と僕の肩とをつけた。それがその二カ月のあいだに僕らが体をくつつけあったただ一度の体 験だっこ。 そのようにして三月が過ぎ去り、そして四月がやってきた。下の娘も上の娘と同じ幼稚園 に人った。娘たちが手を離れると有紀子は地域のヴォランティアのグループに入って、障害 児の施設の仕事を手伝ったりするようになった。だいたいは僕が娘たちを幼稚園に送り届 け、そして連れて帰った。僕に時間がなければ、妻がかわりに送り迎えをした。子供たちが 少しずつ大きくなっていくことで、自分もまた少しずつ歳を取りつつあるのだということを 知った。僕の思惑とは関係なく、子供たちはひとりでにどんどん大きくなっていくのだ。僕 は娘たちのことをもちろん愛してした。 , ) ' 彼女たちの成長を見るのは僕にとってはひとつの大 きな幸福だった。でも娘たちが実際に一月ひとっきと大きくなっていくのを見ていると、と きどきひどく息苦しくなった。まるで自分の体の中で樹木がどんどん成長し、根を張り、枝 を広げているみたいに感じられた。それが僕の内臓や筋肉や骨や皮膚を圧迫し、無理に押し 広げていくようだった。そんな思いはときどき僕をうまく眠れないくらい息苦しくさせた。 僕は週に一度島本さんと会って話をした。そして娘たちの送り迎えをし、週に何度か妻を 抱いた。島本さんと会うようになってから、僕は前より頻繁に有紀子を抱くようになったと 思う。でもそれは罪悪感からではなかった。有紀子を抱くことによって、そしてまた有紀子
てその小さな手を振り、こちらにやって来ようとした。でもその前にプルーのメルセデス 2 60E の助手席に乗った女の子の姿をみつけると、何かを叫びながらそちらの方に走ってい った。その女の子は赤い毛糸の帽子をかぶって、停まった車の窓から身を乗り出していた。 その娘の母親は赤いカシミアのコートを着て、大きなサングラスをかけていた。僕がそこま で行って娘の手を取ると、彼女は僕に向かってにつこりと微笑んだ。僕も微笑み返した。そ の赤いカシミアのコ 1 トと大きなサングラスは僕に島本さんのことを思い出させた。僕が渋 谷から青山まであとをつけていったときの島本さんをだ。 「こんにちは」と僕は一言った。 「こんにちは」と彼女も一言った。 綺麗な顔立ちの女だった。歳はどうみても二十五より上には見えなかった。カー・ステレ ーニング・ダウン・ザ・ハウス』をかけていた。後部座席に 西オはトーキング・ヘッズの『バ の 彼女の笑顔はなかなか素敵だった。娘はその友だちと 陽は紀ノ国屋の紙袋が一一個乗っていた。 , ひそひそ声でしばらく何かを話してから、じゃあねと言った。じゃあね、とその女の子も言 った。そしてボタンを押してするするとガラス窓を閉めた。僕は娘の手をひいてを停 国めたところまで歩いていった。 「どうだい、今日いちにち何か楽しいことはあった ? ーと僕は娘に尋ねた。 彼女は大きく首を振った。「楽しいことなんて何もなかった。ひどかった」と彼女は言っ
皿たのだろう。 僕は有紀子のやわらかな首にキスをした。 「少し眠るよ」と僕は言った。「それから幼稚園に迎えに行ってくる」 「ぐっすり眠りなさい」と彼女は言った。 僕はほんの少し眠っただけだった。目が覚めたのは午後の三時すぎだった。寝室の窓から は青山墓地が見えた。僕は窓際の椅子に腰をおろして、長いあいだその墓地をじっと眺めて いた。いろんなものの風景が島本さんの現れる前とあととではずいぶん違って見えるような 気がした。台所からは有紀子がタ食の下ごしらえをしている音が聞こえてきた。それは僕の 耳には虚ろに響いた。ずっと遠くにある世界からパイプか何かをつたって聞こえてくる音の ように思えた。 それから僕はを地下の駐車場から出して幼稚園に上の娘を迎えに行った。その日は 幼稚園で何かとくべつな催しがあったせいで、娘が外に出てきたのは四時少し前だった。幼 稚園の前にはいつものように綺麗に磨かれた高級車が並んでいた。サープやらジャガーやら アルフア・ロメオやらの姿が見えた。いかにも上等そうなコートを着た若い母親がそこから 出てきて、子供を受け取り、車に乗せて家に帰っていった。父親が迎えに来ているのは僕の 娘だけだった。僕は娘をみつけると多則を呼び、大きく手を振った。娘も僕の姿を目にとめ
224 食事を終えると、僕はオフィスに戻って仕事の続きをしようとした。でももう仕事に頭を 集甲することができなくなってしまっていた。自分が有紀子に向かって必要以上に高圧的な 喋り方をしてしまったことで、僕はひどく嫌な気持ちになっていた。僕が言ったことそれ自 体は、たぶん間違ってはいないだろう。でもそれは、もっと立派な人間の口から語られるべ き一 = 暴なのだ。僕は有紀子に嘘をつき、彼女に隠れて島本さんに会っている。有紀子に対し てあんな偉そうなことを口にする資格は、僕にはまったくない。有紀子は僕のことを真剣に 考えてくれている。それはとてもはっきりとしているし、一貫している。でもそれに比べて 僕の生き方には、語るに足るような一貫匪や信念というようなものが果してあるのだろう か ? そんなことをあれこれと考えているうちに、もう何をする気もなくなってきた。 僕は机の上に足を乗せ、鉛筆を手に持ったまま窓の外を長いあいだばおっと眺めていた。 オフィスの窓の外には公園が見えた。良い天気だったから、公園には何人かの親子連れの姿 が見えた。子供たちが砂場や滑り台で遊び、母親たちは横目でそれを見ながら集まって世間 話をしていた。公園で遊んでいる小さな子供たちは僕に自分の娘のことを思い出させた。娘 たちにとても会いたいと思った。そしていつもよくやるように、両腕にひとりずっ子供を乗 せて道を歩きたかった。彼女たちの肉の温もりをしつかりと感じていたかった。でも娘たち のことを考えているうちに、僕は島本さんのことを思い出した。僕は彼女の微かに開かれた 唇のことを思い出した。島本さんのイメージは娘たちのそれよりもずっと強いものだった。
つからないと思うし」 そんな具合に僕らは一一人で話をして、その午後を過ごした。沈黙が多くて、話すのに時間 はかかった。何かを尋ねるとすぐに赤くなった。でも彼女と話すのは決して退屈ではなかっ たし、気づまりでもなかった。僕はその会話を楽しんだと言ってもいいと思う。それは当時 の僕にとっては珍しいことだった。そのコーヒーハウスのテープルをはさんでしばらく向か い合って話をしたあとでは、僕はずっと前から彼女のことを知っていたような気持ちにさえ なった。それは懐かしさに似た心持ちだった。 しかし、それでは彼女に強く心を引かれたのかというと、正直なところ、僕はそれほど強 くはその娘に心を引かれなかったと一一一一口うしかないと思う。僕はもちろん彼女に好感を持った し、一緒にいて楽しい時間を過ごすことができた。綺麗な娘だったし、僕の同僚が最初に言 ったようにも良さそうだった。でもそういう事実の羅列を越えて、彼女の中に僕の心を 圧倒的に揺さぶるような何かが発見できたかというと、その答えは残念ながらノオだった。 そして島本さんの中にはそれがあったのだ、と僕は思った。僕はその娘と一緒にいるあい だ、ずっと島本さんのことを考えていた。悪いとは思うのだけれど、僕は島本さんのことを 考えないわけにはいかなかった。島本さんのことを考えると、僕の心は今でも震えた。自分 の心の奥にある扉をそっと押し開けていくような、微熱を含んだ興奮がそこにはあった。し
「残念ながらもう歳だわ」と彼女はため息をつきながら言った。「体重は減っても脇腹の肉が どうしても落ちてくれないの」 「でも僕は今の君の体が好きだよ。わざわざ苦労してワークアウトとかダイエットとかやら なくても、べつにそのままでいいじゃないか。とくに太っているというわけでもないんだか ら」と僕は言った。そしてそれは嘘ではなかった。僕はうっすらと肉のついた柔らかい彼女 彼女の裸の背中を撫でるのが好きだった。 の体が好きだった。 , 「あなたには何もわかってないのね」と有紀子は言って首を振った。「そのままでいいなんて 簡単に言わないでよ。今のままを維持するのだって私には精一杯なんだから」 他人の目から見れば、あるいはそれは申し分のない人生に見えたかもしれない。ときどき 僕自身の目にさえ、それは申し分のない人生のように映った。僕は熱意を持って仕事をして いたし、それはかなり高い収入をもたらした。のマンションを青山に持ち、箱根の 山の中に小さな別荘を持ち、とジープ・チェロキ 1 を持っていた。そして非のうちど ころのない幸せな家庭を維持していた。僕は妻と一一人の娘を愛していた。それ以上の何を人 生に求めればいいのだろう ? もし仮に妻と娘たちとが僕のところにやってきて、自分たち はもっといい妻と娘になって僕にもっと愛されたいのだが、そのために何かこうしてほしい ということがあったら遠慮なく言ってほしいと頭をさげて言ったとしても、僕にはおそらく 何も一 = ロうべきことを思いつけなかったと思う。僕は彼女たちには本当一に何ひとっ不満がなか
って。私が知りたいのはそれだけなの。それ以外のことは何も聞きたくなんかない。イエス かノオかどちらか」 「わからない」と僕は言った。 「私と別れたいのかどうか、あなたにはわからないということ ? 「違う。僕に答えることができるかどうかということ自体がわからないんだ」 「それはいつになったらわかるの ? 」 僕は首を振った。 「じゃあゆっくり考えなさい」と有紀子はため息をついてから言った。「私は待っから大丈夫 よ。ゆっくりと時間をかけて考えて決めなさい」 その夜から僕は居間のソファーに布団を敷いて眠った。子供たちがときどき夜中に起きて やってきて、お父さんはどうしてそんなところで寝ているのと訊いた。父さんはこのごろ鼾 がうるさいんで、しばらくのあいだお母さんとは別の部屋で寝ることにしたんだよ、そうし ないとお母さんが眠れなくなっちゃうからさ、と僕は説明した。娘たちのどちらかが僕の布 団の中にもぐり込んでくることもあった。そういうときには僕はソファーの上で娘をしつか りと抱いた。ときどき寝室から有紀子が泣いている声が聞こえてくることもあった。
「まあお互いに大変だったな」と僕は言った。それから身をかがめて彼女の額にキスした。 彼女は気取ったフランス料理店の支配人がアメリカン・エクスプレスのカードを受け取ると きのような顔つきで僕のキスを受け入れた。「でも明日はもっと楽になるよ、きっと」と僕は 一一一口った。 僕だってできることならそう信じたかった。明日の朝になって目がさめたら、世界はもっ とすっきりとしたかたちを取っていて、いろんなことが今よりもっと楽になっているに違い し、カナ′し日 よゝ。月日になっても、おそらく事態はもっとややこ ないと。でもそんな風にうまくよゝゝ しくなっているだけだろうと僕は思った。問題は僕が恋をしていることなのだ。そして僕に はこのように妻がいて、娘がいるのだ。 「ねえ、お父さん」と娘は言った。「私、お馬に乗りたいの。いっか私のためにお馬を買って くれる ? 」 、ゝ ) 0 ) 「ああ ししよしつかね」と僕は言った。 「いっかって、いっ ? 」 「お父さんのお金がたまったらね。お金がたまったらそれで馬を買おう」 「お父さんも貯金箱を持ってるの ? 」 「うん、大きいのを持ってるよ。この自動車くらい大きい奴を持ってるんだ。それくらいお
かまわないというのなら、それは続けられると思う。いつまでそれが続けられるかは私にも わからないけれど、私はそれを続けるためにはできるかぎりのことをするわ。私はあなたに 会いに来られるときにはあなたに会いに来る。そのためには私も私なりに努力をしているの よ。でも会いに来られないときには、来られないの。いつでも好きなときに会いに来るとい 。。。いかないの。それははっきりしているのよ。でももしあなたがそういうのは嫌だ、 一一度と私にどこにも行ってほしくないというのであれば、あなたは私を全部取らなくてはい けないの。私のことを隅から隅まで全部。私がひきずっているものや、私の抱え込んでいる ものも全部。そして私もたぶんあなたの全部を取ってしまうわよ。全部よ。あなたにはそれ がわかっているの ? それが何を意味しているかもわかっているの ? 」 「よくわかってるよ」と僕は言った。 「それでもあなたは本当に私と一緒になりたいの ? 」 「僕はもう既にそれを決めてしまったんだよ、島本さん」と僕は言った。「僕は君のいないあ いだに何度も何度もそのことについては考えたんだ。そして僕はもう心を決めてしまってい るんだよ」 「でもねハジメくん、あなたの奥さんと一一人の娘さんはどうするの ? あなたは奥さんも娘 さんたちのことも愛しているんでしよう。あなたはその人たちをとても大事にしているはず
「あれだって俺が勧めてほとんど無理やりに送りだしたんだ。たまには旅行くらい行ってこ 僕は頷いた。「自殺のことは知らなかったな」と僕は言った。 「知らない方がいいと思ったから、これまでは一一一一口わないことにしていたんだ。でもそろそろ ) と思うんだ。お前たちはこれから長いあいだ一緒に暮らしてい もう知っておいたほうかいし くんだから、 しいことも悪いことも一応全部知っておいた方がいいだろう。もうずいぶん昔 の話だしな」、義父は目を閉じて煙草の煙を宙に吐いた。「親の俺が一 = ロうのもなんだけど、あ れはいい女だよ。俺はそう思う。俺はいろいろと女遊びもしてきたから、女を見る目はでき てると思うんだ。自分の娘だろうがなんだろうが、女の良い悪いはちゃんと見分けられる。 同じ俺の娘でも顔だちは妹の方が美人だが、人間の出来はぜんぜん違う。お前は人を見る目 西があるよ」 陽僕は黙っていた。 太 「なあ、お前にはたしか兄弟がいなかったな ? 」 南 「いません」と僕は言った。 の 境「俺には三人子供がいる。それで、俺は三人の子供たちみんなのことを公平に好きだと思う か ? 」 「わかりませんね」