こういう親は相手に責任をとらせる。そのため相手の意志で寝たことにしようとする。 自分が相手にさせたいことを、相手自身の意志でしたことにしようとする。 どこまでも自分はいい親であることを一小しながら、子どもを思、つよ、つに操作しよ、つとし ている。 こうした操作はインテリの親に多い。教師の家庭に問題児が多いといわれるのは、この 種の操作が多いためであろう。 もちろん「寝る」ばかりではない。勉強をしてほしいというときも同じである。 「もうすこし、勉強したほうがいいんじゃないかな」という言い方をする。 頃をしながら、子どもを操作している。そして子どもが嫌いで、子ど 親は子どもにいい彦 もに意地悪な気持ちを持っているのに、子どもに好かれたい。 こういう親は子どもに「困った子ね 1 」と嘆きながらも、 . 自分の要求は通す。ずるい親 である。 神経症的傾向の強い人が、「お忙しいのはわかっていますが」とか「自分勝手なお願い なのは十分にわかっていますが」と言いながらも決して引き下がらないのと同じである。 相手にはあくまでも、 しい顔をしながら、身勝手な自分の要求を押し通そうとする。
のに必要な非一一一一口語的な部分には気が回らない。 そうした意味で不満があるということは心が閉ざされているということである。心に葛 藤があるとい、つことは心が閉ざされているとい、つことである こ関心かいっ 心に葛藤がある親は子どもの変化に気がっかない。自分の心の葛藤の解消 ( て、子どもには関心かいかないからである。 それに対して子どもをほめるのが上手な親というのは、常に子どもに関心を持っている。 関心があれば、「昨日できなかったあいさつが、今日はできている」といった変化にも気 づき、その成長を喜んで、ほめる。 だから子どもに関心のある親は子どもをほめる機会が増える。 人に関心を持ち、人を心からほめることは心理的に安定している人にして初めてできる ことである。 人をほめるときにもちろん嘘は意味がない。子どもでも嘘は感づいている。 心の底から相手をほめるためには、「相手をいつも見ている」「相手に関心がある」「相 手に愛情がある」「自分が満足している」の四つくらいが必要であろう。 そ、つ考えると子どもを心からほめることができたときには、そ、つい、つ自分に感謝するこ とである。 200
「あなたのためにしてあげた」という感情こそ人間関係を悪くする最大の要素である。恋 愛関係であろうと、親子関係であろうと、仕事の上司と部下との関係であろうと、この感 情があると関係はこじれる。 「あなたのために」はまず嘘である。自分が嫌われたくないからというのがたいていの場 合は真実である。 本当に「あなたのために」している人は「あなたのために」とは言わない 自分を持っていない人は無理をして相手に尽くす。そして感謝を要求する。 子どもに不満を持っ親の共通点 高齢化社会になった今、歳をとってから孤独になって周囲の人を恨んでいる人がたくさ んいる。そのような人の中に「自分は人のために尽くして生きてきた」と信じている人が 「俺は自分勝手に生きてきた。と思っている人は孤独になっても人を恨まないだろう。 「勝手に生きてきた」のだから 、別に周囲の人々の態度が冷たくても、それに不満はない だろ、つ。 しかし、「人のために生きてきた」と思い込んでいる人が、周囲の人が冷たかったら恨
コリー親和型の人には「自分自身のためというありかたが不可能」であるという。「自分 ( 註四 ) 自身が自分の内容となることができない」という 息子がアメリカに移住してしまったある女性患者は「生活に内容がなくなってしまいま ( 註 ) した。誰も私を必要としないし、誰も私に相談してくれる人がいません」と言、つ 自分自身が空虚だから相手を喜ばそうとするのと、相手を愛するから相手を喜ばそうと するのでは違う。つまり自分自身が空虚だから相手を喜ばそうとするのは、喜ばせること で自分が満足しようとしているのである。 自分自身が空虚だから相手を喜ばそうとしているときには、相手が喜ばないと不満であ る。相手が自分の気持ちに応えてくれないと不満である。 それは「これだけ自分がしてあげているのに、その態度は何だ」という恨みの気持ちが 出るからである。相手が自分に感謝をしてくれないと面白くない。 したがってそういう人は、自分自身が空虚だから相手を喜ばそうとしているということ を自覚していないといつも不満になる。残念ながらそれを自覚している人はほとんどいな い。だからみんな、人を恨んでいるのである。 相手を愛しているから相手を喜ばせようとしているときには、その恨みの気持ちはない。 メランコリ 1 親和型の人の対人関係が「相手に尽くす」ことを通して実現するというと、
が、人に尽くすのは、一人になることへの恐れから出ている行為ではないかと思っている 一人になることの恐れとは、他ならぬ見捨てられることの不安である。 「人の気持ちを傷つけるようなことを言わないように、何回も何回も考えてみます」とい うのも同じように、見捨てられる不安があるからである。相手の気持ちを傷つけたら見捨 てられると思、つからである。 こういう人は相手の気持ちを傷つけないよう気を配りながら、結果として普通の人より も相手の心を傷つける。それは相手と心がふれていないからである。 彼らか対人関係で常に緊張するのは、相手を喜ばせることに常に自信があるわけではな いからである。うまく喜ばせることができるかどうか不安なために緊張をするのである 逆に相手を傷つけはしないかと恐れるのである。 言そのような不安と緊張に包まれているのがメランコリ 1 親和型の人の対人関係ではなか る 縛ろ、つか 子子どもを喜ばせようとする親の弱点 意 相手を喜ばそうとする心理の弱点は、相手の機嫌が気にかかるということである。相手 無 5 が喜ぶことで自分の存在を感じる。 ( 註肥 ) 169
立派なようであるが、実は自己喪失ということにすぎない。 そして「尽くす」ことの裏側にはきわめて深刻なメッセージが隠されている。喜んでく れ、感謝してくれ、楽しくしていてくれ等々、相手の気持ちに対するさまざまな要求であ る。 努力が報われない子育て メランコリー親和型の人は一人では生きられないから相手に尽くす、奉仕する、喜ばせ ようとする。そうなると心の底ではどうしても「尽くす」ことを通して相手を縛ろうとす ることになる。無意識の領域においては相手にしがみついているのである。 ( 註引 ) このことをテレンバッハは自己中心的な対人配慮と述べている。つまり相手を喜ばせ 言ようとするのだけれども、相手のことを考えているわけではない。相手が自分に何を期待 縛しているかを理解しているわけではない。 情緒的未成熟な母親が自分の子どもに尽くしていることを「自己中心的な対人配慮」と 子 理解できれば、不満は少なくなる。母親がこのように自分を知ることがどれほど親子のた 意 めになるかわからない 無 この「自己中心的な対人配慮」は、相手が優しい言葉を期待しているのに、相手に宝石 167
こういうことを一一一口う人は決して相手をサポートしていない。逆に搾取している。 搾取しているというのは、こういうことを一一一口うことによって自分の心のキズを癒してい るとい、つことである。 言われた相手は不愉央になる。言われたほうが傷つく。不愉央にさせられた上にお礼を 言わなければならない。だから言ったほうは心理的に言えば、相手から搾取しているとい うのである。 ひそして何よりもこうした「善意の押しつけをする人は楽をしている。 す こういう人は相手が何を求めているかがわからないばかりではなく、もし相手が求めて 気いることがわかっても、それはしない。相手が求めていることをするのはエネルギ 1 かい る やるからである。 こ、つい、つ人は「やる、やる」と言いながらいざとなったらしない。 ひ る よくありがた迷惑といわれるものがこれである。頼まれもしないことをしておいて、 「どれだけあの人のために犠牲になったか」と言う。 気 る こういう人は実は自分のしたいことをしておいて、相手に感謝を要求しているのである。 や 1 だから搾取なのである。 103
( 註 % ) あいではなく、果たすべき務めであるとテレンバッハは一言う。 それは性の営みにおいてさえ、それは相手に対する果たすべき務めと解釈される。メラ ンコリー親和型の人は性行為ですら相手を喜ばせようとする行為で相手の人格を肯定する ものではないとテレンバッハは一一一一口、つ。 ある鬱病者の性行為について、マトウセックらの学者の解説の言葉として次のような言 特禾が『メランコリ 1 』に載っている。性行為は「それによって妻を満足させなければなら ないという愛の仕事ーである。 皮らは相手を ~ 暑ば 性行為が楽しければ性行為は相手を喜ばすための仕事にはならない。彳 すことによって自分の存在を確認しようとするのである。 : 心理的に解放され メランコリー親和型の人は自分の行為で自分の存在を確認できなし 言ていれば性行為は相手を喜ばすための仕事にはならない。自分が自分であることを許され る 縛ていれば性行為は相手を喜ばすための仕事にはならない。 い」 子 他人を喜ばせることが彼らに満足感をもたらす。「他人に奉仕でき、他人を喜ばせるこ ( 註 ) 意 とができれば、満足感が感じられる」。 無 それまでは、 ししか、メランコリ 1 親和型的な人には自分の喜びというのがない。メラン
あいづち次第で子どもはどんどん話し出す 話し方の本などによく「相手の話にあいづちを打て」と書いてある。その通りだろう。 ではなぜ「なるほどー とか「そうなのー」とか言うことが会話で大切なのか。それは あいづちが相手を刺激して相手がうれしくなり、もっと理解してもらおうと優しく話し出 すからである。 話している人は、誰でも相手の反応が欲しい。あいづちは反応である。 また話し方の本などには三十分とか四十分とか相手の話を聞いた後でそれを簡単にまと めろと述べているが、それはわざとらしい それよりも「面白かった」とか「心地よかった」とかの一言の方がいいだろう。 そうした反応でお互いに気持ちが通っていることを確認できる。 楽しい親子の会話が「ふれあいの心」を育む 230
そうなると母親は不満に心を囚われて、子どもが言わんとしていることは何かというこ とに気がっかなくなる。 それは子どもが成長して自我が目覚めてきたということでもあるから、親には辛いこと であるが、ある意味では喜ばしいことでもある。しかしとてもそんなことと理解する心理 的余裕はない。 そこで子どもに不満をぶつける。事態は悪くなるだけである 「反抗期は子どもがくれたスキンシップの絶好のチャンスーと言う人もいるが、とてもそ 方 えれだけの心理的ゆとりはない。情緒的に成熟し、楽天的な母親ならそう思えるが、現在の 云 既情緒的未成熟な母親には子どもの反抗期は面白くないことばかりである。 家族関係の変化に気がっかない親たちは、こうして家族を陰鬱なものにしてしまう。 る 人は不満なときには相手のことに気がっかない。相手に対する不満ばかりが心を占領し て てしまい、相手が何を言おうとしているかには気がっかない。 カ 自分のことをわかってくれないという不満がある。するとその不満に心を奪われてしま る 相手が言っていることの微妙なニュアンスなどには気がっかない。相手の言い方の音 生 調とか、ちょっと不満げな顔とか、あるいは真剣なまなざしとか、相手を正しく理解する网 とら