わかった。それはイズミ以外の誰でもありえなかった。そこにいたのは僕が一一十年も前に抱 いた女だった。それは僕がはじめて口づけをした女だった。僕が十七歳の秋の昼下がりにそ の服を脱がし、ガ 1 ドルの靴下どめをなくしてしまった女だった。一一十年という歳月がどれ だけ人を変えたとしても、その顔を見間違えることはなかった。「子供たちは彼女のことを怖 がるんだよ」と誰かが言った。それを聞いたとき、僕にはその意味が掴めなかった。その言 葉が何を伝えようとしているのか、うまく呑み込むことができなかった。でも今こうしてイ ズミを前にすると、僕には彼が言わんとしたことをはっきりと理解することができた。彼女 の顔には表情というものがなかったのだ。いや、それは正確な表現ではない。おそらく僕は こう一一一一口うべきだろう。彼女の顔からは、表情という名前で呼ばれるはずのものがひとっ残ら ず奪い去られていた、と。それは僕に家具という家具がひとっ残らず持ち出されてしまった 西あとの部屋を思い起こさせた。 , 彼女の顔には感情のかけらすら浮かんではいなかった。まる 陽で深い海の底のように、そこでは何もかもが音もなく死に絶えていた。そして彼女はその表 情のかけらもない顔で、僕をじっと見つめてした。彼 ) ' 女はおそらく僕を見つめていたのだと 南 思う。すくなくともその目はまっすぐ僕の方に向けられていた。でも彼女の顔は僕に向かっ の 境て何も語りかけてはいなかった。もし彼女が僕に何かを語ろうとしていたのだとすれば、彼 女が語りかけていたものは果てしのない空白だった。 僕はそこに呆然と立ちすくんだまま、一 = ロ葉というものを失っていた。僕はただ自分の体を
ったんだよ。でもこれだけは言える。あの子はもう可愛くはないよ」 僕は唇を噛んだ。「どういう風に可愛くないんだろう」 「あのマンションの子供たちの多くは彼女のことを怖がっているんだ」 「怖がっている ? , と僕は言った。僕はよくわけがわからなくて、彼の顔をじっと見た。こ の男は一一 = ロ葉の選び方を間違えているのだ、と僕は思った。「どういうことだよ。その怖がって いるっていうのは ? 」 「ねえ、この話は本当にもうやめよう。そもそも言いだすべきじゃなかったんだ」 「彼女は子供たちに何か一 = ロうのかな ? 「彼女は誰にも何も言わないんだよ。さっきも言ったようにさ」 「じゃあ子供たちは彼女の顔を怖がるわけかい ? 」 西「そうだよ」と彼は言った。 陽「何か傷でもあるのか ? 」 太 「傷はない」 南 「じゃあ何が怖いんだ ? の 境彼はウイスキーを一口飲んで、それをそっとカウンターの上に置いた。そしてしばらくじ っと僕の顔を見ていた。彼は少し困っているようでもあったし、迷っているようでもあった。 でもそれとは別に、彼の顔には何かとくべつな表情が浮かんでいた。僕はそこに高校時代の
も何度も新聞の同じ記事を繰り返して読んでいた。 ずいぶん長い時間が経過してから、彼女は何かを決心したように席をさっと立って、僕の 座ったテープルに向かってやってきた。それはあまりにも唐突な動作だったので、僕は一瞬 彼女は僕のテ 心臓が停まりそうになった。でも彼女は僕のところに来たわけではなかった。 , ープルの脇を通り過ぎ、そのまま戸口の近くにある電話のところに行った。そして小銭を入 れて、ダイヤルを回した。 電話は僕の席からそれほど遠くないところにあったが、まわりの人々の話し声がうるさか ったし、スピーカーは賑やかなクリスマス音楽を流していたので、僕には彼女の声を聞き取 ゝ ' 女のテープルに置 ることはできなかった。 , 彼女はずいぶん長いあいだ電話をかけてした。彼 かれたコーヒーは手もつけられないまま冷めていった。隣を通り過ぎるときに、僕は正面か らその顔を見たわけだが、それでも僕には彼女が島本さんなのかを断一 = ロすることはできなか った。かなり濃い化粧をしていたし、おまけにその大きなサングラスは顔の半分近くを覆い 隠してした。彼 ) ' 女は眉をベンシルでくつきりと引いて、鮮やかな赤に塗った細い唇をきゅっ と噛みしめていた。そしてなにしろ僕が最後に島本さんを見たのは、我々がどちらも十一一歳 のときだったのだ。それはもう十五年以上前のことだった。その女の顔だちは島本さんの少 女時代の顔を漠然と思い出させないでもなかったが、まったくの別人だと言われれば、ある いはそのとおりかもしれなかった。僕にわかるのは、彼女がとても顔だちのいい二十代の女
女の子の方がずっと美人だったのだが、僕が引かれたのは有紀子だった。それも理不尽なく らいに激しく引かれたのだ。それは僕が久しぶりに感じた吸引力だった。 , 彼女も啝星に住ん でいたので、僕らは旅行から帰ってきたあとも何度かデートした。会えば会うほど僕は彼女 が好きになった。 , 彼女はどちらかといえば平凡な顔だちだった。少なくとも行く先々で男が 言い寄ってくるというタイプではない。でも僕は彼女の顔だちの中にはっきりと「自分のた めのもの」を感じることができた。僕は彼女の顔が好きだった。僕は会うと、長いあいだじ っと彼女の顔を見つめていたものだった。僕はその中に見える何かを強く愛した。 「何をそんなにじっと見るの ? と彼女は僕に尋ねた。 「君が綺麗だからだよ」と僕は言った。 「そんなことを言ったの、あなたが初めてよ」 「僕にしかわからないんだ」と僕は言った。「でも僕にはそれがわかる」 最初のうち、彼女は僕の一一一一口うことをなかなか信じなかった。でもそのうちに信じるように よっこ。 僕らは会うと一一人でどこか静かなところに行っていろんな話をした。僕は彼女に対しては 何でも正直に素直に話すことができた。彼女と一緒にいると、この十年以上のあいだに自分 が失いつづけてきたものの重みをひしひしと感じることができた。僕はそれらの歳月をほと んど無駄に費やしてしまったのだ。でもまだ遅くはない、今ならまだ間に合う。手遅れにな
ぎり駐車中の車でいつばいだった。一一百メートルほど進んだところにぎりぎり車一台駐車で きる場所をみつけて、そこに強引に車を入れ、彼女を見かけたあたりまで走って戻った。し かしもうそこには彼女の姿はなかった。僕は必死になってそのあたりを探してまわってみ た。彼女は脚が悪いのだ。そんなに遠くまで行けるはずがない、と僕は自分に言い聞かせた。 僕は人々を押し分け、道路を無理に横断し、歩道橋を駆け登り、高いところから道を行く 人々の顔を眺めた。僕の着たシャツは汗でぐっしよりと濡れていた。でもそのうちに、僕が 目にした女が島本さんであるはずがないということにはっと思い当たった。その女は島本さ んとは逆の脚をひきずっていたのだ。そして島本さんの脚はもう悪くない。 僕は頭を振り、深いため息をついた。僕は本並ョにどうかしている。まるで立ちくらみのよ うに、体から急速に力が抜けていくのが感じられた。僕は信号機にもたれかかり、しばらく 自分の足兀を見つめていた。信号が青から赤に変り、赤からまた青に変った。人々が通りを 渡り、信号を待ち、そして通りを渡った。僕はそのあいだずっと信号機の柱にもたれて息を ととのえていた。 ふと目をあげたとき、そこにはイズミの顔があった。イズミは僕の前に停まっているタク シーに乗っていた。その後部座席の窓から、彼女は僕の顔をじっと見ていた。タクシーは赤 信号で停車していて、イズミの顔と僕のあいだにはほんの一メートルほどの距離しかなかっ た。彼女はもう十七歳の少女ではなかった。でも僕にはその女がイズミであることが一目で
118 「ありがとう」と僕は言った。たぶん彼女は僕がここの経営者だということを知っているの だろう。「気に入ってもらえると嬉しいですね」 「ええ、すごく気に入ったわ」、彼女は僕の顔を覗き込むようにして、につこりと微笑んだ。 素敵な微笑みだった。唇がすっと広がり、目の脇に小さな魅力的な皺が寄った。その微笑み は僕に何かを思い出させた。 「演奏も素敵だし」と彼女はピアノ・トリオを指して言った。「ところで火はお持ちかし ら ? 」と彼女は言った。 僕はマッチもライタ 1 も持っていなかった。僕はバーテンダーを呼んで店のマッチを持っ てこさせた。そして彼女のくわえた煙草の先に火をつけた。 「ありがとう」と彼女は言った。 僕は正面から彼女の顔を見た。そして僕はそこでようやく気がついたのだ。それが島本さ んであることに。「島本さん」と僕は乾いた声で言った。 「思い出すのにけっこう時間がかかったのね」と彼女はしばらく間を置いてから、おかしそ うに言った。「ずいぶんじゃない。もう永遠にわかってもらえないのかと思ってたわ」 僕は長いあいだ、まるで噂でしか聞いたことのない極めて珍しい精密犠を前にしたとき のように、言葉もなく彼女の顔を見つめていた。僕の目の前にいるのはたしかに島本さんだ った。でもその事実を事実として呑み込むことができなかった。僕はそれまであまりにも長
は、ただの幻影に過ぎなかった。そこには一貫性もなければ、必然性もなかった。それはは りばての舞台装置のようなものに過ぎなかった。そこに存在する本並ョのものは、僕と島本さ んだけだった。 「島本さん」と僕は言った。「どこかに行って、一一人でこれを聴かないか」 「そうすることができたらきっと素晴らしいでしようね」と彼女は言った。 「箱根に僕の小さな別荘があるんだ。そこには誰もいないし、ステレオもある。この時間な ら車で飛ばせば一時間半で着ける」 島本さんは時計を見た。そして僕の顔を見た。「今から行くの ? 」 「そうだよ」と僕は一一一一口った。 彼女は何か遠くにあるものを見るときのように、目を細めて僕の顔を見ていた。「今はもう 西十時過ぎなのよ。これから箱根に行って帰ってきたらずいぶん遅くなるわよ。あなたはそれ 陽でもかまわないの ? 」 太 「僕はかまわない。君は ? 」 南彼女はもう一度時計に目をやった。それから十秒ばかり彼女は目を閉じていた。目を開け 、ゝ , 女は目を閉じているあいだ 国たとき、彼女の顔には何か新しい種類の表情が浮かんてした。彼 にどこか遠いところに行って、そこに何かを置いてから戻ってきたみたいに見えた。「いいわ よ。行きましよう」と彼女は一一 = ロった。
も音楽についても人生についても戦争についても叩についても、何一つ話さなかった。僕 らはただただ性交をしていただけだった。もちろん軽い世間話のようなことはしただろうと 思う。でもどんな話をしたのかほとんど思い出せない。僕が覚えているのは、そこにあった 細かい目一 ( 体的な事物のイメージだけだ。枕もとに置かれていた員見し時計、窓にかかってい たカーテン、テープルの上の黒い電話機、カレンダーの写真、床の上に脱ぎ捨てられた彼女 の服。そして彼女の肌の匂いと、その声。僕は彼女に何もたずねなかったし、彼女も僕に何 もたずねなかった。でも一度だけ僕は彼女と一緒にべッドに横になっているときに、ふと気 になってひょっとして君は一人っ子じゃないかと尋ねてみたことがあった。 「そうよ」と彼女は不思議そうな顔で言った。「私には兄弟はいないけれど、でもどうしてそ れがわかるの ? 」 「どうしてっていうこともないんだけど、なんとなくそんな気がしたんだよ」 西 の彼女はしばらく僕の顔を見ていた。「ひょっとしてあなたも一人っ子なの ? 」 太「そうだよ」と僕は言った。 南僕が彼女と交わした会話で記憶に残っているのはそれくらいのものだ。僕は気配のような 境ものをふと感じたのだ。この女はひょっとして一人っ子ではあるまいかと。 本当一に必要な場合をのぞいては、僕らは飲み食いさえしなかった。僕らは顔をあわせると 引ほとんどロも利かずにすぐに服を睇ぎ、べッドに入って抱き合い、交わった。そこには段階
284 辛うじて支えながら、ゆっくりと呼吸をしているだけだった。その時、僕は自分というもの の存在を木当に文字通り見失っていた。しばらくのあいだ、自分が誰かということさえ僕に はわからなくなってしまった。まるで僕という人間の輪郭が消滅して、どろどろした液体に なってしまったようにさえ感じられた。僕は何を考える余裕もなく、ほとんど無意識に手を のばして、そのガラス窓に触れた。そして僕は指先でその表面をそっと撫でた。その行為が 何を意味するのか、僕にはわからなかった。何人かの通行人が立ち止まって、驚いたように 僕の方を見ていた。でも僕はそうしないわけにはいかなかったのだ。僕はガラス越しに、イ ズミの顔のない顔をゆっくりと撫でつづけた。それでも彼女は身動きひとっしなかった。彼 彼女は死んでいるのだろうか ? いや、死んでいるわけじ 女はまばたきひとっしなかった。 , ゃない、と僕は思った。彼女はまばたきをしないまま生きていた。その音のない、ガラス窓 の奥の世界に彼女は生きていた。そして彼女の動かない唇は、限りのない虚無を語っていた。 やがて信号が青に変わり、タクシーは去っていった。イズミの顔は最後まで表情をなくし たままだった。僕はそこにじっと立ちすくんで、そのタクシーが車の群れの中に吸い込まれ て消えていくのを眺めていた。 僕は車を停めた場所に戻り、シートに身を落とした。とにかくここを離れなくてはいけな
所ではそういうものは求められてはいないんだ。経営する方にとっては礼儀正しくてこぎれ いな連中の方がずっと扱いやすい。それもそれでまた仕方ないだろう。世界じゅうがチャー ーカ 1 で満ちていなくてはならないというわけじゃないんだ」 彼女はカクテルのお代わりを注文した。そして新しい煙草を吸った。長い沈黙があった。 島本さんはそのあいだじっと何かを一人で考えているようだった。僕はべーシストが『エン プレサプル・ユー』の長いソロを続けているのに耳を澄ましていた。ピアニストが時折コー ドを小さく叩き、ドラマ 1 は汗を拭いて、酒を一口飲んでいた。常連のひとりが僕のところ にやってきて、短い世間話をした。 「ねえ、 ハジメくん」とずいぶんあとで島本さんは言った。「あなたどこか川を知らない ? 綺麗な谷川みたいな川で、そんなに大きくなくて、川原があって、あまり淀んだりせずに、 西すぐに海に流れ込む川。流れは早い方がいいんだけれど」 陽僕はちょっと驚いて島本さんの顔を見た。「川 ? 」と僕は言った。彼女がいったい何を言お 太 うとしているのか、僕にはよくわからなかった。島本さんの顔には表情らしいものは何も浮 のかんではいなかった。彼女の顔は僕に向けて何も語ろうとはしていなかった。彼女はずっと 境遠くにある風景を見るように僕を静かに見ていた。あるいは実際に、僕は彼女からずっと遠 彼女と僕とのあいだは、想 く離れたところに存在しているのかもしれないという気がした。 , 像もっかないほどの距離によって隔てられているのかもしれない。そう思うと僕はある種の