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検索対象: 故事と名言でつづる中国史
302件見つかりました。

1. 故事と名言でつづる中国史

180 天知る、地知る、子知る、我知る とう・ たいこう 和帝が一一十七歳で死んだ ( 一〇五年 ) あと、殤帝が生後百余日でたてられ、和帝の鄧皇后が太后とな ごかん って政治をみたが、帝は翌年早くも世を去った。続いて和帝の甥が十三歳で即位した。後漢六代目の あん がいせきわざわい 安帝 ( 在位一〇六ー一二五 ) である。国政の大権は摂政鄧太后の一門に握られた。ふたたび外戚の禍 が始まったのである。 えいしょ 安帝の時代は、即位早々の永初元年 ( 一〇七 ) に羌族の反乱があって西域都護が廃止され、その後も きようど せんび 鮮卑、匈奴等の侵入がくり返されるなど国際関係多事の時であった。一方、国内も連年のひでり続き とうしつ で、財政も窮乏してきた。この間、鄧氏一門は、太后の兄で安帝擁立に功のあった鄧 ( ? ー一二一 ) が永初二年に大将軍になるなど威を振っていた。 ろうちゅうぐく しようけっ ちょう 鄧氏に反対する者は容赦なく左遷された。郎中の虞謝もその一人で、賊の猖獗に手を焼いていた朝 かなんろくゆう 歌県 ( 河南省鹿邑県西 ) の知事にされた。人々が気の毒がると、彼は、 やす ばんこんさくせつあ 志易きを求めず、事難きを避けざるは臣の職なり。槃根錯節に遇わずんば、何を以てか利器を別 たんや。 しよう きよう おい もっ わか

2. 故事と名言でつづる中国史

しようりばっ た鍾離味をかくまっていて、逮捕して都へ護送せよという高祖の命令に従おうとしないことだった。 む度ん 韓信は謀叛しようとしているのではないか、このような進言もあって、高祖は韓信を粛清する決意 を固めた。もっとも、楚はかっては漢と天下分け目の戦いを戦った強国であり、うかつに手をつけた ちんべい うんうたく こく ら、ふたたび天下が混乱する可能性があった。そこで、高祖は陳平の進言をいれ、雲夢の沢 ( 湖北 こなん ちん 湖南にまたがる大沼沢地帯 ) へ旅行するので諸侯は随行のため陳 ( 楚の西境 ) に集結せよと触れた。韓信 が何も知らずに出てきたところを有無をいわせず捕えてしまおうというのである。 一方、この命令を受けた韓信は、鍾離味のことで高祖の不興を買っていたことがわかっていたので、 危険を感じて謀叛しようかとも考えたが、鍾離味を斬ってその首を持って行けば高祖の疑いは氷解す るはずという進言を聞くとまた迷ってしまった。信義を重んずるなら、韓信は製にはいってきた窮鳥 を最後まで守りぬくべきであった。ところが、いったん楚の国王という地位を手に入れた彼は、それ こうむ よりも謀叛の汚名を蒙って国を失うことのほうを恐れた。腹を決めかねたまま鍾離味にこの事情を話 すと、味は言下に、 「あなたは何もわかっておられないーといった。「いま漢帝があえて楚に攻めいろうとしないのは、 ここにわたしがいるからなのですぞ。ところがあなたはわたしの首を欲しがっている。それで漢帝の ご機嫌をとりむすぼうと思っている。それなら、わたしはいつでも死んであげましよう。しかし、わ たしが死ねば、あなたも生きてはいられないことをお忘れないよう。わたしはあなたを見損なってい 味はそういうなりみずから首を刎ねて死んだ。

3. 故事と名言でつづる中国史

張の使命を終えて帰ってきた息子の遷が見舞った。 さんとう 遷は幼少のころから父司馬談の命で歴史を学び、また江淮地方や山東地方を旅行し、戦国諸侯たち ろうちゅう の記録を集めたり、見聞を広めたりしていた。やがて郎中 ( 侍従官 ) になり、たまたま使者として河 しせんうんなん 南・湖北から遠く四川・雲南地方に出張していたのである。 このとき司馬談は泣きながら遷の手をとり、おのれの果しえなかった歴史編纂の事業を息子に託し て息をひきとった。 司馬談の死後、司馬遷は太史令の職についた。父の遺言はかたときも頭からはなれず、その構想も 年をおってまとまって行ったが、職務の多忙のためになかなか完成しなかった。 てんかん きゅうけい その司馬遷が、天漢二年 ( 前九九 ) に思いがけずとんでもない事件の巻き添えを食い、宮刑 ( 腐刑と もいい、生吶器を切り落とし、男としての機能を奪う刑 ) に処せられたのである。 事の経緯はこうである。 り・こら・り・ この前年の秋、弐師将軍李広利 ( 武帝の晩年の愛人である李夫人の兄 ) は三万の兵を率いて匍奴征伐に りト亠・つ′ 出たが、そのさい敵の戦力を分散させる目的で、李陵箭出の孫。 ? ー前七四 ) に別働隊の武将とし て出撃を命じたのである。わずか五千の歩兵をひきいた李陵の軍は、不幸にも敵の主力八万に包囲さ 代 時れ、八日間の戦闘のすえに刀折れ矢つき、大半の兵を失って敗北した。 王この戦いで、はじめ李陵は戦死をしたものと思われていたが、その後、李陵が匈奴に投降し、かの だれ 統地で厚く優遇されていることを知った武帝は大いに怒り、李陵の一族を皆殺しにしようとした。誰ひ とり李陵を弁護する者のいない中で、司馬遷ただひとり李陵を弁護したため、武帝は彼が李広利の功 なんこにく いきさっ せん こうわい へんさん 、ようど

4. 故事と名言でつづる中国史

39 分裂動乱の時代 . い第こ。 2 そうりんみ すなわ 倉廩実つれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄 辱を知る。 穀物蔵がいつばいになって、初めて礼儀と節度とを わきまえるようになり、衣食が十分になって、初めて 栄誉と恥辱とをわきまえるようになる。 この語は、わが国では、〃衣食足りて礼節を知る〃 と簡略化して用いられているが、生活の安定が民を教 化するーーすなわち、民を治める要諦であることを説 いた至言である。 精神主義に偏りがちな儒家の学に対して、管仲に始 せいがく まる、物質的な裏付けを重視する学を″斉学〃という。 斉は山東半島に位し、魚塩の利に恵まれた国である。 管仲は、製塩業をはじめ絹織物業・鉄製農具製造業等 の手工業を大いに興し、これにともなって商業もまた 盛んとなり、斉は富国強兵の実を着々と挙げていった。 けん 前六七九年、桓公は、甄 ( 衛の地。山東省濮県東 ) に中 原東方の諸侯を召集して会盟を主宰することに成功し、 ようてい

5. 故事と名言でつづる中国史

8 はんこっ 反骨 りゅうび ぎえん 蜀の数ある大将のなかでも、魏延はその豪胆さと智略で知られていた。劉備もそれを認めており、 たいしゅ ばってき かんちゅう 自立して漢中王となり ( 二一九 ) 王都を成都と定めたときには、彼を抜擢して漢中郡の太守とした。漢 中は蜀の玄関口ともいえる要地で、同地の守将には張飛が任命されるだろうと自他ともに思われてい たときだったので、蜀の人々はみな仰天したものだった。 ちゅうげん しよかっこうめい ) 、 -3 月と二手に別れて中原に討っ 一三七年以降、諸葛孔明が北伐を決行した際には、魏延はいっ 4 孑日 くや て出ることを主張したが、慎重な孔明がそれを聞かなかったので、孔明を臆病者といっては口惜しが っていた。 ごしようげん 二三四年、孔明が五丈原で陣没すると、魏延は自らその後を継いで蜀の軍政の大権を握ろうと考え たが、孔明が生前に遺言していた計略にかかって殺された。 のちにこのエピソ 1 ドが講釈師によって語られるようになると、孔明が逸早く彼の後頭部が異様に 突出しているのに気がっき、彼には「反骨」があって、いっか必ず謀反するだろうと予言したという 話が付け加えられた。 「反骨。を、謀反する骨相と解する例は、これ以前には見当らない。おそらく、「反相」 ( 将来謀反する人 相。『史記』呉王消列伝 ) からヒントを得て作られたのだろう。 しよく せいと らようひ

6. 故事と名言でつづる中国史

173 統一王朝の時代 そ、つこ、つ 糟糠の妻 こうぶ だいしくうふくじようしよう 光武帝の建武一一年 ( 二六 ) 、大司空 ( 副丞相 ) となっ そうこう た宋弘は、温厚な人柄と清蒹潔白な生き方で知られて いた。彼は俸給や所領からの租税のあがりをすべて一 族郎党に分けあたえて、家には何の貯えもなかったと いう。 その頃、光武帝の姉の湖陽公主が夫を亡くしたので、 帝は公主と臣下たちのことを話しあった。それとなく 公主の意向をきこうと思ったのである。すると、公主が、 ふうさい 「宋公は風采といい器量といい、他の臣下のかたがた の及ぶところではありませんわー というので、帝は、 「では、考えてみましよう」 ついたて すわ といい、宋弘を引見した際、公主を衝立のかげに坐 らせておいて、彼にいってみた。 ころ けん素 こよう

7. 故事と名言でつづる中国史

分裂動乱の時代 こめ こののち二人は、不義をおかして天下をとった周の粟を食うことを恥として、首陽山 ( 山西省の西山 ) にこもり、薇をとって命をつないだが、やがて餓死したという。 彼の西山に登りその薇を采る 暴を以て暴に易えその非を知らず き しんのうぐか こっえん いずく 神農虞夏忽焉と没す我安にか適き帰せん ゅ めい ああ徂かん命の衰えたるかな この、いわゆる「薇の歌」は、二人の辞世の詩であると伝えられる。 「暴を以て暴に易う」とは、暴虐な殷の紂王を周の武王が武力という暴力をもって、たおそうとして いることをさしている。これを非難することは革命・放伐思想に反対することであり、この説話は、 しゅん 神農・虞 ( 舜 ) ・夏 ( しなどの古きよき帝王の時代を理想とする、儒家の褝譲思想をふまえたものであ ろう。 以暴易暴。 ( 『史』伯夷列伝 ) わらび さいび ゅ しゅよう さんせい ( 巨勢進 ) せい

8. 故事と名言でつづる中国史

351 索引 日暮れて塗遠し たまい 匹夫罪なし、璧を懐いて罪あり 人の性は悪なり別 ひにくたん 脾肉の嘆 ひやくせい そこな 百姓一人も傷うなかれ 百聞は一見にしかず ぎゅうご 百発百中↓鶏ロとなるとも牛後となるなかれ ひんけいしん 牝鶏の晨 ともひんけいしん 白眉 布衣の交↓牝鶏の晨 せんせんきようきよう ふうせいかくれい 薄氷を履む↓戦々兢々 風声鶴唳 ふうばぎゅう 破竹の勢い はつく げき 白駒の隙を過ぐるがごとし 覆水盆に返らず はんこっ 反骨 富国強兵 ばんこんさくせつあ もっ わか ふんけい こふくきしゃ 槃根錯節に遇わずんば、何を以てか利器を別たんや刎頸の交わり↓胡服騎射 ↓天知る、地知る、子知る、我知る 文章は経国の大業にして不朽の盛事なり川 ふんしょこうしゅ 万事休す 焚書坑儒 伴食宰相 文人相軽んずるは、古より然り↓文章は経国の大 はんこっ 反相↓反骨 業にして不朽の盛事なり川 みち たれ 兵を用いるにいたるは、それ孰か好む所ならん 変法のために血を流すこと、請う嗣同より始め ん 嚢中の錐 はくび のうちゅうきり 200 し 326 106 けいこう いにしえ 256 し

9. 故事と名言でつづる中国史

196 ひにくたん 脾肉の嘆 りのうびしようれつ 後漢末に今日の四川省に蜀を建てた劉備 ( 昭烈帝、在位一三一 ー一三三 ) は、河北の農村の出身で、 ちょうひちょううん 黄巾の乱 ( 一八四年 ) に挙兵以来、戦国時代さながらの混乱期に関羽・張飛・趙雲らをしたがえて各地 の豪族のあいだを渡り歩き、その固い団結と武力によって名を知られるにいたったが、彼の最大の弱 点は根拠地を持たないことだった。 そうそう けんあん きよしようかなん 建安三年 ( 一九八 ) 冬、彼は曹操とともに下郵 ( 江蘇省 ) の呂布を平定したのち許昌 ( 河南省 ) で献帝 ・こかん こ - つきん なお、この「論文」の冒頭の一句、 文人相軽んずるは、古より然り。 かいしゃ も人口に膾災している。 蓋文章経国之大業、不朽之盛事。 ( 『文選』巻五十一 l) 文人相軽、自古而然。 ( 同 ) しせん いにしえ し もんぜん こうそ りよふ かんう ( 広野行甫 ) けん

10. 故事と名言でつづる中国史

かんぼう 管鮑の交わり だいさいしようかんちゅう せいかん 「衣食足りて礼節を知る」の項で述べた斉の桓公 ( 在位、前六八五ー前六四一一 l) と大宰相管仲 ( ? ー前六 きゅう ねら 四五 ) とは、同項でみた通り史上希有の名コンビだったけれども、元来は、互いに命を狙いあった仇 てき 敵同志だったのである。 ぶん じよう 桓公の兄の襄公 ( 在位、前六九八ー前六八六 ) は " 情。に殉じた一種の傑物で、もともと異腹の妹の文 かん きよう きよくふさんとう 姜と相思相愛の仲だったが、文姜が魯 ( 首都は曲阜。山東省 ) の桓公 ( 在位、前七一一一ー前六九四 ) に嫁し た箭七〇九 ) 後も忘れられず、十五年後の前六九四年、桓公が夫人の文姜をともなって斉を訪れた際、 互いの愛情が燃え上がるままに、桓公を暗殺し、以後、文姜との愛情ひと筋に生きた。もちろん、内 外の政務は二の次である。 しようこっ きゅう ようや 時前六八六年、漸く不穏になってきた朝野の気配に、庶弟の公子糾とその傅 ( 守り役 ) の召忽・管仲は、 うしゆくきょ 乱糾の母の実家である魯 ( 奔り、同じく庶弟の公子小白とその傅の鮑叔は菖 ( 首都は ~ 呂。山東省 ) へ奔った。 むち いとこ 果して、同年、襄公は従兄弟の公孫無知に暗殺され、位を襲「たその無知がまた、翌前六八五年、 怨みを抱くものに殺されて、斉には国君がいなくなった。 尊王攘夷。 ( 宋孫復撰『春秋尊王発徴』 ) そんぶく しようはく ( 常石茂 )