国士無双 家が貧しく、職もなく、ぶらぶらと一日一日を過している。金もないから人を頼って寄食する。や ることもないから釣りでもして時間をつぶす。 こんな状態だから、みんなから馬鹿にされ、いやがられていた男があった。 ある時、例によって釣りをしていた。そこにいた洗濯婆さんの一人が、何日も食べていないような あわれな様子に、食物を与えてくれ、それが数十日に及んだ。男は、ありがたいと思ったから「将来 かならずお礼をします」というと、その婆さんは怒って、 「堂々たる男子が飢えている様子がなんともあわれで、だからしたんだ。お礼なんかしてもらおうと も思ってないよ」 とさつば また、屠殺場で働いていたある若者は、いつもこの男を馬鹿にしていた。 おくびよう 「おい臆病者、でかい体に刀はさしているが、何もできないんだろう。できるものならその刀でおれ を刺し殺してみろ。死にたくなかったらおれの股の下をくぐってみろ」 うらっ この男、放埓な生活はしているが、何か志すものがあったのであろう。ぐっと歯をくいしばり、四 つん這いになって股くぐりをしてしまった。見ていた大勢の人たちは、皆が皆、臆病者、卑怯者、馬 鹿者とあざけり笑ったという。 ばか また ばあ ひきょ - っ
こすで 此れ已に常の身に非ず 地に落ちて兄弟と為る しん 何ぞ必ずしも骨肉の親のみならんや まさ 歓を得ては当に楽しみを作すべし びりんあっ 斗酒もて比鄰を聚む 盛年重ねて来たらず あした 一日再び晨なり難し 時に及んで当に勉励すべし 歳月は人を待たず へた 人のいのちには、しつかりとつなぎとめる根や蔕はなく、人生は飛ばされて風にただよう路上の塵 のように、定めなきものである。 しかし、だからこそ飛ばされて集まり合ったもの同士が、兄弟であり、人間は孤独の存在ではない のである。むしろ近所の者が集まって、酒をくみかわして楽しむべきものなのである。 元気ざかりの若い時代は二度とくるものではない。一日に二度の朝がおとずれないように。 だから、チャンスをのがさず、何ごとにつけても心ゆくまでやるべきだ。歳月は人を待っていては くれない。たちまち去ってしまうものである。 「勉励」は古来、勉強を怠らないことの意に解しているが、この詩句本来の意味からいえば、若い あら
まみ 一敗、地に塗れる ししようてい しん かんこうそりゅうにう 漢の高祖劉邦 ( 前二五六ー前一九五 ) は秦末、沛 ( 省沛県 ) の泗上亭の亭長をや 0 ていたが、驪山 の陵墓工事に従事する人夫を引率して北上する途中、多くの者が脱走したので、これでは驪山に着く う とうざん ころには一人もいなくなってしまうと解散を宣言、自分も逃走して芒山・陽山 ( 江蘇省山県 ) の山奥 にかくれた。 やがて陳勝らの蜂起が成功すると、各地の地方官たちが、バスに乗りおくれまいと相次いで挙兵し、 そうさんしゆり ・こくえん 反乱軍に加わった。沛公 ( 沛県の長官 ) もその一人である。しかし、獄掾 ( 獄吏 ) の曹参と主吏 ( 助役 ) の しようか 蕭何に、 「あなたはこれまで秦の役人としてやってきたのに、急に秦に反対して挙兵しようとしても、土地の 者たちがついてはきますまい。それよりも、秦に反対して逃亡した者たちを呼び集めたらどうですか。 多分、五、六百人は集まるはず。その上で土地の者に声をかければ、みなも嫌だとはいえますまい」 はんかい といわれ、樊に命じて劉邦を迎えにやった。樊喩が行ってみると、劉邦は山中で数百人の逃亡者 王の指導者とな 0 ていた。樊喩はそれを見てその場で劉邦の配下とな 0 た。樊喩が劉邦の部隊を案内し 統てくると、沛公は劉邦に城を乗っ取られるのではないかと恐れ、城門を閉じると同時に、曹参・蕭何 も一味ではないかと疑って殺そうとした。 度うき はい はい
おうせん おうふんぎ 軍王翦の子王賁が魏を滅ぼした。また、王翦が楚を破って楚王を捕え、前二二三年に滅ぼした。 せい 秦からもっとも隔たっていた斉も、前二二一年、ついに王賁の攻撃をうけて滅び、秦の天下統一は 完了したのである。 風蕭蕭分易水寒、壮士一去分不復還。 ( 『史』刺客列伝 ) 旁若無人。 ( 同 ) じんけんま しやこくう 車轂撃ち、人肩摩す 戦国諸国の富国強兵策は、それぞれの都を繁栄に導いた。 せい なかでも、斉の都臨滔 ( 山東省臨涌県 ) の盛況には目を見張らせるものがあった。 そしん 蘇秦の説くところによれば、城内には七万戸があり、一戸に三男子としても、二十一万の兵卒があ はなは すどろくけまり ることになる。城内は甚だ富み栄えて、人々は楽器をならし、闘鶏、ドッグレ 1 ス、六博、蹌鞠を楽 とい しみ、「臨滔の途は、車轂撃ち、人肩摩す」ーー車のこしきはすれあい、人の肩はふれあう とばり う雑沓ぶりで、人々が衽をつらねると帷のよう、袂をあげれば幕のよう、汗をふるいあうと雨のよう、 といったありさまであった。 さいわい近年、春秋戦国時代の臨滔が発掘されているので、その概略を示そうつ ざっとう みち りんし えり さんとう そ たもと ( 小岩井弘光 )
274 からず。 と述べた。宦官が皇帝を擁立した元勲として定策国老と自称し、皇帝を自分が引立てた天子という とうじよ ようふくきよう 意味で門生天子と呼んだ ( 昭宗のときの宦官楊復恭の故事。『唐書』巻二百八、楊復恭伝 ) とし、宦官の禍の 救うべからざるに至ったさまをのべたものである。 なお、唐代では科挙の試験を司る者を先生というのに対し、合格者を門生といい、官界で両者は深 く結びついていた。 自称定策国老、見天子為門生。 ( 『資治通鑑』巻二百六十一一 l) 一将功成って、万骨枯る かんがん ″甘露の変〃 ( 八三五年 ) によって、宦官の力がより強くなり、文宗が失意のうちに死ぬと、武宗 ( 在位八四〇ー八四六 ) がたった。 かいしよう 武宗は道教を尊信し、会昌五年 ( 八四五 ) 、仏教弾圧を行った。 " 会昌の排仏。といわれるもので、 ぬひ けい 大小寺院四万余を破壊、僧尼二十六万人を還俗、寺田数百万頃 ( 一頃は約一 ( クタ 1 ル ) ・奴婢十五万人 しじつがん ぶん ( 小岩井弘光 )
89 分裂動乱の時代 能く一字を増損 ( 添削 ) する者あらば千金を予えん。 と掲示したものだったが、以来、「一字千金」の一句で「一字だけで千金の値うちのあるすぐれた 文章」の意に用いるようになった。 前二三八年、成人に達した秦王政は、それまで秦の権力を一手に握っていた呂不韋の実権を奪って しよくしせん 親政に乗り出した。呂不韋はク 1 デタ 1 を計画したが失敗し、前二三五年、蜀 ( 四川省 ) へ移ること を命ぜられるに及んで毒を飲んで自らの命を断った。 奇貨可居。 ( 『史』呂不韋列伝 ) 有能増損一字者、予千金。 ( 同 ) 遠交近攻 范雎 ( または砒 ) は前三世紀の魏出身の縦横家の一人である。 はんしょ 彼はさらにこの書を秦の都成陽 ( 陝西省成陽市 ) の市門にならべ、 よ はんすい ぞうそん かんよう せんせい あた ( 小岩井弘光 )
免、投獄した。しかし、これは逆効果で、世論は批判者側に与したので、朝廷はやむなく彼らを放免 きんこ し、本籍地に帰して禁錮処分とした。帰郷した人々は清節の士とされ、清流派と称された。これを第 とら・こ 一次の″党錮の禁〃という。 清流派の官僚は霊帝の時 ( 一六九年 ) にも宦官打倒を企てたが、かえって宦官派の大弾圧をうけた。 これが第二次の″党錮の禁〃で、五、六百人が禁錮され、百人あまりが死刑に処せられるという惨事 となった。 りよう こうした清流派、つまり正義派官僚のリ 1 ダ 1 となったのが李膺 ( ? ー一六九 ) である。若手官僚は 彼の知遇をうけることを求め、彼の引見推挙をうけることを「登竜門」 ( 竜門を登る ) といった。 こうが この竜門とは黄河上流の峡谷の名で、その急流をのぼり切る魚があれば、たちまち竜になるという。 これから登竜門とは、後世、進士の試験 ( 官吏登用試験 ) に及第することを指すようになり、さらに今 日では立身出世の関門の意に使われるようになった。 どかんじよ 士有被其容接者、名為登竜。 尸 ( 『後漢書』李膺伝 ) 豺狼当路、安問狐狸。 ( 同、張綱伝 ) そうてん 蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし こうてん ( 小岩井弘光 )
しよう く 成王と、つぎの康王の二代は、さすがに平和が続いた。が、つづく昭王と穆王の頃から、早くもお とろえが見えはじめる。 その穆王の五代ののちが、厲王 ( 在位、前八七九ー前八四一 ) である。 ごうまん ぜいたく 厲王は贅沢ずきで傲慢な人物で、私利を求めることに熱心であった。厲王は、同じく利をもつばら けいし えい たいふぜいりよう にすることの好きな栄の夷公という者が気に入って、卿士 ( 宰相 ) にしようとした。賢明な大夫の ~ 内良 夫がこれを諫めたがきき入れず、けつきよく卿士に任ぜられた夷公は、いろいろな新税を案出して人 ひう 民を苦しめた結果、不満の声がしだいに高まった。これに対して厲王は巫をつかっておのれを誹謗す る者を告発させ、容赦なく殺したため、人民たちはあえて口を開かず、路上でたがいに目くばせをか わすだけであった。 しよう 王の側近の召公 ( 以前の召公の子孫で、名は虎 ) が心配して、 「民のロをふさいでも、彼らの不満が消えたわけではありません。ふさがれた水が決壊するとたいへ んな力で人や物を傷つけますが、民のロをふさいではそれ以上にたいへんなことになります」 せい 一沐三握髪、一飯三吐哺。 ( 『韓詩外伝』巻 lll) き一ようわ 共和 いさ れい みこ ころ ( 巨勢進 )
とうたわれているのによる。 「暴虎」とは虎に素手で打ちかかること、「馮河、とは大河を歩いて渡ることで、共に虎に噛み殺さ れ、水に溺れる危険がある無謀なことのたとえである。 せいしゅう この「小旻、の詩は、古い注釈によれば西周の末の幽王の時代に、心ある人がその悪政をなげいて うたったものであるという。 さすがに君側の謀臣も、「暴虎馮河」のように明らかに危険であると察せられる政治は行なってい ないけれども、眼の前の利益にのみ走り、それがやがて大きなわざわいとなることに気づかない。 「人、其の一を知 0 て、其の他を知らず」とは、世の人は物ごとの一面ーー「暴虎馮河」という判然と した危険が非であることーーは知 0 ていても、他の面、ー、判然とは察せられないより重大な危険 には気づかないものだ、との意である。 そこで心ある君子は、「戦々兢々」と恐れ慎み、深い淵にのぞんで落ちこむことを恐れるように、 また薄い氷を踏んで割れ落ちることを恐れるように、常に自分自身をいましめ慎んで、用心してかか らなければ、我が身の危険を招くことをのべているのである。 ろんごじゅっじ と、も 時「暴虎馮河」という成語は、「暴虎馮河、死して悔無き者は、吾与にせざるなり」 ( 『論語』述而篇 ) とい そうし 動う孔子のことばで人口に膾炙し、「戦《兢《、とそれにつづく二句は、孔子の弟子曾子の臨終のこと 分ばとして ( 『論語』泰伯篇 ) よく知られている。 この詩からは、標題にかかげた「戦々兢々 , のほかに、「暴虎馮河」、さらに危険感や緊張感をあら たいはく ゅう ふら
232 初めはとても狭く、人一人通るのがやっとであったが、やがて急に明るくうち開けたところに出た。 土地はひろびろと開け、家屋が立ち並んでいる。よく肥えた田地があり、水をたたえた池があり、茂 った桑畑や竹ゃぶがあった。田地のあぜ道はたてよこに走り、鶏や大の鳴き声があちこちから聞こえ こ 0 そうした中を行き来して耕作している男や女のなりふりは、まるで異国人のようであり、年寄りも 子供も皆なごやかに楽しげな顔つきをしていた。村びとたちは見知らぬ漁師の姿にひどくき、どこ から来たのかと尋ねた。 漁師がありのままを答えると、彼らはぜひきてくれとひつばるように自分の家につれてゆき、酒を 用意するやら鶏を殺すやらしてご馳走してくれた。村中の人々が聞き伝え、みな押しかけてきて、あ