の の 有紀子が寝室に戻ったあと、僕は仰向けになって、長いあいだ天井を眺めていた。それは 何の特徴もない並日通のマンションの天井だった。そこには面白いものは何もなかった。でも 僕はそれをずっと見つめていた。ときどき角度の関係でそこに車のライトが映ることがあっ た。幻影はもう浮かんではこなかった。島本さんの乳首の感触や、声の響きや、その肌の匂 いを、もうそれほどはっきりとは思い出すことができなかった。ときどきイズミのあの表生旧 のない顔を思い出した。僕と彼女の顔を隔てていた、タクシーの窓ガラスの感触を思い出し た。そんなとき、じっと目を閉じて有紀子のことを思った。僕は有紀子がさっき口にしたこ とを何度も頭の中で繰り返した。目を閉じて、自分の体の中で動いているものに対して耳を 澄ませた。おそらく僕は変化しようとしているのだろう。そしてまた変化しなくてはならな いのだ。 自分の中にこれから先ずっと有紀子や子供たちを守っていくだけの力があるのかどうか、 僕にはまだわからなかった。幻想はもう僕を助けてはくれなかった。それはもう僕のために 夢を綾ぎだしてはくれなかった。空白はどこまでいっても空白のままだった。僕はその空白 の中に長いあいだ身を浸していた。その空白に自分の体を馴染ませようとした。これが結局 僕のたどりついた場所なのだ、と思った。僕はそれに馴れなくてはならないのだ。そしてお そらく今度は、僕が誰かのために幻想を綾ぎだしていかなくてはならないのだろう。それが 僕に求められていることなのだ。そんな幻想がいったいどれほどの力を持っことになるの
ように本当に素敵な微笑みだった。しかし僕はその微笑みの中に、彼女がそのときに抱いて いる感清らしきものをほとんど読み取ることができなかった。彼女がもう行かなくてはなら ないことを辛く思っているのか、あるいはそれほど辛くは思っていないのか、あるいは僕と 別れることができてほっとしているのか、それすら読み取ることができなかった。その時刻 に本当一に彼女がどこかに帰らなくてはならないのかどうかさえ、僕にはたしかめようもなか っ一」 0 でもとにかく、その別れの時刻がくるまでの一一時間か三時間のあいだ、僕らはかなり熱心 に話をした。でも僕が彼女の肩を抱いたり、彼女が僕の手を握ったりするようなことはもう なかった。僕らはもう一一度と体を触れ合わせなかった。 啝示の街の中では、島本さんはまた以前のクールで魅力的な笑顔を取り戻していた。あの 西一一月の寒い日に、石川県にいったときに見せたような感情の激しい揺れ動きは、もう目にす 陽ることはできなかった。そのときに僕らのあいだに生じた温かい自然な親しみも、もう戻っ てこなかった。とくに申し合わせたわけではないのだが、その奇妙な小旅行で起こったこと 、丿が、我々のロにのばることは一度もなかった。 僕は彼女と肩を並べて歩きながら、彼女はその心の中にどんなものを抱え込んでいるのだ 国 ろうとよく思った。そしてそれらのものごとは彼女をこれからどこへ連れていこうとしてい 断るのだろう。僕はときどき彼女の瞳を覗き込んでみた。でもそこには穏やかな沈黙があるだ
272 で死ぬために、箱根までやってきたのだろう。 「そして私もたぶんあなたの全部を取ってしまうわよ。全部よ。あなたにはそれがわかって るの ? それが何を意味しているかもわかっているの ? 」 そう一言ったとき、島本さんは僕の命を求めていた。僕は今、それを理解することができた。 僕が最終的な結論を出していたように、彼女もやはり最終的な結論を出していたのだ。どう してそれがわからなかったのだろう。たぶん彼女は、僕と一晩抱き合ったあと、帰りの高速 道路でのハンドルを切って、二人で死んでしまうつもりだったのだ。彼女にとっては、 それ以外の選択肢というものはおそらく存在しなかったのだと思う。でも何かがそのとき彼 女を思い止まらせた。そしてすべてを呑み込んだまま、彼女は姿を消してしまったのだ。 島本さんはいったいどんな状況に立たされていたのだろう、と僕は自分に向かって問いか けてみた。それはどのような種類の袋小路だったのだろう。どのようにして、どのような理 由で、どのような目的で、そしていったい誰が、彼女をそんな場所に追い込んでしまったの だろう。どうしてそこから逃けだすことが、そのまま死を意味しなくてはならなかったのだ ろう ? 僕は何度も何度もそれについて考えてみた。僕はあらゆる手がかりを自分の前に並 べてみた。思いつくかぎりの推理をしてみた。でもどこにも辿りつけなかった。 , 彼女はその 秘密を抱え込んだまま、消えてしまったのだ。たぶんもしばらくもなく、ただひっそりとど こかに消えてしまった。そう思うとたまらない気持になった。結局のところ彼女はその秘密
浦は、地底の氷河のように硬く凍りついた暗黒の空間だったのだ。そこにはあらゆる響きを吸 いこみ、一一度と浮かびあがらせることのない深い沈黙があった、沈黙の他には何もなかった。 凍りついた空気はどのような種類の物音をも響かせることはなかった。 それは僕が生まれて初めて目にした死の光景だった。僕はそれまでに身近な誰かを亡くし たという体験を持たなかった。目の前で誰かが死んでいくのを目にしたこともなかった。だ から死というのがいったいどういうものなのか、僕にはそれまで具体的に思い浮かべること ができなかった。でもそのとき、死はありのままの姿で僕のすぐ前にあった。僕の顔からほ んの数センチのところにそれは広がっていた。これが死というものの姿なのだ、と僕は思っ た。お前もやはりいっかはここに来ることになるのだと彼らは語っていた。誰もがやがては、 この暗黒の根源の中を、共鳴を失った沈黙の中を、どこまでもどこまでも孤独のうちに落ち ていくことになるのだ。僕はその世界を前にして息苦しくなるほどの恐怖を感じた。この暗 黒の穴には底というものがないと僕は思った。 僕はその凍りついた暗黒の奥に向かって彼女の名を呼んだ。島本さん、と僕は何度も大き な声で呼んだ。でも僕の声は果てしのない虚無の中に吸い込まれていった。僕がどれだけ呼 びかけても、彼女のその瞳の奥にあるものは、微動だにしなかった。彼女は夂らずあの奇 妙なすきま風のような音のする息を続けていた。その規則的な息づかい。 , 女がまだこち らの世界にいることを僕に教えていた。でもその瞳の奥にあるのは、すべてが死に絶えたあ
280 省けただけじゃないか、と。 でもその封筒が消えてしまったという事実を僕が認識し、僕の意識の中でその不在と存在 とが位置をはっきりと交換してしまうと、封筒が存在するという生夫に付随して存在してい たはずの現実感も、同じように急速に失われていった。それは眩暈にも似た奇妙な咸見だっ 僕がどのように自分に言い聞かせようとしても、その不在感は僕の中でどんどん膨らん で、僕の意識を激しく浸食していった。その不在感はかってそこに明確に存在したはずの存 在感を押しつぶし、貪欲に呑み込んでいった。 たとえば何かの出来事が現実であるということを証明する現実がある。何故なら僕らの記 憶や咸見はあまりにも不確かであり、一面的なものだからだ。僕らが認識していると思って いる事実がどこまでそのままの事実であって、どこからが「我々が事実であると認識してい る事実」なのかを識別することは多くの場合不可能であるようにさえ思える。だから僕らは 現実を現実としてつなぎとめておくために、それを相対化するべつのもうひとつの現実を ーーー隣接する現実をーー必要としている。でもそのべつの隣接する現実もまた、それが現実 であることを相対化するための根拠を必要としている。それが現実であることを証明するま たべつの隣接した現実があるわけだ。そのような連鎖が僕らの意識のなかでずっとどこまで も続いて、ある意味ではそれが続くことによって、それらの連鎖を維持することによって、 ゝヾ ?
は家のまわりを歩いて、彼女の姿を探してみた。それから車に乗ってあたりの道をしばらく ぐるぐると走ってみた。表の道路に出て、ずっと宮ノ下のあたりまで行ってみた。しかし島 本さんの姿はどこにも見えなかった。家に帰っても、島本さんは戻ってはいなかった。書き 置きのようなものがないかと思って、僕は家の中を隅から隅まで捜し回ってみた。でもそん なものはどこにもなかった。彼女かそこにいたという痕跡すらなかった。 島本さんの姿の見えない家の中はひどくがらんとして息苦しかった。空気の中には何かざ らざらとした粒子のようなものが混じっていて、息を吸い込むとそれが喉に引っかかるよう に感じられた。それから僕はレコードのことを思い出した。彼女が僕にくれたナット・キン グ・コールの古いレコードだ。でもどれだけ探してみてもそのレコードは見当たらなかっ た。島本さんは出ていくときにそれを一緒に持っていってしまったようだった。 島本さんはまた僕の前から消えてしまった。今度はたぶんもしばらくもなく。
「僕には大並ョにわからないんだ」と僕は言った。「僕は君と別れたくない。それははっきりと しているんだ。でもその答えが , 不当一に正しい答えなのかどうか、それがわからない。それが 僕に選ぶことのできるものであるかどうかさえわからないんだ。ねえ有紀子、君はそこにい る。そして苦しんでいる。僕はそれを見ることができる。僕は君の手を感じることができる。 でもそれとは別に、見ることも感じることもできないものが存在するんだ。それはたとえば 思いのようなものであり、可能生のようなものなんだ。それはどこかからしみだしたり、紡 ぎだされたりするものなんだ。そしてそれはこの僕の中に住んでいる。それは僕が自分のカ で選んだり、回答を出したりすることのできないものなんだ」 有紀子は長いあいだ黙っていた。ときおり夜間輸送のトラックが窓の下の道路を通り過ぎ ていった。僕は窓の外に目をやったが、そこには何も見えなかった。そこにはただ、真夜中 と夜明けとを繋ぎ、結ぶ、名前のない空間と時間が広がっているだけだった。 「これが続いているあいだ、私は何度も本当に死のうと思ったのよ」と彼女は言った。「これ はあなたを脅すために言ってるんじゃないの。本山一一のことなの。私は何度も死のうと思った。 それくらい私は孤独で寂しかったのよ。死ぬこと自体はそれほど難しいことじゃなかったと 思う。ねえ、わかるかしら。部屋の空気が少しずつ薄くなるみたいに、私の中で、生きてい たいという気持ちがだんだん少なくなっていくの。そういうときには、死んでしまうことな んて、たいしてむずかしいことじゃないのよ。私は子供のことさえ考えもしなかった。私が
さんの幻影を頭の中から追い払うことができずにいた。それはあまりにも鮮明でリアルな幻 影だった。目を閉じれば島本さんの体のあらゆる細部を克明に思いだすことができた。手の ひらに、彼女の肌の感触を思い出すことができた。彼女の声を耳のそばに聞くことができた。 。し力なかった。 僕はそんな幻影を抱えたまま有紀子の体を抱くわけによ ) ゝ できるだけ一人になりたかったし、他に何をすればいいのかもわからなかったから、毎朝、 一日も休まずにプ 1 ルにかよった。そしてそのあとオフィスに行って、ひとりで天井を眺め、 いつまでも島本さんの幻想に耽りつづけた。僕はそんな生活にどこかでけりをつけたかっ た。僕は有紀子との生活を中途半端に放り出したまま、彼女に対する答えを保留したまま、 ある種の空白の中で生きつづけているのだ。そんなことをいつまでも続けているわけにはい かない。それはどう考えても正しいことではなかった。僕は一人の人間としての、夫として 西の、父親としての責任を取らなくてはいけないのだ。でも実際には何をすることもできなか 陽った。幻想はいつもそこにあり、それは僕をしつかりと捉えてしまっていた。雨が降ると、 太 状況はもっと悪くなった。雨が降ると、島本さんが今にもここを訪れてきそうな錯覚に僕は の襲われた。雨の匂いを携えて、彼女がそっとドアを開ける。僕は彼女の顔に浮かんだ微笑み 境を想像することができた。僕が何か間違ったことを一一 = 〔うと、彼女はその微笑みを浮かべたま ま、静かに首を振った。そして僕のあらゆる一一一口葉はその力を失い、窓にはりついた雨の水滴 のように、現実の領域からゆっくりとこばれ落ちていった。雨の夜はいつも息苦しかった。
246 「ねえ島本さん」と僕は言った。「君がいなくなってから、僕はずっと君のことを考えていた んだ。約半年間だよ。六カ月近く毎日、朝から晩まで僕は君のことを考えていた。考えるの はもうやめようと思った。でもどうしてもやめることができなかった。そして最後にこう思 ったんだ。僕はもう君にどこにも行って欲しくない。僕は君がいなくてはやっていけない。 僕はもう一一度と君の姿を失いたくない。しばらくのあいだなんていう一 = ロ葉はもう一一度と聞き たくない。たぶんというのも嫌だ。僕はそう思ったんだ。しばらくのあいだ会えないと思う、 と言って君はどこかに消えてしまう。でも本並ョにいっか君が帰ってくるのかどうか、そんな ことは誰にもわからない。確証なんて何もないんだよ。君はもう一一度と戻ってこないかもし れない。僕はもう君に会えないまま人生を終えてしまうことになるかもしれない。そう思う と、僕はなんだかやりきれない気持ちになった。僕のまわりにある何もかもが意味のないも のに思えた」 島本さんは何も一言わずに僕を見ていた。彼女の顔にはずっと同じかすかな微笑みが浮かん でいた。それはなにものにも決して乱されることのない静かな微笑みだった。でも僕はそこ に彼女の感というものを読み取ることができなかった。その微笑みは、その向こう側に潜 んでいるはずのものの姿かたちについて、何ひとっとして僕に教えてはくれなかった。その 微笑みを前にしていると、僕は一瞬自分の感情までをも見失ってしまいそうになった。僕は
囲けだった。 , 彼女の瞼についた一本の小さな線は、あいかわらず僕に遠くの水平線を思わせた。 僕は高校時代にイズミが僕に対して抱いたであろう孤独感のようなものを、今では少しは理 解できるような気がした。島本さんの中には彼女だけの孤立した小世界がある。それは彼女 だけが知っていて、彼女だけがー 弓き受けている世界だった。僕にはそこに入っていくことが できなかった。その世界の扉は一度だけ僕に向けて開きかけた。でも今ではその扉はまた閉 じてしまっていた。 それについて考え始めると、何が正しくて何が間違っているのかよくわからなくなった。 僕は自分がもう一度あの無力で途方に暮れた十一一歳の少年に戻ってしまったような気がし た。彼女を前にすると、自分が何をすればいいのか、自分が何を一 = ロえばいいのか、判断する ことができなくなってしまうのだ。僕は冷静になろうとした。頭を働かせようとした。でも 駄目だった。僕はいつも自分が彼女に向かって何か間違ったことを言って、何か間違ったこ とをしているように感じた。でも僕が何を一 = ロっても何をやっても、いつも彼女はすべての感 情を呑み込んでしまうような、あの魅力的な微笑みを浮かべて僕を見ていた。「いいのよ、別 に。それでいいんだから」とでもいうように。 僕は今の島本さんが置かれている状況についてほとんど何一つ知識を持たなかった。彼女 がどこに住んでいるのかも知らなかった。誰と住んでいるのかも知らなかった。彼女かどこ から収入を得ているのかも知らなかった。結婚しているのか、あるいはかって結婚したこと