に抱かれることによって、僕は自分をなんとかどこかにつなぎ止めておきたかったからだっ 「ねえ、どうかしたの、あなたこの頃なんだか変よ」と有紀子は僕に言った。それはある日 の午後に彼女と抱きあったあとのことだった。「三十七になると男の人の性欲が突然高まる なんていう話は聞いたことがないけど」 「べつにどうもしないよ。普通だよ」と僕は言った。 有紀子はしばらく僕の顔を見ていた。そして小さく首を振った。 「やれやれ、あなたの頭の中にはいったい何が入っているのかしら」と彼女は言った。 僕は暇な時間にはクラシック音楽を聴きながら、居間の窓から見える青山墓地をばんやり と眺めた。もう以前ほど本を読まなくなった。本に気持ちを隹奮・することがだんだん困難に なってきたのだ。 メルセデス 260E に乗った若い女とはそれからも何度か顔をあわせた。僕らは娘たちが 幼稚園の門から出てくるのを待っているあいだ、ときおり世間話のようなものをした。僕ら はだいたいにおいて青山近辺に住む人間にしか通じない実際的な話をした。どこのスー マーケットの駐車場がどの時間に比較的すいているとか、どこのイタリアン・レストランの シェフが代わってそれで味がかなり落ちたようだとか、明治屋の輸入ワインのバーゲンが来 月あるだとか。やれやれこれじゃまるで主婦の井戸端会議だなと僕は思った。でも何はとも
142 「たとえば彼だよ」と僕は言って、真剣な顔つきでアイスピックで氷を砕いている若いハン サムなバーテンダーを示した。「僕はあの子にとても高い給料を払っている。みんながちょっ とびつくりするくらいの額の給料だよ。そのことは他の従業員には内緒にしてあるけれど ね。どうしてあの子にだけそんな高い給料を払っているかというと、彼には美味いカクテル を作る才能があるからだよ。世間の人にはよくわかっていないみたいだけれど、才能なしに は美味いカクテルを作ることはできないんだ。もちろん誰でも努力すれば、けっこういいと ころまではいく。何カ月か見習いとして訓練すれば、客に出して恥ずかしくないくらいのも のはちゃんと作れるようになる。たいていの店が出しているカクテルはその程度のものだ。 それでももちろん通用する。でもその先にいくには特別な才能が必要なんだ。それはピアノ を弾いたり、絵を描いたり、百メートルを走ったりするのと同じことなんだ。僕自身もかな りうまくカクテルを作れると思う。ずいぶん研究もしたし練習もした。でもどう転んでも彼 にはかなわない。同じ酒を入れて、同じように同じ時間だけシェーカーを振っても、できた ものの味が違うんだ。どうしてかはわからない。それは才能というしかないものなんだよ。 芸術と同じなんだよ。そこには一本の線があって、それを越えることのできる人間と、越え ることのできない人間とがいる。だから一度才能のある人間をみつけたら、大事にして離さ ないようにする。高い給料を払う」。その男の子はホモ・セクシュアルで、おかげでゲイの連 中がカウンタ 1 に集まることもあった。でも彼らは静かな人々だったし、僕はとくに気にも
の の には真っ白な雪が固くこわばって残っていた。鉄橋のてつべんには二羽のからすがじっと腰 を据えて川を見下ろし、ときおり何かを非難するみたいに、硬く鋭い声で啼いた。その声は 葉を落とした林の中に冷え冷えと反響し、川面を渡り、僕らの耳を刺した。 Ⅱに沿って、狭い未舗装の道が長く続いていた。どこまで続いているのか、どこに通じて いるのかはわからないけれど、それはひどくひっそりとして人けのない道だった。あたりに 人家らしきものの姿はなく、ところどころに丸裸になった畑が目につくだけだった。畑の畝 には雪が溜まって、何本ものくつきりとした白い筋を描いていた。からすはいたるところに いた。からすたちは、僕らが道をやってくるのを見ると、まるで他の仲間にむかって信号で も発するみたいに短く何度か啼いた。近づいていってもからすたちはなかなか逃けようとは こ見る しなかった。僕は彼らの凶器のようなするどい嘴と、生々しい色あいの足をすぐ間近。 ことができた。 「まだ時間はある ? 」と島本さんが尋ねた。「もう少しこのまま歩いていていいかしら ? 僕は腕時計に目をやった。「大丈夫、まだ時間はあるよ。あと一時間くらいはここにいられ ると思う」 「とても静かなところね」、彼女はあたりをゆっくりと見回してそう言った。彼女が口を開く と、硬くて白い息がばっかりと空中に浮かんだ。 「こんな川でよかったのかな ? 」
国りはしない。そういう点では僕は他の人間とは違うんだ。君に関していえば、僕は本当に特 別な人間なんだ。僕はそれを感じることができる」 島本さんはテ 1 プルの上に置かれた自分の両手にもう一度目を向けた。彼女はキ米の指の かたちを点検するみたいに、手を軽く広げていた。 「ねえ、ハジメくん」と彼女は言った。「とても残念なことだけれど、ある種のものごとは、 後ろ向きには進まないのよ。それは一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もう もとに戻れないのよ。もしそのときに何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったま まそこに固まってしまうのよ」 僕らは一度、二人でコンサ 1 トに出かけたことがあった。リストのピアノ協奏曲を聴きに いったのだ。島本さんが電話をかけてきて、もし時間があったら一緒に聴きにいかないかと 僕を誘った。演奏者は南米出身の有名なピアニストだった。僕は時間をあけて、彼女と一緒 に上野のコンサート・ホールまで行った。それはなかなか見事な演奏だった。テクニックは 文句のつけようがなかったし、音楽目体も緻密で奥行が深く、演奏者の熱い咸物も随所に感 じられた。でもそれにもかかわらず、いくらじっと目を閉じて意識を集中しようとしても、 僕はどうしてもその音楽の世界に没入することが出来なかった。その演奏と僕とのあいだに は薄いカーテンのような仕切りが一枚介在していた。それはあるのかないのかわからないく
の 僕はその日の四則に鑒示に帰った。ひょっとしたら島本さんが戻ってくるかもしれない と思って、僕は箱根の家で昼過ぎまで待っていた。何もせずにじっとしているのが辛かった から、台所の掃除をしたり、置いてある衣類の整理をしたりして時間を潰した。沈黙は重く、 ときおり聞こえてくる鳥の声や、車の排気音も、どことなく不自然で不均一だった。まわり の音という音が、何かのカで無理に歪められたり、あるいは押し潰されたりしてしまったみ たいに聞こえた。僕はそんな中で何かが起こるのを待っていた。何かが起こらなくてはなら ないはずだ、と僕は思った。こんなままでものごとが終わってしまうわけはないのだから。 でも何も起こらなかった。島本さんは、一度こうと決めたことを、時間が経ってから思い のなおしたりする人間ではないのだ。卑示に戻らなくてはならないと僕は思った。もし島本さ んが仮りに僕に連絡をしてくるとすればーーーそれはほとんどありえないことかもしれないけ れどーーそれはおそらく店の方にくるはずだった。いずれにせよこれ以上ここにいる意味は たぶん何もない。
の い出した。 , 彼女の体は柔らかく、そしてぐったりとしていた。あのときに、彼女は大当に僕 のことを求めていた。彼女の心は僕のために開かれていた。でも僕はそこで踏みとどまった のだ。この月の表面のようながらんとした、生命のない世界に踏みとどまったのだ。やがて 島本さんは去っていき、僕の人生はもう一度失われてしまった。 鮮明な記憶は眠れない夜を作りだした。夜中の一一時や三時という時間に目を覚まして、そ のまま眠れなくなることがあった。そんなときには僕はべッドを出て台所に行き、グラスに ウイスキーを注いで飲んだ。窓の外には暗い墓地と、その下の道路を走り過ぎていく車のヘ ッドライトが見えた。グラスを手に僕はそんな風景をずっと眺めていた。真夜中と夜明けを 結ぶそれらの時間は、長く暗かった。ときどき、泣くことができれば楽になれるんだろうな と思えるときもあった。でも何のために泣ナまゝ ) 。。ししのかかわからなかった。誰のために泣け 。いいのかがわからなかった。他人のために泣くには僕はあまりにも身勝手な人間にすぎた し、自分のために泣くにはもう年を取りすぎていた。 それから秋がやってきた。秋がやってきたときには、僕の心はもうほとんど定まっていた。 こんな生活をこのままずっと続けていくことはできない、と僕は思った。それが僕の最終的 な結論だった。
高校時代には、僕はどこにでもいる普通の十代の少年になっていた。それが僕の人生の第 一一段階だったーー普通の人間になること。それは僕にとっての進化の一過程だった。僕は特 殊であることをやめて、普通の人間になった。もちろん注意深い人間が注意深く観察すれば、 僕がそれなりのトラブルを抱えた少年であることは容易に見てとれたはずだった。でも結局 のところ、それなりのトラブルを抱えていない十六歳の少年がどこの世界に存在するだろ う ? そういう意味では、僕が世界に近づいたのと同時に、世界も僕に近づいたのだ。 の何はともあれ十六歳になったときには、僕はもうかってのひ弱な一人っ子ではなかった。 太中学校に入ると、僕はふとしたきっかけで家の近所にあるスイミング・スクールに通うよう 南になった。そこで僕は正式なクロールのスタイルを身につけ、週に二回本格的なラップ・ス 境イミングをやるようになった。そのおかげで肩と胸があっという間に大きくなり、筋肉は引 国 き締まった。僕はもう以前のようにすぐに熱をだしたり、寝込んだりする子供ではなくなっ ていた。僕はよく裸で浴室の鏡の前に立って、長い時間をかけて自分の体を子細に点検した
意味もなく傷つけて、そのことによって同時に自分を傷つけている。誰かを損ない、自分を 損なっている。僕はそんなことをしたくてやっているんじゃない。でもそうしないわけには いかないんだ」 「それはたしかね」と有紀子は静かな声で言った。微笑みの名残が、まだそのロ許に残って いるように僕には感じられた。「あなたはたしかに身勝手な人間だし、ろくでもない人間だ し、間違いなく私のことを傷つけた」 僕はしばらく有紀子の顔を見ていた。彼女がロにした言葉には僕を責める響きはなかっ 彼女はただ事実を事 た。彼女は怒っているわけでもなく、悲しんでいるわけでもなかった。 , 実として述べているだけだった。 僕はゆっくりと時間をかけて、言葉を探した。「僕はこれまでの人生で、いつもなんとか別 な人間になろうとしていたような気がする。僕はいつもどこか新しい場所に行って、新しい 生活を手に入れて、そこで新しい人格を身に付けようとしていたように思う。僕は今までに 何度もそれを繰り返してきた。それはある意味では成長だったし、ある意味ではベルソナの の交換のようなものだった。でもいずれにせよ、僕は違う自分になることによって、それまで の自分が抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。僕は本当に、真剣に、それを 求めていたし、努力さえすればそれはいっか可能になるはずだと信じていた。でも結局のと ころ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕はどこまでいっても僕でしかなかっ の
って全力を尽してやってみれば何かしら得るものはあるだろうと。でも結局僕はあきらめ た。どう転んでもこの仕事は僕には向いていない、それが僕の得た最終的な結論だった。僕 はなんだかがっかりしてしまった。僕の人生はもうそこで終わってしまったように感じられ た。おそらくこれからの歳月を、ここで面白くもない教科書を作りながら磨耗させていくこ とになるんだろうな、と僕は思った。何事もなければ定年まであと三十三年、来る日も来る 日もこの机に向ってゲラ刷りを眺め、行数を計算したり、漢字表記を正したりするのだ。そ して適当な女と結婚して何人か子供を作り、年に一一回のポーナスをほとんど唯一の楽しみと して生きていくことだろう。僕は昔イズミが言ってくれたことを思い出した。「あなたはきっ と素敵な人になると思う。あなたの中にはとても素晴らしいものがあるから」。僕はそれを思 い出すたびに苦々しい気持ちになった。僕の中には素晴らしいものなんて何ひとつないんだ よ、イズミ。今では君にもそれがよくわかっていると思うけどね。でもまあしかたない、誰 だってみんな間違うんだ。 僕は職場ではほとんど機械的に与えられた仕事をこなし、あとの時間はひとりで好きな本 を読んだり音楽を聴いたりして過ごした。仕事というものはもともとが退屈な義務的を禾で あって、それ以外の時間を自分のために有効に使って、それなりに人生を楽しんでいくしか ないんだと僕は考えるようにした。だから僕は仕事場の仲間とどこかに飲みに行ったりする ようなこともしなかった。人づきあいが悪かったり、みんなから孤立していたというわけで
自分がいったいどこにいるのか、自分がどちらを向いているのか、まったくわからなくなっ てしまった。でも僕は時間をかけて、自分がロにするべき一一 = ロ葉をみつけだした。 「僕は君のことを愛している。それはたしかだ。僕が君に対して抱いている咸僣は、他のな にものをもってしても代えられないものなんだ」と僕は言った。「それは特別なものであり、 し。。し力ないものなんだ。僕はこれまでに何度か君の姿を見失ってき もう二度と失うわナこよ ) ゝ た。でもそれはやってはいけないことだったんだ。間違ったことだった。僕は君の姿を見失 うべきではなかった。この何カ月かのあいだに、僕にはそれがよくわかったんだ。僕は本並ョ に君を愛しているし、君のいない生活に僕はもう耐えることができない。もうどこにも行っ てほしくない」 僕が話し終えると、彼女はしばらく何も言わずに目を閉じていた。ストープの火が燃え、 ナット・キング・コールは古い歌をうたい続けていた。僕は何かをつけ加えて言おうと思っ た。でももう一一一一口うべき一 = ロ葉はなかった。 「ねえハジメくん、よく聞いてね」とずいぶんあとで島本さんは言った。「これはとても大事 なことだから、よく聞いて。さっきも言ったように、私には中間というものが存在しないの よ。私の中には中間的なものは存在しないし、中間的なものが存在しないところには、中間 もまた存在しないの。だからあなたには私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのど ちらかしかないの。それが基本的な原則なの。もしあなたがこのままの状況を続けるのでも