として変らなかった。彼女は七月のアテネの街のタクシーの中で絵の中の男と隣りあわせに座っ ていた。間逞えよ、つはなかった。 そのうちに車はやっとスタディオウ通りを過ぎ、シンタグマ広場のわきを抜け、ソフィアス大 通りに入った。タクシーはあと二、三分で彼女の泊ったホテルの前に着こうとしていた。男は 黙ったままじっと窓の外を眺めていた。気持の良いタ暮の微風が、彼のやわらかい髪を揺らせて 「失礼ですが」と彼女は男に向って話しかけた。「今からどこかのハーティーにいらっしやるん でしよ、フか ? 」 「ええ、もちろん」と男は彼女の方を向いて言った。 ーティーです。とても大きな立派なパー ティーです。いろんな人々がやってきて、お酒がふるまわれます。たぶん夜明けまでつづくで しようわ。僕は途中でひきあげますが」 タクシーはホテルの玄関でとまり、タクシー係の男がドアを開けた。 カロ・タクシージ 「よいご旅行を」と男がギリシャ衄で言った。 エフカリスト・ポ 「どうもありがとう」と彼女は言った。 タクシーがタ暮の車のラッシュの中に消えていくのを見届けてから彼女はホテルの中に入っ た。炎い闇が風に吹かれる膜のように都市の上をさまよい流れていた。彼女はホテルのバ
ショナーの風に吹かれて散るように消えた。 「去年の夏、アテネの街で私は彼に会ったのです。彼です。絵の中の『タクシーに乗った男』に です。間」いはありません。たしかに彼でした。私はアテネのタクシーの後部座席で彼ととなり あわせたのです」 それはまったくの偶然だった。彼女は旅行中で、夕方の六時頃にアテネのエジプト広場の前か らバシリシス・ソフィアス大通りまでタクシーに乗ったのだが、その若い男はオモニア広場のあ たりで彼女のとなりの席に乗りこんできた。アテネでは行き先さえうまく合致すればタクシーは どんどん客を相乗りさせていくのだ。 男ははっそりとした体つきで、とてもハンサムだった。そして夏のアテネにしては珍しく夜会 服を着こみ蝶ネクタイをしめていた。これから大事な。ハーティーに出かけるといった様子だっ 男 たた。何から何まで寸分たがわすニューヨークで彼女が買い求めた絵の中の男にそっくりだった。 乗彼女は一瞬自分がとんでもない思い違いをしているような気がした。間違った時間に間違った場 一所にとびこんでしまったような、そんな気分だった。自分の体が十センチも空中に浮かんでいる クような感しだった。頭の中がまっ白になり、それが少しずつもとに戻るのにすいぶん長い時間が っ・」 0 、カーカオ 「ハロー」と男は微笑みながら彼女に向って言った。
座ってウォッカ・トニックを三杯飲んだ。バ ーの中はしんとして彼女の他には客の姿もなく、タ 暮の闇もそこまでは届いてはいなかった。まるで彼女自身の一部があのタクシーの中に置き忘れ られてきてしまったような感しがした。彼女の一部がまだあのタクシーの後部座席に残ってい て、あの夜会服を着た若い俳優と一緒にどこかのパーティー会場に向っているような、そんな感 しだった。それはちょうど揺れる船から下りて、強固な地表に立った時に感じるのと同し種類の 残存感だった。肉体が揺れ、世界がとどまっていた。 思い出せないほどの長い時間がたって、彼女の中のその揺れが収まった時、彼女の中の何かが 永遠に消えた。彼女はそれをはっきりと感じることができた。何かが終ったのだ。 「彼が私に向って言った最後のことばは私の耳にまだはっきりと焼きついています。『カロ・タ クシージ・ーーよいご旅行を』」そう一言って彼女は膝の上で両手をあわせた。「素敵なことばだと思 いませんか ? そのことばをいだすたびに私はこんな風に思うんです。私の人生は既に多くの 部分を失ってしまったけれど、それはひとつの部分を終えたというだけのことであって、まだこ れから先何かをそこから得ることができるはすだってね」 彼女はため息をつき、それから唇を少しだけ横に広げるようにして微笑んだ。 ザッツ・オール 「これで「タクシーに乗った男』の話はおしまいです。終り」と彼女は言った。「長い話でご めんなさい
恥目をやっている。 、ンサムな男だ。夜会服に白のフォーマル・シャツ、黒の蝶ネクタイ、そして 白のスカーフ。ちょっとしたジゴロのよ、つではあるが、ジゴロではない。・ シゴロになるために は、彼には何かが欠けている。それはひとことで一一一口うと集約された飢えのようなものだ。 もちろん彼に飢えがないというのではない。 飢えのない若い男がどこにいるだろう ? の中の飢えはあまりにも漠然とした形をとっているので、まわりから見るとー・ーあるいは彼自身 ポイント・オプ・ヴュー の目から見てもーー・それは何かべつの、発展途上にあるある種の物の見かたのように思えてしま うのだ。それはまるで青い霞のようだ。存在していることはわかるがーー・・つかめない ちょうど同しように、その青い霞のように、夜がタクシーを覆っている。車の後部ガラス窓か ら、その夜の色が見える。夜の色しか見えない。青い色の中に、黒と紫が流し込まれる。とても シックな色だ。デューク・エリントン・オーケストラのトーンのように、シックでぶ厚い。そこ に手を触れただけで、五本の指がすつばりと吸いこまれてしまいそうなほどぶ厚い 男は横を向いている。でも彼は何ひとつ見てはいない。窓ガラスの向う側に何が見えるにせ よ、その風景は彼の心にひっかき傷ひとっ残さない。車は動きつづける。 こ一丁こ、フとしているのか ? ・ 男はどこカー , イ 男はどこかに冖帰ろ、フとしているのか ? 絵はそれについては何ひとっとして語ってはいない。男はタクシーという限定されたフォーム の中に含まれている。タクシーは移動というその本来的な原則の中に含まれている。それは移動
はしめに・回転木馬のデッド・ヒート 9 レーダーホーゼン タクシーに乗・つた男 プールサイド 今は亡き王女のための
ますか ? 」 僕は黙って亠冂いた。 「あまりにも長くそのタクシーに乗った男を眺めていたせいで、彼はいつの間にか私にとっての 分身のような存在になりました。彼には私の気持がわかりました。私には彼の気持がわかりまし た。私には彼の哀しみがわかりました。彼は凡庸という名のタクシーの中に閉じこめられていま した。彼はそこから抜け出すことができませんでした。永遠にです。本当の永遠です。凡庸さが 彼をそこに生ぜしめ、そして凡庸な背景の檻の中に埋めこんだのです。哀しいことだとお思いに なりませんか ? 」 彼女はロをつぐみ、しばらく黙りこんだ。それからロを開いた。 「とにかくそういう話です。芸術的な感動も衝撃も何もありません。感性とか皮膚的なショック とかもありません。でもいちばん、いに残っている絵と訊かれれば、この一枚しかありえないで 男 たしようわ。そんなところていいかしら ? 」 乗「ひとつだけ質問があります」と僕は言った。「その絵は今もお持ちですか ? T 「持っていません」と彼女は即座に答えた。「焼き捨てました」 「いつのことですか ? 」 タ 「 1971 年です。 1971 年の五月。ほんのついこのあいだのことのようだけれど、もう十年 近くも前のことなのね。いろんな出来事が次から次へとかさなって、私は主人と別れて日本に帰
る決心をしました。子供も手放しました。細かいことはあまり申しあげたくないので省かせて頂 きます。その時私は何もかもを捨てようと思ったんです。何もかもをです。その土地で私を捉え たすべての夢や希望や愛や、そういうものの残像の何もかもをです。私は友人からピックアッ プ・トラックを借りて荷台に部屋の中の一切合財をつみこみ空地に持っていき、灯油をかけて焼 きました。「タクシーに乗った男』もその中にありました。感傷的な音楽が似合いそうな情景だ と思いません ? 彼女がにつこりしたので、僕も微笑んだ。 「絵を焼くことは惜しくはありませんでした。それは私自身が解放されるのと同時に彼を解放す ることでもあったからです。彼は焼かれることによって凡庸の檻からやっと解放されたのです。 私は彼を焼き、そして私の一部を焼きました。 1971 年の五月のよく晴れた気持の良い午後で した。それから私は日本に帰りました。というわけで」と言って彼女は部屋の中のぐるりを手で 示した。「このとおりです。私は画廊を経営しています。仕事は順調です。私には、なんて言え ばいいのかしら、商才があるんですね、きっと。今は独身ですが、べつに辛くはありません。そ れなりに楽しく暮しています。でも『タクシーに乗った男』の話は 1971 年の五月の午後の 話こよっづきがあります」 ニューヨークの空地で終ったわけではありませんでした。言 : ー 彼女はプレイヤーズの箱から煙草をとりだし、ライターで火をつけた。カメラマンが咳払いを した。僕は椅子の上で体の位置を変えた。煙草の煙がゆっくりと上にのばり、エア・コンディ
そしてこれで半分が終ったのだ と ~ 仮は田 5 、つ。 1983 年の 3 月日は彼の肪回目の誕生日だった。妻は彼に緑色のカシミャのセーターをプ レゼントした。日が暮れると一一人は亠冂山にある行きっ・けのレストランにでかけてワインを開け、 魚料理を食べた。そしてそのあと静かなバーでジントニックを三杯か四杯すっ飲んだ。彼は〈折 りかえし点〉の決心について妻には何も言わないことに決めていた。そういった種類の物の見方 は他人の目には往々にして馬鹿げたものとして映るものだということが彼にはよくわかってい 一一人はタクシーで一豕に帰り、セックスをした。彼がシャワーから出て台所に行き、缶ビールを 手に寝室に戻ってくると、妻はもうぐっすりと眠っていた。彼は自分のネクタイとスーツを洋服 サだんすにかけ、妻のシルクのワンピースはそっと畳んで机の上に置いた。シャツやストッキング レ 一は丸めて浴室の洗たく寵に放りこんだ。 彼はソファーに座って一人でビールを飲み、しばらく妻の寝顔を眺めていた。彼女は一月に ーなた , かりだった。彼女はまだ分水嶺のあちら側にいた。皮はもう分水嶺のこちら側にい
「ハロー」と殆んど反射的に彼女は答えた。 「日本人でしよう ? 」と男はきれいな英語で言った。 彼女は黙って肯いた。 「日本には一度行ったことがあります」と彼は言った。それから沈黙の長さをはかるような具合 に空中で手の指を広げた。「公演旅行をしたんです」 「公演 ? 」と彼女は漠然とした気分のまま口をはさんだ。 「僕は俳優なんです。ギリシャ国立劇場の俳優です。ギリシャの古代劇はご存しでしよう ? ウリピデス、アイスキュロス、ソフォクレス : : : 」 彼女は肯いた。 「要するにギリシャです。古いものがいちばん優れています」彼はそう言ってにつこり笑うと話 題をひと区切りし、すらりとした首を横に向けて窓の外の風景を眺めた。そう言われてみると、 彳は俳優以外の何ものにも見えなかった。彼は長いあいだ窓の外に目を向けたままびくりとも動 かなかった。スタディオウ通りは通勤の車で混みあっていて、タクシーはゆっくりとしか前に進 まなかったが、男はそんなことにはおかまいなしに商店のウインドウや映画館の看板を見つめて 彼女は懸命に頭の中を整理しようと試みた。現実をきちんとした現実の枠の中に入れ、イマジ ネーションをきちんとしたイマジネーションの枠の中に入れた。しかしそれでも事態は何ひとっ 工
138 電話してほしい。 一時から五時までは必すいるから〉とあった。そしてペット・クリニックの名 刺がはさまれていた。 名刺には電話番号が書いてあった。 2211 というナンバーで、その横に 〈ニャンニャン・ワンワン〉とルビが振ってあった。彼女はその手紙と名刺を四つに裂き、マッ チを擦って流しで焼いた。金はハンドヾ ソグに放り込んだ。冷蔵庫の中のものには手もつけな にーこョ市っこ。 かった。そして彼女はタクシーを拾って自分のア。ハ 「そのあとも何度かお金をもらって違う人と寝たんです」と彼女は僕に言った。そして黙った。 僕はテープルに両肘をついて、唇の前で指を組んだ。それからウェイターを呼んで、ウイス キーのおかわりをふたっ頼んだ。やがてウイスキーがやってきた。 「何かつまむ ? 」と僕はたすねてみた。 しいんです。はんとに気にしないで下さい」と彼女は言った。 我々はまたちびちびとオン・ザ・ロックを飲んだ。 「質問しても、 しいかな、ちょっと立ちいったことなんだけど」と僕は訊ねてみた。 「いいですよ、もちろん」と彼女は言った。そしてちょっと目を丸くして僕の顔を見た。「だっ て正直に話したいから、今こうして村上さんに打ちあけてるんですから」 僕は肯いて、残り少なくなったピスタチオの殻を割った。 「その他の時も、値段はいつも七万円だったの ?