考え - みる会図書館


検索対象: 国境の南、太陽の西
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1. 国境の南、太陽の西

「僕には大並ョにわからないんだ」と僕は言った。「僕は君と別れたくない。それははっきりと しているんだ。でもその答えが , 不当一に正しい答えなのかどうか、それがわからない。それが 僕に選ぶことのできるものであるかどうかさえわからないんだ。ねえ有紀子、君はそこにい る。そして苦しんでいる。僕はそれを見ることができる。僕は君の手を感じることができる。 でもそれとは別に、見ることも感じることもできないものが存在するんだ。それはたとえば 思いのようなものであり、可能生のようなものなんだ。それはどこかからしみだしたり、紡 ぎだされたりするものなんだ。そしてそれはこの僕の中に住んでいる。それは僕が自分のカ で選んだり、回答を出したりすることのできないものなんだ」 有紀子は長いあいだ黙っていた。ときおり夜間輸送のトラックが窓の下の道路を通り過ぎ ていった。僕は窓の外に目をやったが、そこには何も見えなかった。そこにはただ、真夜中 と夜明けとを繋ぎ、結ぶ、名前のない空間と時間が広がっているだけだった。 「これが続いているあいだ、私は何度も本当に死のうと思ったのよ」と彼女は言った。「これ はあなたを脅すために言ってるんじゃないの。本山一一のことなの。私は何度も死のうと思った。 それくらい私は孤独で寂しかったのよ。死ぬこと自体はそれほど難しいことじゃなかったと 思う。ねえ、わかるかしら。部屋の空気が少しずつ薄くなるみたいに、私の中で、生きてい たいという気持ちがだんだん少なくなっていくの。そういうときには、死んでしまうことな んて、たいしてむずかしいことじゃないのよ。私は子供のことさえ考えもしなかった。私が

2. 国境の南、太陽の西

130 「お母さんは一兀気なの ? 」と僕は尋ねた。 「ええ、たぶん一兀気だと思う」 僕は彼女の口調の中に込められた何かが気になった。「お母さんとはうまくいっていない ーテンダーを呼ん 島本さんはダイキリを飲み干して、そのグラスをカウンターに置き、 だ。そして僕に尋ねた。「ねえ、何かここのお勧めのカクテルはないの ? 」 「オリジナルのカクテルが幾つかあるよ。店の名前と同じで『ロビンズ・ネスト』っていう のがあってそれがいちばん評判がいい。僕が考案したんだ。ラムとウォッカがべースなんだ。 ロ当たりはいいけれど、かなりよくまわる」 「女の子を口説くのによさそうね」 「ねえ島本さん、君にはよくわかってないようだけれど、カクテルという飲み物はだいたい そのために存在しているんだよ」 彼女は笑った。「じゃあそれをいただくことにするわ」 カクテルが運ばれてくると、彼女はしばらくその色あいを眺めてから、一口そっとすすり、 しばらく目を閉じて味を体にしみこませていた。「とても微妙な味がする」と彼女は言った。 「甘くもないし、辛くもない。さつばりしたシンプルな味だけど、奥行きのようなものがあ る。あなたにこういう器用な才能があったとは知らなかった」

3. 国境の南、太陽の西

「たぶん、がっかりするのが嫌だからだろうね。つまらない本を読むと、時間を無駄に費や してしまったような気がするんだ。そしてすごくがっかりする。昔はそうじゃなかった。時 間はいつばいあったし、つまらないものを読んだなと思っても、そこから何かしらは得るも のはあったような気がする。それなりにね。でも今は違う。ただ単に時間を損したと思うだ けだよ。年をとったということかもしれない」 「そうね、まあ年をとったというのはたしかね」と彼女は言って、いたずらつばく笑った。 「君はまだよく本を読んでる ? 「ええ、 いつも読んでるわよ。新しいのも古いのも。小説も、小説じゃないのも。つまらな いのも、つまらなくないのも。あなたとは逆に、私はきっとただ本を読んで時間をつぶして いくのが好きなのね」 そして彼女はバーテンダーに『ロビンズ・ネスト』を注文した。僕も同じものを頼んだ。 彼女は運ばれてきたカクテルを一口飲み、軽く頷いてからそれをカウンターの上に置いた。 「ねえハジメくん、どうしてここのお店のカクテルはどれを飲んでも他のお店のよりおいし いのかしら ? 」 「それなりの努力を払っているからだよ」と僕は言った。「努力なしにものごとが達成される ことはない」 「たとえばどんな努力 ? 」

4. 国境の南、太陽の西

彼女はしばらく黙っていた。「わかったわ」と妻は言った。彼女の声はひどく疲れているよ うだった。 「いいわよ。箱根に行ってらっしゃい。でも運転には気をつけてね。雨も降ってい るし」 「気をつける」 「私にはいろんなことがよくわからないのよ」と妻は言った。「私はあなたの邪魔をしてるん だと田 5 一つ ? ・」 「邪魔なんかしてないよ」と僕は言った。「君には何の問題もないし、責任もない。もし問題 があるとしたら、それは僕の方だ。だからそのことはもう気にしないでいい。僕はただ考え たいだけなんだ」 僕は電話を切って、それから車で店に戻った。たぶん有紀子は昼食の席で我々が交わした 西会話のことをあれからずっと考えていたのだろう。僕が言ったことについて考え、自分が言 陽ったことについて考えていたのだ。それは彼女の声の調子でわかった。それは疲れて、戸惑 太 った声だった。そう思うと、僕は切ない気持ちになった。雨はまだ強く降りつづいていた。 の僕は島本さんを車に乗せた。 境 「君はべつにどこかに連絡しなくてもいいの ? 」と僕は島本さんに訊いた。 国 彼女は黙って首を振った。そして羽田から帰ってきたときと同じように窓ガラスに顔をつ けるようにしてじっと外を見つめていた。

5. 国境の南、太陽の西

もなければ、手順もなかった。僕はそこに提示されたものをただ単純に貪っただけだったし、 彼女の方もおそらく同じだった。僕らは会うたびに四度か五度は性交した。僕は文字どおり 精液が尽きるまで彼女と交わった。亀頭が腫れあがって痛くなるくらい激しく交わった。で もそれほど情熱的であったにもかかわらず、それほど激しい吸引力をお互いに感じあってい たにもかかわらず、自分たちが恋人になって、長く幸せにやっていけるだろうというような 考えはどちらの頭にも浮かばなかった。我々にとってそれはいわば竜巻のようなものであ り、いっかは過ぎ去っていってしまうものだった。こんなことがいつまでも続くわけはない、 と僕らは感じていたのだと思う。だから僕らは会うたびに、こうして抱き合えるのもこれが 最後になるかもしれないという思いを頭のどこかに抱いていたし、そのような思いは僕らの 性欲を余計に高めることになった。 正確に言えば、僕は彼女を愛してはいなかった。彼女ももちろん僕のことを愛してはいな かった。しかし相手を愛しているとかいないとかいうのは、そのときの僕にとっては大事な 問題ではなかった。大事だったのは、自分が今、何かに激しく巻きこまれていて、その何か の中には僕にとって重要なものが含まれているはずだ、ということだった。それが何である のかを僕は知りたかった。とても知りたかった。できることなら彼女の肉体の中に手を突っ 込んで、その何かに直接触れたいとさえ思った。 僕はイズミのことが好きだった。でも彼女はこのような理不尽な力を僕に一度も味わわせ

6. 国境の南、太陽の西

しなかった。僕はその男の子のことが気に入っていたし、彼も僕を信頼して、よく働いてく れた。 「あなたにはひょっとして見かけより経営の才能があるのかしら ? 」と島本さんは言った。 「経営の才能なんて僕にはないな」と僕は言った。「僕は実業家なんかじゃない。小さな店を 一一軒持っているだけだよ。それにこれ以上店の数を増やすつもりはないし、これ以上大きく 儲けようというようなつもりもない。そんなのは才能とも手腕とも呼べない。でもね、僕は 暇があればいつも想像するんだ。もし自分が客だったらっ・てね。もし自分が客だったら、誰 とどんな店に行って、どんなものを飲んだり食べたりしたいと思うだろう。もし僕が一一十代 の独身の男で、好きな女の子を連れていくんだったら、どういう店に行くだろう。そういう 状況をひとつひとっ細かいところまで想像していくんだ。予算はどれくらいなのか。どこに 西住んでいて、何時頃までに帰らなくてはならないのか。そういう具体的なケースをいくつも 陽いくつも考える。そういう考えをかさねていくうちに、店のイメージがだんだん明確なかた 太 ちをとっていくんだ」 の島本さんはその夜はライト・プルーのタートルネックのセーターに、紺色のスカートをは 境 いていた。耳には小さなイヤリングがふたっ光っていた。びったりとした薄いセーターは乳 房のかたちを綺麗に浮かび上がらせていた。そしてそれは僕の胸を息苦しくさせた。 「もっと話してくれる ? 」と島本さんは言った。そしてまたいつもの楽しげな微笑みを顔に

7. 国境の南、太陽の西

あとをついて歩きながら、そのストッキングに包まれた綺麗な脚がそんな優美な曲線を描く のを飽きずに眺めていた。それは長い年月にわたる訓練によって羽皂された複雑な技術だけ が生み出すことのできる種類の優美さだった。 僕は彼女の少し後ろを、しばらくそのまま歩いていった。彼女の歩調にあわせて ( つまり 人々の流れの速度に逆らって ) 歩き続けるのは簡単なことではなかった。僕はときどきウィ ンドウを眺めたり、立ち止まってコートのポケットの中を探すふりをしたりして、歩くスピ ードを調整した。 , 彼女は黒い革の手袋をはめ、バッグを抱えてない方の手にデパ 1 トの赤い 紙袋を持っていた。そしてどんよりと曇った冬の日であったにもかかわらず、彼女は大きな サングラスをかけていた。 , 彼女の後ろから僕が目にすることのできるのは、きちんと整えら れた美しい髪と ( それは肩のあたりで外側に向けて実に上品にカールしていた ) 、その柔らか く暖かそうな赤いオ 1 ヴァーコートの背中だけだった。もちろん僕は、彼女が島本さんなの 西 のかどうかを確かめたかった。確かめることじたいはそんなに難しくはない。前に回ってうま 太く顔をのぞきこめばいいのだ。でももし本当一に島本さんだったら、僕はそのとき彼女に何と 南言えばいいのだろう。どうふるまえばいいのだろうか。だゝいち彼女はまだ僕のことを覚え 境ているだろうか。僕には考えをまとめるための時間が必要だった。僕は呼吸を整え、頭を整 理し、態勢を立て直さなくてはならなかった。 僕はうつかり彼女を追い越したりしないように注意しながら、彼女のあとをずっとつけて

8. 国境の南、太陽の西

「ねえハジメくん」と彼女は言った。「あなたにはこのことでものすごく感謝してるの。それ はわかってね」 「たいしたことじゃないよ」と僕は言った。「ただ飛行機に乗ってピクニックに来ただけだ」 島本さんはしばらくじっと前を向いて歩いていた。「でもあなたは奥さんに嘘をついて出 てきたんでしよう ? 」 「まあね」と僕は言った。 「そしてそれはあなたにとってはけっこうきついことだったんでしよう ? あなたは奥さん に嘘をつきたくなんかなかったんでしよう」 僕はどう答えていいのかわからないので黙っていた。近くの林の中でまたからすが鋭い啼 き声を上げた。 西「私はきっとあなたの生活を乱しているのね。それは私にもよくわかっているのよ」と島本 陽さんは小さな声で言った。 「ねえ、もうその話はやめよう」と僕は言った。「せつかくここまで来たんだから、もっと明 南 るい話をしよう」 の 境「たとえばどんな話 ? 」 「そういう恰好をしていると君は高校生みたいに見える」 「ありがとう」と彼女は言った。「本当に高校生だと嬉しいんだけれど」

9. 国境の南、太陽の西

238 僕はマネージャーのような役目をしている従業員を呼んで、今日はもう引き上げるから、 あとのことはやっておいてくれと言った。レジスターを閉めて、伝票を整理し、売上を銀行 の夜間金庫に人れておすま ) ) 冫冫ししのだ。僕はマンションの地下駐車場まで歩いていって を出してきた。それから近くの公衆電話から妻に電話をかけ、今から箱根に行ってくると言 「今から ? 」と彼女はびつくりして言った。「どうして今から箱根になんか行かなくちゃなら ないの ? 」 「少しものを考えたいんだ」と僕は言った。 「ということは今日はもう帰ってこないの ? 」 「たぶん帰らない」 ゝろいろと考えてみたんだけど、私 「ねえ」と妻は言った。「さっきのことはごめんなさい。し が悪かったと思う。あなたが言ったことはたしかにそのとおりだと思う。株はもう全部ちゃ んと処分しておいたわよ。だから家に帰ってきて」 「ねえ有紀子、僕は君のことを怒っているわけじゃないんだ。ぜんぜん怒ってなんかいない。 さっきのことは気にしないでいい。僕はただいろんなことを考えたいんだ。一晩だけ僕に考

10. 国境の南、太陽の西

としても、いつも君は『たぶん』とか『しばらく』というような言葉ですっと体を隠してし まうんだ。ねえ、いつまでこういうのが続くんだろう」 「おそらく、当分」と彼女は言った。 「君には不思議なユーモアの咸見がある」と僕は言った。そして笑った。 島本さんも笑った。それは雨があがったあとに雲が音もなく割れて、そこから最初の太陽 の光がこばれてくるときのような微笑みだった。目の脇に温かい小さな皺がよって、それが 僕に何か素敵なことを約束していた。「ねえハジメくん、あなたにプレゼントがあるのよ」 そして彼女は綺麗な包装紙にくるんで、赤いリポンをつけたそのプレゼントを僕に手渡し てくれた。 「これはレコードのように見えるな」と僕はその重みを量りながら言った。 「ナット・キング・コールのレコード。昔一一人でよく一緒に聴いたレコード。懐かしいでし よう。あなたに譲るわ」 「ありがとう。でも君は要らないの ? これはお父さんの形見なんだろう」 「私はまだその他にも何枚も持っているから大丈夫。それはあなたにあげる」 僕は包装紙にくるまれ、リボンをつけたままのそのレコードをじっと見ていた。そのうち に人々のざわめきや、ピアノ・トリオの演奏が、まるで潮が急激に引いていくときのように ずっと遠のいていった。そこにいるのは、僕と島本さんの二人だけだった。それ以外のもの