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検索対象: 国境の南、太陽の西
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1. 国境の南、太陽の西

を僕と共有することを拒否したのだ。あれほどまでにびったりと僕らの体が一体化したにも かかわらず。 「ある種のものごとは一度前に進んでしまうと、もうあとには戻れないのよ、ハジメくん」 と島本さんは一一一口うだろう。真夜中すぎのソファーの上で、僕はそう語りかける彼女の声を耳 にすることができた。僕はその声が紡ぎだす一一 = ロ葉をはっきりと聞きとることができた。「あな たが一 = ロうように、あなたと二人きりでどこカ冫彳 ゝこ一丁って、新しい人生をやりなおすことができ たら、どんなに素敵だろうと思うわ。でも残念だけれど、私にはこの場所から抜け出すこと はできないの。それは物理的に不可能なのよ」 そこでは島本さんは十六の少女で、庭のひまわりの前に立って、ぎこちなく微笑んでいた。 「結局、私はあなたに会いに行くべきじゃなかったのね。それは最初から私にもわかっていた 西のよ。こうなるだろうことは、予想できたのよ。でも私にはどうしても我慢することができ 陽なかった。どうしてもあなたの姿を見たかったし、あなたを前にしたら声をかけないわけに 太 はいかなかった。ねえハジメくん、それが私なのよ。私は、そうするつもりもないのに、最 南 後にはいつも何もかもをだいなしにしてしまうのよ」 境 彼女はもう僕の記憶の中にしか この先島本さんと会うことはもうあるまいと僕は思った。 , 国 彼女はそこにいたが、今では消えてし 存在しないのだ。 , 彼女は僕の前から消えてしまった。 , まった。そこには中間というものは存在しない。中間的なものが存在しないところには、中

2. 国境の南、太陽の西

Ⅷざここに酒を飲みに来ると思う ? それは誰もがみんな、多かれ少なかれ加工の場所を求め ているからなんだよ。精妙に作られて空中に浮かんだように見える人工庭園を見るために、 その風景の中に自分も人り込むために、彼らはここにやってくるんだよ」 島本さんは小さなパースの中からセイラムを出した。彼女がライターを手に取る前に、僕 はマッチを擦って、それに火をつけた。僕は彼女の煙草に火をつけるのが好きだった。彼女 が目を細め、そこに炎の影が揺れるのをみるのが好きだったのだ。 「正直に告白すると、私は生まれてこのかた一度も働いたことがないのよ」と彼女は言った。 「一度も ? 」 「ただの一度も。アルバイトしたこともないし、就職もしなかった。労働と名のつくものを 経験したことがないの。だから私は今あなたが話したようなことを聞いていると、とてもう らやましいのよ。私はそういったものの考え方をしたことが一度もないの。私はいつもずつ と一人で本を読んでいただけ。そして私が考えるのは、どちらかといえばお金を使うことだ け」、そう言って彼女は両腕を僕の前にさしだした。彼女の右手には細い金のプレスレットが ) ' 女はその両手をいつまで 一一本、左手にはいかにも高価そうな金の時計がはめられてした。彼 も商品見本みたいに僕の前に差し出していた。僕は彼女の右手を取って、その手首のプレス レットをしばらく眺めていた。そして僕は十一一歳のときに彼女に手を握られたことを思い出 した。僕はそのときの感触を今でもまだありありと覚えていた。それがどれほど僕の心を震

3. 国境の南、太陽の西

浦は、地底の氷河のように硬く凍りついた暗黒の空間だったのだ。そこにはあらゆる響きを吸 いこみ、一一度と浮かびあがらせることのない深い沈黙があった、沈黙の他には何もなかった。 凍りついた空気はどのような種類の物音をも響かせることはなかった。 それは僕が生まれて初めて目にした死の光景だった。僕はそれまでに身近な誰かを亡くし たという体験を持たなかった。目の前で誰かが死んでいくのを目にしたこともなかった。だ から死というのがいったいどういうものなのか、僕にはそれまで具体的に思い浮かべること ができなかった。でもそのとき、死はありのままの姿で僕のすぐ前にあった。僕の顔からほ んの数センチのところにそれは広がっていた。これが死というものの姿なのだ、と僕は思っ た。お前もやはりいっかはここに来ることになるのだと彼らは語っていた。誰もがやがては、 この暗黒の根源の中を、共鳴を失った沈黙の中を、どこまでもどこまでも孤独のうちに落ち ていくことになるのだ。僕はその世界を前にして息苦しくなるほどの恐怖を感じた。この暗 黒の穴には底というものがないと僕は思った。 僕はその凍りついた暗黒の奥に向かって彼女の名を呼んだ。島本さん、と僕は何度も大き な声で呼んだ。でも僕の声は果てしのない虚無の中に吸い込まれていった。僕がどれだけ呼 びかけても、彼女のその瞳の奥にあるものは、微動だにしなかった。彼女は夂らずあの奇 妙なすきま風のような音のする息を続けていた。その規則的な息づかい。 , 女がまだこち らの世界にいることを僕に教えていた。でもその瞳の奥にあるのは、すべてが死に絶えたあ

4. 国境の南、太陽の西

はアーム・レストに戻った。ふたたび雨音だけが僕らのまわりを取り囲んでいた。少しあと で島本さんは目を開けて、僕の顔を見た。「ハジメくん , と彼女は小さな声で囁くように言っ 。「本当にそれでいいの ? 本当に私のことを取るの ? あなたは私のために何もかもを 捨ててしまっていいの ? 」 。もう決めたことなんだ」 僕は頷いた。「それでいし 「でもあなたはもし私に出会わなかったなら、あなたの現在の生活に不満やら疑問を感じる こともなく、そのまま平穏に生きていたんじゃないかしら。そうは思わない ? 」 「あるいはそうかもしれない。でも現実に僕は君に会ったんだ。そしてそれはもうもとには 戻せないんだよ」と僕は言った。「君が前に言ったように、ある種のことはもう一一度と一兀には 戻らないんだ。それは前にしか進まないんだ。島本さん、どこでもいいから、一一人で行ける ところまで行こう。そして二人でもう一度始めからやりなおそう」 「ハジメくん」と島本さんは言った。「服を脱いで体を見せてくれる ? 」 「僕が脱ぐの ? 「そうよ。まずあなたが服を全部脱ぐの。そしてまず私があなたの裸の体を見るの。いや ? 」 「いいよ。君がそうしてほしいのなら」と僕は言った。僕はストープの前で服を脱いだ。僕 はヨッ・ ーカを脱ぎ、ポロシャツを脱ぎ、プルージ 1 ンを脱ぎ、靴下を脱ぎ、シャッ を脱ぎ、パンツを脱いだ。そして島本さんは裸になった僕に床の上に両膝をつかせた。僕の

5. 国境の南、太陽の西

皿たのだろう。 僕は有紀子のやわらかな首にキスをした。 「少し眠るよ」と僕は言った。「それから幼稚園に迎えに行ってくる」 「ぐっすり眠りなさい」と彼女は言った。 僕はほんの少し眠っただけだった。目が覚めたのは午後の三時すぎだった。寝室の窓から は青山墓地が見えた。僕は窓際の椅子に腰をおろして、長いあいだその墓地をじっと眺めて いた。いろんなものの風景が島本さんの現れる前とあととではずいぶん違って見えるような 気がした。台所からは有紀子がタ食の下ごしらえをしている音が聞こえてきた。それは僕の 耳には虚ろに響いた。ずっと遠くにある世界からパイプか何かをつたって聞こえてくる音の ように思えた。 それから僕はを地下の駐車場から出して幼稚園に上の娘を迎えに行った。その日は 幼稚園で何かとくべつな催しがあったせいで、娘が外に出てきたのは四時少し前だった。幼 稚園の前にはいつものように綺麗に磨かれた高級車が並んでいた。サープやらジャガーやら アルフア・ロメオやらの姿が見えた。いかにも上等そうなコートを着た若い母親がそこから 出てきて、子供を受け取り、車に乗せて家に帰っていった。父親が迎えに来ているのは僕の 娘だけだった。僕は娘をみつけると多則を呼び、大きく手を振った。娘も僕の姿を目にとめ

6. 国境の南、太陽の西

彼女の胸の膨らみや、彼女のスカートの下にあるものに対して漠然とした興味を持つように なってはいた。しかしそれが具体的に何を意味するのかを知らなかったし、それが僕を具体 的にどのような地点へ導いていくのかということも知らなかった。僕はただじっと耳を澄ま せ、目を閉じて、その場所にあるはずのものを思い描いていただけだった。それはもちろん 不完全な風景だった。そこにあるすべてのものごとは霞がかかったように漠然としていて、 輪郭はばやけて滲んでいた。でも僕はその風景の中に、自分にとってとても大事な何かが潜 んでいることを感じ取っていた。そして僕にはわかっていたのだ。島本さんもまた僕と同じ ような風景を見ているのだということが。 おそらく僕らは、自分たちはどちらもが歪兀全な存在であり、その歪兀全さを埋めるため に僕らの前に、新しい後天的な何かが訪れようとしているのだということを感じあっていた のだと思う。そして僕らはその新しい戸口の前に立っていたのだ。ばんやりとした仄かな光 の下で、一一人きりで、十秒間だけしつかりと手を握りあって。

7. 国境の南、太陽の西

ほとんどすれ違いみたいに叔母が洗面所から出てきた。僕はため息をついた。 ' 女は電 五分後にイズミが電話をかけてきた。十五分で戻るからと言って僕は家を出た。彼 話ポックスの前に立って待っていた。 「私こういうのってもう嫌よ」、僕が口を開く前にイズミはそう言った。「こんなことはもう 一一度とやらないわよ」 彼女は混乱し、腹を立てていた。僕は彼女を駅の近くの公園に連れていって、べンチに座 らせた。そして優しく彼女の手を握った。イズミは赤いセーターの上に薄いべージュのコー トを着ていた。その下にあるもののことを僕は懐かしく思い出していた。 「でも今日は本当に素敵な一日だったよ。もちろん叔母さんが来るまではということだけど ね。君はそう思わない ? 」と僕は言った。 「私だってもちろん楽しかったわよ。あなたといるときは私はいつもすごく楽しいのよ。で もね、そのあとで一人になると、私にはいろんなことがわからなくなってしまうの」 「たとえばどんなことが ? 「たとえばこれから先のことよ。高校を卒業したあとのこと。あなたはたぶん卑尺の大学に 行く、私はここに残って大学に行く。私たちはこれからいったいどうなるの ? あなたは私 をいったいどうするつもりなの ? 」

8. 国境の南、太陽の西

く島本さんのことを考えつづけていた。そして彼女と会うことはもう一一度とあるまいと思っ ていたのだ。 「それ素敵なスーツね」と彼女は言った。「とてもよく似合っているわよ」 僕はただ黙って頷いた。うまく口をきくことができなかったのだ。 「ねえハジメくん、あなたは前よりはずいぶんハンサムになったわね。体もがっしりしたし」 「泳いでいるんだよ」と僕はやっと声を出すことができた。「中学校のときに始めて、それ以 来ずっと泳いでる」 「泳げるのって楽しいでしようね。昔からずっとそう思っていたわ。泳げるのって楽しいん だろうなって」 「そうだね。でも、習えば誰だって泳げるようになるんだよ」と僕は言った。でもそう言い 終わった途端に、僕は彼女の脚のことを思い出した。俺はいったい何を言っているんだ、と 僕は思った。僕は混乱して、何かもう少しましなことを言おうとした。でも言葉はうまく出 てこなかった。僕はズボンのポケットに手をつつこんで煙草の箱を探した。それから自分が 五年前に煙草をやめていたことを思い出した。 島本さんはそんな僕の動作を何も言わずにじっと眺めていた。それから手を上げてバーテ ンダーを呼び、新しいダイキリを注文した。彼女は人に何かを頼むときには、いつもにつこ りと大きく微笑んだ。それは本当「に素敵な笑顔だった。そのへんにある何もかもをお盆に載

9. 国境の南、太陽の西

118 「ありがとう」と僕は言った。たぶん彼女は僕がここの経営者だということを知っているの だろう。「気に入ってもらえると嬉しいですね」 「ええ、すごく気に入ったわ」、彼女は僕の顔を覗き込むようにして、につこりと微笑んだ。 素敵な微笑みだった。唇がすっと広がり、目の脇に小さな魅力的な皺が寄った。その微笑み は僕に何かを思い出させた。 「演奏も素敵だし」と彼女はピアノ・トリオを指して言った。「ところで火はお持ちかし ら ? 」と彼女は言った。 僕はマッチもライタ 1 も持っていなかった。僕はバーテンダーを呼んで店のマッチを持っ てこさせた。そして彼女のくわえた煙草の先に火をつけた。 「ありがとう」と彼女は言った。 僕は正面から彼女の顔を見た。そして僕はそこでようやく気がついたのだ。それが島本さ んであることに。「島本さん」と僕は乾いた声で言った。 「思い出すのにけっこう時間がかかったのね」と彼女はしばらく間を置いてから、おかしそ うに言った。「ずいぶんじゃない。もう永遠にわかってもらえないのかと思ってたわ」 僕は長いあいだ、まるで噂でしか聞いたことのない極めて珍しい精密犠を前にしたとき のように、言葉もなく彼女の顔を見つめていた。僕の目の前にいるのはたしかに島本さんだ った。でもその事実を事実として呑み込むことができなかった。僕はそれまであまりにも長

10. 国境の南、太陽の西

それから僕は島本さんが前のように脚を引きずっていないことに気がついた。歩き方はそ れほど早くはないし、注意して観察すればそこには技巧的なものがうかがえた。でも彼女の 歩き方には不自然なところはほとんど見受けられなかった。 「四年ほど前に手術をして治したのよ」と島本さんはまるで言い訳するように言った。「完全 に治ったとはとても言えないけれど、昔ほどひどくはなくなったわ。大変な手術だったけど、 まあなんとかうまくいったの。いろんな骨を削ったり、継ぎ足したり」 「でもよかったね。もう脚が悪いようには見えないもの」と僕は言った。 「そうね」と彼女は言った。「たぶんそれでよかったんだと思う。少し遅すぎたかもしれない けれど」 僕はクロークで彼女のコ 1 トを受け取って、それを着せた。並んでみると、彼女はもうそ 西れほど身長が高くなかった。十一一の頃に僕と同じくらいの背丈があったことを思うと、ちょ 陽っと不思議な気がした。 太 「島本さん、また君に会えるかな ? 」 の「たぶんね」と彼女は言った。そしてかすかな微笑みを口もとに浮かべた。風のない日に静 国かに立ちのばる小さな煙のような微笑みだった。「たぶん」 そして彼女はドアを開けて出ていった。僕は五分ばかりあとで階段を上がって通りに出て みた。彼女がうまくタクシーを捕まえることができたか気になったのだ。外にはまだ雨が降