりやまあ、女関係についちゃ、お話 ししているとおりいくぶんやましい点はあります。それは認めます。年も生きてるんだから赤 子のように潔白というふうにはいきません。でもさっきも言ったように、そういう相手の声は ちゃんと知ってるんです。聞けば一発でわかります」 「でもね、まともな人間は友だちのつれあい専門に寝たりはしないもんだぜ」 自分でも気づか 「とすると」と彼は言った。「村上さんはそれが僕の中のある種の罪悪感が ない罪悪感が 嘔吐とか幻聴とかいう形をとって結像したものじゃないかって言うわけです

4. 回転木馬のデッド・ヒート

「私のこと覚えてます ? 」と彼女は言った。 僕は彼女の顔を眺めた。見覚えはあったが誰だかはわからなかったので、僕は正直にそう一言っ た。女の子は僕の向いの椅子をひいて、そこに腰を下ろした。 二度村上さんをインタヴューしたんですよ」と彼女は言った。そういわれればたしかにそう だった。僕が最初の小説を出した頃だから今から五年近く前、彼女はある大手の出版社が出して いる女性向け月刊誌の編集者で、ブック・レヴューの欄をまかされていて、そこで僕のインタ ヴュー記事を載せてくれたのだ。僕にとってはたしかそれが作家になってはじめてのインタヴュ だった。彼女はその頃は髪も長く、きちんとしたシックなワンピースを着ていた。たしか僕より 四つか五つ年下だったと思う。 「すいぶん感じが変ったからわからなかったよ」と僕は言った。 「そうでしょ ? 」と彼女は言って笑った。彼女は髪をはやりの格好に刈りあげ、自転車の防水布 で作ったようなだらりとしたカーキ色のシャツを着て、耳からモビールみたいな金属片をふたっ ぶらさげていた。ます美人といってもし 、、に頁だったし、造作がはっきりとした顔だちなので そういう格好が彼女にはけっこうよく似合っていた。 僕はウェイターを呼んで、ウイスキーのオン・ザ・ロックをダブルで注文した。ウェイターは ーガルはあるだろ ウイスキーは何がよろしいでしよ、つか、とたすねた。ためしにシーヴァス・ うかと訊くと、シーヴァスはちゃんとあった。それから彼女に向って何か飲むかときいた。彼女

5. 回転木馬のデッド・ヒート

162 飛行機の窓から夜の地上を見下ろすたびにそう思います。小さな灯というものはなんて美しくイ 暖かいんだろうってわ」 彼はロもとに微笑を浮かべたまま目をあげて僕の顔を見た。 「僕は今でも彼女と最後に話をしたときのあの汗のねばねばとした感触と嫌な匂いをはっきりレ 覚えています。そして僕はああいう汗だけはこの先一一度とかきたくないと思っているんです。 しそれが可能であるなら、ということですがね」と彼は言った。

6. 回転木馬のデッド・ヒート

ようにしっと眺めていた。 「母の場合はなんていうかーー神経が立ってくると、顔の左半分がだんだんこわばりついてくる んです。冷たくなってーーーロとか目とかがうまく動かなくなるわけです。奇妙といえば奇妙な症 状ですね。しかしそういうのを必要以上に深刻にとらないで下さい。それがべつに何か致命的な ものに直接つながるっていうわけでもないんです。ただの症状です。眠ればなおります」 僕は亠冂いた。 「それからこの話を僕がしたことは母には黙っていて下さい。母は自分の体のことを話されるの をとても嫌がるんです」 もちろん、と僕は言った。「それに我々は明日の朝にはここを引きあげますから、お話をする 機会ももうないと思いますよ」 彼はポケットからハンカチを出して鼻をかみ、そのハンカチをまたもとに戻すと、何かに思い をめぐらせるよ、つにひとしきり目を閉じた。まるでどこかにでかけていって一民ってくるような沈 黙がしばらくつついた。たん彼の気持が上に行ったり下に行ったりしているのだろうと僕は想 豕しこ。 「それはさびしくなるな」と彼は言った。 「残念だけれど、仕事が待っているものですから」と僕は言った。 「でも引きあげる場所があるというのは良いもんですよ」

7. 回転木馬のデッド・ヒート

「何か御用でしようか、奥様」と大柄の方の老人が立ちあがってドイツ語で声をかけた。 「レーダーホーゼンを買いたいのです」と彼女は英語で言った。 「奥様がおはきになるのですか ? と老人がくせのある英語で訊ねた。 え、そうじゃありません。日本にいる夫のみやげに買って帰るんです」 「うむ」と老人は言って、しばらく考えこんだ。「とすると、御主人は今ここにいらっしやらな いわけですな」 「そうです、もちろん。だって日本にいるんですから」と彼女は答えた。 「とすると、そこにはひとつの問題が生じます」と老人は丁寧に言葉を選びながら言った。 「つまり我々は存在しないお客様には品物を売ることはできんのです」 「主人は存在します」と彼女は言った。 「それはそうです。御主人は存在していらっしやる。もちろんです」と老人は荒てて言った。 「英語が上手くしゃべれんので申しわけないです。私の言わんとすることは、うむ、御主人がこ こにおられないのであれば、御主人のためのレーダーホーゼンをお売りすることはできんという ことです」 「どうして ? と彼女は混乱した頭で訊ねた。 「店の方針なんです。方針。我々はおみえになったお客様に体型にあったレーダーホーゼンを 四実際にはいていただき、細かい調整をし、その上ではじめてお売りするのです。百年以上のあい レーダーホーゼン プリンシプル

8. 回転木馬のデッド・ヒート

ハンティング・ナイフ 177 かもしれない。あるいはその当時は今よりすっとやせていたのかもしれない。彼女はたしかにや せていればそれなりに魅力的な女性であったかもしれないと僕は推測した。たぶん彼女は結婚し て地上におりてから急激に、飛行船のように太りはじめたのだろう。彼女の腕と脚はまるで誇張 くりと白く膨らんでいた。 されたイノセント・アートの人物像のようにむつ そんな風に太るというのはどういう気がするものなのだろう、と僕はちょっと考えてみた。し かし暑さのせいで、僕にははとんど何も考えることはできなかった。世の中には想像力に適した 気候と適さない気候があるのだ。 「あなたはどこに泊ってるの ? 」と女が僕に訊ねた。 僕は自分の泊っているコッテージ・ホテルを指して教えた。 「一人で来てるの ? 」 「いや」と言って、僕は首を振った。「女房と一緒です」 女はにつこりと微笑んで、首を少し曲げた。 「新婚旅行 ? 」 「結婚して六年です」と僕は言った。 「ふうん」と女は言った。「そんな年には見えないわよ、あなた」 僕はなんなく気づまりになって姿勢を変え、またビーチに目をやった。赤く塗られた監視台 の上にはあいかわらす人影はなかった。泳いでいる人間の数が少ないので、ライフガードの青年

9. 回転木馬のデッド・ヒート

ヴェトナムの唄が入っただ。それほど感心する音楽とも思えなかったが、それをもう一度聴 いてどんな気持がするものなのか、彼は試してみたかったのだ。 「どうしてビリー・ ジョエルのなんて買う気になったの ? 」と妻が驚いて訊ねた。 彼は笑って、答えなかった。 カフェテラスの片側の壁はガラス張りになっており、眼下にプールの全景が見下ろせた。プー ルの天井には細長い天窓がついていて、そこから射しこむ太陽の光が水面に小さく揺れていた。 光のあるものは水底にまで届き、あるものは反射して無機的な白色の壁に意味のない奇妙な紋様 を描いていた。 上からじっと見下ろしていると、そのプールは少しすっプールとしての現実感を失いつつある ように僕には感じられた。おそらくプールの水が透明すぎるためだろうと僕は田 5 った。プールの 水が必要以上に澄んでいるせいで、水面と水底とのあいだに空白の部分が生じているように見え るのだ。プールでは一一人の若い女と一人の中年の男が泳いでいたが、彼らは泳いでいるというよ りは、まるでその空白の上を静かに滑っているかのようだった。プールサイドには白く塗られた 監視台があり、体格の良い若い監視員が退屈そうにプールの水面をばんやりと眺めていた。 彼はひととおり話し終えると手をあげてウェイトレスを呼び、ビールのおかわりを注文した。

10. 回転木馬のデッド・ヒート

に、彼がまたしゃべりはしめた。 ま退屈でしよう ? と彼は言った。「健康な人に病気の話をするというのは 「しかしこ、つい、つ : 、 たしかに野暮っていうものでしようね」 そんなことはない、 と僕は言った。何から何まで一分の隙もなく健康な人間なんてどこにもい ないのだ、と僕は言った。僕がそ、つ一一一口、つと、彼は軽く亠冂いた。 「神経の病気のあらわれ方というのは千差万別なんです。原因はひとつで、結果が無数です。 ちょうど地震と同しですね。放出されるエネルギーの質は同じですが、それがでてくる場所次第 でがらりとその地上レベルでの現象は変ってきます。島がひとっ生まれることもあれば、島がひ とっ沈んでしまうこともある」 彼はあくびをした。そしてあくびをし終ってから「失礼」と言った。 フ彼はとても疲れていて、今にも眠りこんでしまいそうに見えたので、僕は彼にもうそろそろ部 ナ 屋に戻ってやすんだ方が良いのではないかと言ってみた。 「いや、気にしないで下さいと彼は言った。「眠そうに見えるかもしれないけれど、せんぜん ン 眠くはないんです。僕は一日に四時間くらい眠れば事足りるし、それも夜明けの頃にしか眠りま ン せん。だからこの時間にはだ、こい、 しつもここにいて、ばんやりしているんです。気にしな、 彼はそう言うとテープルの上のチンザノの灰皿を手にとって、それを何かとても大事なものの