ないんです。そうじゃないとシステムがうまく機能しない。そういう意味では僕はひとつの旗じ るしのようなものです。たくさんのことが僕の動かない脚を中心として作動しているとも言える んです。 : 僕の言っている意味わかりますか ? 」 わかると田 5 、フ、と僕は一一一一口った。 「欠落はより高度な欠落に向い、過剰はより高度な過剰に向うというのが、そのシステムに対す る僕のテーゼです。ドビッシーが、自分の歌劇の作曲が遅々として進まないことを表して、こん な風に言っています。『私は彼女の創りだす無を追いかけて明けくれていた』ってね。僕の仕事 はいわばそのを創りだすことにあるんです」 彼はそれつきり黙って、再び彼の不眠症的な沈黙の中に沈みこんだ。時間だけはたつぶりと あ 0 た。彼の意識はす 0 と遠いルをさまよ 0 たあとで再び戻「てきたが、戻「てきたポイント は出発点とは少しすれているように見えた。 僕はポケットからウイスキーの瓶をひつばりだしてテープルの上に置いた。 「よかったら少し飲みませんか ? グラスはないけれど」と僕は言ってみた。 「いや」と言って、彼はほんの少し微笑んだ。「僕は酒を飲まないんです。水分って、ほとんど 摂りません。でもおかまいなく一人で飲んで下さい。他人がお酒を飲んでいるのを見るのは嫌 しゃありませんから」 ィー并からロの中にウイスキーを流しこんだ。胃の中があたたかくなり、僕はしばらく目をと ノー、、ヤ
120 「嫌なことを言いますね」と彼はくすくす笑いながら言った。それから真顔にかえった。「しか し妙だな。あなたに言われるまで、それについて一度も考えてみたことがなかった。その : う一回あれが来るかもしれないってことをね。ねえ、ほんとうに来ると思います ? 「そんなことわかるわけないさ」と僕は言った。 彼はグラスをときどきぐるぐるとまわしながら、ウイスキーを少しすっすするように飲んだ。 そして空になったグラスをテープルに置いて、ティッシュ ーで何度か鼻をかんだ。 「あるいは」と彼は言った。「あるいは、それは今度はぜんぜん別の人の身に起こるのかもしれ ませんよ。たとえば村上さんとかね。村上さんだってまるつきりの潔白ってわけじゃないでしょ その後も、僕は彼と何度か顔をあわせ、前衛的とはいいがたい種類のレコードを交換したり洒 を飲んだりしている。年に一一回か三回というところだ。僕ー日 = = 口をつけるようなタイプではない ので、正確な回数まではわかりかねる。ありかたいことにいまのところ、彼の方にも僕の方に 嘔吐も電話もやってきてはいない。
た。まるで巨大な空洞の底に立っているみたいな気がした。月光が花弁や大きな葉や芝生の庭を 昼間とはまったく違った色に染めていた。フィルターをとおして世界を眺めたときのように、あ るものは実際以上に鮮かに輝き、またあるものは生気を失った灰色の中に沈みこんでいた。 眠くはなかった。そもそもの最初から眠りなんて存在しなかったみたいに、僕の意識は冷えた 陶器にも似て覚醒していた。僕はこれといった目的もなくコッテージのまわりをゆっくり一周し てみた。あたりはしんとして、波の音の他には耳に届くものはなかった。その波の音も立ちど まって耳を澄まさなければうまく聞きとれないという程度のものだった。僕は立ちどまってポ ケットからウイスキーの瓶をとりだし、そのまま口にふくんで飲んだ。 コッテージを一周してしまうと、僕は月光の下では氷のはった丸い池のように見える芝生の庭 のまん中を一直線に横切ってみた。そして腰の高さほどの丈の植えこみに沿って歩き、小さな階 ーに出た。業は←毋晩ここでウォッカ・トニック 段を上ってトロピカル・スタイルのがーデン・ ヾーは閉まっていた。あすま屋風のコクテル・ を一 . 一杯ずつ飲むことにしていたが、もちろんもう / スタンドにはシャッターが下りて、庭に一ダースはどの丸テープルがちらばっているだけだ。 まっすぐにたたまれたテープルのパラソルは、まるで翼をやすめた巨大な夜の鳥のように見え 車椅子に座った青年はそんなテープルの上に片肘をついて、一人で海を見ていた。車椅子の金 属がたつぶりと月光を吸いこんで、氷のような白さに光っていた。それは遠くから見ると、まる
そしてこれで半分が終ったのだ と ~ 仮は田 5 、つ。 1983 年の 3 月日は彼の肪回目の誕生日だった。妻は彼に緑色のカシミャのセーターをプ レゼントした。日が暮れると一一人は亠冂山にある行きっ・けのレストランにでかけてワインを開け、 魚料理を食べた。そしてそのあと静かなバーでジントニックを三杯か四杯すっ飲んだ。彼は〈折 りかえし点〉の決心について妻には何も言わないことに決めていた。そういった種類の物の見方 は他人の目には往々にして馬鹿げたものとして映るものだということが彼にはよくわかってい 一一人はタクシーで一豕に帰り、セックスをした。彼がシャワーから出て台所に行き、缶ビールを 手に寝室に戻ってくると、妻はもうぐっすりと眠っていた。彼は自分のネクタイとスーツを洋服 サだんすにかけ、妻のシルクのワンピースはそっと畳んで机の上に置いた。シャツやストッキング レ 一は丸めて浴室の洗たく寵に放りこんだ。 彼はソファーに座って一人でビールを飲み、しばらく妻の寝顔を眺めていた。彼女は一月に ーなた , かりだった。彼女はまだ分水嶺のあちら側にいた。皮はもう分水嶺のこちら側にい
のない話です。そのあいだ僕は彼女の右わき腹にあるあざのことを考えていました。それから びったりとした服を着るときに大きながードルでおなかと尻を締めつけていることを考えていま した。彼女は僕にお昼ごはんを食べたかと訊きました。本当は食べてなかったんですが、もう済 ませたと僕は答えました。それにどうせ食欲なんてなかったんです。しゃあお茶でも飲む ? と 彼女は言いました。僕は時計を見て、残念だけど友だちにノート・コピーを借りる約束してるん だと言いました。そんな具合に我々は別れました。僕は汗ぐっしよりになっていました。しばれ ば水たまりができるくらい服はぐしょぬれになっていました。とてもねばねばとして、嫌な匂い のする汗でした。それで僕は体育館のシャワーをあびて、大学の売店で買った新しい下着に着が えなきゃなりませんでした。僕はそのすぐあとでクラブをやめて、それ以来彼女とはほとんど顔 もあわせませんでした」 彼は新しい煙草に火をつけ、美味そうに煙を吐いた。「そういう話です。あまりおおっぴらに できる話じゃありませんがね」 ートにはそのあとも住んでいたの ? と僕は訊ねてみた。 「そのアパ 「そうですね、その年の暮までそこに住んでいました。でももうのぞき見はやりませんでした。 球望遠レンズも父親に返しました。まるでつきものが落ちるみたいに、そういう欲求がなくなって しまったんです。僕はときどき夜になると窓辺に座って野球場の向うに見える彼女のアパ しいもんです。僕は 小さな灯を眺めて、ばんやりと時を過しました。小さな灯というのはとても、
116 「吐き気と電話はそれからもすっとつづきました。体重もすいぶん減りました。ちょっと待って えーと、そ、つですねーーーー 6 月 4 日の体重はキロありました。 6 月幻日か礙キロ、 7 下さい 月の川日は実にキロです。キロですよ。僕の身長からすると嘘みたいな数字です。おかげで スポンを押さえて歩くような始末です」 羊服はぜんぶサイズがあわなくなっちまいました。。 「ひとっ質問があるんだけど、どうして録立日電話をとりつけるとか、そういうことをしなかった 「もちろん逃げたくなかったからです。そんなことしたら、僕が参っていることを相手におしえ てやるようなもんです。根くらべですよ。相手が飽きるか、僕がくたばるかです。吐き気にし たってそうです。僕はこれは理想的なダイエットだと考えるようにしたんです。幸い体力が極端 に低下するということもなく、日常生活も仕事も一応普段どおりこなすことはできましたから ね。だから僕はまた酒を飲みはじめました。朝からビールを飲んで、日が暮れるとたつぶりウィ スキーを飲みました。飲んだって飲まなくたってどうせ吐くんだもの、そんなのどっちだって同 じです。飲んだ方がさつばりして納得もいきます。 それから銀行で貯金をおろし、洋服屋に行って新しい体型にあったスーツを一着と、ズボンを 二本買いました。洋服屋の鏡にうっしてみると、やせているのもなかなか悪くありませんでし た。考えてみりや、吐くのなんてそんなにたいしたことしゃないんです。痔とか虫歯に比べて苦 痛も少ないし、下痢に比べれば上品です。もちろんこれは比較の問題ですがね。栄養の問題が解
僕は黙ってビールを飲み、ピーナツをつまんだ。 「でも僕は個人的には今の家内の方が好きです」と彼は言った。 「もう子供は作らないんですか ? 」と僕はしばらくあとで訊ねた。 彼は首を振った。「たぶん駄目でしようね」と彼は言った。「僕の方はともかく、家内はそん、 状態じゃあないんです。それはそれで僕としてはどちらでもいいんですが」 ーテンダーが彼にウイスキーのおかわりを勧めたが、彳 : ・及よきつばりと断った。 「そのうちに女房に電話をしてやって下さい。彼女にはたぶんそういった刺激が必要だと思う , です。だってまだ人生は長いですからね。そう思いませんか ? 」 彼は名刺の裏にポールペンで電話番号を書いて僕に渡してくれた。おどろいたことに市外局 から見ると、彼らは僕と同じ区域に住んでいた。しかしそれについて僕は何も言わなかった。 の彼が勘定を払い、我々は地下鉄の駅でわかれた。彼は仕事の残りを片づけるために会社に一〔 僕は電車に乗って家に戻った。 女僕はまだ彼女に電話をかけてはいない。彼女の息づかいと肌のぬくもりとやわらかな乳房の き触はまだ僕の中に残っていて、そのことで僕はまだ十四年前のあの夜と同しように、どうしょ ) はもなく混乱しているのだ。
かくるまで、一一人でまた何ということもなくプール 僕も自分のぶんを注文した。それからビール・ 水底にはコース・ロープと泳者の影が映っていた。 の水面を眺めていた。 僕と彼はまだ知りあって二カ月しかたっていない。我々はどちらもこのスポーツ・クラブの会 員で、いわば水泳仲間というところである。僕のクロールの右腕の振りを矯正してくれたのも彼 だ。我々は水泳のあとこの同しカフェテラスで冷たいビールを飲みながら何度か世間話をした。 あるときお互いの仕事の話になって、僕が小説家だと言うと、彼はしばらく黙りこみ、それから ちょっとした話を聞いてもらえないだろ、つかと言った。 「僕自身の話なんだ」と彼は言った。「どちらかというと平凡な話だと思うし、君はつまらない と思うかもしれない。でもどうしても誰かに聞いてもらいたいとすっと田 5 っていたんだ。自分一 人で抱えこんでいると、いつまでたっても納得できそうにないんでね」 構わないと僕は言った。彼はつまらない話をくどくどとして相手を迷惑がらせるようなタイプ の人間には見えなかった。彼がわざわざ僕に何かを話そうとするのであれば、それは僕がきちん ドと聞くだけの価値のある話なのだろうと僕は田 5 った。 サそして彼はこの話をした。 業よ皮の話を聞いた。 プ 「ねえ、君は小説家としてこの話をどう思う ? 面白いと思う、それとも退屈だと思う ? に答えてはしいんだ」 正直
間た。ストロークぶんの冷たい水なんて、まるつきり意味のない存在に思えたりもした。どうし てそんな風に感じるのかは、自分でもよくわからなかった。 そんな日々が、高い空を流れる雲のようにゆっくりと過ぎていった。 一日と一日のあいだには はっきりと区別できるようなきわだった特徴はなかった。日が上り、日が沈み、ヘリコプターが 空を飛び、僕はビールを飲み、泳いだ。 ホテルを引きあげる前日の午後、僕は最後のひと泳ぎをした。妻は昼寝をしていたので、僕は 一人で泳いだ。 土曜日のせいで、海岸の人出はいつもよりはいくぶん多かったが、それでもやは りビーチはがらんとすいていた。何組かの男女が砂の上に寝そべって肌を焼き、家族づれが波打 ちぎわで水あそびをし、何人かは岸からそれはど距離のないところで泳ぎの練習をしていた。海 軍基地からやってきたらしい一団のアメリカ人がやしの木にロープをはって、ビーチ・バレー ポールをやって遊んでいた。みんなよく日焼けして背が高く、髪を短かく刈りこんでいた。 兵隊 というのはいつの時代でも同じような顔つきをしている。 見わたしたところ、ふたつのプイの上には人影は見えなかった。太陽は高く、 空には一片の雲 もなかった。時計の針は一一時をまわっていたが、車椅子の親子の姿は見あたらなかった。 僕は足を水につけ、胸のあたりの深さになるまで沖にむかって歩き、それから左側のプイにむ けてクロールで泳ぎはじめた。肩の力を抜き、水を体にまとうようなつもりで、ゆっくりと泳い
屋があって、批評を頂いたお礼に簡単ではあるが一席設けたいのだがどのようなものであろ、 か、ということであった。もう既に乗りかかった船なのだし、原稿を読んだ礼に鰻を御馳走さ」 るとい、つのもど、つも不思議なものだったので、僕はでかけることにした。 僕は字体と文章のかんしから無意識に痩せた青年を予想していたのだが、実際に会ってみる 1 彼は標準よりは太っていた。とはいっても肥満しているわけではなく、肉のつき方に余裕があ , という程度だ。頬がふつくらとして額が広く、ふわりとした髪をまん中から両側にわけ、線の い丸形の眼鏡をかけていた。全体的に清潔で育ちが良さそうで、服装の趣味もしつかりとして〔 た。そのへんは予想どおりだった。 我々はあいさつをしてから小さな座敷に向いあって座り、ビールを飲んで鰻を食べた。食事 ( あいだ小説の話は殆んど出なかった。僕は彼の字を賞めた。字のことを賞められると彼はとて。 嬉しそうだった。それから彼は銀行の仕事の内幕話をした。彼の話はなかなか面白かった。少 くとも彼の小説を読んでいるよりはすっと面白かった。 「小説のことはもう良いんです」と話が一段落したところで彼は弁解するように言った。「実 原稿を返して頂いてもう一度じっくり読みなおしてみたんですが、自分でも良くないって思っ 4 球んです。手を入れてもう少し部分的にマシになるかもしれないけれど、でもそれにしても僕が一 う圭日きたいと思っている姿とはまるで違ってるんです。本当はあんなじゃないんです」 「あれは本当にあったことなの ? 」と僕はびつくりして訊ねてみた。