す。それで、いろんなことが僕にとっては驚きであり少なからすショックでした。細かいこ , はちょっとしゃべりにくいんで言いませんが、やはりずいぶん変なものです。おわかりになり、 すか ? 」 わかると田心、つ・、と僕は一一一口った。 「そういうことは一緒に顔をつきあわせて暮しているとだんだん馴れてくることなのかもしれ、 せん。でもそれが唐突に拡大されたフレームの中にとびこんでくると、それは相当にグロテス ~ なもんです。もちろんそういうグロテスクさを好む人々が世間に少なからすいることは僕にも。 かっています。しかし僕はそういうタイプじゃありません。そういうのを見ていると、 ~ 異しく一 て、息苦しいんです。それで僕は一週間ばかりのぞき見をつづけたあとで、もうこういうこと」 やめようと決心したんです。僕は望遠レンズをカメラからはすして、三脚といっしょに押入 に放りこみました。そして窓辺に立って彼女のアパ ートの方を眺めました。外野のフェンス ( ートの灯が見えまー ちょっと上の、ちょうどライトとセンターの中間のあたりに、彼女のアノ た。そういう風に見ていると、僕はいろんな人々の日々の営みに対して、幾分やさしい気持に . ることができました。そしてこれでいいんだと思いました。彼女に決まった恋人がいないらし」 ことは一週間の観察の結果だいたいわかったし、まだ今ならいろんなことをさつばりと忘れて。 との吻所にひきかえせるんじゃないか、つまり明日にでも彼女にデートを申しこんで、、つまく、 けばそれから恋人同志になれるんじゃないか、と僕は田 5 いました。でもものごとはそう簡単に」
114 す。どうして相手が僕の行く先をいちいち知ってるのか、なんて言ってもロクにとりあってもど れないし、あまりしつこく一言うと頭がおかしいんしゃないかって疑われる始末です。 そんなわけで結局、医者も警察も誰も彼も頼りにならないことがわかりました。要するに自益 一人のカでなんとか片づける以外に方法はないんです。そう思ったのがだいたいその〈嘔吐雷 話〉がはしまって約一一十日めのころですね。僕は肉体的にも精神的にも相当タフな方だとは思、つ んだけど、この頃にはさすがにいささか参りはしめていました」 「でもその友だちの恋人とはうまくやってたんだろう ? 「ええ、まあわ。ちょうどその友だちが一一週間ばかり仕事でフィリピンに行ってたもんで、その あいだ僕らはたつぶりと楽しみました」 「彼女と楽しんでいるときに電話がかかってくることはなかったの ? 「それはありませんね。日記をしらべてみればわかると田 5 うけど。そういうのはなかったはすて す。電話は僕が一人ばっちでいるときにいつもかかってきました。嘔吐も、いつも一人のときい やってきました。それでそのとき僕は田 5 ったんです。どうして俺はこんなに一人きりでいる時閤 が多いんだろうってね。じっさいの話、平均してみると僕は一日幻時間のうち時間ちょっと半 で一人でいるんですね。一人ぐらしだし、仕事上のつきあいはほとんどないし、仕事の話は大 電話で済ませちゃうし、恋人は他人の恋人だし、飯は九割がた外食だし、スポーツをやるったっ て一人でエンエンと泳ぐだけだし、趣味というとこのとおり一人で骨董品みたいなレコード聴ど
152 「野球場の外野のうしろ側は河原になっていて、川の向う側には雑木林にましってア。ハ 棟かほっんほっんと建っていました。それは都心からすいぶん離れた郊外で、まわりには畑な / かがすいぶん残っていました。春になるとひばりがぐるぐるまわりながら空を飛んでいるのが日 えました。でも僕がそこに住んだ理由は、あまり牧歌的とはいえそうもないすっとすっと生ぐ いものでした。僕はその頃ある女の子に夢中になっていたんですが、彼女は僕のことなんか気い もとめていないようでした。彼女はかなりの美人で、頭も切れて、どことなく近つきにく、 気がありました。彼女と僕とは同し学年で大学の同じクラブにいたんですが、彼女のロぶりか、 , するとどうも決まった恋人がいる風でした。でも本当に彼女に恋人がいるのかどうかは、僕に + わかりませんでした。クラブの他の連中も、彼女の私生活については何も知りませんでした。 れで僕は彼女の生活を徹底的にチェックしてやろうと思ったんです。彼女についてのいろんな一 とがわかれば、何かしらのとっかかりもっかめるはすだし、もしそれがだめでも少なくとも僕の 好奇心は充たされるわけですから」 「僕はクラブの名簿にのっている住所をたよりに中央線のすっと奧の駅を下りて、またバスい 乗って、彼女のアパートをみつけました。アパ ートは鉄筋の三階建ての、なかなか立派なもの「 した。ヴェランダは南向きで河原に面していて、すっと向うまで見わたすことができました。 の向いには広い野球場があって、野球をやっている人々の姿が見えました。バット { カボールを打 っ音や、叫び声なんかも聞こえました。野球場の向う側には人家があつまっているのが見えまー
彼は煙草に火を占け、僕はビールにまたロをつけた。 「平凡な結婚です。でも僕はそれで十分に満足していました。結婚前に彼女に恋人が何人かいた ことは知っていましたが、それはべつに僕としてはたいしたことではありませんでした。僕はど ちらかというととても現実的な人間で、もし何か過去に不都合があったとしても、現実にそれが 害を及ばさぬ限り、気にすることはますありません。それから人生というものは本質的に平凡な ものだと考えています。仕事も結婚生活も家庭も、もしそこに何かの面白みがあるとしたら、そ れは平凡であることの面白みです。僕はそう思います。でも彼女はそんな風には考えませんでし た。それでいろんなことが少しすっ狂い始めたんです。もちろん僕には彼女の気持がよくわかり ました。彼女はまだ若くて美しくてエネルギーに充ちていました。簡単に言えば彼女は習的に 様々なものを他人に向って求め、それを与えられることに饋れていました。でも僕が彼女に与え ることができるものは種類も量も非常に限られたものでした」 彼はオン・ザ・ロックのおかわりを注文した。僕の方はまだビールが半分残っていた。 「結婚して三年後に子供が産まれました。女の子です。僕がこんなことを言うのもなんだけど、 とてもかわいい女の子でした。生きていればもう小学生です」 「亡くなったんですか ? と僕はロをはさんだ。 「そういうことです」と彼は言った。「生まれて五カ月めに死にました。よくある事故です。子
こともあります。でもそのときの嘔吐というのは、そんなのとはぜんぜん違うものなんです。 吐独特の胃がしめつけられるようなあの感覚さえないんです。胃が何の感興もなく食べものをー に押しあげているだけなんです。ひっかかりというものがまるでないんです。不央感もなく、 ムッとする匂いもない。それで僕はとても変な気分になりました。一度ならす一一度ですからわ。 でもとにかく僕は、い配だったからしばらくのあいだ一切のアルコールを口にしないことに決め しかし三度目の嘔吐は翌日の朝にちゃんとやってきた。彼の胃から前夜に食べた鰻ののこ〔 と、朝食に食べたママレードつきのイングリッシュ・マフィンがほとんど丸ごと出てきた。 嘔吐したあとバスルームで歯をみがいていると電話のベルが鳴り、彼が出ると男の声が彼の 前を告げて、そして電話はぶつんと切れた。たったそれだけだった。 「君が寝た相手の御主人か恋人だかのいやがらせの電話じゃないのかい」と僕は言ってみた。 「まさか」と彼は言った。「連中の声ならみんな知っています。それは絶対に僕がそれまで耳 したことのない男の声でした。とても嫌な雰囲気な声の電話でした。結局その電話はそれから 鱆日かかってきました。 6 月 5 日から 7 月日までです。ど、つです ? 僕の吐き気の期間とはとノ 吐 ど一致するでしよう ? 嘔 「でもいたすら電話と吐き気がどこで関連しているのか、僕にはさつばりわからないな」 「だからこそ僕はいまだにそのことで汨 「僕にだってそんなのわかりませんよ」と彼は言 0 た。
僕としてはそんなことが彼の一一「ロうよ、つに何から何まで、つまく機阨するとはど、つも信じられな かったけれど、彼はホラを吹いて自慢するような人物にはみえなかったから、あるいはそれは彼 の言うとおりなのかもしれない 「結局のところ彼女たちの大部分はそれを求めてるんです。彼女たちの夫や恋人ーーーというのは つまり僕の友だちであるわけなのだけれどーーーの多くは僕なんかよりすっと立派な人物なんで す。僕よりハンサムだし、僕より頭がいいしあるいは僕よりペニスが大きかったりするかもし しいことなんです。彼女たちにとっては れない。でもそんなことは彼女たちにとってはどうでも、 相手がある程度まともで、親切で、気心が知れていさえすれば、それでオーケーなんです。彼女 たちの求めているのは、恋人とか夫婦とかいったある意味ではスタティックな枠組をこえて、き ちんと構ってもらうことなんです。それが基本的な原則なんです。もちろん表層的な動機は様々 ですがね」 「たとえば ? 」 「たとえば夫が浮気したことに対する意趣がえしであるとか、退屈しのぎとか、自分がまだ夫以 外の男にかまわれることへの自己満足とかね。そういうことです。僕はそういうのが、相手の顔 を見ただけでだいたいわかるんです。ノウハウとかそういうのは何もありません。こればかりは 本当の生まれつきの能力です。ある人にはあるし、ない人にはないんです」 彼自身には決まった恋人はいない。
一瞬にしてやわらいだ。僕は彼 と、彼女のまわりの空気はまるで何かの奇蹟がおこったみたいに 女の人柄については好感を持って見てはいなかったけれど、それでも彼女の微笑み方だけは好き だった。とにかく何はともあれ好きにならないわナこよ ( ( ーいかないのだ。すっと昔、高校生の頃に 英語の教科書で「春に捉えられて」 arres ( & in a springtime というフレーズを読んだことがあ っこ、隹こあたたかな春の日だまりを るけれど、彼女の微笑みはちょうどそんな感じだった。いオし言 : 批評することができるだろ、つ ? 彼女には決まった特定の恋人がいなかったので、グループの中の男が三人ばかりーーー僕の友だ ちも当然その中の一人であったわけだがーーー彼女に熱をあげていた。彼女はとくに相手を誰と決 めるわけでもなく、その場その場の状況に応じてうまくその三人の男をあしらっていた。三人の けっこ、つ楽しそ、つに生きて 方も、少なくとも表面上は、足をひつばりあうでもなく礼儀正しく、 いて、僕はそのような光景にうまくなしむことができなかったが、結局のところそれは他人の問 題であって、僕とは関係がなかった。僕がいちいち口を出すことではないのだ。 僕は一目見たときから、彼女が嫌いだった。僕は僕なりにスポイルされることについては ちょっとした権威だったので、彼女がどれくらいスポイルされて育ってきたか手にとるようにわ かった。甘やかされ、はめあげられ、保護され、ものを与えられ、そんな風にして彼女は大きく なったのだ。でも問題はそれだけではなかった。甘やかされたり小遣い銭を与えられたりという いちばん重要なことはまわり 程度のことは子供がスポイルされるための決定的な要因ではない。
71 プルサイド いた。それ はり裸で浴室の鏡の前に立ち、自分の体の線が昔とはがらりと変っていることに気づ はまるで他人の形だった。要するにの歳まで水泳のトレーニングで鍛えあげた肉体の遺産を、 彼はその川年間で食いつぶしてしまったのだ。酒・美食・都会生活・スポーッカー・平穏なセッ クス、そして運動不足が、贅肉という醜悪な形をとって彼の肉体にこびりついていた。あと三年 で俺は確実に醜い中年男になってしまうに違いない、と彼は田 5 った。 ット・コンサルタントと契約 彼はます歯医者に行って徹底的な歯の治療をし、それからダイエ して綜合的なダイエ ット・メニューを作成した。まず糖分が削られ、白米が制限され、脂肪が選 別された。酒は過度にさえ飲まなければ制限はなかったが、煙草は十本までとされた。肉食は週 に一度と決められた。もっとも何から何までそう狂信的になる必要はないと彼は考えていたの で、外で食事をとる時には好きなものを腹八分め食べることにしていた。 運動に関しては自分が何をやるべきなのか彼にはよくわかっていた。体の肉を削るにはテニス とかゴルフとかいった見ばえの良いスポーツは意味だった。 一日分から分のきちんとした 体操、そして適度のランニングと水泳、それで十分なはすだ。 7 キロあった彼の体重は八カ月後にはキロにまで減った。たつぶりとたるんでいた腹の肉が 一落ちて、へその形がはっきりと見えるようになった。頬がそげ、肩幅が広くなり、 睾丸の位置が 以前より少し低くなった。足が太くなり、ロ臭が減った。 そして彼は恋人を作った。
ンがあった。一一人とも蟹料理が大好きだったし、そのレストランは地元の人たち向けのものだっ たので値段がひどく安く、それで一一人は毎日夕方になるとそこに行ってシンがポール・ビールを 飲み、たらふく蟹料理を食べた。シンガポールには何十種類という蟹がいて、百種類にものばる 蟹料理があった。 ところがある夜、レストランを出てホテルの部屋に戻ると、彼はひどく気分が悪くなって、便 所で吐いた。胃の中は蟹の白い肉でいつばいだった。彼が便器の水に浮いたそんな肉のかたまり をじっと見ていると、それはほんの少しすっ動いているように見えた。はじめのうち、それは目 の錯覚だろうと彼は限った。しかし肉はたしかに動いていた。まるでしわがよじれるようなかん じに、肉の表層がびくびく震えていた。それは白い虫だった。蟹の肉と同じ色をした白い微小な 虫が何十匹と、肉の表面に浮いていた。 彼はもう一度胃の中のものを洗いざらい吐いた。胃が握りこぶしくらいの大きさにまで収縮 し、苦い緑色の胃液の最後の一滴まで彼は吐いた。それでも足りずに彼はうがい液をごくごくと 飲んで、それをまた全部吐いた。しかし虫のことは恋人には教えなかった。彼は恋人に吐き気は しないかと訊わた。しない と恋人は答えた。あなたたぶんビールを飲みすぎたのよ、と彼女は 場・ 球言った。そうだね、と彼は言った。でもその夕方一一人は同じ皿から同し料理を食べたのだ。 その夜男はぐっすりと眠った女の体を月の明りで眺めた。そしてその中でうごめいているであ ろう無数の微小な虫のことを思った。
102 彼は長い期間にわたって一日も欠かすことなく日記をつけることができるという稀有な能力を 身につけた数少ない人間の一人だっ・たので、自分の吐き気がいっ始まっていっ終ったかという正 確な日付けをきちんと引用することができた。彼の吐き気は 1979 年 6 月 4 日 ( 晴 ) にはじま り、同年の 7 月日 ( くもり ) に終っていた。彼は若手のイラストレーターで、一度だけ僕とく んである雑誌の仕事をしたことがあった。 僕と同じように彼は古いレコードのコレクターで、それから友だちの恋人や奥さんと寝るのが 好きだった。年は僕よりたしか二つ三つ下である。彼はしっさい、それまでの人生の中で何人も の友だちの恋人や奥さんと寝ていた。友だちの家に遊びにいって、その友だちが近所の酒屋に ビールを買いに、つこり、 シャワーを浴びたりしているあいだに、その奥さんとセックスを済ま せたこともあった。彼ー よよくそんな話を僕にしてくれた。