わせたかも覚えていた。 「お金の使い方だけを考えている方が、あるいはまともなのかもしれないよ」と僕は一三ロった。 そして彼女の手を放した。手を放してしまうと、なんだか自分がそのままどこかに飛んで行 ってしまいそうな錯覚に襲われた。「お金の儲け方を考えているとね、いろんなものがだんだ ん磨耗していくんだ。少しずつ、知らないうちにすり減っていくんだ」 「でもあなたにはわかってないのよ。何も生み出さないというのが、どんなに空しいものか とい一つことが」 「僕はそうは思わないね。君はいろんなものを生み出しているような気がするな」 「たとえばどんなものを ? 」 「たとえばかたちにならないものを」と僕は言った。僕は膝の上に置いた自分の両手に目を やった。 島本さんはグラスを手に持ったまま長いあいだ僕を見ていた。「それは気持ちのようなも ののこと ? 」 「そうだよ」と僕は言った。「なんだっていっかは消えてしまう。こんな店だっていつまで続 いているかはわからない。人々の嗜好が少し変化し、経済の流れが少し変れば、今ここにあ る状況なんてあっという間に消えてしまう。僕はそんな実例を幾つも見てきた。本当に簡単 なものだよ。かたちがあるものは、みんないっかは消えてしまう。でもある種の思いという
「まあお互いに大変だったな」と僕は言った。それから身をかがめて彼女の額にキスした。 彼女は気取ったフランス料理店の支配人がアメリカン・エクスプレスのカードを受け取ると きのような顔つきで僕のキスを受け入れた。「でも明日はもっと楽になるよ、きっと」と僕は 一一一口った。 僕だってできることならそう信じたかった。明日の朝になって目がさめたら、世界はもっ とすっきりとしたかたちを取っていて、いろんなことが今よりもっと楽になっているに違い し、カナ′し日 よゝ。月日になっても、おそらく事態はもっとややこ ないと。でもそんな風にうまくよゝゝ しくなっているだけだろうと僕は思った。問題は僕が恋をしていることなのだ。そして僕に はこのように妻がいて、娘がいるのだ。 「ねえ、お父さん」と娘は言った。「私、お馬に乗りたいの。いっか私のためにお馬を買って くれる ? 」 、ゝ ) 0 ) 「ああ ししよしつかね」と僕は言った。 「いっかって、いっ ? 」 「お父さんのお金がたまったらね。お金がたまったらそれで馬を買おう」 「お父さんも貯金箱を持ってるの ? 」 「うん、大きいのを持ってるよ。この自動車くらい大きい奴を持ってるんだ。それくらいお
たしかにみんなに自漫してまわるような美人ではない。でも考えてみれば僕だって、とくに 他人に自慢できるようなものを持ちあわせているわけではなかった。 僕と彼女とは高校一一年生のときに同じクラスになって、何度かデートした。最初はダブ ル・デートで、次は一一人だけのデートだった。 , 彼女と一緒にいると僕は不思議に寛いだ気持 ちになれた。僕は彼女の前ではとても気楽に話をすることができたし、彼女はいつも僕の話 をとても楽しそうに興味深そうに聞いてくれた。たいした話をしたわけではないのだが、僕 の言っていることがまるで世界を変えてしまう大発見ででもあるかのような顔をして熱心に 聞いてくれた。女の子が僕の話に熱心に耳を傾けてくれるなんて、島本さんと会わなくなっ てからは初めてのことだった。そしてそれと同時に、僕も彼女について何でも ) しいから . 知り たいと思った。どんな細かいことでもいい。彼女が毎日何を食べているのか。どんな部屋で 暮らしているのか。その窓からはどんな景色が見えるのか。 イズミというのが彼女の則だった。素敵な各だね、と最初に会って話をしたときに僕 は彼女に言った。斧を放り込んだら妖精が出てきそうだな。僕がそう一 = ロうと彼女は笑った。 彼女には三つ下の妹と五つ下の弟がいた。父親は歯科医で、やはり一軒家に住んでいて、犬 を飼っていた。犬はドイツ・シェパード で、則はカ 1 ルと言った。信じられない話だが、 カール・マルクスから取ったのだ。父親は日本共産党の党員だった。もちろん世間には共産 党員の歯医者だって何人もいるだろう。全部集めたら大型バス四、五台ぶんくらいにはなる
178 都心の土地が高くなると固定資産税やら相続税やらが払いきれない。だからみんな売ってし まう。都心の家を手ばなして郊外に引っ越すんだ。そういう家を買うのはだいたいがプロの 不動産屋だ。そういった連中はもとあった古い建物を壊して、そのあとに新しいもっと有効 利用できる建物を建てる。つまりだな、あそこに見える空き地にはこれからビルがどんどん 建ち並んでいくことになるんだよ。それもこの二、三年のうちにだよ。この二、三年のうち に啝の様相はがらっと変わってしまうんだよ。資金の問題もない。日本経済は活発だし、 株価も上昇を続けている。銀行はたつぶり金を持っている。土地があれば銀行はそれを担保 にいくらでも金を貸してくれるから、土地さえ持っていれば金には不目由することがない。 だから次から次へとビルが建つ。そして誰がそんなビルを建てると思う。もちろん我々が建 てるんだよ。一一一一口うまでもなく」 「なるほどね」と僕は言った。「でもそんなにいつばいビルができたら、示はいったいどう なるんですか」 「どうなるって : : : 活発になり、もっともっと綺麗になり、もっと機能的になるだろうな。 街の様相というのは、その経済の様相を如実に映し出すものだからな」 「活発になり、綺麗になり、機能的になるのはいいですよ。結構なことだと僕だって思いま す。だけど今だって啝示の街は車で溢れているんですよ。これ以上ビルが増えたら、それこ そ道路が身動きできなくなっちゃいますよ。水道だってちょっと雨が降らなかったらパンク
いった。彼女はそのあいだただの一度も後ろを振り返らなかったし、ただの一度も立ち止ま らなかった。ほとんどよそ見さえしなかった。 , 彼女はどこかの目的地に向けて、ただひたす ら歩き続けているように見えた。 , 彼女は島本さんがよくそうしていたように、北以肋をまっす ぐ伸ばして、頭をあげて歩いていた。もし彼女の左脚の運びを目にしなかったなら、もしそ の腰から上だけを見ていたなら、彼女の脚が悪いということはきっと誰にもわからなかった だろうと思う。ただ歩く速度が、普通の人の歩く速度よりはいくぶん遅いというだけのこと だ。彼女のそのような歩き方は、見れば見るほど僕に島本さんのことを思い出させた。うり ふたっと言ってもいいくらいよく似た歩きかただった。 女は渋谷駅の雑踏を通り抜け、坂道を青山方向に向けてどんどん歩いて登っていった。坂 道になると、彼女の歩き方はもっとゆっくりとしたものになった。 , 彼女はずいぶん長い距離 を歩いた。タクシーに乗ってもおかしくはない距離だった。脚が悪くない人間にだって、歩 きとおすのには少し骨の折れるくらいの距離だ。しかし彼女は脚をひきずりながらいつまで も歩き続けた。そして僕も、適当な距離をおいてそのあとをついていった。 , 彼女は相変わら ず一度も後ろを振り向かなかったし、一度も立ち止まらなかった。ウインドウに目をやるこ とさえなかった。彼女はハンドバッグを持った手と、紙袋を持った手とを何度か交代させた。 でもそれを別にすれば、ずっと同じ姿勢で、同じ調子で歩き続けていた。 彼女はやがて表通りの人込みを避けて裏道を歩くようになった。 , 彼女はどうやらこのあた
僕が最初に寝た女の子は一人っ子だった。 彼女はーーー彼女もまたというべきかもしれないがーー一緒に町を歩いていて、すれ違った 男が思わず振り返るようなタイプではなかった。むしろほとんど目立たないといった方が近 かった。それにもかかわらず最初に彼女と顔を合わせたとき、僕は自分でも何がなんだかわ けがわからないくらい激しく彼女に引かれることになった。それはまるで、白昼に道を歩い ていて出し抜けに、目には見えない無音の雷に打たれたようなものだった。そこには留保も なく条件もなかった。原因もなく説明もなかった。「しかし」もなく「もし」もなかった。 これまでの人生を振り返ってみて、ごく少数の例外を別にすれば、僕は一般的な意味合い での美人に激しく心を引かれた経験をほとんど持たない。友だちと一緒に道を歩いている と、「ねえ、今すれ違った女の子は綺麗だったね」というようなことを言われることがある。
ておくということができないのだ。 叔母が台所に入って食品の整理をしているあいだ、僕は彼女の靴を持って二階の自分の部 屋に行った。イズミはもうすっかり服を着ていた。僕は彼女に事情を説明した。 彼女は青くなった。「私いったいどうすればいいの。もしずっとここから出られなくなっち やったらどうするのよ。私だって晩御飯までに家に帰らなくちゃならないのよ。帰れなかっ たら大変なことになっちゃう」 「大丈夫、なんとかするよ。うまく行くから心配することないよ」と僕は言って、彼女を落 ちつかせた。でもどうすればいいのか僕にだってぜんぜんわからなかった。見当もっかなか 「それからガ 1 ドルの靴下どめがどっかにいっちゃったのよ。ずいぶん探したんだけれど、 どこかで見なかった ? 」 西 の「ガードルの靴下どめ ? 」と僕は一 = ロった。 太「小さいやつ。これくらいの大きさの金具」 蕨僕は部屋の床やら、べッドの上やらを探してみた。でもそんなものはみつからなかった。 境「しかたないからストッキングなしで帰りなよ、悪いけど」と僕は言った。 台所に行ってみると、叔母は調理台で野菜を切っているところだった。サラダ・オイルが 足りないんだけど、どこかで買ってきてくれないかと叔母は僕に言った。断る理由もないの
料だった。僕が困惑し失望したのは、僕がイズミの中にいつまでたっても僕のためのものを発 見できない点にあった。僕は彼女の美質を並べることができた。そしてそのリストは彼女の 欠点のリストよりずっと長いものだった。それはおそらく僕という人間の持っ美質のリスト よりも長いものだった。でも彼女には決定的な何かが欠けていた。もし彼女の中にその何か を見いだせたなら、僕はたぶん彼女と寝ていただろう。僕は絶対に我慢なんかしていなかっ ただろう。時間がかかっても僕は彼女を説得して、どうして彼女が僕と寝なくてはいけない かを納得させたと思う。でも結局のところ、あえてそうするだけの確信が僕には持てなかっ たのだ。僕はもちろん性欲と好奇心で頭がいつばいになった十七か十八の無分別な少年に過 ぎなかった。でも頭のどこかで僕にはわかっていた。もし彼女がセックスをすることを望ま 少なくともしかるべき時期が来るのを辛 ないのなら、無理にセックスをするべきではない、、 抱強く待たなくてはならないのだということを。 でも僕は一度だけ、裸のイズミを抱いたことがある。もう服の上から君を抱くのはいやだ、 と僕はイズミに向かってはっきりと宣一一一口した。セックスをしたくないのならしなくてもい 。でも僕はどうしても君の裸の体を見てみたいし、何もつけてない君を抱きたいのだと言 った。僕にはそうすることが必要だし、これ以上我慢することは不可能だ、と。
としても、いつも君は『たぶん』とか『しばらく』というような言葉ですっと体を隠してし まうんだ。ねえ、いつまでこういうのが続くんだろう」 「おそらく、当分」と彼女は言った。 「君には不思議なユーモアの咸見がある」と僕は言った。そして笑った。 島本さんも笑った。それは雨があがったあとに雲が音もなく割れて、そこから最初の太陽 の光がこばれてくるときのような微笑みだった。目の脇に温かい小さな皺がよって、それが 僕に何か素敵なことを約束していた。「ねえハジメくん、あなたにプレゼントがあるのよ」 そして彼女は綺麗な包装紙にくるんで、赤いリポンをつけたそのプレゼントを僕に手渡し てくれた。 「これはレコードのように見えるな」と僕はその重みを量りながら言った。 「ナット・キング・コールのレコード。昔一一人でよく一緒に聴いたレコード。懐かしいでし よう。あなたに譲るわ」 「ありがとう。でも君は要らないの ? これはお父さんの形見なんだろう」 「私はまだその他にも何枚も持っているから大丈夫。それはあなたにあげる」 僕は包装紙にくるまれ、リボンをつけたままのそのレコードをじっと見ていた。そのうち に人々のざわめきや、ピアノ・トリオの演奏が、まるで潮が急激に引いていくときのように ずっと遠のいていった。そこにいるのは、僕と島本さんの二人だけだった。それ以外のもの
んでいた。どれだけ酒を飲んでも、まったく酔いがまわらなかった。むしろ逆にどんどん頭 が覚めていった。手のつけようがないな、と僕は思った。家に帰ったとき、時計の針はもう 一一時をまわっていたが、有紀子は起きて僕を待っていた。僕がうまく寝つけないまま台所の テープルに座ってウイスキーを飲んでいると、彼女もグラスを持ってきて同じものを飲ん 「何か音楽をかけて」と有紀子は言った。僕は目についたカセット・テープをデッキに入れ てスイッチを押し、子供を起こさないようにヴォリュームを下げた。そして僕らはテープル をはさんでしばらく何も一言わずにそれぞれのグラスの中の酒を飲んでいた。 「あなたには私の他に好きな女の人がいるんでしよう ? 」と有紀子は僕の顔をじっと見なが ら一一一一口った。 西僕は頷いた。有紀子はその一 = ロ葉をこれまで何度も何度も頭の中で繰り返していたんだろう 陽なと僕は思った。その一一 = ロ葉にはくつきりとした輪郭と重みがあった。彼女の声の響きの中に 太 僕はそれを感じることができた。 南 「そしてあなたはその人のことが好きなのね。ただの遊びじゃなくて」 の 境「そうだよ」と僕は言った。「遊びというようなものじゃない。でもそれは君が考えているよ うなのとは少し違うんだ」 鼈「私が何を考えているかあなたにわかるの ? 」と彼女は言った。「私の考えていることが本当