貶幻聴です。僕が幻聴を経験するなんて考えただけでも馬鹿馬鹿しかったけれど、冷静に分析して みればそういう可能をはすすわけにはいきませんでした。つまり〈ベルが鳴った〉気がして受 話器をとって〈僕の名前を呼ばれた〉気がするということですね。本当は何もない。原理的には あり得るでしよ、つ ? 「そりやまあね」と僕は言った。 「僕はそれでフロントに電話をして、今この部屋に電話がかかってきたかどうかチェックしてみ てはしいって言ったんですが、でもそれはダメでした。ホテルのオペレート・システムはこちら から外に電話をかけるぶんは全部チェックするんですが、逆の場合はまったく言録か残らないん ですね。そういうわけで手がかりはゼロでした。 ホテルに泊ったその夜を境として、僕はいろんなことをわりに真剣に考えるようになりまし 吐き気と電話のことです。ます第一にそのふたつのできごとがどこかで、全面的にか部分的 にかはわからないがとにかくつながっているらしいこと。それからそのどちらもが僕がはじめ に考えていたはどは気楽なものではないらしいことが、だんだんはっきりとしてきたからです。 ホテルに二泊してアパ ートに戻ってきてからも、吐き気と電話はあいかわらす同しような調子 でつづきました。ためしに何度か友だちの家に泊めてもらったりもしたんですが、それでも電話 はちゃんとそこにかかってきました。それもきまって友だち力いなくて僕一人きりのときにか かってくるんです。そんなわけで、僕はだんだんうす気味悪くなってきたんです。まるで目に見
こともあります。でもそのときの嘔吐というのは、そんなのとはぜんぜん違うものなんです。 吐独特の胃がしめつけられるようなあの感覚さえないんです。胃が何の感興もなく食べものをー に押しあげているだけなんです。ひっかかりというものがまるでないんです。不央感もなく、 ムッとする匂いもない。それで僕はとても変な気分になりました。一度ならす一一度ですからわ。 でもとにかく僕は、い配だったからしばらくのあいだ一切のアルコールを口にしないことに決め しかし三度目の嘔吐は翌日の朝にちゃんとやってきた。彼の胃から前夜に食べた鰻ののこ〔 と、朝食に食べたママレードつきのイングリッシュ・マフィンがほとんど丸ごと出てきた。 嘔吐したあとバスルームで歯をみがいていると電話のベルが鳴り、彼が出ると男の声が彼の 前を告げて、そして電話はぶつんと切れた。たったそれだけだった。 「君が寝た相手の御主人か恋人だかのいやがらせの電話じゃないのかい」と僕は言ってみた。 「まさか」と彼は言った。「連中の声ならみんな知っています。それは絶対に僕がそれまで耳 したことのない男の声でした。とても嫌な雰囲気な声の電話でした。結局その電話はそれから 鱆日かかってきました。 6 月 5 日から 7 月日までです。ど、つです ? 僕の吐き気の期間とはとノ 吐 ど一致するでしよう ? 嘔 「でもいたすら電話と吐き気がどこで関連しているのか、僕にはさつばりわからないな」 「だからこそ僕はいまだにそのことで汨 「僕にだってそんなのわかりませんよ」と彼は言 0 た。
133 雨やどり い額ではなかったが一応退職金は出ていたし、生活に不安はなかった。彼女は雑誌時代に知りあ いになったヘア・デザイナーのところに行って、髪を今風に短かく切ってもらい、そのデザイ ナーの行きつけのプティックをまわって、新しいへア・スタイルに合った服と靴とバッグとアク セサリーをひととおり買い揃えた。 会社を辞めた二日めの夕方に、かっての同僚であり恋人であった男から電話がかかってきた。 相手が名前を告げると、彼女は何も言わすに電話を切った。その十五秒後にまた電話のベルが 鳴った。受話器をとると、同じ相手からだった。彼女は今度は電話を切らすに受話器をショル ッグの中につつこんでファスナーをしめた。それつきり二度と電話はかかってこなかっ その一カ月の休暇はのんびりと過ぎ去っていった。結局旅行には行かなかった。よく考えてみ ればもともとたいして旅に出るのが好きというわけでもなかったし、それに男と別れた二十八の 女が一人旅をするというのもなんだか絵になりすぎていて興ざめだった。彼女は三日間で五本の 映画を観て、コンサートに行き、 , ハ本木のライヴ・ハウスでジャズを聴いた。そして暇になった ら読むつもりで積んでおいた本を片はしから読んだ。レコードも聴いた。スポーツ用品店に行っ てジョギング・シューズとランニング ・。ハンツを買い、近所を毎日十五分はど走ってみた。 はじめの一週間はそれでうまくし 、った。煩雑で神経のすりへる仕事から解放されて思う存分好 きなことができるというのは実に素晴しいことだった。気が向くと料理を作り、日が暮れると一
117 決し、癌の可能性がなくなれば、嘔吐というのは本質的には無害なんです。だってアメリカし一 やせるための人工的嘔吐剤を売っているくらいですからわ」 「それでーーー」と僕は言った。「結局その嘔吐と電話は 7 月日までつづいたんだね ? 」 「正確に言うと ちょっと・侍ってください 正確に言うと、最後の嘔吐が 7 月Ⅱ日の朝の。 時半で、これはトーストとトマト・サラダとミルクを吐きだしてます。それから最後の電話が , の夜の川時分で、そのとき僕はエロール・ガーナーの『コンサート芟 ハイ・ザ・シー』を聴、 どうです日記ってつけておくとなか・ ながらもらいもののシーグラム > O を飲んでいました か便利なものでしよ、つ ? 「なかなかね」と僕はあいづちを打った。「それでそれ以来どちらもぶつつりとなくなってしま ( たんだね ? 「ぶつつりとです。ヒッチコックの「自にみたいに朝になってドアを開けたら、もう何もかも ぎ去っていたんです。吐き気もいたすら電話も、もう一一度とやってきませんでした。そして僕」 またキロにまで体重を戻し、スーツとズボンは洋服ダンスに吊されたままです。一種の記念ロ みたいにです」 皿「北話の相手は最後までまったく同じ口調だったの ? 」 彼は首を軽く左右に振った。そしていくぶんばんやりとした目つきで僕を見た。「違います」 と彼は言った。「最後の電話だけはいつもと違っていました。ます相手が僕の名前を言いました -
レダホゼン たことであったのだ。いたしし 、ま何が起りつつあるのか、彼らには見当をつけることさえでき なかった。彼女や父親が大阪の叔母の家に何度か電話をかけても、母親は殆んど電話口には出て こなかったし、彼女にその真意を問いただすことさえできなかった。 母親の真意が判明したのは、彼女が帰国してから二カ月ばかり経過した九月半ばのことだっ た。ある日突然彼女は家に電話をかけてきて、夫に向って「離婚手続きに必要な書類を送るので 署名捺印の上送りかえしてほしいと言った。原因はいったい何か、と父親は質問した。あなた に対してどのような形の愛情も持てなくなったからだ、と母親は即座に答えた。お互いに歩みよ る余地はないのかと父親がたすねると、余地はまったくないと彼女はきつばりと言った。 それから二カ月か三カ月両親のあいだで電話による押し問答や交渉や打診がつづいたが、結局 母親は一歩もあとに退かなかったし、父親も最後にはあきらめて離婚に同意することになった。 それまでの様々な経緯から父親の方にも強硬な能をとることのできない弱味があったし、それ にもともとが何事によらすあきらめやすい性格の人だったのだ。 一「そのことで私はすいぶんショックを受けたように思うの」と彼女は言った。「でもそれはただ 一単に離婚という行為自体から受けたショックではなかったの。私はそれまでに何度か一一人が離婚 一するかもしれないと想像したことはあったし、それに対する精神的な準備は既にできていたと思 うの。だからごくあたり前のかたちで一一人が離婚していたとしたら、私はそれほどは混乱しな かったでしようね。問題は母が父を捨てただけではなく、私をも捨てたということだったのよ。
これはいつもと同しです。でもそれから奴はこう言ったんです。「私が誰だかわかりますか ? 』っ てね。そしてしばらく黙っていました。僕も黙っていました。十秒か十五秒くらいだと思うんだ けれど、どちらもひとことも口をききませんでした。それから電話が切れました。ツーンという 例の発信音だけが残りました」 「はんとうにそのとおりに言ったの ? 『私が誰だかわかりますか ? 』って ? 」 「一字一句違わすそのとおりです。ゆっくりとした丁寧なしゃべり方でした。『私が誰だかわか りますか ? 』、でも声にはまるで覚えがありません。少くとも最近五、六年に関った相手の中に はその声に該当するような人物はいません。ずっと昔の子供の頃の知りあいとか、それほど口を きいたことのない相手のことまではわかりませんが、そういう相手から限まれることについて思 いあたる節といってもまるでないんです。誰かに何かひどいことをしたという覚えもありません し、同業者の恨みを買うはど売れつこでもないですしね。そりやまあ、女関係についちゃ、お話 ししているとおりいくぶんやましい点はあります。それは認めます。年も生きてるんだから赤 子のように潔白というふうにはいきません。でもさっきも言ったように、そういう相手の声は ちゃんと知ってるんです。聞けば一発でわかります」 「でもね、まともな人間は友だちのつれあい専門に寝たりはしないもんだぜ」 自分でも気づか 「とすると」と彼は言った。「村上さんはそれが僕の中のある種の罪悪感が ない罪悪感が 嘔吐とか幻聴とかいう形をとって結像したものじゃないかって言うわけです
人でビールを飲んだりワインを飲んだりした。 しかしその休暇が十日めを過ぎたころから、彼女の中で何かが変ってきた。もう観に行きたい と思う映画は一本もなくなり、土日楽はうるさいだけで一枚をとおして聴くことができなくな り、本を読むと頭が痛んだ。作る料理はどれも気が抜けた味がした。ジョギングはある日気味の 変に神経がたかぶって夜 悪い学生風の男にあとをついて走られてからすっかりやめてしまった。、 中に目がさめ、暗闇ですっと誰かに見つめられているような気がした。彳 皮女はそういう時、空が 白んでくるまで布団をかぶってすっと震えていた。食欲が落ち、一日気持がイライラした。もう 何をする気もおきなかった。 彼女は知りあいの誰彼となく電話をかけてみた。そのうちの何人かはおしゃべりをしたり相談 にのってくれたりしたが、 彼らにしても仕事がにしく、そうそ、ついつまでも彼女の相手をしてい るわけにもいかなかった。「あと二、三日したら今の仕事がひと区切りつくからさ、そうしたら ゆっくり飲みにいこうよ」と言って彼らは電話を切った。しかし二、三日たっても誘いの電話は かかってはこなかった。ひと区切りついたところに急にまたべつの仕事が入ってしまったのだ。 彼女自身もこの六年間すっとそういう生活をくりかえしていたわけだから、そのへんの事情はよ くわかっていた。だから自分の方から電話をかけて相手をわすらわしたりはしなかった。 日が暮れてから家にいるのがつらかったので、彼女は夜になると買ったばかりの新しい服に身 を包んで外に出て、六本木か青山あたりの小綺麗なバーで終電車の時刻まで、一人でカクテルを
解することができなかった。それでも彼は頭を振ってはとんど無意識のうちに受話器を手に、 それを耳につけた。 「もしもし」と彼は一一一一口った。 聞きなれた声がいつものように彼の名前を告げ、その次の瞬間に電話は切れた。そしてツー とい、つ発信 g 日だけが耳に残っこ。 「でも君はそのホテルに泊まっていることを誰にも教えなかったんだろう ? 」と僕は訊い 「ええ、もちろんです。誰にも教えちゃいません。ただ、その僕が寝た相手の女の子だけはべ一 ですがわ」 「彼女が他の誰かに洩らしたってことはないのかな」 「いったい何のためにですか ? 」 そう一言われてみればそのとおりだった。 「そのあとで僕はバスルームの中で一切合財を吐いてしまいました。魚とか米とかそういうも ( 全部です。まるで電話がドアをあけて道を拓きそこから嘔吐が入ってきたような具合でした。 吐いたあと、僕はバスタブに腰を下ろして、頭の中でいろんなことを少し順序よく整理して - 吐たんです。ます第一に考えられることは、その電話が誰かが巧妙にしくんだ冗談かいやがら「 だってことです。どうして僕がそのホテルに泊っていることを奴が知ったのかはわからないけ」 ど、その問題はあとまわしにして、とにかくそういう人為的なしわざです。第二の可能性は僕 (
僕は黙ってビールを飲み、ピーナツをつまんだ。 「でも僕は個人的には今の家内の方が好きです」と彼は言った。 「もう子供は作らないんですか ? 」と僕はしばらくあとで訊ねた。 彼は首を振った。「たぶん駄目でしようね」と彼は言った。「僕の方はともかく、家内はそん、 状態じゃあないんです。それはそれで僕としてはどちらでもいいんですが」 ーテンダーが彼にウイスキーのおかわりを勧めたが、彳 : ・及よきつばりと断った。 「そのうちに女房に電話をしてやって下さい。彼女にはたぶんそういった刺激が必要だと思う , です。だってまだ人生は長いですからね。そう思いませんか ? 」 彼は名刺の裏にポールペンで電話番号を書いて僕に渡してくれた。おどろいたことに市外局 から見ると、彼らは僕と同じ区域に住んでいた。しかしそれについて僕は何も言わなかった。 の彼が勘定を払い、我々は地下鉄の駅でわかれた。彼は仕事の残りを片づけるために会社に一〔 僕は電車に乗って家に戻った。 女僕はまだ彼女に電話をかけてはいない。彼女の息づかいと肌のぬくもりとやわらかな乳房の き触はまだ僕の中に残っていて、そのことで僕はまだ十四年前のあの夜と同しように、どうしょ ) はもなく混乱しているのだ。
乱してるんです。とにかく電話はいつも同じ調子でした。ベルが鳴って、僕の名前を言って、そ れでぶつんと切れるんです。毎日一度電話はかかってきました。時間はでたらめです。朝にか かってくることもあるし、夕方にかかってくることもあるし、真夜中ってこともありました。ほ んとうは電話になんて出なきゃいいんでしようが、仕事の陸質上そういうわけにもいかないし、 女の子からだってかかってくることだってあるし : : : 」 「まあね」と僕は言った。 「それと並行して吐き気の方も一日も休むことなくつづきました。食べたもののあらかたは吐い ちゃったと思います。吐いちまうとひどく腹が減って、飯を食べて、それをまたすっかり吐いち まうんです。悪循環ですね。それでも平均すると三食に一食くらいは吐かすにうまく消化するこ とができましたから、それでかろうじて命脈を保っていたようなわけです。もし三食を一二食とも 吐いちゃったりしたら、それこそ栄養注射でもうたなきやたすからないところですものね」 「医者にはいかなかったの ? 」 「医者ですか ? もちろん近所の病院に行きましたよ。わりにちゃんとした総合病院です。レン トゲンを撮ったり尿検査もしたりしました。癌の可能性もあるんで一応調べてもみました。でも 何ひとっ悪いところなんてないんです。健康そのものです。結局は胃の慢性疲労かあるいは精神 的なストレスだろうってことになり、胃の薬をもらってきました。早一授早起きをして酒を控え、 つまらないことでくよくよしないようにつて言われました。でも馬鹿言っちゃいけません。胃の