168 せながらも、それを何とか呑み込んでいった。何度かそれをやっているうちに、彼女はよう やくそのカプセルを喉の奥に流しこめたようだった。 僕はその薬の袋を見てみた。でもそこには何も書かれていなかった。薬の名朋も、彼女の 多則も、服用の指一小も、なにひとっ書かれていなかった。奇妙なものだな、と僕は思った。 薬の袋には普通は何かそれなりの情報が書きしるしてあるものなのだ。間違えて服用しない ように、あるいはイ人が服用させるときに事清がわかるように。でもとにかく僕はその袋を バッグの内ポケットに戻し、そのまましばらく彼女の様子を見ていた。何の薬かはわからな いし、何の症状かもわからないけれど、このようにしていつも薬を持ち歩いているからには、 それなりの効果はあるのだろう。少なくともこれは突発的な事態ではなく、ある程度予期さ れた症状なのだ。 十分ほどで、彼女の頬にようやく少しずっ赤みがさしてきた。僕はそこにそっと自分の頬 をつけてみた。ほんの少しではあるけれど、そこにはもとの温かみが戻ってきたようだった。 僕はほっと息をついてシートに体をもたせかけた。 , 彼女はなんとか死なないですんだのだ。 僕は彼女の肩を抱いて、ときどきその頬に僕の頬をつけた。そして彼女がゆっくりとこちら の世界に戻ってくるのをたしかめていた。 「ハジメくん」とやがて小さな乾いた声で島本さんは言った。 「ねえ、病院に行かなくて大丈夫 ? その方がいいんなら救急病院はみつけられるけれど」
の 「それは俺にもよくわかっているよ」と義父は言った。「そんなことはわかっている。だから ここはひとっ俺にまかせておいてくれ。とにかくお前に迷惑がかかるようなことは絶対にし ない。もしそんなことになれば、結果的に有紀子にも孫たちにも迷惑がかかることになるか らな。俺がそんなことをするわけはないだろう。俺が娘と孫とをどれくらい大事にしてるか 知ってるだろう ? 」 僕は頷いた。何を言ったところで僕は義父の頼みを断れるような立場にはない。そう思う と気が重くなった。僕は少しずつ少しずつ世界に足を搦めとられているのだ。まずこれが一 歩だ。これを引き受ける。するとこの次にはたぶん、また何か別のものがやってくるだろう。 僕らはそれからしばらく食事を続けた。僕はお茶を飲んでいたが、義父はまだ速いペース で酒を飲みつづけていた。 「なあ、お前は幾つになったつけな ? 」と義父が突然尋ねた。 「三十七です」と僕は言った。 義父はじっと僕の顔を見ていた。 「三十七といえば遊びたい盛りだな」と彼は言った。「仕事もばりばりできるし、自信もつい てくる。だから女もけっこう向こうから寄ってくる。違うか ? 」 「残念ながらそれほど沢山は寄ってきませんね」と僕は笑って言った。そして彼の表情をう かがった。僕は一瞬義父が僕と島本さんのことを知っていて、その話をするために僕をここ
た。とてもゴ 1 ジャスな笑顔だったけれど、島本さんの笑顔に比べるといくぶん見劣りがし 社長室はビルのいちばん上の階にあった。大きなガラス窓から街を見渡すことができた。 それほど心なごむ景色とは一一一一口えなかったが、日当たりは良かったし、広々としていた。壁に は印象派の絵がかけてあった。灯台と船の絵だった。ス 1 ラーの絵のように見えたが、ある いは本物かもしれない。 「見たところ景気がいいようですね」と僕は義父に言った。 「悪くない」と彼は言った。そして窓の脇に立って、外を指さした。「悪くない。それにこれ からもっと良くなる。今が稼ぎ時だよ。俺たちの商売にとっちゃ、一一十年、三十年に一度っ ていう好機なんだよ。今儲けなくちゃ儲けるときがないんだ。どうしてだかわかるか ? 」 西「わかりませんね。建設業については素人ですから」 陽「いいか、ここからちょっと啝示の街を見てみろよ。空き地がそこかしこにあるのがわかる だろう。まるで歯が抜けたみたいにあちこちに何も建っていない更地が見える。上から見る 南 とよくわかるんだ。歩いていてもなかなかわからん。あれは古い家屋や古いビルが壊された の 境 あとだよ。このところ土地の価格が急騰したんで、これまでのような古いビルではだんだん 国 収益があがらなくなってきたんだ。古いビルでは高い家賃も取れないし、テナントの数も少 情なくなる。だから新しいもっと大きな入れ物が必要になってるんだ。個人の家だって、こう
ら、たぶんあなたは私のことをいろいろと知りたがるだろうと思ったの。たとえばして いるかとか、どこに住んでいるかとか、これまで何をしてきたのかとか、そういうようなこ と。違う ? 」 「まあ自然な話のなりゆきとしてね」 「もちろん、それが自然な話のなりゆきだと私も思う」 「でも君はそういうことについてあまり喋りたくないんだね ? 」 彼女は困ったように微笑んで、そして頷いた。島本さんはいろんな種類の微笑みを身につ けているようだった。「そう、私はそういうことについてあまり喋りたくないの。その理由は 訊かないでね。とにかく私は自分の身の上については喋りたくないの。でもそういうのはた しかに自然じゃないし、変なものよね。なんだかわざと秘密めかしているみたいだし、気取 っているみたいでもあるし。だから私はあなたに会わない方がいいだろうと思ったのよ。私 はあなたに気取った変な女だと思われたくなかったの。それが私がここに来たくなかった理 由のひとっ」 「他の理由は ? 」 「がっかりしたくなかったからよ」 僕は彼女が手にしたグラスを眺めていた。それから僕は彼女のまっすぐな肩までの髪を眺 め、かたちのいい薄い唇を眺めた。 , 彼女のどこまでも深い黒い瞳を見た。そしてその瞼には
女の子の方がずっと美人だったのだが、僕が引かれたのは有紀子だった。それも理不尽なく らいに激しく引かれたのだ。それは僕が久しぶりに感じた吸引力だった。 , 彼女も啝星に住ん でいたので、僕らは旅行から帰ってきたあとも何度かデートした。会えば会うほど僕は彼女 が好きになった。 , 彼女はどちらかといえば平凡な顔だちだった。少なくとも行く先々で男が 言い寄ってくるというタイプではない。でも僕は彼女の顔だちの中にはっきりと「自分のた めのもの」を感じることができた。僕は彼女の顔が好きだった。僕は会うと、長いあいだじ っと彼女の顔を見つめていたものだった。僕はその中に見える何かを強く愛した。 「何をそんなにじっと見るの ? と彼女は僕に尋ねた。 「君が綺麗だからだよ」と僕は言った。 「そんなことを言ったの、あなたが初めてよ」 「僕にしかわからないんだ」と僕は言った。「でも僕にはそれがわかる」 最初のうち、彼女は僕の一一一一口うことをなかなか信じなかった。でもそのうちに信じるように よっこ。 僕らは会うと一一人でどこか静かなところに行っていろんな話をした。僕は彼女に対しては 何でも正直に素直に話すことができた。彼女と一緒にいると、この十年以上のあいだに自分 が失いつづけてきたものの重みをひしひしと感じることができた。僕はそれらの歳月をほと んど無駄に費やしてしまったのだ。でもまだ遅くはない、今ならまだ間に合う。手遅れにな
島本さんは小さく頷いた。見えるか見えないかというくらいの微かな頷きだった。それが 彼女に出来る最大の動作であるようだった。僕は彼女のコートのポケットを探した。そこに は財布やハンカチやキイホールダーについた幾つかの鍵が入っていた。でも薬はなかった。 1 ・バッグを開けてみた。バッグの内ポケットに薬の紙袋があり、そ それから僕はショルダ の中に小さなカプセルが四錠入っていた。僕はそのカプセルを彼女に見せた。「これでいし 彼女は目を動かさずに頷いた。 僕は車の背もたれを後ろに倒して彼女のロを開き、そこにカプセルをひとっ押し込んだ。 でも彼女のロの中はからからに乾いていて、とてもそれを喉の奥に押しやることはできなか った。僕は飲み物の自動販売機のようなものがどこかにないかとあたりを見回してみた。で もそんなものは見当たらなかったし、これからどこかに探しに行くような時間的な余裕もな かった。近くにある水気のものといえば雪だけだった。雪ならありがたいことにそのへんに いくらでもあった。僕は車を下りて、軒下に固まっている雪の汚れてなさそうな部分を、島 本さんのかぶっていた毛糸の帽子の中に入れて持ってきた。そしてそれを少しずつ自分のロ に含んで溶かした。溶かすのに時間がかかったし、そのうちに舌先の咸見がなくなってきた が、そうする以外に何の方法も思いつけなかった。それから僕は島本さんのロを開け、水を ロ移しに移した。移し終わると彼女の鼻をつまみ、その水を無理に呑み込ませた。彼女はむ
わかった。それはイズミ以外の誰でもありえなかった。そこにいたのは僕が一一十年も前に抱 いた女だった。それは僕がはじめて口づけをした女だった。僕が十七歳の秋の昼下がりにそ の服を脱がし、ガ 1 ドルの靴下どめをなくしてしまった女だった。一一十年という歳月がどれ だけ人を変えたとしても、その顔を見間違えることはなかった。「子供たちは彼女のことを怖 がるんだよ」と誰かが言った。それを聞いたとき、僕にはその意味が掴めなかった。その言 葉が何を伝えようとしているのか、うまく呑み込むことができなかった。でも今こうしてイ ズミを前にすると、僕には彼が言わんとしたことをはっきりと理解することができた。彼女 の顔には表情というものがなかったのだ。いや、それは正確な表現ではない。おそらく僕は こう一一一一口うべきだろう。彼女の顔からは、表情という名前で呼ばれるはずのものがひとっ残ら ず奪い去られていた、と。それは僕に家具という家具がひとっ残らず持ち出されてしまった 西あとの部屋を思い起こさせた。 , 彼女の顔には感情のかけらすら浮かんではいなかった。まる 陽で深い海の底のように、そこでは何もかもが音もなく死に絶えていた。そして彼女はその表 情のかけらもない顔で、僕をじっと見つめてした。彼 ) ' 女はおそらく僕を見つめていたのだと 南 思う。すくなくともその目はまっすぐ僕の方に向けられていた。でも彼女の顔は僕に向かっ の 境て何も語りかけてはいなかった。もし彼女が僕に何かを語ろうとしていたのだとすれば、彼 女が語りかけていたものは果てしのない空白だった。 僕はそこに呆然と立ちすくんだまま、一 = ロ葉というものを失っていた。僕はただ自分の体を
の の 「彼女はあまり自分から音楽を聴かないんだ。僕が聴いていればそれを一緒に聴いている。 でも自分からはレコードをかけるようなことはほとんどない。たぶんレコードのかけかたも 知らないんじゃないかと思う」 彼女はカセット・テープのケースに手を伸ばして、そのいくつかを手にとって眺めてい た。その中には娘たちと一緒に歌うための子供の歌のカセットもあった。『犬のおまわりさ ん』とか『チューリップ』とかが入っているやつだ。僕らは幼稚園の行き帰りによくそれを かけて歌った。島本さんはスヌーピーの絵のラベルがついたそのカセット・テープを珍しそ うにしばらく見ていた。 それから彼女はまたじっと僕の横顔を見た。「ハジメくん」と彼女は少しあとで言った。 「あなたが運転しているのをこうして横で見ていると、私ときどき手を伸ばしてそのハンド ルを思い切りぐっと回してみたくなるの。そんなことをしたら死んじゃうでしようね」 「まあ確実に死ぬだろうね。 130 キロは出ているからね」 「私と一緒にここで死ぬのは嫌 ? 「そういうのはあまり素敵な死に方じゃないな」と僕は笑って言った。「それにまだレコード だって聴いてない。僕らはレコードを聴きにきたんだろう」 「大丈夫よ。そんなことしないから」と彼女は言った。「ただちょっとそういうことを考えて みるだけ。ときどき」
て何度もあるじゃない。言われたとおりに適当にやればいいって。だから今回も私はそうし たのよ。お父さんは一時間でも早く買った方がいいって言ってたから、私は言われたとおり にしたのよ。あなたはプールに行ってて連絡がっかなかったし。それが何かいけなかった ? 「まあいいよ、それは。でも今朝買ったぶんはそのままぜんぶ売ってくれないか」と僕は一 = ロ 「売る ? 」と有紀子は言った。そして何かまぶしいものでも見るみたいに、目を細めて僕の 顔をじっと見た。 「だから今日買ったぶんは全部売り払って、また銀行の定期に戻せばいい 「でもそんなことしたら株の売買の手数料と、銀行の手数料だけでずいぶんの損になっちゃ うわよ」 「かまわない」と僕は言った。「手数料なんて払えばいいんだ。損をしてもかまわないよ。だ からとにかく今日買ったぶんはそっくり全部売ってくれ」 有紀子はため息をついた。「あなた、この前お父さんと何かがあったの ? 何か変なことに かかわったの、お父さんのことで」 僕はそれには返事をしなかった。 「何かがあったのね ? 」 「ねえ有紀子、正直言って僕はこういうのがだんだん嫌になってきたんだ」と僕は言った。
188 「お前はどうだい。一一人の娘はどっちも同じくらい好きかい ? 「同じくらい好きですね」 「それはまだ小さいからだよ」と義父は言った。「子供だってもっと大きくなると、こっちに もだんだん好みというものが出てくる。あちらにも好みは出てくるけれど、こっちにだって 出てくる。それはお前にも今にわかるよ」 「そうですか」と僕は言った。 「俺は、お前にだから一一一一口うけど、三人の子供の中では有紀子がいちばん好きなんだ。他の子 には悪いと思うけど、それはたしかなんだ。有紀子とは気が合うし、信用できる」 イは頷いた。 「お前には人を見る目があるし、人を見る目があるというのは、ものすごく大きな才能なん だよ。その目をいつまでも大事にした方がいい。俺自身はくだらん人間だけれど、くだらん ものだけを生み出しているわけじゃないんだ」 僕はかなり酔っぱらった義父をメルセデスに乗せた。彼は後部席に座ると、脚を開いてそ のまま目を閉じた。僕はタクシーを拾って家に帰った。家に帰ると有紀子が父親と僕とがど んな話をしたのか聞きたがった。 「たいした話なんて何もなかったんだよ」と僕は言った。「お父さんはただ誰かと一緒に酒が 飲みたかっただけさ。ずいぶん酔ってたみたいだけど、これから会社に帰ってちゃんと仕事