一人 - みる会図書館


検索対象: 故事と名言でつづる中国史
326件見つかりました。

1. 故事と名言でつづる中国史

国士無双 家が貧しく、職もなく、ぶらぶらと一日一日を過している。金もないから人を頼って寄食する。や ることもないから釣りでもして時間をつぶす。 こんな状態だから、みんなから馬鹿にされ、いやがられていた男があった。 ある時、例によって釣りをしていた。そこにいた洗濯婆さんの一人が、何日も食べていないような あわれな様子に、食物を与えてくれ、それが数十日に及んだ。男は、ありがたいと思ったから「将来 かならずお礼をします」というと、その婆さんは怒って、 「堂々たる男子が飢えている様子がなんともあわれで、だからしたんだ。お礼なんかしてもらおうと も思ってないよ」 とさつば また、屠殺場で働いていたある若者は、いつもこの男を馬鹿にしていた。 おくびよう 「おい臆病者、でかい体に刀はさしているが、何もできないんだろう。できるものならその刀でおれ を刺し殺してみろ。死にたくなかったらおれの股の下をくぐってみろ」 うらっ この男、放埓な生活はしているが、何か志すものがあったのであろう。ぐっと歯をくいしばり、四 つん這いになって股くぐりをしてしまった。見ていた大勢の人たちは、皆が皆、臆病者、卑怯者、馬 鹿者とあざけり笑ったという。 ばか また ばあ ひきょ - っ

2. 故事と名言でつづる中国史

こすで 此れ已に常の身に非ず 地に落ちて兄弟と為る しん 何ぞ必ずしも骨肉の親のみならんや まさ 歓を得ては当に楽しみを作すべし びりんあっ 斗酒もて比鄰を聚む 盛年重ねて来たらず あした 一日再び晨なり難し 時に及んで当に勉励すべし 歳月は人を待たず へた 人のいのちには、しつかりとつなぎとめる根や蔕はなく、人生は飛ばされて風にただよう路上の塵 のように、定めなきものである。 しかし、だからこそ飛ばされて集まり合ったもの同士が、兄弟であり、人間は孤独の存在ではない のである。むしろ近所の者が集まって、酒をくみかわして楽しむべきものなのである。 元気ざかりの若い時代は二度とくるものではない。一日に二度の朝がおとずれないように。 だから、チャンスをのがさず、何ごとにつけても心ゆくまでやるべきだ。歳月は人を待っていては くれない。たちまち去ってしまうものである。 「勉励」は古来、勉強を怠らないことの意に解しているが、この詩句本来の意味からいえば、若い あら

3. 故事と名言でつづる中国史

まみ 一敗、地に塗れる ししようてい しん かんこうそりゅうにう 漢の高祖劉邦 ( 前二五六ー前一九五 ) は秦末、沛 ( 省沛県 ) の泗上亭の亭長をや 0 ていたが、驪山 の陵墓工事に従事する人夫を引率して北上する途中、多くの者が脱走したので、これでは驪山に着く う とうざん ころには一人もいなくなってしまうと解散を宣言、自分も逃走して芒山・陽山 ( 江蘇省山県 ) の山奥 にかくれた。 やがて陳勝らの蜂起が成功すると、各地の地方官たちが、バスに乗りおくれまいと相次いで挙兵し、 そうさんしゆり ・こくえん 反乱軍に加わった。沛公 ( 沛県の長官 ) もその一人である。しかし、獄掾 ( 獄吏 ) の曹参と主吏 ( 助役 ) の しようか 蕭何に、 「あなたはこれまで秦の役人としてやってきたのに、急に秦に反対して挙兵しようとしても、土地の 者たちがついてはきますまい。それよりも、秦に反対して逃亡した者たちを呼び集めたらどうですか。 多分、五、六百人は集まるはず。その上で土地の者に声をかければ、みなも嫌だとはいえますまい」 はんかい といわれ、樊に命じて劉邦を迎えにやった。樊喩が行ってみると、劉邦は山中で数百人の逃亡者 王の指導者とな 0 ていた。樊喩はそれを見てその場で劉邦の配下とな 0 た。樊喩が劉邦の部隊を案内し 統てくると、沛公は劉邦に城を乗っ取られるのではないかと恐れ、城門を閉じると同時に、曹参・蕭何 も一味ではないかと疑って殺そうとした。 度うき はい はい

4. 故事と名言でつづる中国史

おうせん おうふんぎ 軍王翦の子王賁が魏を滅ぼした。また、王翦が楚を破って楚王を捕え、前二二三年に滅ぼした。 せい 秦からもっとも隔たっていた斉も、前二二一年、ついに王賁の攻撃をうけて滅び、秦の天下統一は 完了したのである。 風蕭蕭分易水寒、壮士一去分不復還。 ( 『史』刺客列伝 ) 旁若無人。 ( 同 ) じんけんま しやこくう 車轂撃ち、人肩摩す 戦国諸国の富国強兵策は、それぞれの都を繁栄に導いた。 せい なかでも、斉の都臨滔 ( 山東省臨涌県 ) の盛況には目を見張らせるものがあった。 そしん 蘇秦の説くところによれば、城内には七万戸があり、一戸に三男子としても、二十一万の兵卒があ はなは すどろくけまり ることになる。城内は甚だ富み栄えて、人々は楽器をならし、闘鶏、ドッグレ 1 ス、六博、蹌鞠を楽 とい しみ、「臨滔の途は、車轂撃ち、人肩摩す」ーー車のこしきはすれあい、人の肩はふれあう とばり う雑沓ぶりで、人々が衽をつらねると帷のよう、袂をあげれば幕のよう、汗をふるいあうと雨のよう、 といったありさまであった。 さいわい近年、春秋戦国時代の臨滔が発掘されているので、その概略を示そうつ ざっとう みち りんし えり さんとう そ たもと ( 小岩井弘光 )

5. 故事と名言でつづる中国史

274 からず。 と述べた。宦官が皇帝を擁立した元勲として定策国老と自称し、皇帝を自分が引立てた天子という とうじよ ようふくきよう 意味で門生天子と呼んだ ( 昭宗のときの宦官楊復恭の故事。『唐書』巻二百八、楊復恭伝 ) とし、宦官の禍の 救うべからざるに至ったさまをのべたものである。 なお、唐代では科挙の試験を司る者を先生というのに対し、合格者を門生といい、官界で両者は深 く結びついていた。 自称定策国老、見天子為門生。 ( 『資治通鑑』巻二百六十一一 l) 一将功成って、万骨枯る かんがん ″甘露の変〃 ( 八三五年 ) によって、宦官の力がより強くなり、文宗が失意のうちに死ぬと、武宗 ( 在位八四〇ー八四六 ) がたった。 かいしよう 武宗は道教を尊信し、会昌五年 ( 八四五 ) 、仏教弾圧を行った。 " 会昌の排仏。といわれるもので、 ぬひ けい 大小寺院四万余を破壊、僧尼二十六万人を還俗、寺田数百万頃 ( 一頃は約一 ( クタ 1 ル ) ・奴婢十五万人 しじつがん ぶん ( 小岩井弘光 )

6. 故事と名言でつづる中国史

89 分裂動乱の時代 能く一字を増損 ( 添削 ) する者あらば千金を予えん。 と掲示したものだったが、以来、「一字千金」の一句で「一字だけで千金の値うちのあるすぐれた 文章」の意に用いるようになった。 前二三八年、成人に達した秦王政は、それまで秦の権力を一手に握っていた呂不韋の実権を奪って しよくしせん 親政に乗り出した。呂不韋はク 1 デタ 1 を計画したが失敗し、前二三五年、蜀 ( 四川省 ) へ移ること を命ぜられるに及んで毒を飲んで自らの命を断った。 奇貨可居。 ( 『史』呂不韋列伝 ) 有能増損一字者、予千金。 ( 同 ) 遠交近攻 范雎 ( または砒 ) は前三世紀の魏出身の縦横家の一人である。 はんしょ 彼はさらにこの書を秦の都成陽 ( 陝西省成陽市 ) の市門にならべ、 よ はんすい ぞうそん かんよう せんせい あた ( 小岩井弘光 )

7. 故事と名言でつづる中国史

免、投獄した。しかし、これは逆効果で、世論は批判者側に与したので、朝廷はやむなく彼らを放免 きんこ し、本籍地に帰して禁錮処分とした。帰郷した人々は清節の士とされ、清流派と称された。これを第 とら・こ 一次の″党錮の禁〃という。 清流派の官僚は霊帝の時 ( 一六九年 ) にも宦官打倒を企てたが、かえって宦官派の大弾圧をうけた。 これが第二次の″党錮の禁〃で、五、六百人が禁錮され、百人あまりが死刑に処せられるという惨事 となった。 りよう こうした清流派、つまり正義派官僚のリ 1 ダ 1 となったのが李膺 ( ? ー一六九 ) である。若手官僚は 彼の知遇をうけることを求め、彼の引見推挙をうけることを「登竜門」 ( 竜門を登る ) といった。 こうが この竜門とは黄河上流の峡谷の名で、その急流をのぼり切る魚があれば、たちまち竜になるという。 これから登竜門とは、後世、進士の試験 ( 官吏登用試験 ) に及第することを指すようになり、さらに今 日では立身出世の関門の意に使われるようになった。 どかんじよ 士有被其容接者、名為登竜。 尸 ( 『後漢書』李膺伝 ) 豺狼当路、安問狐狸。 ( 同、張綱伝 ) そうてん 蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし こうてん ( 小岩井弘光 )

8. 故事と名言でつづる中国史

しよう く 成王と、つぎの康王の二代は、さすがに平和が続いた。が、つづく昭王と穆王の頃から、早くもお とろえが見えはじめる。 その穆王の五代ののちが、厲王 ( 在位、前八七九ー前八四一 ) である。 ごうまん ぜいたく 厲王は贅沢ずきで傲慢な人物で、私利を求めることに熱心であった。厲王は、同じく利をもつばら けいし えい たいふぜいりよう にすることの好きな栄の夷公という者が気に入って、卿士 ( 宰相 ) にしようとした。賢明な大夫の ~ 内良 夫がこれを諫めたがきき入れず、けつきよく卿士に任ぜられた夷公は、いろいろな新税を案出して人 ひう 民を苦しめた結果、不満の声がしだいに高まった。これに対して厲王は巫をつかっておのれを誹謗す る者を告発させ、容赦なく殺したため、人民たちはあえて口を開かず、路上でたがいに目くばせをか わすだけであった。 しよう 王の側近の召公 ( 以前の召公の子孫で、名は虎 ) が心配して、 「民のロをふさいでも、彼らの不満が消えたわけではありません。ふさがれた水が決壊するとたいへ んな力で人や物を傷つけますが、民のロをふさいではそれ以上にたいへんなことになります」 せい 一沐三握髪、一飯三吐哺。 ( 『韓詩外伝』巻 lll) き一ようわ 共和 いさ れい みこ ころ ( 巨勢進 )

9. 故事と名言でつづる中国史

とうたわれているのによる。 「暴虎」とは虎に素手で打ちかかること、「馮河、とは大河を歩いて渡ることで、共に虎に噛み殺さ れ、水に溺れる危険がある無謀なことのたとえである。 せいしゅう この「小旻、の詩は、古い注釈によれば西周の末の幽王の時代に、心ある人がその悪政をなげいて うたったものであるという。 さすがに君側の謀臣も、「暴虎馮河」のように明らかに危険であると察せられる政治は行なってい ないけれども、眼の前の利益にのみ走り、それがやがて大きなわざわいとなることに気づかない。 「人、其の一を知 0 て、其の他を知らず」とは、世の人は物ごとの一面ーー「暴虎馮河」という判然と した危険が非であることーーは知 0 ていても、他の面、ー、判然とは察せられないより重大な危険 には気づかないものだ、との意である。 そこで心ある君子は、「戦々兢々」と恐れ慎み、深い淵にのぞんで落ちこむことを恐れるように、 また薄い氷を踏んで割れ落ちることを恐れるように、常に自分自身をいましめ慎んで、用心してかか らなければ、我が身の危険を招くことをのべているのである。 ろんごじゅっじ と、も 時「暴虎馮河」という成語は、「暴虎馮河、死して悔無き者は、吾与にせざるなり」 ( 『論語』述而篇 ) とい そうし 動う孔子のことばで人口に膾炙し、「戦《兢《、とそれにつづく二句は、孔子の弟子曾子の臨終のこと 分ばとして ( 『論語』泰伯篇 ) よく知られている。 この詩からは、標題にかかげた「戦々兢々 , のほかに、「暴虎馮河」、さらに危険感や緊張感をあら たいはく ゅう ふら

10. 故事と名言でつづる中国史

232 初めはとても狭く、人一人通るのがやっとであったが、やがて急に明るくうち開けたところに出た。 土地はひろびろと開け、家屋が立ち並んでいる。よく肥えた田地があり、水をたたえた池があり、茂 った桑畑や竹ゃぶがあった。田地のあぜ道はたてよこに走り、鶏や大の鳴き声があちこちから聞こえ こ 0 そうした中を行き来して耕作している男や女のなりふりは、まるで異国人のようであり、年寄りも 子供も皆なごやかに楽しげな顔つきをしていた。村びとたちは見知らぬ漁師の姿にひどくき、どこ から来たのかと尋ねた。 漁師がありのままを答えると、彼らはぜひきてくれとひつばるように自分の家につれてゆき、酒を 用意するやら鶏を殺すやらしてご馳走してくれた。村中の人々が聞き伝え、みな押しかけてきて、あ