つまり基本的欲求が満たされていないのに、満たされているとして行動せよということ である。 なかす お腹が空いているのに、お腹がいつばいだとして行動するということだからきついのは 当然である。 愛情欲求がどのくらい激しいものかは普通の人の想像をはるかに超えるものである。だ れでもます自分の愛情欲求を満たそうとする。人は自らの愛情欲求が満たされていないと きにはます自らの愛情飢餓感から行動してしまう。 ひそして何よりもここで注意しなければならないことは、愛情飢餓感がある人は相手を理 す く解できないということである。相手を理解するのは愛情飢餓感がなくなってからである。 を つまり愛情飢餓感がある親は、子どもを理解することはできない 気 る や 親になるということは相手に何かを求めることではなく、与えることの喜びを味わえる ひ る 人間になることである。「あれをしてー」「これをしてー」というのではなく、子どもがそ 、ついうわがままを一言、つことに対して、それを満足させてあげる立場になるということが親 気 る になることである。 や 親の立場は「俺はもっと遊びたいよー」と一一一口うのではなく、子どものそういう要求を叶 言 かな 111
「あなたのためにしてあげた」という感情こそ人間関係を悪くする最大の要素である。恋 愛関係であろうと、親子関係であろうと、仕事の上司と部下との関係であろうと、この感 情があると関係はこじれる。 「あなたのために」はまず嘘である。自分が嫌われたくないからというのがたいていの場 合は真実である。 本当に「あなたのために」している人は「あなたのために」とは言わない 自分を持っていない人は無理をして相手に尽くす。そして感謝を要求する。 子どもに不満を持っ親の共通点 高齢化社会になった今、歳をとってから孤独になって周囲の人を恨んでいる人がたくさ んいる。そのような人の中に「自分は人のために尽くして生きてきた」と信じている人が 「俺は自分勝手に生きてきた。と思っている人は孤独になっても人を恨まないだろう。 「勝手に生きてきた」のだから 、別に周囲の人々の態度が冷たくても、それに不満はない だろ、つ。 しかし、「人のために生きてきた」と思い込んでいる人が、周囲の人が冷たかったら恨
子どもが喜ぶことで自分の存在を感じる母親は子どもとの関係が薄い。そこで子どもが 喜ばないと子どもに対し不満になる。 子どもを愛しているから、子どもが喜ぶ姿に幸せを感じる母親は子どもへの要求がない。 子どもが喜ばなくても子どもに対し不満にはならない 自分のない親は子どもがいつも機嫌よくしていないと不安になる。不満にもなる。 子どもを愛しているから喜んでいる顔を見たいというのと、喜んでいる顔を見ることで 自分という存在を感じようというのとでは、まったく心理が違う。 前者は情緒的に成熟している母親で、後者は情緒的に未成熟な母親である。 親子関係でなくても、自分のない人は同じである。ビジネスマンでも同じである。取引 先の相手が機嫌よくしていないまま別れると、そのことが気になってそれ以後の仕事など が手につかない。 そこで母親であれ、ビジネスマンであれ、情緒的未成熟な人は、相手と一緒にいる間も 相手に対する要求が出てくる。相手がいつも機嫌よくしていてもらいたいという期待が相 手に対する要求に変化する。「機嫌よくしていろ」という要求である。 この要求は相手にしてみれば押しつけがましく感じる。実際に機嫌がよくないときなど は「ほうっておいてほしい」という気持ちになる。
別の味覚を持った人間であることが認識できない 自分が子どもを必要としている親、つまり愛情飢餓感の強い親は子どもの自立への要求 ばんのう に鈍感である。だからよく言われるように「子煩悩と子どもを理解していることは別」な のである。 がっち 子どもを分裂病などに追いやるような母親は「子どもの要求のうち自分の要求と合致し たもののみを認知する」と言われる。自分が子どもと旅行に行きたければ子どもが旅行に 言行きたいという気持ちを認知できる。自分が子どもを有名校に進学させたければ子どもの ひ進学希望を理解できる。 す 先に書いたように自分が子どもと一緒にいたければ、子どもが自分と一緒にいたいとい 気う気持ちは認知できる。 る や しかし自分の中にない気持ちが子どもの中にあっても気がっかない。 だから子どもの中の自立への要求は認知できない。子どもが親と一緒に旅行するより仲 A 」 ひ る間と一緒に旅行したくなってもそれは認知できない。 そして子どもと一緒に旅行に行って素晴らしい親子関係と錯覚する。そのような関係を 気 る 「偽相互性」という。つまり子どもの自立性の犠牲の上に成り立っ関係である。 や よく言われるプロクラステスの寝台である。寝台よりその人が長ければ切って殺してし
こういう親は相手に責任をとらせる。そのため相手の意志で寝たことにしようとする。 自分が相手にさせたいことを、相手自身の意志でしたことにしようとする。 どこまでも自分はいい親であることを一小しながら、子どもを思、つよ、つに操作しよ、つとし ている。 こうした操作はインテリの親に多い。教師の家庭に問題児が多いといわれるのは、この 種の操作が多いためであろう。 もちろん「寝る」ばかりではない。勉強をしてほしいというときも同じである。 「もうすこし、勉強したほうがいいんじゃないかな」という言い方をする。 頃をしながら、子どもを操作している。そして子どもが嫌いで、子ど 親は子どもにいい彦 もに意地悪な気持ちを持っているのに、子どもに好かれたい。 こういう親は子どもに「困った子ね 1 」と嘆きながらも、 . 自分の要求は通す。ずるい親 である。 神経症的傾向の強い人が、「お忙しいのはわかっていますが」とか「自分勝手なお願い なのは十分にわかっていますが」と言いながらも決して引き下がらないのと同じである。 相手にはあくまでも、 しい顔をしながら、身勝手な自分の要求を押し通そうとする。
実は本当に他人の世話をできる人というのは、「自分自身のために」というあり方がで きる人なのである。「他人のために」というあり方しかできない人は、どんなに他人に配 慮しても結局自己中心的配慮しかできない 他人のことを考えているようで結局は他人の中に自己同一性を求めているだけである。 先に書いたように、子どもを喜ばせることで満足感を得るような親は子どもの教育がで きない。子どもを喜ばせることができるなら、何でも子どもの要求を聞いてしまう。 子どもがやりたいことに対して「いけない」と一一一一口うことができない。 それは指導者一般にも当てはまる。他人を喜ばせることで満足感を得るような人にはリ 1 ダーシップがない 1 ダーシップはときに相手に苦難を要求する。 恩着せがましい人と「あなたさえ幸せなら」と一言う人に共通していることはもう一つ、 行動かないとい、つことである。 彼らには安らぎがない。彼らは相手の話を聞かない。 そういう母親は自分の心の葛藤を解決することに夢中で、人の話など聞いていられない のだろ、つ。 174
存在ですーと信じることを要求した。要求したというよりも操作した。私が成功しないと 許さないし、自分が無能と信じないと許さないのである。 私は世間には自できる息子でなければ許されないし、家ではダメな子どもとして親が することに恩を着ないと許されない イヌでいえばこうなる。イヌの品評会で一等にならないと主人はそのイヌを怒る。しか し家に帰ったらそのイヌを働かせる。イヌを飼うのは重荷だと、恩着せがましいことを一言 ってイヌを働かせる。大げさにいえばイヌは死ぬしかない これも何かすごいことを書いているように感じる人もいるかもしれないが、別に世の中 ではそれほど特別なことでもない。 世の中には親から出世を強要されながら、価値観として出世を否定されて成長している 人もいる。それが二重東縛というものである。 インテリの親がする子どもいじめである。 「人の心の痛みのわかる人間になれ」と一方で言う。他方で、「競争社会に勝ち残るエリ ートになれ」と言、つ。 私は働き者だった。たとえば小さい頃から家の庭も、家の前の道路も一人で掃除した。
たとえば何かを子どもが書いたときに「わ 1 、きれいに書いてくれたわねー」と言うと、 子どもは、もっときれいに書こうとして、も、つ一度書き直すことがある。それくらい「く れたわねー」という、恩に着る言葉が子どもにはうれしいのである 何事であれ「こんなにもしてくれたの」とほめられると子どもは「もっと頑張ろう」と いう気持ちになる。それほど子どもは親から感謝されることがうれしい 音読が子どもの成長に望ましいという。脳の発達にも良い刺激になるという。そこで子 どもに音読させよ、つとする親が増える。しかし、つまくいく場合と、つまくいかない場合があ 言 ひる す どこが違、つのだろ、つか 気「お母さんに聞かせてね、と言われる子どもと、「声に出して読みなさい」と言われる子 やどもの違いである。「お母さんに聞かせてねーと、子どもの音読を恩に着て、喜ぶ親の気 言持ちで子どもは伸びる。 ひ したがって逆に「たったこれだけ ? と言われるとものすごく不満になる。ふくれる。 る 子どもが精一杯して得意になって、「ほめてもらえる」と思っている。 気 る しかしそれは親の要求の半分にも満たない。そうするとどうしても「たったこれだけ や となってしまう。親の要求が多ければこうなる
はっきりと親の意見を伝えることの大切さ 「あの子と遊んではいけません」と一一一口う母親は、よい悪いは別にして自分の意志を持って いるし、それをきちんと示している。子どもには布い存在かもしれないが、母親は自分の 意志はあるし、一小している。 それに対して「何であんな子と遊ぶんだ ? 」とか「どうしてあの子と遊ぶんだ」と言う 親がいる。決してハッキリと自分の要求を言わない。 葉 頃をしながら、親 親は子どもから嫌われるのが怖いのである。あくまでも子どもにいい彦 は自分の要求を通そうとする。こういう親は子どもとは気持ちがふれあっていない。孤独 レ」 衂な親である。 それならまだいいが、 「あの子と遊ばないほうがいいわよ」という言い方をする母親が で いる。自分が「あの子」と遊んでほしくないのに、子どものために「あの子ーと遊ばない ほ、つ , 刀しし とい、つ一言い方をする あ て また「あの子、イヤな子ね。という母親がいる。子どもはあの子と遊びたい自分の気持 し 、つ どちを否定されている。だから「あの子、イヤな子ね」という言葉を聞くと子どもは自分が 拒絶された気持ちになる。 133
神経症的「いい子、は「大丈夫です ! , と言うに決まっている。そう言わなければなら 。「ママの それは「ママのこと好き ? と聞く母親と同じである。これは会話ではない こと嫌い」とは言えない。「好き」と言いなさいという要求が言葉の裏に隠されている。 教育学者のニールに言わせれば、「ママのこと好き ? と聞く母親は最低の母親である。 「勉強大丈夫 ? 」と聞く母親の言葉の裏には「勉強しなさい、という要求が隠されている。 そして「勉強大丈夫 ? と聞くことで子どものことを心配しているように見える。しか 育し、実は自分が不安なだけである。親は自分が不安だから子どもに聞いている。 を それは決まった答えを期待しているということである。 の あ れ もう少し具体的に言えば、試験の後に「何点だった ? 」と聞かれたときに子どもはドキ ふ ッとする。本来子どもを評価しないのが母親なのだが、母親も先生と同じように自分の評 話 会 の価をすると子どもは田 5 、つ。 親それに加えて「あの子は、何点とったの ? 」と聞かれれば、「あの子に勝たなければ」 し A 」「十い」 , もは田 5 、つ 楽 マンの夫に「給料上がった ? 」とか「課長になれた ? 」とか聞 これは奥さんがサラリー