127 統一王朝の時代 に駐屯した。劉邦は参謀の張良とわずかの部下を連れただけで鴻門へおもむき、項羽の誤解をとこ うとした。有名な「鴻門の会ーである。 はんぞう 項羽の参謀范増は、秦を倒したのちの最大の強敵が劉邦であることを見抜いたので、彼がのこのこ ぎよくけっ と出てきた機会に殺してしまおうとした。酒盛の途中、范増は三度玉班を持ち上げ、項羽に合図を送 った。班は決断の決に通じる。「やれツ」と促したのだが、項羽はついにうなずかなかった。劉邦は、 はんかい 険悪な空気を感じた張良や、命知らずの勇士樊喩に助けられ、危地を脱することができた。 劉邦が逃走したあと、范増は劉邦が進物として持参した玉杯を剣の切っ先でこなごなに砕いて、 ああ 竢、豎子ともに謀るに足らず。 と吐きすてるようにいった。 「天下を奪うのは劉邦だろう。そのうちわれわれは彼の虜となるだろう」 范増の予想は、それから四年後に実現し、項羽は劉邦に大敗して死ぬ。 豎子とは、小僧っ子、青二才の意。 豎子不足与謀。 ( 『史』項羽本紀 ) ちょうりよう とりこ ( 広野行甫 )
まみ 一敗、地に塗れる ししようてい しん かんこうそりゅうにう 漢の高祖劉邦 ( 前二五六ー前一九五 ) は秦末、沛 ( 省沛県 ) の泗上亭の亭長をや 0 ていたが、驪山 の陵墓工事に従事する人夫を引率して北上する途中、多くの者が脱走したので、これでは驪山に着く う とうざん ころには一人もいなくなってしまうと解散を宣言、自分も逃走して芒山・陽山 ( 江蘇省山県 ) の山奥 にかくれた。 やがて陳勝らの蜂起が成功すると、各地の地方官たちが、バスに乗りおくれまいと相次いで挙兵し、 そうさんしゆり ・こくえん 反乱軍に加わった。沛公 ( 沛県の長官 ) もその一人である。しかし、獄掾 ( 獄吏 ) の曹参と主吏 ( 助役 ) の しようか 蕭何に、 「あなたはこれまで秦の役人としてやってきたのに、急に秦に反対して挙兵しようとしても、土地の 者たちがついてはきますまい。それよりも、秦に反対して逃亡した者たちを呼び集めたらどうですか。 多分、五、六百人は集まるはず。その上で土地の者に声をかければ、みなも嫌だとはいえますまい」 はんかい といわれ、樊に命じて劉邦を迎えにやった。樊喩が行ってみると、劉邦は山中で数百人の逃亡者 王の指導者とな 0 ていた。樊喩はそれを見てその場で劉邦の配下とな 0 た。樊喩が劉邦の部隊を案内し 統てくると、沛公は劉邦に城を乗っ取られるのではないかと恐れ、城門を閉じると同時に、曹参・蕭何 も一味ではないかと疑って殺そうとした。 度うき はい はい
かんしん これが名将韓信の若き日の姿であった。 こら : っ わいいん こうそ 韓信は淮陰 ( 江蘇省 ) の出身で、はじめ楚王項羽に仕えたが、相手にされなかった。 りゅうう 秦が亡んで、項羽・劉邦の二大英雄が雌雄を争っていた時期である。 項羽にあいそをつかした彼は楚軍を逃げだして、相手方の漢王劉邦の軍に身を寄せた。ここで部将 じようしようしようか の夏侯嬰に見出され、さらに丞相の蕭何の目にもとまった。 蕭何は、韓信の人なみすぐれた英才と、大志を抱くその気宇に大きな期待を寄せ、たびたび漢王劉 邦に彼を推薦した。 そのころ劉邦の軍では、ホ 1 ムシックにかかった部将や兵士の逃亡があいついでいた。中には名の 知れた有能な部将もまじっている。 ちぞくとい 蕭何の再三の推挙にもかかわらず、兵糧を管理する治粟都尉の位置におかれたままの韓信も、劉邦 いやき に厭気がさして逃げ出してしまった。 やっ これを聞いた蕭何はあわをくって後を追った、「この大事の前に奴を手放すわけにはいかない」と いう一念からである。 急なことなので劉邦は、てつきり蕭何も逃げ出したものと早合点し、大いに落胆した。杖とも柱と 代 時も頼りにしていた蕭何だったのである。と、二日ほどしてヒョッコリ蕭何が戻ってきた。 王劉邦は、喜びと怒りがこもごもで、 統「なんで逃げ出したりした。丞相たる者のすることか」 「とんでもない。逃げた韓信を追いかけてつれ戻してきただけでございます」 かこうえいみいだ
126 じゅし 豎子ともに謀るに足らず かんちゅう 「先に関中にはいった者を関中王にする」 こうう りゅうなう かんよう かい 楚の懐王から約束され、秦の首都成陽一番乗り競争を演じた項羽と劉邦の勝負は、謀臣の献策をい れて秦の軍勢を味方につけつつ進んだ劉邦の勝利に終った。 前二〇六年十月、秦王子嬰の投降を受けいれ、いったん成陽を占領した劉邦は、秦の宮殿を封印し、 はすい 成陽城外の覇水のほとりに駐屯した。 かんこくかん 一方、四十万の大軍をひきい、ひと月遅れて函谷関に到着した項羽は、劉邦の軍勢が函谷関を固め ているのを見て激怒し、カずくで関を突破すると、成陽の手前三十キ 0 ばかりの鴻門 ( 西省潼県 ) なお、ここの″良薬〃は原文では″毒薬〃になっている。〃効きめの大きい薬〃の意で、良薬と同 じである。 こうしけご 『孔子家語』には「良薬はロに苦けれども病に利あり、忠言は耳に逆らえども行いに利ありーとある。 しきりゅうせいか 且忠言逆耳利於行、毒薬苦口利於病。 ( 『史記』留侯世家 ) 良薬苦於ロ而利於病。忠言逆於耳而利於行。 ( 『孔子家語』六本篇 ) はか しえい しん ( 広野行甫 )
124 脱出してきた曹参らから事情を聞いた劉邦が、矢文を射こんで城内の有力者たちに挙兵を訴えると、 有力者たちは沛公の首を取り、城門を開いて劉邦を迎えいれ、沛公の地位につくよう懇請した。劉邦 は、 「いまは大動乱の時で、各地で英雄たちがぞくぞくと挙兵しています。この際、よほどの大将でもひ まみ 0 ば 0 てこない限り、一敗、地に塗れることになるでしよう。わたしは能なしで、とても諸君の命を 保証することはできません。これは大事なことだから、よくよく考えて、も 0 と立派な大将を択んで ください」 と辞退した。しかし、蕭何や曹参らは文官で、挙兵に失敗したら一族皆殺しになると、敢えて火中 の栗を拾おうとせず、劉邦を沛公に立てた。 「一敗、地に塗れる」とは、い 0 たん戦いに敗れたら、脳味噌も内臓も泥まみれになるの意で、完膚 なきまでの大敗を喫することをいう。 一敗塗地。 ( 气史』高祖本紀 ) 良薬はロに苦し ( 広野行甫 )
132 と願いでた。項羽はむろんひきとめない。范増はこのとき七十五歳になっていたが、彭城〈帰る途 中、背中のできものがもとで死んだ。 ささ いとま かっては臣下は心身すべてを主君に捧げたものであったから、暇を願い出るときは、朽ちはてた骸 骨をお返しいただきたいといったのである。 願賜骸骨帰卒伍。 ( 『史』項羽本紀 ) ちんしようしようせいか 願請骸骨帰。 ( 同、陳丞相世家 ) しめんそか 四面楚歌 こら・り・ゅ - っ 五年にわたった項・劉二大英雄の対決も、いよいよ大詰めを迎えようとしていた前二〇三年秋、し りゅうほう だいに劉邦に圧迫されて後退を余儀なくされた項羽は、心ならずも劉邦の講和の申し入れを受諾し、 人質にとってあった劉邦の父母妻子を返して東へひきあげた。 漢軍がなんでこの絶好のチャンスを見逃すことがあろうか。 「漢王はすでに天下の大半を領有して、諸侯のほとんどが我が方に帰服してきています。それにひき かえ、楚軍は兵もっかれ、兵糧も乏しく、まさに天が楚を亡ぼそうとしている好機です。やりましょ こうう ( 広野行甫 )
がいこっ 骸骨を乞う こう・つ りゅうほうかん 前二〇六年、自立して西楚の覇王となった項羽は、劉邦を漢王に封じたのをはじめ諸侯を封じ、こ かんよう かんちゅうせんせい の四月、諸侯は都の成陽を引き払ってそれぞれの封地へ出発した。劉邦はいったん封地の漢中 ( 陝西省 せい 漢中市 ) にはいるや、ただちに取って返して関中を陥し、翌年には、項羽が斉の内紛に介入して出陣 きゅうきょ うじようこうそ どうじよう している虚を衝いて、西楚の都彭城 ( 江蘇省銅城県 ) を占拠した。しかし、精兵三万をひきいて急遽 けいようかなんせいこう 引き返してきた項羽に大敗を喫し、九死に一生を得て榮陽 ( 河南省成皋県西南 ) まで逃げ帰った。優勢 そ な時には味方についた諸侯はつぎつぎに楚へ寝返ってしまった。 前二〇三年、榮陽で囲まれたまま兵糧もっきはてた劉邦は、榮陽を境に楚漢で天下を分けようと申 はんぞう し入れたが、項羽に拒否された。項羽ははじめ承諾しようとしたのだが、謀臣の范増に反対されたの である。これを知った劉邦は謀臣陳平の計をいれて離間策を施し、項羽が范増を疑うように仕向けた。 たとえば、項羽の使者が来た時、わざと范増の使者と取り違えた振りをして大仰にもてなしてみたり 代 時した。使者の報告を聞いた項羽はいよいよ范増を疑うようになる。 王忠義一途の老臣范増は、身に覚えのない疑いをかけられて憤激し、 統「もはや天下の大勢は定まりました。あとは殿おひとりでもおできになりましよう。わたしは骸骨を 賜わって、昔通りの一兵卒にもどりたいと思います」 こ せいそ ちん・ヘい
りゅうう 前二〇六年十月、秦の都成陽に一番乗りをはたした劉邦は、金銀財宝と美女に埋った豪壮な宮殿を はんかい いすわ 見て、そのまま王宮に居坐ろうとした。これを知った樊喩が、 「とんでもないことだ。そんなことをしたら、せつかくの先陣の功も水泡に帰してしまう」 いさ と、必死に諫めたが、劉邦は聞き入れようとしない。 ちょうりよら・ このとき張良が進み出た。 「秦が暴政虐政を行ったればこそ、民衆が離叛して争乱の世になったのです。そもそもあなたさまは、 今や天下のために残賊の秦を討ち、秦のためにさんざんにいためつけられた民衆に、喪服を着て弔慰 を表すべき立場にあるのです。そのためにこの王宮に来たのです。第一、多くの民衆の犠牲があって はじめて、あなたのような一介の野人がここに来ることができたのです。やっと秦に入ったばかりで、 いんらく 秦王のした淫楽と同じことをしようなどとはとんでもないことです。そんなことをしたらあの悪名高 けっ い夏の桀王の手助けをして、ますます暴虐をおこなうようなものです。そもそも真心のこもった忠言 . というのは、聞いて決して気持のよいものではありませんが、それを聞き入れることは必ず身のため になります。効きめの強い薬は、ロにはまことに苦く感じますが、必ずや病に効能があります。どう か樊喩の真心からなる忠告を聞いてやってください」 代 時切々とうったえる張良の一言葉に、ハッと我にかえった劉邦はただちに王宮をたちのき、覇水のほと し 王りに陣を布いた。 しっせき 統あとになってほんとうにためになるような忠一一只叱責、苦言というものは、聞いたその時はまった 跖く腹立たしく、つらいものである。〃良薬口に苦し , とは、そのような意味である。 しん かんよう りはん すいう はすい
130 何人もの部将たちが逃亡しているのを、追いかけようともしなかった丞相蕭何なのに、名もない韓 信を追うなんて考えられない。劉邦はなかなか信用しない。すると蕭何がいった。 「諸将のあとがまなら簡単に埋められます。しかし韓信ぐらいの人物となると″国士無双〃です。鐘 や太鼓で捜しても見つけ出せる人物ではございません。だいたい、王が漢王だけで満足してるのでし たら韓信は不要です。しかし、天下を抑えようと望むなら、ぜひとも韓信が必要でございます。王が 漢王で満足するか、東方〈進出して天下を握ることを望むか、王のお心しだいで韓信の要不要も決ま ります」 かんちゅう 「漢中あたりでうろついている気はさらさらない。東して天下に覇をとなえるのが望みなのだ」 かくて、韓信の大将軍任用が本決りとなり、蕭何の進言にしたがって、盛大な就任式を行った。時 に前二〇六年、それからの彼の戦功は言うまでもない。 後に楚の王となった韓信は、例の老婆に厚く礼をし、股をくぐらせた若者は、楚の中尉に任じたと いう。 国中に二人といないすぐれた士。天下第一の人物を″国士無双〃という。 わいいんれつでん 国士無双。 ( 『史記』淮陰侯列伝 ) ちゅうい ( 広野行甫 )
こうと 狡兎死して走狗烹らる りゅうにう こう・つ がいか 垓下で楚の項羽を破り天下を統一した劉邦は、その翌前二〇二年、秦の二世皇帝以来久しく空位に かんこうそ なっていた帝位に即いた。漢の高祖 ( 在位、前二〇二ー前一九五 ) である。漢では高祖が漢王に封ぜられ た前二〇六年をもって元年としているので、この年は高祖の五年にあたる。高祖ときに四十六歳であ っ ( 。 高祖は即位と同時に論功行賞を行い、皇族 ( 同姓 ) と功臣 ( 異姓 ) を王侯に封じた。秦の国家構造を郡 県制というのに対し、漢のそれは、秦の郡県制を踏襲した上に新たに侯国・王国を設けたので、郡国 制と呼ばれる。 だが、高祖は異姓の王国が将来強大化し、独立王国を形成するのを恐れ、在位のあいだに口実をも うけてつぎつぎにとりつぶしてしまった。 かんしん ちょうりようしようか 張良・蕭何とならんで開国の三傑といわれた韓信 ( ? ー前一九六 ) は楚王に封ぜられた。彼は戦場 代 さと 時 に立てば屈指の名将であったが、一方で利に聡いところがあり、いったん手にいれたものはなかなか の 王手放そうとしなかった。高祖はそのような彼の性質をよく知っていたので、楚という物資豊かな国を 統あたえたのである。利をもって誘えば思うようにあやつることができる男、高祖はそのように韓信を 思っていたが、ひとっ気にいらないのは、韓信がかって項羽麾下の勇将としてしばしば高祖を苦しめ そうくに しん