ちが。私たちにはそういうものが足りなかったのかもしれない。私たちはこれまでに一緒に きっと いろんなものを作ってきたようで、木並ョは何も作ってはこなかったのかもしれない。 いろんなことがうまく運びすぎていたのね。たぶん私たちは幸せすぎたのよ。そう思わな 僕は頷いた。 有紀子は胸の上で両腕を組んで、しばらく僕の顔を見ていた。「私にも昔は夢のようなもの があったし、幻想のようなものもあったの。でもいっか、どこかでそういうものは消えてし まった。あなたと出会う前のことよ。私はそういうものを殺してしまったの。たぶん自分の 意志で殺して、捨ててしまったのね。もういらなくなった肉体の器官みたいに。それが正し いことだったのかどうか、私にはわからない。でも私にはそのとき、そうするしかなかった 西んだと思う。ときどき夢を見るのよ。誰かがそれを届けにくる夢を。何度も何度も同じ夢を 陽見るの。誰かが両手にそれを抱えてやってきて、『奥さん、これ忘れ物ですよ』って一 = ロうの。 太 そういう夢。私はあなたと暮らしていて、ずっと幸せだった。不満と呼べるほどのものもな 南かったし、これ以上欲しいものもとくになかった。でもね、それにもかかわらず、何かがい 境 つも私のあとを追いかけてくるの。真夜中に私は汗でぐっしよりになってはっと目が覚める 国 のよ。その、私が捨てたはずのものに追いかけられて。何かに追われているのはあなただけ ではないのよ。何かを捨てたり、何かを失ったりしているのはあなただけじゃないのよ。私
「あなたはそれを、私のために手に入れたわけなの ? 」 「とくにそういうわけでもないんだ」と僕は言った。「どんなものなのかちょっと興味があっ ただけなんだ。でももしそのことで君が嫌な気持ちになったんなら謝るよ。返してもいいし、 捨ててもいい」 僕らは屋上の隅にある小さな石のべンチに並んで腰を下ろしていた。今にも雨が降りだし そうな天気だったから、屋上には僕らの他には誰もいなかった。あたりは本当一にしんとして いた。屋上がそんなに静かに感じられたのは初めてだった。 学校は山の上にあって、その屋上からは町と海とが一望のもとに見渡せた。僕らは一度放 送部の部屋から古いレコードを十枚ばかりくすねてきて、それを屋上からフリスビーみたい に飛ばしたことがあった。それらのレコードは綺麗な放物線を描いて飛行した。風に乗って、 あたかも束の間の生命を得たかのように、幸福そうに港の方にまで飛んでいった。でもその 西 のうちの一枚は風に乗り損なって、ふらふらと不器用にテニスコートに落ち、そこで素振りの 太練習をしていた一年生の女の子たちを驚かせ、あとでかなりの問題を引き起こすことになっ 蕨た。それは一年以上も前の出来事で、僕は今、その同じ場所でガールフレンドにコンドーム 境のことで詰問されていた。空を見上げると、とんびがゆっくりと綺麗な円を描いているのが 見えた。とんびであることは、きっと素敵なことだろうなと僕は想像した。彼らはただ空を 飛んでいればいいのだ。少なくとも避妊に気をつかう必要はない。
102 のは人が自然に死ぬ年齢ではない。そして彼女の姓は昔のままだった。していないか、 あるいは結婚して離婚したかだ。 僕にイズミの消息を教えてくれたのは、僕の高校時代の同級生だった。彼は「フルータス』 の「卑バ ー・ガイド」という特集記事に載っていた僕の写真を目にして、それで僕が青山 で店を経営していることを知ったのだ。 , 冫 彼まカウンターに座っていた僕のところにやってき て、やあ久しぶりだな、一兀気か、と言った。とはいっても彼はべつに僕個人に会いに来たと いうわけでもなかった。ただ同僚と酒を飲みにきていて、たまたまそこに僕がいたので声を かけたのだ。 「この店は何度か来てたんだよ、前から。場所も会社の近くだしね。でも君がやっていると は全然知らなかったな。世間は狭いもんだ」と彼は言った。 高校では僕はどちらかというとクラスからはみ出した存在だったが、彼は績がよくスポ ーツもできてというまともな学級委員タイプだった。生格も穏やかで、でしやばるところが なかった。感じが良いといってもいい男だった。彼はサッカ 1 部に所属していて、もともと 体が大きかったのだが、今ではそこにかなりの量の贅肉がついていた。顎は一一重になりかけ ていて、紺のスリーピース・スーツのヴェストはいささか窮屈そうに見えた。これもみんな 接待のせいだよ、と彼は言った。まったく商社なんかに勤めるもんじゃないね。残業は多い、
「僕は彼女たちのことを愛してるよ。とても愛している。そしてとても大事にしている。そ れはたしかに君の一一一一口うとおりだよ。でも僕にはわかるんだーーーそれだけでは足りないんだと いうことがね。僕には家庭があり、仕事がある。僕はどちらにも不満を持っていないし、こ れまでのところはどちらもとてもうまく機能してきたと思う。僕は幸せだったと言ってもい いと思う。でもね、それだけじや足りないんだ。僕にはそれがわかる。一年ほど前に君と会 うようになってから、僕にはそれがよくわかるようになったんだ。ねえ島本さん、いちばん の問題は僕には何かが欠けているということなんだ。僕という人間には、僕の人生には、何 力がばっかりと欠けているんだ。失われてしまっているんだよ。そしてその部分はいつも飢 えて、乾いているんだ。その部分を埋めることは女房にもできないし、子供たちにもできな それができるのはこの世界に君一人しかいないんだ。君といると、僕はその部分が満た 西されていくのを感じるんだ。そしてそれが満たされて初めて僕は気がついたんだよ。これま 陽での長い歳月、どれほど自分が飢えて渇いていたかということにね。僕にはもう一一度と、そ んな世界に戻っていくことはできない」 南 島本さんは両腕を僕の体に回して、そっともたれかかった。彼女の頭は僕の肩の上に載せ の 境られていた。僕は彼女の柔らかい肉を感じることができた。それは僕の体に温かく押しつけ られていた。 「私もあなたのことを愛しているのよ、ハジメくん。私は生まれてからあなた以外の人を愛
234 微かな輝きのようなものが見えるだけだった。 「島本さん、僕は今の君のことを何も知らないんだよ」と僕は言った。「僕は君の目を見るた びにいつもそう思う。僕は君のことを何ひとっ知らないんだって。僕がかろうじて知ってい ると一 = ロえるのは、十一一のときの君だけだ。近所に住んでいて、同じクラスにいた島本さんの ことだけだ。それは今からもう一一十五年も前の話なんだよ。ツイストが流行って、路面電車 が走っていた頃のことだよ。カセット・テープもタンポンも新繽もダイエット食品もなか った頃のことだ。大昔だよ。その頃の君について知っていた以外のことを、僕はほとんど何 も知らないんだ」 「私の目にそう書いてあるの ? あなたは私のことを知らないって」 「君の目には何も書かれていない」と僕は言った。「それは僕の目に書いてあるんだ。僕は君 のことを何も知らないってね。それが君の目に映るだけだよ。君は何も気にしなくていい」 「ねえハジメくん」と島本さんは言った。「あなたに何も言えなくて、それは本並ョに悪いと思 う。本当にそう思っているのよ。でもそれは仕方のないことなの。私にもどうしようもない ことなの。だからもう何も一言わないで」 「さっきも言ったように、これはただの独り一言なんだ。だから気にしなくていい」 彼女はジャケットの襟に手をやって、魚のかたちをしたプローチを長いあいだ指で撫でて いた。そして何も一一 = ロわずにじっとピアノ・トリオの演奏を聴いていた。演奏が終わると彼女
う十年近く前のことだ。僕はそのとき一一十八で、まだ独身だった。そして島本さんはまだ脚 を引きずってした。 , ) ' 彼女は赤いオーヴァーコートを着て、大きなサングラスをかけていた。 そして彼女はここから青山まで歩いていったのだ。それはなんだか大昔に起こった出来事の ように感じられた。 僕はそのときに目にした情景を順番に思い出していった。年末の人込み、彼女の足取り、 曲がった角のひとつひとつ、曇った空、彼女が手に下げたデパートの紙袋、手つかずで置か れたコーヒーカップ、クリスマス・ソング。どうしてあのときに島本さんに思い切って声を かけなかったんだろうと僕はあらためて毎ゃんだ。あのときの僕には何の制約もなく、捨て るべき何ものもなかったのだ。僕はその場で彼女をしつかりと抱きしめ、一一人でそのままど こかに行ってしまうことだってできたのだ。島本さんにたとえどのような事情があったとし ても、少くともそれを解決するために全力を尽くして何かをすることができたはずだった。 でも僕はその機会を決定的に失い、あの奇妙な中年の男に肘をまれて、そのあいだに島本 さんはタクシーに乗ってどこかに去ってしまったのだ。 僕は夕方の混んだ地下鉄に乗って青山まで戻った。僕が映画館に入っているあいだに急に 天候が崩れたらしく、空は湿気を含んだいかにも重そうな雲に覆われていた。今にも雨が降 りだしそうに見えた。僕は傘も持っていなかったし、ヨット・ ーカとプルージ 1 ンにスニ
「ねえ島本さん、君は , 傘ョにもう大丈夫なの ? 」と僕は訊ねた。 彼女は僕の腕の中で頷いた。「大丈夫。薬を飲めばもう大丈夫なの。だから気にしないで」、 そして彼女は僕の肩にそっと頭をもたせかけた。「でも何も訊かないでね。どうしてあんなこ とになったとか、そういうことを」 「いいよ、何も訊かないよ」と僕は言った。 「今日のことは大山一一にありがとう」と彼女は言った。 「今日のどんなこと ? 」 「あそこまで連れていってくれたこと。ロ移しに水を飲ませてくれたこと。私に我慢してく れたこと」 僕は彼女の顔を見た。僕のすぐ前に彼女の唇があった。それはさっき僕が水を飲ませると 西きにロづけした唇だった。そしてその唇はもう一度あらためて僕を求めているように見え 陽た。その唇は微かに開かれ、そのあいだから綺麗な白い歯が見えた。水を飲ませるときにほ 太 んの少しだけ触れた彼女の柔らかな舌の感触を、僕はまだ覚えていた。その唇を見ていると、 南業はひどく息苦しくなって、もうそれ以上何かを考えることができなくなった。体の芯が熱 境くなるのが感じられた。 , 彼女は僕を求めているのだ、と僕は思った。そして僕も彼女を求め ていた。でも僕はなんとか自分を押し止めた。僕はここで踏みとどまらなくてはならないの だ。ここから先に行くと、もうもとに一尿ってくることはできなくなってしまうかもしれない。
その肉体が成長していく音を聴くことさえできた。僕は新しい自己という衣をまとって、新 しい場所に足を踏み入れようとしていた。 台所のテープルに座ったまま、僕は墓地の上に浮かんだ雲をまだじっと眺めていた。雲は びくりとも動かなかった。まるで空に釘で打ちつけられたみたいに、そこにびったりと静止 していた。娘たちをそろそろ起こしにいかなくては、と僕は思った。もうとっくに夜は明け たのだし、娘たちは起きなくてはならない。彼女たちは僕よりはずっと強く、ずっと切実に、 この新しい一日を必要としているのだ。僕は彼女たちのべッドに行って、布団をはがし、そ の柔らかくて温かい体の上に手を載せて、新しい一日がやってきたことを告げなくてはなら ないのだ。それが今、僕のやらなくてはならないことなのだ。でも僕はその台所のテープル の前から、どうしても立ち上がることができなかった。体からはあらゆる力が失われてしま っているようだった。まるで誰かが僕の背後にそっとまわって、音もなく体の栓を抜いてし まったみたいに。僕はテ 1 プルに両肘をつき、手のひらで顔を覆った。 僕はその暗闇の中で、海に降る雨のことを思った。広大な海に、誰に知られることもなく 密やかに降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られるこ とはなかった。 一ⅱかがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。
も引き出しの中には封筒は見当たらなかった。それは非常に奇妙で不自然なことだった。と いうのは、その封筒をどこかに移動した覚えはまったくなかったからだ。それについては百 ーセント確信があった。念のために机の他の引き出しを全部引っぱりだして、隅から隅ま で調べてみた。でもやはり封筒はどこにも見つからなかった。 最後にその金の入った封筒を目にしたのはいつのことだっただろうと僕は考えてみた。僕 には正確な日にちは思い出せなかった。それほど昔のことではないけれど、かといってつい このあいだというわけでもない。 一カ弖則かもしれないし、二カ弖則かもしれない。あるい は三カ月くらい前かもしれない。でもとにかくそれほど遠くない過去に僕は封筒を取りだ し、その存在をはっきりと確認したのだ。 僕はわけのわからないままに椅子に腰を下ろし、その引き出しをしばらくじっと眺めてい 西た。あるいは誰かが部屋に入って、引き出しの鍵を開けてその封筒だけを盗んでいったのか 陽もしれない。それはまずありえないことだったけれど ( というのはそれ以外にも机の中には 太 現金や金目のものが人っていたから ) 、可能性としてまったくないというわけではなかった。 南 あるいは僕が何か重大な思い違いをしているのかもしれない。僕は自分の知らないあいだに の 境その封筒を処分して、それについて記憶をすっかりなくしてしまったのかもしれない。そう いうことだって起こりえないわけではないのだ。まあなんだっていいじゃないか、と僕は自 分に言い聞かせた。そんなものどうせいっか処分するつもりでいたんだ。そのぶんの手間が
272 で死ぬために、箱根までやってきたのだろう。 「そして私もたぶんあなたの全部を取ってしまうわよ。全部よ。あなたにはそれがわかって るの ? それが何を意味しているかもわかっているの ? 」 そう一言ったとき、島本さんは僕の命を求めていた。僕は今、それを理解することができた。 僕が最終的な結論を出していたように、彼女もやはり最終的な結論を出していたのだ。どう してそれがわからなかったのだろう。たぶん彼女は、僕と一晩抱き合ったあと、帰りの高速 道路でのハンドルを切って、二人で死んでしまうつもりだったのだ。彼女にとっては、 それ以外の選択肢というものはおそらく存在しなかったのだと思う。でも何かがそのとき彼 女を思い止まらせた。そしてすべてを呑み込んだまま、彼女は姿を消してしまったのだ。 島本さんはいったいどんな状況に立たされていたのだろう、と僕は自分に向かって問いか けてみた。それはどのような種類の袋小路だったのだろう。どのようにして、どのような理 由で、どのような目的で、そしていったい誰が、彼女をそんな場所に追い込んでしまったの だろう。どうしてそこから逃けだすことが、そのまま死を意味しなくてはならなかったのだ ろう ? 僕は何度も何度もそれについて考えてみた。僕はあらゆる手がかりを自分の前に並 べてみた。思いつくかぎりの推理をしてみた。でもどこにも辿りつけなかった。 , 彼女はその 秘密を抱え込んだまま、消えてしまったのだ。たぶんもしばらくもなく、ただひっそりとど こかに消えてしまった。そう思うとたまらない気持になった。結局のところ彼女はその秘密