村上龍 - みる会図書館


検索対象: 回転木馬のデッド・ヒート
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1. 回転木馬のデッド・ヒート

だ、我々はそのようにして商売をしております。そのような方針の故に我々は信用を築いて参っ たのです」 「私はお宅でズボンを買うために、半日つぶしてわざわざハンプルグからやってきたんですよ」 「申しわけありません、奥様」と本当に申しわけなさそうに老人は言った。「しかし例外は認め られんのです。この不確かな世界の中で、信用ほど得がたくそして崩れやすいものはないので 彼女はため息をついて、しばらく戸口に立っていた。そしてどこかに突破口がないものかと頭 を働かせた。そのあいだ背の高い老人は背の低い老人に向ってドイツ語で状况を説明していた。 ャア 背の低い老人は話を聞きながら、「そう、そう」と何度も肯いていた。一一人の老人は背丈こそか なり一理っていたが、顔つきはそっくりと言って、 しいくらいよく似ていた。 「ねえ、じゃあこうしたらどうかしら ? 」と彼女が提案した。「私が主人にそっくりの体型の人 をみつけてここに連れてくるの。そしてその人に半ズボンをはいてもらい、あなた方がそれを調 整し、私に売るの」 背の高い老人は呆然とした目で彼女の顔をみつめた。 「しかしですね、奧様、それはルール違反です。ズボンをはくのはその人じゃない。あなたの御 主人です。そして我々はそのことを知っている。それはできません」 「あなた方は知らないことにすればい、 しのよ。あなた方はその人にレーダーホーゼンを売り、私

2. 回転木馬のデッド・ヒート

ハウスの主人がやってき 彼女がコーヒーを飲み終えたあと、猫と遊んでいると、コーヒー て、「これからどこに行かれるのか ? と質問した。レーダーホーゼンを買いに来たのだ、と彼 女が言うと、主人はメモ用紙をとってきてその店の場所を地図に書いてくれた。 「どうもありがとう」と彼女は言った。 一人で旅をすることはなんて素晴しいのだろう、と丸石敷きの道を辿りながら彼女は思った。 考えてみればこれは彼女にとっては五十五年間の人生の中ではじめての一人旅なのだ。一人でド ィッを旅しているあいだ、彼女は淋しさや布さや退屈さを一度として感しることはなかった。全 ての風景が新鮮であり、全ての人々は親切だった。そしてそのような体験のひとつひとつが長い あいだ使われることなく彼女の肉体で眠っていた様々な種類の感情を呼び起こした。彼女がすっ とこれまで大事なものとして抱えて生きてきた多くのものごとーー夫や娘や家庭ーーーは今はもう 地球の裏側にあった。彼女はそれについて何ひとっ思い煩う必要はないのだ。 レーダーホーゼンの店は簡単にみつかった。ショーウインドウも派手な看板もない小さな古い 店だったが、ガラス窓から中をのぞくとレーダーホーゼンがすらりと並んでいるのが見えた。彼 女はドアを押して中に入った。 店の中では二人の老人が働いていた。一一人は小声で話をしながら布地の寸法をとったり、ノー トに何かを書きつけていたりした。カーテンで仕切られた店の奥はもっと広い作業場になってい るらしく、そちらからは単調なミシンの土日が聞こえた。

3. 回転木馬のデッド・ヒート

母親と喪服のままで一緒に近所の喫茶店に入り、アイス・ティーを飲みながらその半ズボンの話 を日町くことになった。 そのレーダーホーゼンを売る店はハンプルグから電車に乗って一時間はどの小さな町にあっ 母親の妹がその店のことを調べてきてくれたのだ。 「レーダーホーゼンを買うならその店がいちばん良いってドイツ人はみんな言ってるわ。作り町 とてもしつかりしているし、値段もそれはど高くはないんだって」と妹は言った。 母親は一人で電車に乗り、夫のみやげにレーダーホーゼンを買うためにその町に出かけた。 女は列車のコンパートメントでドイツ人の中年の夫婦と一緒になり、英語で世間話をした。彼尢 が「自分は今からみやげのレーダーホーゼンを買いに行くところだ」と言うと、夫婦は「どこの 店に行くつもりか ? と質問した。彼女が店の名を告げると、一一人は異ロ同音に「それなら間憧 いない。その店がいちばんだ」と言った。それで彼女は意を強くすることができた。 それはとても気持の良い初夏の昼下りだった。町を横切って流れる川は涼し気な水音を響か せ、岸辺の草はその緑の葉を風になびかせていた。丸石敷きの古い街路がゆるやかな曲線を描き ながらどこまでもつつき、 いたるところに猫の姿が見受けられた。彳 皮女は目についた小さなコー ハウスに入り、そこで昼食がわりにチーズ・ケーキを食べ、コーヒーを飲んだ。街並みは 美しく、静かだった。

4. 回転木馬のデッド・ヒート

そのことで私はとても混乱したし、深い傷も受けたの。わかる ? 」 僕は肯いた。 「私はそれまですっと母の側に立っていたし、母も私のことを信頼してくれていると思っていた の。それなのに母は何の説明らしい説明もなく父親とこみで私を捨ててしまったのよ。それは私 にはとてもひどい仕打ちに思えたし、それから長いあいだ私は母をゆるすことができなかった の。私は母に何度も手紙を書いて、いろんなことをきちんと説明してはしいと要求したんだけれ ど、母はそのことについては何も語ってはくれなかったし、私に会いたいとさえ言ってくれな かったわ」 彼女が母親に会ったのは実にそれから一二年後のことだった。親類の葬儀があって、そこで二人 はやっと顔をあわせることになった。彼女は大学を出てエレクトーンの教師をして生計をたて、 母親の方は英語塾の教師をしていた。 ったいどの 葬儀のあとで母親は彼女に向って、「これまであなたに何も話さなかったのは、い ように話せばいいのかかわからなかったからだ」と打ちあけた。 「私自身にさえものごとの進み具合がよく把握できないでいたのよ」と母親は言った。「でもそ もそもはあの半ズボンが原因だったの」 「半ズボン ? と彼女は僕と同じようにびつくりしてききかえした。彼女はそれまで母親とはも う一一度と口をききたくないと思っていたのだけれど、結局は好奇心が怒りに打ち勝った。彼女は

5. 回転木馬のデッド・ヒート

レダホゼン たことであったのだ。いたしし 、ま何が起りつつあるのか、彼らには見当をつけることさえでき なかった。彼女や父親が大阪の叔母の家に何度か電話をかけても、母親は殆んど電話口には出て こなかったし、彼女にその真意を問いただすことさえできなかった。 母親の真意が判明したのは、彼女が帰国してから二カ月ばかり経過した九月半ばのことだっ た。ある日突然彼女は家に電話をかけてきて、夫に向って「離婚手続きに必要な書類を送るので 署名捺印の上送りかえしてほしいと言った。原因はいったい何か、と父親は質問した。あなた に対してどのような形の愛情も持てなくなったからだ、と母親は即座に答えた。お互いに歩みよ る余地はないのかと父親がたすねると、余地はまったくないと彼女はきつばりと言った。 それから二カ月か三カ月両親のあいだで電話による押し問答や交渉や打診がつづいたが、結局 母親は一歩もあとに退かなかったし、父親も最後にはあきらめて離婚に同意することになった。 それまでの様々な経緯から父親の方にも強硬な能をとることのできない弱味があったし、それ にもともとが何事によらすあきらめやすい性格の人だったのだ。 一「そのことで私はすいぶんショックを受けたように思うの」と彼女は言った。「でもそれはただ 一単に離婚という行為自体から受けたショックではなかったの。私はそれまでに何度か一一人が離婚 一するかもしれないと想像したことはあったし、それに対する精神的な準備は既にできていたと思 うの。だからごくあたり前のかたちで一一人が離婚していたとしたら、私はそれほどは混乱しな かったでしようね。問題は母が父を捨てただけではなく、私をも捨てたということだったのよ。

6. 回転木馬のデッド・ヒート

「なるほど」と僕は言った。 彼女の言によれば、その頃彼女の両親の仲は比較的親密であった。少なくとも大きな声で夜中 に口論をしたり父親が腹を立てて何日か家に帰らなかったり、ということはなくなっていた。か って父親に女がいた頃にはそういうことが何度もあったのだ。 「性格は悪くないし、きちんと仕事もする人だったんだけれど、女関係では比較的だらしのない 人だったようね」と彼女はまるで他人事のように淡々とした口調で語った。僕は一瞬彼女の父親 が既に死んでしまったのかと思ったはどだったが、父親はまだ元気に生きていた。 「でもその頃には父ももう結構年をとっていたし、そんなトラブルもなくなって、そのまま仲良 くやっていけそうに見えたのよ」 しかし実際には物事はそう上手くは運ばなかった。母親は当初の予定では十日間のはすであっ たドイツでの滞在を殆んど何の連絡もなく一カ月半にのばし、やっと帰国したあとも大阪にいる もう一人の妹の家に寄宿したまま一一度と家には戻ってはこなかった。 どうしてそんなことになってしまったのか、娘である彼女にも夫である父親にも理解する事が できなかった。何故なら、たとえこれまでに何度かの夫婦の不和があったにせよ、基本的には彼 女の母親は我慢づよく ある場合には想像力がいささか不足しているのではないかと思えるく らいに我慢強くーーー家庭を大事にする人だったし、娘のことをも溺愛していたからだ。だから彼 女が家に寄りつかず、ろくに連絡さえしてこないというのは彼らにとってはまったく理解を絶し

7. 回転木馬のデッド・ヒート

年代の人にしてはかなり背が高い方で、そういう半ズボンのようなものがわりに良く似合う体型 だったの。だからそんなものをはしがったのね。私はレーダーホーゼンはあまり日本人には似合 わないものだと思うんだけれど、まあそれは人すきすきだから」 話をすっきりさせるために、僕は彼女の父親がどのような状況で誰にレーダーホーゼンをおみ やげに買ってきてくれるように頼んだのかと質問した。 「ごめんなさ い、私はいつも話の順序が逆になっちゃうのよ。だから何かわからないところが あったら遠慮せすに質問してね」と彼女は言った。 そうする、と僕は言った。 「母親の妹がその頃ドイツに住んでいて、遊びに来ないかと母親を誘ったの。母はドイツ語は まったくできないし、外国旅行の経験もないんだけど、長く英語の教師をしていたから一度外国 に行ってみたいという気はあったのね。それにすいぶん長いあいだその叔母さんにも会っていな かったし。それで父親に十日ばかり休暇をとって二人でドイツに行ってみないかと持ちかけたん だけど、父親は仕事の関係でどうしても休みがとれなくて、それで母が一人でドイツに行くこと になったわけ」 「そのときにお父さんがレーダーホーゼンをおみやげに頼んだんだね ? 「ええ、そうなの」と彼女は言った。「母がおみやげに何がほしいかと訊ねると、レーダーホー ゼンがほしいと父が答えたの

8. 回転木馬のデッド・ヒート

つんネ / しかし映画のエンド・ マークが出てしまっても妻は一民ってはこなかったので、僕は彼女としば らく世間話をすることになった。我々は鮫の話をし、海の話をし、泳ぎの話をした。それでもま だ妻は戻ってはこなかった。僕は前にも述べたように彼女に対して決して悪い印象は持っていな かったけれど、それでも一一人で顔をつきあわせて一時間会話をするには我々のあいだには共有す る事項が明らかに不足していた。要するに彼女は僕の妻の友人であって、僕の友人ではないの しかし僕が手持無沙汰になってそろそろ次の映画でも観ようかと考えているところに、彼女が 突然両親の離婚の話を始めた。どうして彼女が何の脈絡もなく ( 水泳の話と両親の離婚の話との あいだに少くとも僕は明確な脈絡を見出すことはできそうにない ) そのような話題を持ちだした のかはよくわからない。おそらくそこには何らかの理由があるのだろう。 「半ズボンというのは正確な呼び方じゃないの」と彼女はつづけた。「正確にはレーダーホーゼ ン。レーダーホーゼンって知ってる ? 」 「ドイツ人がよくはいている半ズボンのことだろう ? 上に吊り紐がついたやっ」と僕は言っ 「そう。父親がそれをおみやげにほしがったの。そのレーダーホーゼンをね。うちの父親はその

9. 回転木馬のデッド・ヒート

大学一一年生のときに両親が離婚して以来、彼女はア。ハ 「母が父親を捨てたのよ」とある日彼女は僕に教えてくれた。「半ズボンのことが原因でわ」 「半ズボン ? と僕はびつくりしてききかえした。 「変な話なのよ」と彼女は言った。「あまりにも突拍子もない話で、他の人にあまり話したこと もないんだけど、あなたは小説書いてるから何かの役に立つんじゃないかしら。聞きたい ? 」業ま ) っこ。 是非聞かせてはしい、 その雨の日曜日の午後に彼女が僕の家を訪ねてきたとき、妻は買物に外出していた。彼女は約 束の時間より一一時間も早くやってきたのだ。 「ごめんなさい」と彼女は謝った。「テニスの予定が雨で流れちゃって、それで時間が余っちゃっ たの。家で一人でいても退屈だったんで早い目にうかがおうと思ったんだけど、お邪魔じゃな かった ? ・ べつに邪魔なんかじゃない、 と僕はいった。僕も仕事をする気が起きなくて、猫を膝に抱いて 一人でばんやりとヴィデオの映画を観ているところだったのだ。僕は彼女を家にあげ、台所で コーヒーを作って出した。そして二人でコーヒーを飲みながら『ジョーズ』の最後の二十分ばか りを観た。もっとも一一人ともその映画を以前に何度か観ていたから、とくに熱、いに観賞したとい うわけではない。 とりあえす何か観るものが必要だったのでそれを観ていたというだけのこと ートを借りてすっと一人暮しをつづけて

10. 回転木馬のデッド・ヒート

そのせいかどうかはわからないけれど、彼女は独身だった。もちろんー・ーというのは多少大づ くりではあるにせよますますの美人だったからーーー何度か恋愛もしたし、結婚を申しこまれたこ ともあったし、彼女自身もその気になったこともあった。しかしいざ結婚という段になると、そ こに必す何かしらの思いも寄らない障害が生して、その話は立ち消えになってしまうのが常だっ 「運が悪いのよ」と妻は言った。 「そうだね」と僕も同意した。 しかし僕は全面的に妻の意見に同意したわけではなかった。たしかに人生のある種の部分は運 というものに支配されているかもしれない。そしてそれはまだらになった影のように我々の人生 しかしそれでももしそこに意志というものが存在するな の地表を暗く染めているかもしれない。 らーーーそしてそれが二十キロを走り、三キロを泳ぐことのできるはどの強固な意志であるならば 大抵のトラブルは便宜的な梯子のようなものを使って解決することができるはすだと僕は 田 5 った。彼女が結婚できないのはそうすることを彼女が心からは望んではいないからであろうと 僕は想像した。要するに結婚というものが彼女のエネルギーのはうき星の範囲内に、少くとも全 勺には含まれていないのだ。 そんなわけで彼女はエレクトーンの教師をつづけ、暇さえあればスポーツに励み、定期的に不 運な恋愛をした。