「僕は棚ひとっ作れない。車のオイル・フィルタ 1 も取り替えられない。切手だってまっす ぐに貼れない。電話のダイヤルもしよっちゅう押し違えている。でもオリジナルのカクテル は幾つか作った。評判もいいんだよ」 彼女はカクテル・グラスをコースタ 1 の上に置いて、しばらくその中をじっとのぞきこん でいた。彼女がカクテル・グラスを傾けると、そこに映った天井のダウン・ライトの光が微 かに揺れた。 「お母さんとはもうずっと会っていないの。十年ばかり前にいろいろと面倒なことがあっ て、それ以来ほとんど会っていないの。お父さんのお葬式でいちおう顔を合わせるだけは合 わせたけれど」 ピアノ・トリオがオリジナルのプルースの演奏を終えて、ピアノが『スタ 1 クロスト・ラ 西ヴァ 1 ズ』のイントロを弾き始めた。僕が店にいるとそのピアニストはよくそのバラードを 陽弾いてくれた。僕がその曲を好きなことを知っていたからだ。エリントンの作った曲の中で 太 はそれほど有名な方ではないし、その曲にまつわる個人的な思い出があったわけでもないの のたが、何かのきっかけで耳にしてから、僕はその曲に長いあいだずっと心を引かれつづけて 国した。学生時代にも教科書出版社に勤めていた頃にも、夜になるとデューク・エリントンの 『サッチ・スウィート・サンダー』に人っている『スタ 1 クロスト・ラヴァーズ』のト Ⅷラックを何度も何度も繰り返して聴いたものだった。そこではジョニー・ホッジスがセンシ
が持ち込んでくる傘が冷やかな雨の匂いを漂わせていた。その夜はピアノ・トリオにテナ ・サックスが飛び入りで入って何曲かを演奏した。かなり有名なサックス奏者で、客席は 沸いていた。いつものカウンターの隅の席に腰掛けて本を読んでいると、隣の席に島本さん が音もなくやってきて座った。 容豌は」と彼女は言った。 僕は本を置いて彼女の顔を見た。彼女が本当にそこにいることが僕にはうまく信じられな カ子 / 「もう君は一一度とここに来ないのかと思ってたよ」 「ごめんなさい」と島本さんは言った。「怒ってる ? 「怒ってなんかいないよ。僕はそんなことで怒ったりなんかしない。ねえ島本さん、ここは 西お店なんだ。お客はみんな来たいときに来て、帰りたいときに帰っていくんだよ。僕はただ 陽人々が来るのを待っているだけなんだ」 太 「でもとにかくごめんなさい。うまく説明できないんだけれど、とにかく私にはここに来る 南 ことができなかったの」 の 境「忙しかったの ? 」 「忙しくなんかないと彼女は静かな声で言った。「忙しかったわけじゃないの。ただここに 来ることができなかっただけ」
232 「中間はないんだね ? 」 「中間はないの」と彼女は言った。「何故なら、そこには中間的なものが存在しないからな 「中間的なものが存在しないところには、中間も存在しない」と僕は言った。 「そう、中間的なものが存在しないところには、中間も存在しないの」 「犬が存在しないところには、犬小屋が存在しないように」 「そう、犬が存在しないところには、犬小屋が存在しないように」と島本さんは言った。そ しておかしそうに僕を見た。「あなたには不思議なユーモアの咸見があるのね」 ピアノ・トリオがいつものように『スタークロスト・ラヴァーズ』の演奏を始めた。僕と 島本さんとはしばらく黙ってその曲を聴いていた。 「ねえ、ひとっ質問していいかしら ? 」 「どうぞ」と僕は一一一口った。 「この曲はあなたと何か関係があるの ? 」と彼女が僕に訊ねた。「あなたがここに来るといっ も一度はこの曲が演奏されるような気がするんだけど。それはここの決まりか何かなのかし ら ? ・ 「べつに決まりなんかじゃないよ。ただ単に好意でやってくれているんだ。彼らは僕がこの 曲を好きなのを知ってるんだ。だから僕がここにいると、いつもこの曲を演奏してくれるん
ないことにしたのね ? 」 「とくにそういうつもりもない。成り行きでそうなっちゃっただけだよ」 「どんな気持ちがするものかしら。娘が一一人いるって ? 」 「なんだか変なものだよ。上の子が行っている幼稚園じゃ、そこにいる子供の半分以上が一 人っ子なんだ。僕らの子供の頃とは時代がすっかり変わっちゃったんだね。都会では一人っ 子であることが、むしろ当たり前なんだよ」 「私たちはきっと生まれた時代が早すぎたのね」 「そうかもしれない」と僕は言った。そして笑った。「たぶん世界が我々に近づいているんだ ろう。でも子供たちがいつも家の中で一一人で遊んでいるのを見ていると、ときどきなんだか 不思議な気持ちになることがある。こういう育ち方というのがあるんだなと感心しちゃうん だよ。僕は小さい頃からいつも一人で遊んでいたからね、子供というのはみんな一人で遊ん でいるものだと思っていた」 ピアノ・トリオが『コルコヴァド』の演奏を終えて、客がばらばらと拍手をした。いつも そうなのだが、真夜中に近くなると演奏はだんだんうちとけてきて、親密なものになってい った。ピアニストは曲と曲の合間に赤ワインのグラスを手にし、べーシストは煙草に火をつ 島本さんはカクテルを一口飲んだ。「ねえ、ハジメくん。正直に一一一一口うと、私はここに来るこ
118 「ありがとう」と僕は言った。たぶん彼女は僕がここの経営者だということを知っているの だろう。「気に入ってもらえると嬉しいですね」 「ええ、すごく気に入ったわ」、彼女は僕の顔を覗き込むようにして、につこりと微笑んだ。 素敵な微笑みだった。唇がすっと広がり、目の脇に小さな魅力的な皺が寄った。その微笑み は僕に何かを思い出させた。 「演奏も素敵だし」と彼女はピアノ・トリオを指して言った。「ところで火はお持ちかし ら ? 」と彼女は言った。 僕はマッチもライタ 1 も持っていなかった。僕はバーテンダーを呼んで店のマッチを持っ てこさせた。そして彼女のくわえた煙草の先に火をつけた。 「ありがとう」と彼女は言った。 僕は正面から彼女の顔を見た。そして僕はそこでようやく気がついたのだ。それが島本さ んであることに。「島本さん」と僕は乾いた声で言った。 「思い出すのにけっこう時間がかかったのね」と彼女はしばらく間を置いてから、おかしそ うに言った。「ずいぶんじゃない。もう永遠にわかってもらえないのかと思ってたわ」 僕は長いあいだ、まるで噂でしか聞いたことのない極めて珍しい精密犠を前にしたとき のように、言葉もなく彼女の顔を見つめていた。僕の目の前にいるのはたしかに島本さんだ った。でもその事実を事実として呑み込むことができなかった。僕はそれまであまりにも長
としても、いつも君は『たぶん』とか『しばらく』というような言葉ですっと体を隠してし まうんだ。ねえ、いつまでこういうのが続くんだろう」 「おそらく、当分」と彼女は言った。 「君には不思議なユーモアの咸見がある」と僕は言った。そして笑った。 島本さんも笑った。それは雨があがったあとに雲が音もなく割れて、そこから最初の太陽 の光がこばれてくるときのような微笑みだった。目の脇に温かい小さな皺がよって、それが 僕に何か素敵なことを約束していた。「ねえハジメくん、あなたにプレゼントがあるのよ」 そして彼女は綺麗な包装紙にくるんで、赤いリポンをつけたそのプレゼントを僕に手渡し てくれた。 「これはレコードのように見えるな」と僕はその重みを量りながら言った。 「ナット・キング・コールのレコード。昔一一人でよく一緒に聴いたレコード。懐かしいでし よう。あなたに譲るわ」 「ありがとう。でも君は要らないの ? これはお父さんの形見なんだろう」 「私はまだその他にも何枚も持っているから大丈夫。それはあなたにあげる」 僕は包装紙にくるまれ、リボンをつけたままのそのレコードをじっと見ていた。そのうち に人々のざわめきや、ピアノ・トリオの演奏が、まるで潮が急激に引いていくときのように ずっと遠のいていった。そこにいるのは、僕と島本さんの二人だけだった。それ以外のもの
234 微かな輝きのようなものが見えるだけだった。 「島本さん、僕は今の君のことを何も知らないんだよ」と僕は言った。「僕は君の目を見るた びにいつもそう思う。僕は君のことを何ひとっ知らないんだって。僕がかろうじて知ってい ると一 = ロえるのは、十一一のときの君だけだ。近所に住んでいて、同じクラスにいた島本さんの ことだけだ。それは今からもう一一十五年も前の話なんだよ。ツイストが流行って、路面電車 が走っていた頃のことだよ。カセット・テープもタンポンも新繽もダイエット食品もなか った頃のことだ。大昔だよ。その頃の君について知っていた以外のことを、僕はほとんど何 も知らないんだ」 「私の目にそう書いてあるの ? あなたは私のことを知らないって」 「君の目には何も書かれていない」と僕は言った。「それは僕の目に書いてあるんだ。僕は君 のことを何も知らないってね。それが君の目に映るだけだよ。君は何も気にしなくていい」 「ねえハジメくん」と島本さんは言った。「あなたに何も言えなくて、それは本並ョに悪いと思 う。本当にそう思っているのよ。でもそれは仕方のないことなの。私にもどうしようもない ことなの。だからもう何も一言わないで」 「さっきも言ったように、これはただの独り一言なんだ。だから気にしなくていい」 彼女はジャケットの襟に手をやって、魚のかたちをしたプローチを長いあいだ指で撫でて いた。そして何も一一 = ロわずにじっとピアノ・トリオの演奏を聴いていた。演奏が終わると彼女
116 ーディガンをかけていた。まるで玉葱の薄皮のように軽そうなカーディガンだった。そして ワンピースの色によく似た色合いのバッグをカウンターの上に置いていた。年齢は見当がっ かない。ちょうどいい歳としかいいようかなかった。 彼女ははっとするほどの美人だったが、かといって女優やモデルには見えなかった。僕の 店にはそういった人々もよく顔を見せたが、彼女たちには自分はいつも他人の目に曝されて いるのだという意識があって、そういったいかにもという雰囲気が体のまわりに仄かに漂っ 彼女はとても自然に寛いでいて、まわりの空気によく馴 ている。でもその女は違っていた。 , 染んでいた。彼女はカウンターに頬杖をつき、ピアノ・トリオの演奏に耳を澄ませ、まるで 美しい文章を吟味するみたいにカクテルを少しずつ飲んでいた。そしてときどきちらっと僕 の方に視線を向けた。僕はその視線を何度かはっきりと体に感じていた。でも彼女が奎ョに 僕を見ているのだとは思わなかった。 僕はいつもと同じようにスーツを着て、ネクタイをしめていた。アルマーニのネクタイと ソプラニ・ウォーモのス 1 ツ、シャツもアルマーニだ。靴はロセッティ。僕はとくに服装に 凝るたちではない。必要以上に服に金を費やすのは馬鹿馬鹿しいことだと基本的には考えて いる。普通に生活している分には、プルージーンとセーターがあればそれでこと足りる。で も僕には僕なりのささやかな哲学がある。店の経営者というものは、自分の店の客にできれ ばこういう恰好をして来てほしいと望む冾好を自分でもしているべきなのだ。僕がそうする
れんが、これから伸びる場所だよ。よかったらそこで何か商売をやらないか。会社の持ち物 だから家賃も敷金も相場はもらうことになるが、もし本、当にやる気があるんなら資金は要る だけ貸してやるよ」 僕はそれについてしばらく考えてみた。悪くない話だった。 結局僕はそのビルの地下でジャズを流す、上品なバーを始めることにした。僕は学生時代 にそういう店でアルバイトをずっとやっていたから、経営のおおよそのノウハウは呑み込ん でいた。どんな酒や食事を出して、客層をどのあたりに絞ればいいのか、どのような音楽を 流せばいいのか、どのような内装にすればいいのか、だいたいのイメ 1 ジは頭の中にあった。 内装の工事に関しては妻の父親が全部引き受けてくれた。彼は最高のデザイナーと局の内 装業者をつれてきて、相場から見れば安い値段でかなり手のこんだ工事をさせた。仕上がり のはたしかに見事だった。 太店は予想を遥かに越えて繁盛し、一一年後にはやはり青山にもう一軒別の店を出した。こち らの方はピアノ・トリオを入れたもっと規模の大きな店だった。手間もかかったし、相当な 境資金をつぎ込むことになったが、かなり面白い店ができたし、客もよく入った。それで僕は やっと一息つくことができた。僕は与えられたチャンスをなんとかものにすることができた のだ。その頃、僕には最初の子供が生まれた。女の子だった。最初のうちは僕も店のカウン
ことによって、客の方にも従業員の方にも、それなりの緊張感のようなものが生まれるのだ。 だから僕は店に顔を出すときには意識的に高価なス ] ツを着て、必ずネクタイをしめた。 僕はそこでカクテルの味見をしながら、店の客に注意を払い、ピアノ・トリオの演奏を聴 いていた。始めのうち店はけっこう混んでいたが、九時すぎから激しい雨が降り始め、客足 がばったりととまった。十時にはテープルは数えるほどしか埋まっていなかった。でも女は まだそこにいて、ひとりで黙ってダイキリを飲んでいた。僕は彼女のことがだんだん気にな 彼女は時 ってきた。どうやら彼女は誰かと待ち合わせをしているわけではないようだった。 , 計に目をやるわけでもないし、戸口の方を眺めるわけでもなかった。 やがて女がバッグを手にスツールを下りるのが見えた。時計はもう十一時に近くなってい た。地下鉄で帰るならそろそろ腰を上げる頃合いだった。でも彼女は引き上げるわけではな 彼女はゆっくりとさりげなくこちらにやってきて、僕の隣のスツールに腰をかけた。 西かった。 , 陽微かに香水の匂いがした。スツールに体を馴染ませると、彼女はバッグからセイラムの箱を 太 出して、一本口にくわえた。僕はそんな彼女の動きを目の端でばんやりと捉えていた。 南 「素敵なお店ね」と彼女は僕に言った。 の 境 僕は読んでいた本から顔をあげて、よくわけのわからないまま彼女を見た。でもそのとき 国 何かが僕を打つのが感じられた。胸の中の空気が突然ずっしりと重くなったような気がし Ⅲた。僕は吸引力のことを考えた。これはあの吸引力なのだろうか ?